幼い男の子チョルスの祖父は、念願だった中華料理店「和平飯店」をオープンさせる。民族衣装を着た楽団がお祝いの音楽を奏で、ピエロが出てきてみんなを笑わせる。定番メニューはジャージャー麺(チャジャンミョン)で、母親やその妹が次々に来店する客をもてなし、父親の弟は出前に出掛ける。チョルスの母は次の子どもをお腹に宿し、叔父さんは結婚を間近に控えている。チョルスは大好きな幼馴染みのヨンヒとともに、幸せに包まれていた。
その記念すべき和平飯店のオープンの日が、1980年5月17日だった。韓国国内が騒然としていた時期で、前年の1979年10月に釜山と馬山で大規模な民主化要求デモが起こるなか、同26日、軍事クーデターで政権を掌握し独裁政治をおこなってきた大統領・朴正煕が側近のKCIA部長に暗殺される。その後、「ソウルの春」と呼ばれる民主化の気運の高まりも束の間、12月12日に全斗煥らが粛軍クーデターを起こして権力を掌握し、5月17日に非常戒厳令を全国に拡大した。
この映画は、こうした当時の社会的出来事を白黒フィルムで映し出し、同時にチョルス一家の生活をカラーで映し出しながら、両者が激しく交わり合った光州事件をクローズアップしていく。
光州事件とは、5月18日から10日間の光州での出来事のことだ。戒厳軍の暴力と蛮行で多くの光州市民が殺されていき、これに立ち向かった市民たちが銃をとった。21日に戒厳軍がいったん撤退した後は、市民たちは自治共同体をつくって自分たちで運営し、「戒厳令の即刻解除、全斗煥処断、民主政府樹立」という内容の80万光州市民の決議を公表した。だが全斗煥は、27日未明、在韓米軍に支援された空挺特殊作戦旅団ら約2万の軍隊で鎮圧作戦を強行し、市民を虐殺した。
軍に立向かう市民 差入れで支えも
チョルス一家の物語はフィクションだが、そのなかに歴史の真実が幾重にも織り込まれていることがわかる。
映画の冒頭、行方がわからなくなっていたチョルスの父親が、戒厳軍の兵士たちに追われて母たちにかくまわれ、そして逃げていく場面が描かれる。チョルスの父親はソウル大学卒で、光州の夜学の指導者だという設定だ。
韓国では、独裁政権が誕生した1960年代以降、労働者や農民を対象に識字教育のかたわら社会科学を教える夜学が広がった。光州での夜学は1978年7月に始まったといわれるが、それは「野火夜学」と名付けられた。甲午農民戦争(1894年)のときのような燃え上がる炎になろうという意味だという。学生運動出身者たちは、光州の零細工場が密集し貧しい労働者が多い地域で夜学を開き、やがて彼らが光州事件の主役になっていったことが語り継がれている。
映画のなかでは、独裁政権に抗議する学生たちを戒厳軍が「アカ」「北朝鮮のスパイ」といって攻撃するなか、最初はチョルスの叔母も「親のすねかじりのくせに…」と冷ややかな目を向けている。だが、戒厳軍の残忍な暴力を目の当たりにし、やがて彼女らも街頭デモに参加し、負傷者の看護をするようになる。
戒厳軍が撤退し、市民たちが全南道庁を占拠して自治を始めると、市民の大集会にチョルスたちも参加した。韓国のメディアが事実を黙殺するなか、ドイツ人記者が戒厳軍による光州市民の虐殺を世界に知らせたことが報告されると、拍手と歓声で応える参加者。そのとき、チョルスは手を挙げて、「ヨンヒとヨンヒのお母さんは、アカでもないのに、お父さんが軍人だというだけでみんなからいじめられている。やめてほしい」と訴えた。大人たちは沈黙し、やがてみずからを恥じて、「みんなでヨンヒの美容室を修繕しにいこう」と話し合った。市民たちの自治共同体は、わずか数日間ではあったけれど、一度も窃盗や略奪がなかったといわれるほど民主主義的なものだったと記録されている。
戒厳軍が再突入を準備していることがわかり、ハチマキをした女子学生が光州を守る志願者を募り始めた。次々と集まってくる若者たちに、男子学生たちが市内の警察署から奪ったライフル銃を次々に渡していく。そのなかにはチョルスの叔父さんもいた。
引き留めることが無理だと知ったチョルスの祖父は、町内会長と一緒になって材料をかき集め、チョルスの父たち抗争指導部がたてこもっている建物に差し入れをもっていこうと、ジャージャー麺を大量につくる。「わしらにできることはこれぐらいしかない」といいながら。
実際に、当時市場の商店主たちは、市民軍が食事もできずにたたかっているのを気の毒に思い、お金と食材を持ち寄って、たくさんの握り飯やキムパブ(海苔巻き)、餅、飲み物などを差し入れたという。戒厳軍の蛮行を目撃した市民たちによる、自発的な行動だった。
そして5月27日午前4時、戒厳軍はチョルスの父親ら市民軍のたてこもる建物への攻撃を始めた。チョルスの父親たちに対する戒厳軍のヘリコプターによる機銃掃射が、この映画のクライマックスだ。このヘリコプターの機銃掃射自体、全斗煥らがその事実をずっと否定してきたものだった。
真相究明は今も未決着 盛り上がる民衆運動
光州事件はこの日が終わりではなく、後に続く者たちによって受け継がれ、韓国の民主主義の巨大な流れをつくってきた。1980年代に独裁政権を終焉に導くほどにたたかい抜くことのできた勇気と力は、光州事件の経験からわき出たのだといわれるほどだ。
同時に、80年代には光州事件の真実を伝えようとみずからの命をなげうった学生たちが何人も生まれ、そのなかで光州事件の真相究明と責任者の処罰、遺族への補償と名誉回復を求める国民運動が広がった。当初、立ち上がった光州市民は「暴徒」とみなされ、戒厳軍の弾圧は1988年10月に国会で聴聞会が開かれるまで公的には「なかったこと」にされていたのだ。
だが、それも今日まで紆余曲折をたどっている。1995年12月、韓国国会は「5・18民主化運動等に関する特別法」を成立させ、全斗煥ら「新軍部」の核心メンバー16人は起訴されて、97年4月には大法院が有罪を確定した。全斗煥は無期懲役となり、追徴金2205億㌆が科された。ところが同年12月、大統領選挙で勝利した金大中がクリスマス特赦によって全員を釈放した。真相究明と責任者の処罰は未決着のままだ。
そして今、朴正煕や全斗煥の末裔(えい)たちを最終的に一掃しようとする韓国の民衆運動が大きな盛り上がりを見せている。そうした世論の高まりが、映画『タクシー運転手』や『ソウルの春』に続くこの映画の製作と観客動員にもあらわれているようだ。日本のわれわれも、そこから多くのことを学ぶことができる。
(日本公開2025年4月4日)