著者は1998年に米ゴールドマン・サックスのトレーダーの職に就き、10年もたたないうちに年収数億円といわれるマネージング・ディレクターという管理職に就く。これは同社のトップ8%のみが就ける役職だが、そのためには昼も夜も、人生さえも会社に捧げなければならない。だが、その食うか食われるかの社風が、4人の子どもを育てる女性である存在と決定的に相容れなくなり、2016年、みずから退職を願い出た。破綻したシステムの片棒を担ぐのをやめ、自分自身と家族をとり戻したいと決意したからだ。そして著者は、巨額の退職金を捨てて秘密保持契約書へのサインを拒否し、このシステムが変わることを願いつつ、同社の内幕と退職に至るまでの一部始終をこの本に書いている。
著者は、「あのゆがんだ世界に自分がいかにはまりやすいタイプだったか」と書いている。
著者の祖父はイタリア移民で、洋服の仕立屋として一旗揚げたが、その後自殺して、一家は貧乏な暮らしに転落することになる。アイビーリーグにも匹敵する名門女子大を卒業した著者は、父母の「私たちはお前に大きな投資をしたんだ」「これからはその投資に見合うだけのリターンが必要なんだ」という期待を一身に受け、経済的に成功しなくてはならないというプレッシャーでいっぱいだったという。白人男性優位の、人種差別や女性差別が横行する企業風土のなかで、著者は「私を否定し、私のような者にはできるわけがないといった人たちに一矢報いるため」、嫌がらせに耐え、権力者に同化しながら選ばれる人になっていった。
ゴールドマン・サックスの新人研修は、朝7時に始まり、夕方5時にはスーツが汗だくになるほど知識を詰め込む。毎日何時間もかけてプレゼン資料をつくったりする。それを称して、まるでブートキャンプ(米軍の新兵訓練)のようだという。
一方、新入社員歓迎イベントはステーキハウスを貸し切り、カキ、シュリンプ・カクテル、ロブスター・テイル、タラバガニなど、一つのトレーで200㌦はする料理がふんだんに振る舞われる。そこではコカインや気軽なセックスなどなんでもありで、「世界の頂点にいる選ばれし人々」が演出される。
しかし著者のようになんのコネもなく入社した若者の一方で、コネや家柄で選ばれた者や顧客である大企業の子女も少なくなく、男を見つけるために入社している者もいる。成績が伸びなくても、社内で不倫をくり返しても、知り合いにプロゴルファーが多く顧客の接待に使えるため、会社に珍重されておとがめなしの男性社員もいる。
高給取りでも実態は奴隷
著者の仕事は、ヘッジファンドに「高く売って安く買う」株の空売りをさせてもうける仕事で、顧客である機関投資家(年金基金や投資信託会社など)から株を借りて手数料を払い、それをヘッジファンドに貸し付けて手数料をとり、その差額のスプレッドが利益となる。
著者は毎朝6時には出勤し、ヘッジファンドが次に狙いそうな株を予測するためにニュースに目を通し、他方で顧客の保有株式を調べ、両者をつなぐ。席から離れられるのは食事と水分をとるときと、トイレに行くときのみ。朝も昼も自分の席で食べる。そして夜はほぼ毎日、顧客と夕食を食べに行ったり飲みに行ったりする。機関投資家はステーキや高級ワインでもてなしてくれたところに貸すからだ。
この本に出てくる次のいくつかのエピソードは、ウォール街で働く人たちがいかに高給取りであろうと、実態はいつでも取り替えのきく部品か奴隷扱いであることを示してあまりある。
年に一度のボーナスが出た翌日、管理職は一人一人の机のうえにバナナを配り、「お前たちはサルだ。私にはいつでもお前たちを取り替える権限があるのを忘れるな。ゴールドマンの名前がなければ、お前たちなどなんの価値もない」といった。
管理職は誰がいつ出社していつ帰るか、すべて監視している。ある吹雪の日、電車の遅延で遅れてきた者は、管理職の音頭のもと、社員全員のスタンディングオベーション(自分でなくてよかったと思いつつ)で迎えられる。
ゴールドマンで著者が入っている高水準の健康保険では、体外受精が八回分、全額カバーされるようになっている。ベッドではなくラボで赤ちゃんをつくる。キャリアを考えながら家族を持つタイミングを選べるし、流産のリスクも減る。ゴールドマン流の迅速に母になる方法、究極の効率化である。
「搾乳するな仕事しろ」
著者は出産後の4カ月の休暇中も、毎日のようにパソコンで仕事をし、電話会議をした。自分の仕事と地位を守りたければ、そうする以外になかった。同社には、出産の最中に会社から電話がかかってきた女性や、出産後わずか数週間で復帰した女性もいたそうだ。
著者は母乳育児を望んだ。しかし管理職から「君はマネージング・ディレクターになりたいなら、職場では搾乳する(設備は整っている)んじゃなくて仕事をしろ」「いいな? 母乳はなしだ」。著者は粉ミルクを買い、ミルクをつくりながら泣いたという。
また、職場の長時間労働と食うか食われるかの競争のプレッシャーから、妻(夫)や子どもに暴言・暴行をおこない、家庭崩壊になる例も少なくないそうだ。
こうしたことを経験して、「ゴールドマンの肩書きがなければ自分にはなんの価値もないし、他の場所で成功できるわけがない」という洗脳から自分自身を解き放ち、給料がいいからといってすべてを犠牲にするわけにはいかないとの結論に至ったという。
最新鋭のIT機器を活用して近代化されているはずの職場が、実は旧態依然とした白人男性優位社会であり、マネーゲームに勝つことを最優先して人間を奴隷のように搾取し、紙屑のように捨てる職場に他ならなかった。そのことをウォール街で高い役職に就いていた女性が、実際に身の上に起こった出来事として生々しく書いている。働く者の人生を台無しにすることによって、金持ちをもっと金持ちにするこのようなシステムが長く続くはずがない。この本は、金融資本主義の虚飾を引き剥がし、その実態を暴露している。
(光文社発行、四六判・366ページ、定価2200円+税)