長年、高校で国語を教えてきた著者は、こうのべる。
言葉は、世界を概念化して認識するためのものである。世界とは外界だけでなく、人間の内面的なもの、身体感覚や精神作用まで含んでいる。世界を概念化して認識するための言葉があるから、私たちは思考できる。そして、考える力は考えることによってしか鍛えられないが、考えることは母語によっておこなうのだから、国語力の低下は思考力の低下につながる。
これまで高校で学ぶ国語の現代文も、「文学的な文章」(小説、物語、詩歌、随筆等)と「論理的な文章」(評論など)だった。文学的な文章では、主人公と同じ気持ちになったり、他者の内面に思いを致し、人間の内面の理解が進む。論理的な文章では社会のさまざまな出来事に対する意見がのべられ、日本と世界に対する認識が深まる。
ところが2020年度の高校1年生から、新学習指導要領によって、国語は必修科目の「現代の国語」「言語文化」と、選択科目の「論理国語」「文学国語」などとなり、国語科のすべての科目が一新された。
それとともに「読むこと」を中心とした授業からの脱却がいわれ、従来にはないジャンルが持ち込まれた。それが「実用的な文章」の読みとりであり、そのために「文学的な文書」「論理的な文章」を学ぶ時間が減った。多くの実業高校では、文学に触れる時間がゼロになったという。
実用的な文章とは、契約書、取り扱い説明書、企画書、レシピ、仕様書…などだが、いったいこれらの読み方を高校の授業で学ぶ必要があるのか?
こうした流れは大学にまで波及し、WordやExcelの使い方、パワーポイントの使い方、プレゼンの仕方、就職のエントリーシートの書き方を教える授業がかなりあるそうだ。
そして、こうした流れを決定づけたのが、PISAの国際学習度調査だという。PISAといえば、2003年の結果で日本が「読解力」「数学的リテラシー」で大きく順位を下げたことが、2007年からの全国一斉学力テストにつながったことが思い出される。今回は2018年の調査で、日本の「読解力」が8位から15位まで順位を下げたことから、今回の学習指導要領改定となったというが、「経済成長」「自由貿易」の発展を目的にしたOECDの指標に、日本の教育がそこまで振り回される必要はないはずだ。
愛知県内でアンケート 現場の教員は戸惑いや憤り
著者は、新指導要領にもとづく授業が始まって現場はどうなったかについて、愛知県内の公立高校の国語教諭47人にアンケートをとった。アンケートの答えからは、現場の教員の戸惑いや憤りが伝わってくる。
「プレゼン、スピーチができるようになる」「古文の苦手な生徒の赤点リスクが減少した」などのメリットをあげる教師もいたが、それは少数。「国語力として蓄積されない」「心情を想像し、考えさせる教育ができない」「文学、古典の時間数減少は害が大きい。作品から与えられるパワー、深い感動を得にくい」「よい文章に触れさせ、言葉の使い方を学ばせたい」など、「実用的な文書」中心でいくことが総合的に見れば国語力を低下させ、生徒を成長させることができないと見ている教師が多かった。
ある実業高校の教師は、「心に響く文章を学んだ方がよい。実用的文章で言葉の使い方のテクニックだけ学んでも、結局、自分の言葉をものにできない。2年生になって『言語文化』(古典から現代までの文学作品を扱う)を学ぶことになり、一部の生徒は“やっと国語になった”と喜んでいた」といっている。
同じ新指導要領で進められた大学入試改革についても、日本文藝家協会が第2回大学入学共通テストの国語問題を検証して、「情報検索の力を見ることに重点が置かれ、思考力や判断力を問うものとはいえない」と批判している。関連して著者は、知り合いの中学校教師の話として、「ある生徒が“入試問題は本文から読むのでなく、問題を読んで、それを本文の中から捜した方がタイパ(時間対効果)がいいと塾でいわれた”というので、戸惑った」というエピソードを紹介している。極端な話、それは「カンニング・メガネを使った方がタイパがいい」という方向に発展しないか。
「読解力が低下している」からといって、わざわざ読解力をより低下させるような文科省の教育改革。自分の人生の目的を深く考えたり、相手の気持ちを思いやり共感できるような人間に育ってほしいのに、テクニックだけのうすっぺらな人間ばかり増えたら、日本の将来は大丈夫か? 著者も、日本の国語教育全体に対する強い危機感が執筆の動機だとのべている。
(岩波ブックレット、76㌻、680円+税)