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『関東大震災と中国人:王希天事件を追跡する』 著・田原洋

 1923年9月の関東大震災のさい、朝鮮人や日本人の社会主義者に対する虐殺とともに、多数の中国人に対する虐殺が日本の軍隊や警察によっておこなわれた。一つは9月3日、東京の南葛飾郡大島町(現江東区大島)での中国人300人以上の殺害であり、もう一つは9月12日、在日中国人労働者の日本語教育や就職斡旋をおこなっていた「僑日共済会」の初代会長・王希天氏の殺害である。

 

 この事実は戦後も長く隠されていたが、今から40年前の1981年、フリージャーナリストの著者が当事者にインタビューをおこなったさいに明るみに出て、翌年に三一書房から『関東大震災と王希天事件』として出版された。当事者とは、陸軍第三旅団司令部の参謀として江東地区警備の第一線にいた遠藤三郎と、王希天事件の実行犯だった佐々木中隊の垣内八洲夫だ。その後、著者が中国にわたって遺族への取材をおこない、加筆して、2014年に本書となって世に出た。それが関東大震災100年を前後して改めて注目されている。

 

 当時の大島町は、隅田川と中川(現・荒川)を東西につなぐ竪川と小名木川の水路を利用して、はしけによる物資集散の中心地になっていた。平坦な低湿地を埋め立て、工場進出も盛んで、単純な重労働を極端な低賃金でおこなう朝鮮人や中国人の出稼ぎ労働者が多数集まってきた。中国人は当時、京浜地区に6000人が在留していたといわれる。

 

 在日中華基督教青年会館を拠点に活動していた20代の王希天氏は、同胞が集中的に住む大島地区に人道的支援が必要だと考え、1922年9月、日本語教育や就職斡旋、失業者扶助などをおこなう「僑日共済会」を設立した。事業は、王氏と同世代の学生たちがボランティアで担当した。

 

 そんななか、翌年9月1日に関東大震災が起こり、2日には東京市と府下5郡に戒厳令が施行された。暴動のきざしさえなかった時期の戒厳令施行について、著者は「ともに朝鮮総督府で朝鮮人弾圧の直接責任者だった水野内相と赤池警視総監コンビの“恐怖心”にもとづく、内田臨時首相への進言が決め手となった」とのべている。

 

 1981年のインタビュー後、著者が当時の生き証人や関連資料を調べたところ、関東大震災直後の9月3日、この大島町で、軍隊と警察が中国人300人以上を銃殺したり撲殺したりし、「外国人が視察にくる」ので着衣や人相がわからないように死体を焼き、現場近くの川に投げ込んだことがわかった。当時、水死体は無数に浮いており、それで証拠隠滅をはかったのだ。著者はその背景に、「仮想敵国の支那人には人格などない」とみなす当時の天皇制軍国主義の政治があるとしている。

 

 同胞大虐殺の噂が流れ、王希天氏は真相を確かめようと大島町に向かった。その事実を告発されるとまずいと考えた陸軍の将校たちは、「王は五・四運動以来の闘士だ。秘密党員かもしれん」「仮想敵国の指導者を抹殺すれば勲章もの」と煽りに煽り、戒厳令下で異常な使命感と功名心に燃え狂っている中下級軍人たちをそそのかして実行させたという。それは、安倍政権の経済安保を忖度して大川原化工機事件をでっちあげようとした警察・検察を思い起こさせる。9月12日未明、王氏は処刑された。

 

 しかし、処刑すべき正当な理由などなにもなく、無実の中国人を殺害したことは、立派な国際刑事事件である。中国は当時、日本に占領され無理矢理「日本臣民」とされた朝鮮人とも違い、建前上は主権国家である。しかも日本軍はとてつもない数の朝鮮人や中国人を殺している。事実が明らかになれば、民間人の大虐殺として国際的な追及にあうことは必至。そこで戒厳司令部は「すべての事件について徹底的に隠蔽する」と決めた。同時に日本政府は、罹災した中国人の本国無料送還を始めた。ところが帰国した中国人が真実を語り始め、10月には中国紙が虐殺を大きくとりあげ始めた。中国政府の対日調査団もやってくる。

 

記事が削除されて一部が白紙で発行された『読売新聞』1923年11月7日付

 続いて11月7日、『読売新聞』が王希天事件について報道しようとした。すると鉛版を輪転機に装着して印刷する直前、その部分の鉛が削りとられ、一部白紙の新聞が各家庭に届いた。内務省の検閲である。70数年後に見つかったその記事は、「大島事件と王希天事件は、人道上、国際上から見て、また善隣のよしみがある支那との関係であるだけに、重大なる国際問題であることは言を俟(ま)たない」「政府や陸軍はみずから進んで真相を明らかにし、法にのっとって犯罪者を処罰し、支那政府と国民に謝罪する以外にない」と論陣を張るものだった。それが削除されたわけだ。

 

 直後、同7日に首相・山本権兵衛、内相・後藤新平、陸相・田中義一、司法相・平沼騏一郎、外相・伊集院彦吉の五大臣会議が開かれ、「隠蔽」が閣議決定となった。それに警視総監も検事総長も同意した。そして検閲の元締めだった警視庁官房主事の正力松太郎が、財界から軍資金を託されて読売新聞社長となり、反政府的な記者たちを追放した。

 

 そして翌1924年、政府は「謝罪と責任者の処罰をしないかわりに、賠償金20万円」を中国側に提起。しかし中国の内戦が激化し、調印されないまま日本の敗戦となった。軍や警察の関係者は誰一人処罰されず、関係した民間人のみ裁判にかけられたが、その後、昭和天皇の婚儀の特赦によって無罪放免となった。

 

 本書のなかで、インタビューに答えた元陸軍中将・遠藤三郎がこういっている。「心の底に、中国人を軽視し、蔑む意識があって、同僚を救う方が正しい選択だと錯覚していた」「非を認めるべきときに認めない、謝罪するべきときにそうしない(とくに中国やアジアの国々に対して)日本軍国主義の体質は、このころから顕著になった」

 

 自己の保身のためにあったことをなかったことにする。そんな権力中枢の連中が、戦前は「鬼畜米英」を煽って日本全土を焼土と化し、戦後は親米売国に転じて、今国益を売り飛ばして恥じない。本書でまとめられている記録は、現在と未来に生かすべき貴重な歴史の証言である。

 

 (岩波現代文庫、264ページ、定価1180円+税)

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