公衆衛生とは、地域やコミュニティを病気から防衛し、住民の健康を維持するための公共的なとりくみのことだ。アメリカの理念といわれる自由(市場の自由)は、一方では経済成長を実現し豊かさをもたらしたが、他方で公衆衛生の介入を困難にし、疾病予防に遅れをとった――というのが本書のテーマである。著者は東洋英和女学院大学教授(アメリカ史・公衆衛生史)。
一般に国が豊かであれば、国民の健康度は高くなる。国民の所得が高ければ十分なカロリーと栄養バランスのいい食事がとれるし、税収が安定的に高まれば上下水道やごみ処理などのシステムを維持できるからだ。実際、アメリカの研究機関には世界中から優秀な専門家が集まり、政府の補助金や民間の資金が注ぎ込まれるし、COVID-19のワクチンも前例のない速さで開発された。
ところが、アメリカ人全体の健康状態は他の先進国と比べて良好とはいえない。
平均寿命(2020年)は、日本84・62歳、カナダ81・75歳、イギリス80・9歳に対して、アメリカは77・28歳だ。1000人当り乳児死亡率(同)も、日本の1・8に対して、アメリカは5・4だ。また20歳以上の糖尿病患者の割合(2021年)は、日本6・6%、イギリス6・3%に対し、アメリカは10・7%だった。新型コロナ感染症(今年7月現在)では、アメリカの感染者数は1億人以上、死者は116万人と、いずれも世界一である。
まるで後進国状態 ラストベルトの深刻な貧困
こうのべる筆者は、今世界各国の公衆衛生の研究者が、「社会経済的地位」が健康と病気に及ぼす影響に注目していると指摘する。
都市スラムに住む貧困層――黒人やヒスパニックについては、アメリカの格差社会を象徴する問題としてこれまでも多く指摘されてきた。彼らの多くは、レジ打ちや荷出し、デリバリー、清掃など、低賃金の長時間労働で働いている。外出制限のなかでも外で働くエッセンシャルワーカーだ。
それゆえ疲労が蓄積し、安価な高カロリー低栄養食品で腹を満たす食事になりがちで、それによって肥満が増える。貧困層ほど肥満が多く、それは糖尿病や心疾患などの病気につながる。そして子どもの頃に形成された食習慣は、成長してからの健康度を左右する。
さらに国民皆保険制度がないアメリカでは、貧困層は基準を満たせば医療扶助制度メディケイドを利用できるが、そうでない低所得層の場合は民間の医療保険に加入しなければならず、その余裕がなければ無保険となり医者にかかれない。コロナに感染して1週間程度入院した場合、メディケイドでは自己負担額は1500㌦程度だが、無保険なら7万㌦(約1029万円)をこえるからだ。
さらに驚かされるのは、「アメリカの非都市部――西部山岳地帯やステップ地帯、南部農村地帯、北部のかつての工業地帯(ラストベルト)など――における貧困は、概して都市スラムの貧困以上に深刻である」という点だ。
非都市部の最貧困地域では、ガスや電気を欠き、インターネットアクセスが存在しない場所がある。衛生上不可欠な清潔な水を得るのも困難で、全米で少なくとも140万人が屋内の水道設備(シンクやシャワー、水洗トイレ)を持たずに生活している。彼らが利用する井戸の23%で、健康被害が懸念されるヒ素、硝酸塩、ウランなどが検出されている。まるで後進国状態である。
非都市部では、長期にわたる人口減少で、少なくとも192の病院が閉鎖になっている。広大で人口過疎な農村部では、一番近い病院まで車で3時間以上かかることが珍しくない。非都市部には、全米のICU(集中治療室)のベッド数のわずか1%しか配置されていない。
ところがこの非都市部は、小麦やトウモロコシ、野菜、果物、食肉、水産などアメリカの食料生産を担っているだけでなく、加工工場のほとんども支えているという。また、天然資源の採掘や一次加工、製造業の一部もここが担っている。だからこの地域が衰退することは、アメリカが食と工業製品の生産地を失うことを意味する。
これが、過去100年にわたってGDP世界一であり続けるアメリカの実態である。グローバル企業は、搾取して手に入れた利潤をタックスヘイブンに避難させて社会の維持に必要な税金は払わず、国民が払う税金の多くは軍事費(圧倒的な世界1位)に注ぎ込まれて軍産複合体を潤わせる一方、国民生活に不可欠な医療や公衆衛生の費用は削られる。「自由」の看板を掲げた強欲な資本主義が、米国民の健康と生命を蝕んでいる。
それは別の面から見ると、貧困や病気を「自己責任」といって突き放したところで、回り回ってその社会の維持すら困難にしてしまうということだ。政府が市場原理主義で突き進むことがいかに愚かなことか、医療や公衆衛生を公的に保障することがいかに大切かを教えている。
(ちくま新書、222ページ、定価880円+税)