戦前の広島の記憶掘り起こす
広島といえば原爆が投下された地、その廃虚から復興をなしとげた「平和都市」というイメージが定着している。しかし、この地が広島城築城から始まる城下町であったこと、戦前の広島がどんな街並みでどのような賑わいを見せていたかについては、あまり知られてはいない。
本書の副題は「歴史・文化散策ガイド19コース」。現在の平和記念公園がある中島町から水主(現加古)町、白島界隈から、天満町・観音町界隈にいたる19のエリアごとに、江戸時代の城下町絵図、戦前(明治・昭和期)の地図と重ねて現代の地図を配置し、当時の風景写真や絵、古文書・図などをふんだんにとり入れ、「みどころ」を巡るコースを定め案内している。
戦前の写真や四国五郎らの回想画から、当時の橋の欄干の飾りなど広島ならではの風景、行き交う親子連れなど、当時の生活の匂いが伝わってくる。また、江戸時代の資料図絵からは、先人たちの生活のなかでの喜びや賑わいの断片をうかがい知ることができ、心を和ませる。
先人の生活のにおい香る
各エリアの解説は、おもに神社や寺、地域が大切にしてきた行事や場所、思い出を中心に展開している。それは、原子爆弾で断絶されたが、祖父母の代まで大切に受けつがれてきた広島の祭礼や風俗、慣習を掘り起こす作業でもある。
爆心地周辺の広島平和記念公園については戦後長らく、そこがもともと公園であったかのような風潮が覆ってきたといえる。だが、いうまでもなくそこには建物が密集し、人々の日常の喜怒哀楽が交錯していたのだ。今は中島町でくくられたこの地は中島本町、天神町、元柳町、材木町、中島新町、木挽町という住民に親しまれた六つの町名でつながっていた。
材木町・木挽町の地名は、広島城築城のさいに木挽き小屋(伐採した原木を製材加工するための小屋)が置かれたことに由来し、多くの豪商が軒を並べていた。遊技場の並んでいた勧商場や元安川の土手筋には料理屋が並び、多くの人々が楽しむ憩いの場であった。相生橋がかかる中島本町が「慈仙寺の鼻」と呼ばれたように、この界隈は多くの神社や寺があった。
今の国際会議場あたりにあった誓願寺は今は西区に移転しているが、その境内に鎮座していた「厳島大明神」は原爆で抹殺されたまま、今では「存在していた」ことすら忘れられているという。旧暦6月17日の厳島神社(宮島)の管絃祭の夜に、「厳島大明神」でおこなわれる広島管絃祭は市民が大切にする広島三大祭りの一つだった。現在、フラワーフェスティバルで賑わうあたりは父祖たちの祈りの地であったこと、8月6日の夜は旧暦の関係で19年に1度管絃祭と重なっていることを、被爆体験と重ねて語り継いでいく意義は小さくない。
著者はガイドブックの狙いが「原子爆弾によって、断ち切られた記憶を現代につなげる」ことにあるとのべている。アメリカの原爆投下はこの地で平常通りの生活に勤しんでいた何十万の人々の命を無残に殺傷し、生活に息づく日本の風景を一瞬にして消し去った。
本書はその意味で、戦後復興過程で叫ばれてきた「軍都広島から平和都市ヒロシマへ」のスローガンがはらんできた負の側面――先祖代々受け継がれてきた生業と精神文化の断絶――を照らし出すものとなっている。子どもたちの郷土教育に役立てることが望まれる。それは、広島の平和教育を骨太く支えることになるだろう。
(南々社発行、A5判・144ページ、1700円+税)