欧米諸国の各都市で十万、百万単位の労働者がストライキに立ち上がり、街頭にくり出している。製造業や公共交通・運輸から医療、介護、保育、教育、飲食、観光などのケア・サービス産業、さらにはアマゾンやウーバーなどのIT関連・通販・流通などあらゆる産業・分野で生産を担う労働者が明るい表情で登場している。
かつて、労働者の賃金や権利のためのストライキが「国民に迷惑」だとして相互に対立・分断させられる状況もあった。だが、新たな労働運動の高まりは、労働者の待遇の劣悪化が、製品・サービスを保証できないという切迫感、そこからわき出る社会的な使命感に突き動かされたものである。非正規雇用や過重労働が段階を画し、教育・福祉産業が商業主義に侵されるなかで、労働者と消費者・利用者を敵対させる風潮が土台から崩れており、世界史の新たな段階を開く労働運動の力量が注目されている。
目を見張るような欧米労働運動の高揚だが、それに比べて日本では分散的なストはあっても、大規模ストライキは見られない。そこにはどのような問題があるのか。
社会学者で現場の労働相談に関わってきた今野晴貴氏は、「ストライキはなぜ打たれなくなったのか?」について、次のように論じている(『賃労働の系譜学』青土社)。
「日本の場合には、世界的に見て異例なほどストライキが実施されていない。70年代後半からは、ほとんどゼロに近い水準で推移している。その要因は、日本の労働組合が企業別組合であることと深く関係している。企業と一体となった労働組合であるために、ストライキが組織されないのである」
従来、日本の労働者の間でも、欧米の労働者は階級意識がはっきりしていることがある種の羨望の念をもって語られてきた。欧米では使用者との契約にもとづいて仕事をしそれを日本のような企業別労働組合の個別交渉ではなく、産業別の労働組合による職種別交渉で保障されているというように。
それは今の欧米のストライキの高揚にもはっきりあらわれている。たとえば、フランスの労働組合の組織率は7・7%と日本よりも低いのだが、労働協約の適用率は92%であり、組合員・非組合員の区別なくほとんどのすべての労働者に適用されている。そのため、労働組合は日本のように非組合員を排斥するのではなく、崩れぬ慣例として産業や職場の違いをこえて共同行動をしてきたし、今もそうである。
今野氏はこの点について、「欧米の労使関係は職務に基づく同一労働同一賃金原則に特徴づけられる。労働者の仕事の範囲=職務があらかじめ明確にされ、賃金の基本部分は同じ職務であれば同一になる。賃金の水準は産業別あるいは職業別といった企業を超えた労働組合と業界団体の間の団体交渉をへた労働協約で決定される」とのべている。
こうした仕組みの下では、労働者に対する企業の命令はあらかじめ職務の範囲に限定される。また、賃金をめぐる労働者同士の競争も抑制する。「労働者はどれだけ勤続しても労働者のままで、決して管理職にはなれない」からだ。そのような明確な「階級社会」の契約のもとで、「労働者たちは自分の仕事の範囲を明確にし、経営者マインドを引き受けて、どこまでも企業の命令に従う」ことは考えられないことだという。
ブラック労働生む全身就活
ところが、日本の労使関係においては「職務に基づく同一労働同一賃金」の共通した社会規則が歴史的に労働運動のなかで築かれないできた。それが、「終身雇用・年功賃金・企業別組合」で説明される日本型雇用といわれるもので、欧米との労働市場におけるこの社会的なシステムの違いが日本の労働者の意識や生活、さらには組合運動に深く刻まれてきたといえる。
日本型雇用を象徴するのが「全身就活」でへりくだって採用された入社時の契約だ。多くの場合、入社時には勤務地も、従事する業務も、実際の労働時間も契約上不明(白紙契約)である。日本の企業は欧米企業と比べて、企業内の労働者に対する絶大な命令権限を持っている。それは労働者が従事する業務だけでなく残業や勤務地の決定にまで及ぶ。欧米の労働者にとって、家族と離別した単身赴任などは残虐な拷問以外のなにものでもなく、明確な離婚条件になるという。
今野氏は、企業がこうした絶対的な権限とシステムのもとで企業内で労働者を教育訓練(OJT)し、正社員の雇用を維持してきたことを明らかにしている。たとえば、人員削減が必要になっても容易には正社員を解雇せず、再訓練によって別の業務に就かせ、勤務地を転換するなどの方法をとってきた。
そうした日本型雇用のもとで、「正社員となって厳しい労働に耐えることができれば終身雇用・年功賃金が保障される」という企業への強い信頼と、厳しい労働を受容する姿勢が社会に浸透した。それは、家族、学校、福祉などあらゆる領域が日本型雇用(企業への強い信頼)を前提に形成されていくプロセスであった。
男性労働者が広汎な指揮命令に対応することで終身雇用、年功賃金制が適用されることを前提に、女性が「主婦」を担い、単身赴任もできるように家族が編成されていった。学校においては、あらかじめ仕事の知識を教えることはほとんどない(海外では、「仕事」を教わるのは学校である)。普通教育が一般的で基礎学力の教育に力を入れる。そして企業に「新規一括」で入社させるのだが、そこで問われるのは、直接的な仕事の能力ではない。
「日本の学生は学校と企業を全面的に信頼し、具体的な仕事の取引をするのではなく、就職するのだ」「学生は“赤ん坊”のように学校を信頼して、企業に紹介されていく。したがってその先にどのような労働条件が待っていても、彼らにはそれが“不当”だと判断する基準はない。もちろん、労働法についても学校で教わることはない」
そして、労働者の能力は企業によって詳細に査定され、評価は企業に貢献しようとする「生活態度」にまで及ぶ。労働者は企業の求めに応えるために、「自発的」に不断の自己変革を迫られる。
企業こえた新たな運動の芽
今野氏は「過労死」や「ブラック企業」はこうした日本型雇用の帰結であり、それが社会的に露呈するなかで日本の「健全な労使関係」の前提である「企業への信頼」が根底から揺らいでいるとのべている。同時にそのことが、日本社会において新しく起こっているストライキの特徴として次のような特徴をもたらしていると指摘している。
①業種的・職種的な問題が顕著であり、企業をこえて問題化し、これまでの企業別組合の弊害を乗りこえる要素がある、②介護・保育・教育などのケア労働などサービス業で多く見られるが、労働問題の深刻化がサービスを劣化させている状況をストライキによって意識的に、労使交渉と結び付ける努力がなされている、③かつての国鉄・公務員、あるいは民間大企業労組とは異なり「一般労働者」と呼ぶべき階層によっておこなわれている。もはやストライキは組織労働者の特権ではなく、むしろ「一般労働者」が生きるために選択せざるをえない手段として共感されるようになっている。
日本の労働者が激変する現実、厳しい生活と闘いを通して生み出している新しい運動に注目し、その発展を促すことは行き詰まった資本主義を乗りこえる全国民的な課題となっている。
(青土社、四六判、333ページ、2200円+税)