1960年代の「高度成長期」には、農村の若者が集団就職で都市に出る光景が各地の駅頭で繰り広げられた。それとともに、農家の大黒柱であった男たちが農閑期に同じ駅から出稼ぎに出ていたことを、忘却の彼方に追いやることはできない。
時代に翻弄され続ける農民の記録
このほど「出稼ぎのむら」といわれた山形県白鷹町の町民が、出稼ぎをとらえ直し日本の農業を考える記録映画を完成させた。すでに町内で上映会を開催しており、DVDを普及する態勢をとっている。
映画の柱になっているのは、当時20歳の頃に川崎市東部の都市開発の建設現場に働きに出た本木勝利氏が撮影した写真をもとに作成したスライド作品『出稼ぎ』である。最近になって、当時のコンクールに出品されたスライドや録音テープ、台本が町教育委員会の倉庫から発見、復元された。これを見た農業ジャーナリストの大野和興氏が映画化を呼びかけ、当時を体験した町内の有志が中心になって映画製作委員会を立ち上げ、本木、大野の両氏が監督を務め1年半をかけてドキュメンタリー作品に仕上げた。
当時、稲の収穫が終わって秋祭りが終わる頃、およそ4000戸の町内から、ピーク時で2000人が出稼ぎに出たという。映画は冒頭、本木氏のスライド作品を再現し、出稼ぎを今日の視点から新鮮な感覚でとらえ直す。映し出される写真は、地元の駅での見送りから東京上野駅到着の様子、川崎市の郊外の私鉄沿線の開発現場での重労働、プレハブの飯場での質素で堅実な生活、日常のささやかな楽しみ、妻や子どもたちの便りに思いをはせ仕送りに励む様子など、その場で過ごした者ならではのカメラワークで仲間たちのてらいのない表情、仕草をとらえている。
出稼ぎ者は事故と隣り合わせの現場で負傷しても労災が適用されず、すべて自己負担が強いられた。これが企業が誇る「災害ゼロ」の実態であった。雨天が続いて収入がないことが真底きつい。それでも、生活費を削って耕耘機のローンの支払いや子どもの卒業に必要な仕送りに回していた。
映画では、男たちが出稼ぎに出たあとの女と子ども、年寄りたちだけの生活がどんなものであったのかを、当時を体験した保育士らの証言を交えて掘り起こしている。力仕事、とくに雪下ろしの大変さ、正月に父親が帰ってくるのを喜ぶ子と、逆にシュンとする子の対比……。そして、生活のすべてを任された女たちが否応なくたくましくなっていったことも。
農業近代化のかけ声で
東北地方の農夫たちがなぜ都市開発のために、東京の近郊に出て行かねばならなかったのか。映画は「農業近代化」のかけ声で導入された耕耘機の支払いや燃料代には現金が必要だったこと、当時の稲の単作では出稼ぎ以外に方法がなかったことを浮かび上がらせる。農機具や化学肥料のメーカーが農村を市場にする傍らで、農業生産者がその支払いのために都会に出るという構図である。
映画の後半は、出稼ぎが縮小に向かうなかでもこうした都市と農村、工業と農業の関係が形を変えて押し被さってきたことを肌身で感じさせる。日露漁業が低賃金を求めて立派な田んぼを潰して工場を作り主婦たちの収入を期待させた。だが、農婦が漬け物をスーパーで買うという逆転現象を残して、いつのまにか撤退してしまったことも、今では語りぐさとなっている。
農政の破綻と新たな光
出稼ぎのない農業をめざして青年団を中心にコメの増産、有蓄複合農業や加工研究などで奮闘する矢先に、国がうち出したのが減反政策と自由化だった。農業高校入学時には、全員農業自営を希望していたが、卒業時はほとんど就職することになったという回想がその打撃の深刻さを伝える。
今では、コメの生産者価格はピーク時の半分にまで暴落し、最上川沿いの優良田んぼ地帯が休耕地となりセイタカアワダチソウが群生するまでになった。さらに、活路を求めて酪農にとりくんできた農家に乳価低迷が追い打ちをかけている。仲間とともに並々ならぬ努力をしてきた酪農家は「絶対に自己責任ではない。政府の責任だ」と深い怒りをにじませる。
映画はこうしておよそ5、60年前の出稼ぎの経験を見つめ直すことで、国民の生命を支える農業を冷ややかに見て、人と自然、人と人との関係を希薄にし、お金を中心にした価値観を浸透させてきた農政の破綻をあらためて考えさせるものとなっている。
そのうえで、出稼ぎの時代を期して失われてきた地元の伝統をとりもどし、現実の厳しさと正面から向き合う活動――若い新規就農者を受け入れる農業生産法人や共同販売の様子、ベトナムの技能実習生が語る今の海外出稼ぎの内実、獅子舞などの郷土芸能の継承など――を通して、新しい農業とまち起こしの可能性を探る人々に光を当てている。(79分)
DVDには付録として、本木勝利氏の詩「死んだ姉に」がついている。連絡先・問い合わせは、製作委員会の菊地富夫委員長(℡090-8424-7963)、または大野和興監督(℡090-4175-4967)まで。