島田雅彦の小説『パンとサーカス』(講談社)は戦後一貫してアメリカに国益を売り渡してきた為政者に怒りをつのらせ、「世直し」を願う若者たちがテロ計画を実行に移すというエンタメ(娯楽)小説だ。2020年7月から21年8月にかけて、いくつかの地方紙に連載された内容に手を加え今年3月に刊行された。
この小説には元自衛隊員の「池上」という人物がテロリストとして登場することもあって、安倍元首相銃殺事件を期して新たな注目を集めているという。ことのなりゆきでCIA(アメリカ中央情報局)のエージェントとなり、「テロ対策」を掲げて官邸中枢に入り込んだ若者が売国政治に怒りをつのらせる友人たちのテロ行為に深くかかわっていく。そうした複雑怪奇なサスペンスが、ミステリーの手法を用いていることもあるが、なによりも現実の政治と折り重なって読者をひきつけているようだ。
小説の題名「パンとサーカス」は腐敗した為政者が人民の怒りをそらすために、最低限のパン(食べ物)とサーカス(見世物、娯楽)を与えて誤魔化すことを揶揄した言葉だ。2世紀のローマの風刺詩人が最初に用いたとされるが、古今東西、独裁政治はそのようにしてしばらくは生きながらえることができたのである。
小説に登場する人物が語るように、「支配者にとってサーカスは、空中ブランコでも象の曲芸でもない」。民衆の不安、興奮、恐怖、感動を誘うスペクタクルや戦争、祭典、犯罪、天災、さらには疫病やテロまでもが支配を維持するために利用する「サーカス」となるのだ。それは、ウソとまやかしで利権と自己保身にうつつを抜かし、庶民の切実な願いや怒りをバラエティやお笑いで解消する一方で、巨大メディアを動員した劇場型政治で世論を操作してきた現実の為政者のありさまをいい当てている。
物語は、アメリカいいなりの「日米同盟」の土台が占領期にCIA(アメリカ中央情報局)に囲われた元戦犯や右翼フィクサーとの結託によって築かれたものであり、悪をとり締まる検察、裁判所もそれを擁護する下請機関であることに突き当たりながら展開する。その厚い壁を叩き崩そうと連続テロに走って生き延びた主人公は、「テロによって悪政を正すことはできない」ことを思い知る。加えて、政府がそれを利用して「正義」を装い「悪政を帳消しにできる」と考えていることも。
小説で描かれる「内閣情報調査室」の主な任務は、防衛省や公安警察が監視を続ける「政権に批判的」な団体や個人、あるいは中国、ロシアなどの外交官らの個人情報を収集し、その弱みを握ることである。それは、首相や閣僚たちの不正や違反を隠ぺいする必要が出たときに、政敵のスキャンダルをリークできるようにしておくためだ。
かれら調査員たちは、「政権の批判者すなわちテロリスト予備軍」という短絡的思考で動いている。しかし、「半分が世襲議員で、極右系の宗教団体の全面的支援を受けている与党が永遠に政権の座にとどまれるよう奉仕することが優先順位の一位であって、テロ対策は二の次」である。一方、首相の方は、たとえテロが発生したとしても「緊急事態宣言」を発し、市民の自由を制限し首相に権限を集中させるいい機会になると、「“ポジティブに”考えていた。つまり、テロを政治利用する気だけは満々だった」。
こうした描写は、アメリカに支えられた「長期政権」が一皮むけば統一教会とズブズブの関係であったという、今現実にくり広げられている事態と重なって読者を立ち止まらせる場面でもある。実際に、CIAの下請である日本の情報部門が検察や警察に直接介入しメディアを操作し、そうした薄汚い構図を隠ぺいしてきたカラクリが赤裸々に暴露されつつある。小説はこうしたことと、安倍銃撃事件を「民主主義への挑戦」としてこれ見よがしに利用しようと意気込んだ現政権のもくろみがすっかり失敗したこととが一つにつながっていることを、読む者の脳裏に浮かび上がらせる。
小説では、「巣鴨プリズンでA級戦犯容疑者と懇意になり、講和条約締結後は釈放された元戦犯たちとともに既得権益を分け合った」というCIAの恩恵にあずかった「国粋右翼」が広告代理店の社長としてメディアを操作するかたわら、オートレースの売上を原資に財団を設立し、売国政治家のスポンサーとなる事情も展開する。「アメリカは国粋主義者のリサイクルが得意で、反共のためには元ナチも重用した」というくだりは、ウクライナの現状ともつながって論議を呼ぶところだ。
物語の主人公たちの「世直し」への熱い思いは途絶えることなく、さらに現実に立脚した「中立国自由日本」への展望を模索しつづけることになる。その新たなストーリーはいま全国に充満する独立と平和への切実な願いにさらに肉薄し、大衆的基盤をもってくり広げられるさまざまな闘いを束ね連携しあう現実とかかわって展開されるだろう。