いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

文字サイズ
文字を通常サイズにする文字を大きいサイズにする

『深夜薬局』 著・福田智弘

 舞台は新宿・歌舞伎町。小池都知事からコロナ感染拡大の震源地と名指しされた、日本一の歓楽街のど真ん中、夜の街らしい店が周囲を囲むビルの1階に、その薬局はある。人々が1日の仕事を終えて家路を急ぐ午後8時に開店し、翌朝9時まで営業している。人は「歌舞伎町の保健室」と呼ぶ。ライターが、実在するこの「深夜薬局」のルポを書いた。

 

 「深夜薬局」ことニュクス薬局は、調剤薬局であり街の薬屋だ。白衣を着た店主兼薬剤師が一人で切り盛りしている。客として来るのはホスト、バーテンダー、キャバクラ嬢など「夜の仕事」に携わる人が多いが、医者から手渡された処方箋を持って残業帰りに立ち寄る多忙なビジネスマンや、他の薬局が寝静まった深夜に突然具合が悪くなり、駆け込んでくる人もいる。深夜にはドラッグストアは開いていないし、開いていても薬剤師や登録販売者がいなければ薬は買えない。

 

 そしてそのほかに、ただ話をしに来るだけの女性がたいへん多いという。処方箋も持たず、市販薬もドリンクも買わず、「彼氏に捨てられた」「親とうまくいっていない」「借金つくっちゃった」「お客さんの子どもを妊娠しちゃった」…あるときは泣きながら、家族にもいえない話をすることもある。「夜の仕事」に携わる者の大多数が地方出身者だ。

 

 店主はそれをただひたすら聴く。聴くことは収入にならないし、むしろ客の回転率は下がるが、ひたすら聴いて、来たときより明るい顔になったのを見届けて送り出す。そして店主が来た客を注意深く観察し、どんな人だろうかと推測するのは、個人的な好奇心ではなく、プロの薬剤師としてその人の健康を守るためにそうしているのだ。

 

 この店主、高校生の頃から「心や体のことを気軽に相談できる場所って絶対必要だよな」と思ってきたという。大学の薬学部を卒業して薬剤師の国家資格をとり、チェーン展開する薬局の薬剤師として働きながら、独立後は歌舞伎町に深夜薬局をつくると決め、休みの日は歌舞伎町やゴールデン街をひたすら飲み歩いて街の空気を吸い、たくさんの顔見知りをつくった。そのつながりが、街を愛し、患者を愛する心を育んだそうだ。

 

 深夜薬局が薬の宅配をやっているというのも興味深い。ズンズン痛む歯痛に朝まで待てず電話してきた人のためにと、バイク便業者と連携し、宅配サービスをスタートさせた。東京23区内ならタクシーの深夜料金程度で届けることができる。

 

 しかし、バイク便で運べるのは市販薬のみ。医師が処方する薬は、薬剤師が必ず患者と対面して渡さなければならない。ではそういう人のためにと、店主は白衣のまま自転車で歌舞伎町を疾走し、患者のもとへ行く。きっかけは、歌舞伎町のゴミ拾いボランティアの友だちから、「父親が人工透析を受け、たくさんの薬を処方してもらっているのに、深夜営業の定食屋の仕事をしていてとりにいけない」と相談されたことだった。

 

 その場合も受けとるのは薬代のみ。なぜ?「もうけることを優先させていたら、こんなところにこの時間帯で開局しませんからねえ」。

 

 コロナ感染拡大は歌舞伎町にも深刻な影響をもたらした。多くの店舗が休業し、「夜の仕事」に就く人たちも一斉に仕事がなくなった。

 

 しかし深夜薬局は、緊急事態宣言のもとでも一日も休まなかった。そこに、「仕事がない」「お金がない」という人たちがたくさん訪れた。店主は各種助成金のもらい方を教え、昼間の仕事への転職相談にも応じた。あるときは、生活保護を受けることは恥ずかしいことじゃないと説得し、その背中を押したこともあったという。もはや薬局という仕事をこえた公的な役割を担ったわけだが、そこから、困っている人がいる限り店を開けるのは当然、とする店主の矜持を感じることができる。

 

 そのなかで、店によくきていた女性の自死も経験した。彼女の勤めていたキャバクラがコロナで休業をよぎなくされ、収入もほとんどゼロ。親に相談しようにも、過去に虐待を受けていてままならない。「なにかあったら、いつでもうちにおいでよ」と声をかけたのが最後だったという。「夜の街」で働く人に対しても、いかに政府や自治体の補償が乏しいかである。

 

 以前、ドラッグストアに勤めていた人から、利益率の高い自社専売薬品の販売強化月間が決められていて、相談に来たお客さんをそっちに誘導するのに心痛するという話を聞いたことがある。ここに描かれているのは、こうしたドラッグストアが真似できない、患者のために尽くす薬局の姿だ。

 

 病院に行くほどじゃないけど、あそこに行って相談してみるか…と思わせる街の個人薬局は、「いわば大手スーパーではなく、すぐ近所にある商店街の魚屋のような存在」。この著者の指摘にハッとさせられる。深夜薬局を伝える著者の筆致は温かい。      

 

小学館集英社プロダクション ¥1400+税

関連する記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。なお、コメントは承認制です。