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『生命科学クライシス』 リチャード・ハリス著 寺町朋子訳

 19世紀に近代医学が誕生してから、医療はめざましい進歩を遂げてきた。そして、この医療など人命にかかわる分野に直結する生命科学は、2003年には人間の設計図であるヒトゲノム配列を解読し、生物のゲノム編集までできるところに到達した。

 

 この生命科学の成果は論文にまとめられ、毎年約100万件の論文が学術雑誌に発表される。製薬会社はそのなかから新薬開発に向けたアイディアを得る。ところが科学者が論文と同じ結果が得られるかどうか実験したところ、9割が結果を再現できず、間違ったものであることが判明した。アメリカの科学ジャーナリストが米国内の科学者や業界関係者などにインタビューを試み、この生命科学、医学の深刻な危機と背景を報告している。

 

 この実験をおこなったのは、バイオ業界の草分け企業アムジェンでがんの研究を統率している科学者で、再現実験の9割が失敗したので、そのことを2011年に学術雑誌に発表した。自分が再現できなかったばかりか、論文を書いた科学者の研究室に人を派遣して実験を見せてもらったが、当の科学者たちも再現できなかった。

 

 その後、同じような調査結果を幾人もの研究者が発表している。アメリカ食品医薬品局(FDA)の担当者は「新薬候補の開発が、より厳密な薬物試験体制が整っている段階に進むと、9割は脱落する。それは、設計した航空機の10機に9機が空から落ちたというようなものだ」といった。

 

 この研究は前臨床試験と呼ばれ、その知見は人間を対象にした臨床試験につながるもので、医学の進歩の核心ともいえる。以上の結果は、アメリカでは膨大な人とカネを注ぎ込みながら、さまざまな病気の治療法の探索は進んでいないということになる。実際、1950年からの30年間は血圧降下剤や抗がん剤、臓器移植などのめざましい進歩があったが、1980年からの30年間ははるかに成果が少なく、新薬の承認率は下がり続けている。現在、7000種類にのぼる既知の病気のうち、治療法があるのはわずか500種類にとどまるうえ、多くの治療法は取るに足らない効果しかないという。

 

副作用隠し販売するケースも

 

 なぜこんなことが起こるのか?

 

 この間、アメリカ国立衛生研究所(NIH)からの研究助成金が大幅に減らされ、州の大学への資金援助も極端に削減されて、研究者は自分自身で研究助成金を調達する競争に駆り立てられた。大学は研究者を研究の質で判断せず、カネを稼げるかどうかで判断するようになった。研究者は短期間で成果が出そうな研究に走り、新薬を承認するFDAの審査官にとってもっとも説得力のありそうな手法を使い、見栄え良くデータを見せようとした。そこに捏造や改ざんが生まれた。

 

 一つの例だが、関節炎治療薬のバイオックスが1999年に承認されてベストセラーになったが(日本では未承認)、その後心臓発作のリスクを増大させる副作用がわかって、最終的に市場から回収された。研究者も製薬会社も事前に知っていたが、隠していたのだ。そうして回収された薬はすでに何十品目もあるという。

 

 また、大学や研究機関で日日の研究の大部分をこなしているのが若きポスドク(博士号取得者)だが、彼らは莫大な奨学金ローンを抱えた安価な労働力であり、終身在職権を持つ研究職に就けるのは彼らのうち2割余り。その条件が、ずさんな研究で手抜きをしてでも学術雑誌に一番乗りで論文を発表することだ。そして科学者が研究助成金を得、ポスドクが終身在職権を得ようとして投稿する学術雑誌は、『ネイチャー』を頂点に厳格な格付けがなされ、その格付けは広告枠を売るさいの基準にもなっている。これについてノーベル生理学・医学賞を受けたある科学者は、「研究者は格付け上位の雑誌に載せてもらうために何が必要なのかを知っていて、それにあわせるために真実をねじ曲げかねない」と指摘する。学術雑誌の側が研究者に、実験をもう一つ追加すれば論文を受理できそうだと圧力をかける場合すらあるという。

 

 だが実際には、格付け下位の雑誌の方が査読がより丁寧で、多くのすばらしい科学的成果が発表されている。

 

科学技術の進歩を阻害

 

 かつてヨーロッパの知識人は、神や絶対理念が存在するとした観念論の体系に対して、ガリレオの時代にくさびを打ち込み、その後真理を探究するために科学実験をおこなって、各分野の科学を発展させてきた。それが21世紀の今日、カネの力によって真理真実がねじ曲げられ、その結果、人の生き死ににかかわる生命科学や医学の進歩が押しとどめられているのである。

 

 本書の中では筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者が、こう告発している。非常に多くのALS研究者が製薬会社の利害絡みでデータを共有したがらず、一致協力しようとしない、と。それが新薬の開発を大きく妨げている。ほとんどのALS患者には余命が数年しかないというのに。

 

 本書で描かれているのはアメリカの生命科学界だが、STAP細胞問題をはじめとして同様の問題を抱える日本の学術界への警鐘の書としても読める。    


 (白揚社発行、四六判・302ページ、定価2700円+税

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