欧米の「石の文化」「鉄の文化」に対して日本は「木の文化」といわれることがある。日本人が木以外の材料で建築をしなかった歴史から来ているという。日本列島が南北に細長く、森林が国土の7割を占め、木の種類が極めて豊富で良質の材も多いという自然条件も、木の文化を育てるのにおおいに貢献した。
本書は、長年法隆寺の修復に携わってきた「昭和最後の宮大工」、西岡常一氏が経験を語ったものに、木材工学の権威で千葉大学名誉教授の小原二郎氏が科学的な実証をつけ、その貴重な知恵や匠の技を後世に伝えようという意図でまとめたもの。1978年に初版が発行されたが、近年英語圏でも話題になってきたことから、全面改定版として6月に出版された。
西岡氏は、法隆寺棟梁として明治の改修工事にかかわった祖父に、4歳のときから現場に連れて行かれ、仕事を見る目から仕込まれた。そして、昭和9(1934)年から29(1954)年までの法隆寺の昭和大修理に、5度の召集令状を受けながら、棟梁としてかかわった経験を持っている。
法隆寺の堂塔に使われている木材は、鎌倉時代頃からケヤキがいくらか使われ始めるが、それ以前はヒノキしか使われていない。太くて大きい柱には樹齢2000年以上のヒノキの巨木を使っている。ヒノキは木目がまっすぐに通っていて、材質は緻密、軽軟、粘りがあって、虫害にも、雨水や湿気にも強い。このヒノキを隅から隅まで使ったことで、法隆寺は世界最古の木造建築として1300年を生き抜き、なお丈夫に建っている。昔の日本人は幾多の自然災害の経験をつうじて、大陸の建築技術が渡来する前からその性質を知っていたのだろうというのが西岡氏の意見だ。
しかもヒノキはまだ生きていた。昭和大修理のとき、軒を支える構架材のヒノキが屋根の重みでかなり曲がって垂れ下がっていたが、瓦や屋根を下ろしたら、曲がっていた垂木が2、3日するうちに元の姿に戻った。また、ヒノキの表面を2、3㍉ほどカンナで削ると、ヒノキ特有の芳香がただよってきたという。樹木は伐られたとき第一の生を絶つが、建物に使われると第二の生が始まって、その後何百年と生き続ける力をもっていると西岡氏はいう。
これについて小原氏も、木は伐り倒されてから200~300年までの間は、曲げ強さや硬度がじわじわと上がって2割程度上昇する。その後、弱くなり始めるが、今の法隆寺の柱の強さは新材とほぼ同じ。これが鉄など無機系の材料と生物材料との大きな違いなのだとのべている。
そのためには伐り出した木は3~10年程度、池や川に浸して寝かせ、成育に必要だった樹液をしぼりとってしまわなければならない。それによって、自然の木から建物の木に生まれ変わるための体質改善をするわけだが、戦後は人工的な熱で樹液をとり去る「高周波乾燥」方式がとられたため、木の命を1000年はおろか数十年に縮める結果になっているという。
また、法隆寺の五重塔は、心柱は土中にしっかりと食い込ませるとともに、木と木のつなぎ目は柔らかく、人体の関節の役目をはたすようにつくりあげている。こうして地震や台風などの自然の力をうまく分散させて、弱めてしまう軟構造になっている。
この「飛鳥人のひらめき」は、風にしなっては戻り、また元のまっすぐな状態で立ち続ける身近な大樹から得られた発想に違いないと西岡氏はのべている。
著者の二人が語る内容は、日本人が長年月にわたってこの島国の自然と格闘してきた結果得られた成果であり、次の世代に継承すべきものだ。一方、それに反して戦後の高度成長からバブル崩壊をへた日本社会は、安い外材の輸入に舵を切って国内の森林を荒廃させるとともに、途上国の森林を禿げ山にしてはばからず、需要をはるかに上回るタワーマンションを建設し続けて首都圏を災害に対してきわめて脆弱な都市に変えている。こうした自然に対する傲慢な姿勢がしっぺ返しをくらうのかも知れない。
(NHK出版発行、B6判・238ページ、定価1300円+税)
法隆寺に使われているヒノキの話、宮大工さんのご苦労、
今の経済優先の社会に大きな示唆を与えるとても良いお話ですね。
先人の知恵には驚くばかりです。