山口県大津郡仙崎に生まれ、20歳のとき下関に来て現存する512編の詩のほとんどをここで書いた、すぐれた詩人・金子みすゞ(1903~30年)。彼女の詩は、没後70年たったいまも、人人の心を揺さぶってやまないし、下関や山口県では郷土の生んだ詩人として深い愛着を持たれている。ここ数年来は、県内の小学校や幼稚園・保育園でも積極的に活用され、子どもの共感を呼んでいる。金子みすゞの詩のなにが人人の心を打ってやまないのか、なにが共感を呼んでいるのか。今回はこれについて考えてみたい。
朝焼小焼だ
大漁だ
大羽鰮(いわし)の
大漁だ。
浜は祭りの
ようだけど
海のなかでは
何萬(まん)の
鰮のとむらい
するだろう。
金子みすゞの詩のなかでいちばん好きな詩は?と問われて多くの人があげるのは、この『大漁』(1924年発表)である。
朝の浜辺はあたり一面、網で揚げられたいわしの山で、「大漁だ、大漁だ」とお祭りのような騒ぎ。人人の喜びと活気あふれる漁村風景である。だが、みすゞの目はそこから一転、海のなかのいわしたちの葬式に光を当てている。
虐げられた者へ温い眼差し
現存する彼女の詩・512編をとおして読んで気づくことだが、こうした弱いもの、しいたげられたもの、貧しいものにたいする彼女のいたわり、あたたかい眼差しは終始一貫したものである。そして読むものの心がそのように動くところに共感があるのである。
しかもそれは、強いもの、きらびやかなもの、表面的なものとの対比、矛盾として弱いもののもつ営みを描き出しており、そうすることで「日ごろ気づかなかったことにハッと気づかされる」のである。
つぎの『芝草』という詩などは、バカにされても踏みつけられてもたくましく生きる、しいたげられたものの発展性や力強さを激励している。
名は芝草というけれど、
その名をよんだことはない。
それはほんとにつまらない、
みじかいくせに、そこら中、
みちの上まではみ出して、
力いっぱいりきんでも、
とても抜けない、つよい草。
げんげは紅い花が咲く、
すみれは葉までやさしいよ。
かんざし草はかんざしに、
京びななんかは笛になる。
けれどももしか原っぱが、
そんな草たちばかしなら、
あそびつかれたわたし等は、
どこへ腰かけ、どこへ寝よう。
青い、丈夫な、やわらかな、
たのしいねどこよ、芝草よ。
こうしたみすゞのあたたかい眼差しは、なんのむくいも求めず、ただ人のために自分の仕事をコツコツとはたす、名もない存在のすばらしさを、身近な土や太陽などにこと寄せて称揚している。そういうところに「見えないけれどもあるんだよ」というみすゞの、表面的なまやかしにごまかされず物事の真実を見ていこうとする、人間と人生にたいする深い洞察がうかがわれる。だから読むものが、自分の生活を反省させられたり、生きる道を激励されたりするのである。
『土と草』
母さん知らぬ
草の子を、
なん千萬の
草の子を、
土はひとりで
育てます。
草があおあお
茂ったら、
土はかくれて
しまうのに。
『日の光』
おてんと様のお使いが
揃って空をたちました。
みちで出逢ったみなみ風、
(何しに、どこへ。)とききました。
一人は答えていいました。
(この「明るさ」を地に撒くの、
みんながお仕事できるよう。)
一人はさもさも嬉しそう。
(私はお花を咲かせるの、
世界をたのしくするために。)
一人はやさしく、おとなしく、
(私は清いたましいの、
のぼる反り橋かけるのよ。)
残った一人はさみしそう。
(私は「影」をつくるため、
やっぱり一しょにまいります。)
真実追求する美しい生き方
つぎの『お魚』という詩は、幼稚園などでもよく読まれるという。一部には魚と人間を対立させ、「魚の自由を奪う人間の罪」「地球環境保護」と読む読み方もあるようだが、それはまったくの見当はずれであり、目先三寸の政治にみすゞの詩を利用しようとするものである。みすゞの一連の詩に親しむものは、それがだれにも養われることなく、ただ人人を支えるために生きていく、その生き方の美しさ、たくましさを称揚するやさしさだとわかるであろう。
海の魚はかわいそう。
お米は人につくられる、
牛は牧場で飼われてる、
鯉もお池で麩(ふ)を貰(もら)う。
けれども海のお魚は
なんにも世話にならないし
いたずら一つしないのに
こうして私に食べられる。
ほんとに魚はかわいそう。
みすゞの詩のなかには、みずからを子どもの視点にすえて、「それからどうしたの。つぎはどうなったの……」とかぎりなく疑問を追求する知的好奇心の開花や、父や母にたいする深い思慕の情、絶大な信頼感を表現したものが多い。それは、幼少期へのたんなるノスタルジー(懐古趣味)ではなく、立ち止まったり後退したりせずにつねに前をむいて生きていこう、正しいことはどこまでも追求していこう、親や兄弟、仲間に深い愛情を持って生きていこう--というもので、世間の流れに流されて真実が見えなくされている大人への、痛烈な批判であろう。
『不思議』
私は不思議でたまらない、
黒い雲からふる雨が、
銀にひかっていることが。
私は不思議でたまらない、
青い桑の葉たべている、
蚕が白くなることが。
私は不思議でたまらない、
だれもいじらぬ夕顔が、
ひとりでぱらりと開くのが。
私は不思議でたまらない、
誰にきいても笑ってて、
あたりまえだ、ということが。
『ひろいお空』
私はいつか出てみたい、
ひろいひろいお空の下へ。
町でみるのは長い空、
天の川さえ屋根から屋根へ。
いつか一度は出てみたい、
その川下の川下の、
海へ出てゆくところまで、
みんな一目にみえる所(とこ)へ。
『こころ』
お母さまは
大人で大きいけれど。
お母さまの
おこころはちいさい。
だって、お母さまはいいました、
ちいさい私でいっぱいだって。
私は子供で
ちいさいけれど、
ちいさい私の
こころは大きい。
だって、大きいお母さまで、
まだいっぱいにならないで、
いろんな事をおもうから。
幾多の苦しみ薄幸な人生
多くの人人の心を打つこのみすゞの「やさしさ」は、みすゞの全人生ときりはなすことはできない。
みすゞの父・庄之助は、清国(中国)にできた上山文英堂書店の支店長となり、1906年みすゞが3歳のときに現地で殺される。おりしも、1905年の日露戦争後の反日機運の高まりのなかでである。そして生後間もない弟が、上山文英堂店主の養子に出され、女学校にあがるころには母もそこに後妻に入り、兄と祖母の3人暮らしになる。みすゞの詩にひんぱんに出てくる「さびしさ」は、こうした自己の生活実感を根に持っている。
世間は日露、第一次大戦で「勝った、勝った」のお祭りであったであろうが、みすゞの生活は悲しいお葬式と、一家離散の不幸な日日であった。そしてそれは、同時代を生きた多くの人人にも共通の経験ではなかったか。
しかも、下関の上山文英堂で働きながら詩人として頭角をあらわしはじめたみすゞが、結婚させられた相手は、女遊びが派手な放蕩もので、みすゞは詩も文通も禁止されたあげくに、病気をうつされ、みずから生命を絶つという、薄幸このうえない境遇であった。
みすゞの詩作に貫かれた弱いものにたいするやさしさやいたわり、雑草のような強さへの激励というものは、人間や人生にたいするつきつめた、深い洞察がなければそれはけっしてできないことであろう。
みすゞの詩に『繭(まゆ)と墓』がある。
蚕は繭に
はいります、
きゅうくつそうな
あの繭に。
けれど蚕は
うれしかろ、
蝶々になって
飛べるのよ。
人はお墓へ
はいります、
暗いさみしい
あの墓へ。
そしていい子は
翅(はね)が生え、
天使になって
飛べるのよ。
みすゞの師である童謡詩人・西条八十は、この詩はみすゞがみずから命を絶つまえの「絶唱」であるといっている。当時の日本の、婦人がおかれていた地位のもとで、古いものと血にまみれて、芸術家でしかできない非妥協さでたたかいながら、つぎの世代にたくす気持ちをうたったと、わたしにも思えてならない。
みすゞは幾多の苦しみをへて薄幸な人生に終わったが、彼女が残した多くの作品が、いま、時代の大きな変化と矛盾、葛藤(かっとう)のなかに生きるわたしたちの胸に、深くしみいらずにはいないのも、そうしたところに根拠があるのではないか。
いまこそすぐれた詩人である金子みすゞの評価を正当におこなうときであると思う。この点で、「金持ちのお嬢さんに育ち、その子どものような世間知らずから、生きとし生けるものすべてに愛情をそそいだ」などと、なにかメルヘンチックに中身のない軽薄さで描くという誤ったみすゞ像は、正面から批判されなければならないと思う。