みすゞさんは、あのご年齢であのような純真な詩をよく書かれたと思います。そこには家庭の問題などいろんな苦労をされたこともありましょうが、子どものような汚れのない美しい詩心で、素直なやさしい言葉でずっと書きつづけられたことは驚きです。また、みすゞさんが小さいころからその下地となるような勉強や環境のなかで育ってこられたのでなければ、あのような詩はできなかったようにも思うのです。
短歌を志してきたわたしなどは、自分が見たままをうたうことのむつかしさを痛感しています。子どものように見たこと感じたことをそのまま表現することはなかなかできません。よきにしろあしきにしろどうしても自分の心象が入るのです。
子どもの感性は鋭いものがあり、その感じ方は新鮮なものがあります。「死んだおじいちゃんは星になったのよ」と聞かされた幼子が、夜空を見て「おじいちゃんの星は大きくなってお月様になった」といったりします。また、空に浮いている風船を見て、「お日さまが風船になって落ちてきた」といいます。このように子どもは自分で感じたことをそのまま言葉で表現できるのです。
みすゞさんは、子どものような感じ方で書かれていますが、ただ書きつらねておられるのではありません。なんでもないようなところにほんとうの気持ちが、きれいな形で入っています。
大漁
朝焼け小焼けだ
大漁だ
大羽鰮(いわし)
の大漁だ。
浜は祭のようだけど
海のなかでは何萬(まん)の
鰮のとむらい
するだろう。
この詩でも、大漁のうれしさをあらわしながら、海のなかでとむらいをする魚へのあわれみ、かわいそうという思いをうたっています。みすゞさんの詩には、このようにわかりやすくうたいながら最後のところで意表をついたように、ほんとうの気持ちをうたった詩が多いのです。こうして多くの人をひきつけながら、不運ななかでも悲しみばかりではない、うれしいことや楽しみばかりでないということを愛情をこめてうたい、読むものに深い感動を残してくれるように思います。
いまの日本の文化は、みすゞさんのような邪心がなく純真で人人の心をひきつけるようなものをほとんど見ることがありません。テレビなどを見ても遊びと食べることばかりのように見えます。いまほど、つぎの世代を担う子どもたちにみすゞさんの詩を聞かせ、読ませて、美しい心を大きくはぐくんでいくことがたいせつなときはないように思います。
みすゞさんの詩は言葉もわかりやすく、幼児でも理解できるように思います。わたしは、これまで子どもたちの前で被爆の体験を話してきましたが、小さい子どもほど一生懸命聞いていて、雑念がないことを痛感します。「三つ子の魂百まで」といいますが、とくに幼い子どもたちの胸のなかに染み入らせることができるよう願っています。
子どもたちを中心にしたみすゞ祭の企画は、ほんとうにうれしいことです。わたしたちも参加できればと胸をふくらませています