金子みすゞの生誕100周年を記念しておこなわれた下関の「みすゞ祭」は、数千人という広範な市民の参加となったが、それはみすゞがかつて詩作に励んだ街でいかに多くの人に愛されているかを示すとともに、1人のすぐれた詩人の詩と人生を顕彰する運動というものはどうあるべきかについて、貴重な教訓を残した。
みすゞ祭当日はさまざまな催しがあったが、とりわけ多くの人人が注目し心を動かしたのは、みすゞの詩を読んでその感動を素直に絵であらわした子どもたちの作品であった。
ここで語られていることは、まずみすゞの詩そのもののすばらしさである。「大漁」などの有名な詩以外は、子どもたちの絵のなかにある詩を見てはじめて知る人が多かったが、それを声に出して読みながら詩に魅了されていったし、その詩がまた子どもたちの力を引き出したのだと納得されていた。同時に、殺伐とした社会に生きるいまの子どもたちが、みすゞの詩をよく読んで詩の心をしっかりと受けとめ、その感動をストレートに表現していることへの驚きが語られている。それは次代を担う世代への期待をこめたものである。
みすゞの詩は「わかりやすい」と多くの人がいう。それはみすゞの詩が、頭のなかの観念からつくり出したものではなく、生活に根ざしたものであり、その薄幸な人生のなかで自己犠牲的に生きたことからにじみ出たものだからである。だから戦中・戦後を生きてきた年配者から「わたしたちがみんな経験してきたことを言葉にしている」といわれる。
と同時にそれは、卑俗なわかりやすさでなく、母親や兄弟への思いやりからはじまり、弱いもの、貧しいものへの温かいまなざしが息づいており、しかも弱いと見えるものの強さ、未来にむかって伸びる発展性を称揚している。日本のこの地方の人人が長いあいだ積み重ねてきた生活が、その喜びと悲しみのありようが、みすゞの詩でいきいきとした形象を与えられたと受けとめられており、戦後のアメリカナイズされた社会のなかで失われた、子ども・父母・祖父母の3世代のきずなを強めるものだと喜ばれている。子どもたちが明るい色彩で描いていることにも多く共感が寄せられたが、みすゞの詩に明るさや強さを感じるという感想も共通していた。
展示会場には、もう一方の解決すべき傾向も出ていた。それは、タイトルにみすゞをうたっているだけでみすゞの存在はなく、奇をてらい自分の頭のなかの観念でこねくり回したものや、マスコミの流すみすゞ像の影響で「男に失敗して自殺した」みすゞの暗さ、弱さを描いたものであった。こうした作品は訪れた人人に支持されなかった。なぜかといえば、それは人人の心をとらえているみすゞの詩そのものから離れているからであり、作者自身がみすゞの詩への感動がなく、たんに自分個人の思いを表現しているだけだからである。
つまりこれらのことは、金子みすゞ顕彰の方向として、あたりまえのことのようであるが、みすゞの詩そのものを広く紹介し、みんなでそれを鑑賞し、その感動を純粋に素直に表現することが、多くの人人に支持されたということである。「みすゞ祭はわたしの集大成」というものでは、それは成功することはできなかった。
みすゞ祭に来た人人は、子どもたちの絵を見て、なんと素直なみすゞ顕彰であるかと目を見はったが、それが新鮮に感じられるほどいまの社会には、みすゞにことよせて自分の観念の世界をひれきして自分を売り出すようなみすゞの歪曲が、いかにまんえんしているかということである。それは、これほどみすゞブームと騒がれながら、みすゞの詩そのものは意外と知られていないことにもあらわれている。とくに「みすゞの第一発見者」であり「最大の権威」とふるまってきた矢崎節夫氏は、みすゞとその詩作品を独占して金もうけの道具にし、その内容もみすゞの詩とは縁もゆかりもない「みすゞコスモス」など自分の頭で勝手につくりあげた世界を売り出し、映画やテレビに見られるようにみすゞを弟との不倫のあげくに自殺したあばずれ女で、残した子に冷たい女性とねじ曲げて描いてきた。この売名と商業主義がみすゞの顕彰を阻害しているのである。文化・芸術の純粋性を守り、その停滞をうち破ることは今日の大きな課題である。
今回下関では、みすゞの詩そのものを広く普及して大衆的に、純粋に鑑賞する方向が圧倒的に支持された。マスコミをバックにした矢崎氏らの方向が実践的にうち破られていったし、多くの市民がこの方向を願っていることが証明された。この下関でおこなわれた真のみすゞ顕彰の方向は、今後長門をはじめ全県に広がっていくにちがいない。