いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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詩人礒永秀雄の顕彰運動を 没後40周年にあたって

礒永秀雄(1971年~1976年)

 日本人民の魂を歌った詩人・礒永秀雄が逝去して40年を迎える。

 

 礒永秀雄は学徒出陣で南方に送られ九死に一生を得て帰ってきた戦争体験から、1950年、山口県光市で駱駝詩社を創設し、55歳でその短い生涯を終えるまで、数数の詩や童話、小説、エッセイなどすぐれた作品を発表した。それは人人の生活の糧となり、彼の死後も子どもたちから戦争体験世代まで多くの人人に深い感動を与え、平和運動に大きく貢献してきた。

 

 今国内外で資本主義の行き詰まりがあらわになり、与野党含め既成政党の権威は崩壊し、広範な大衆を代表する新しい政治勢力が渇望されている。戦争の危機が高まるなかで、「なぜ戦争は起こるのか」「どうやったら阻止できるのか」という鋭い問題意識が広がっている。

 

 そうしたなかで、腐り切った崩壊を権力者のなかに見てとり、無名の幾千万人民大衆の持つ生命力に未来を見出し、それに惜しみない賞讃を捧げた礒永秀雄の作品は、新しい時代を切り開こうとする人人を励まし、斬新な芸術創造の方向を指し示すものである。年末に向けて、礒永秀雄の芸術の顕彰運動を各界各層のなかでおおいに広げることが期待されている。

 
 まやかし許さず戦争起こす者に決着迫る


 およそ詩というものは、難しいもの、社会と無縁な詩人たちの独白めいたもの、という印象を持たれることが多い。しかし礒永秀雄の詩や童話は、一部の詩人や文学愛好家にとどまらず、普段は詩や文学とは無縁な一般の労働者や商店主、また子どもたちから青年学生、婦人、年配者まで広範な人人に読み継がれてきた。没後5年ごとに開催されてきた詩祭は、1999年の「礒永秀雄の世界展」で骨格が定まり、25周年、30周年、35周年とその詩業を顕彰する大衆的な運動となってきた。その作品は今日、ますます生命力を増している。


 礒永秀雄は太平洋戦争の末期、学徒臨時徴集でニューギニアの手前・ハルマヘラ島に追いやられ、みずから斬り込み部隊要員として生死の境をくぐり、飢えや病気で無残に死んでいく戦友を目のあたりにし、敗戦によって自分だけが生き残って日本の土を踏んだとき、生涯詩人として生きることを決意したと、くり返し語っている。それは彼個人の深刻な経験であるだけでなく、同じように戦地で肉親を飢えや病気によって殺され、原爆や空襲でさんざんな目にあわされた同時代の日本人民の心情を代表するものであった。


 礒永はみずからが歩んだ道のりを、いつも戦死者たちの魂からさし測ったし、思想の真実性を戦争体験の重みにおいて堅持した。そして戦後、占領者アメリカから投げ与えられたみせかけの「自由と民主主義」、それに侵されて戦地体験者を「犬死に」「加害者」と蔑視し「個の解放」を求める「革新勢力」と一線を画して、「あらゆるまやかしを拒否する側」に立って大衆の側から詩業を続けた。それは社会の片隅にうずくまり一部のインテリのなぐさみものとなった「現代詩」、商業主義に毒され真実を失った東京中心の詩壇と決別し、山口県に腰を据えて地方現実へ迫る創作姿勢を堅持することと一体のものであった。


 当初、礒永は抒情詩人であった。しかし日本の再軍備という「冷たい現実の平手打ち」を受けて甘美な抒情世界と決別し、朝鮮戦争の年の1950年に『駱駝』を創刊した。そして1955年、創刊まもない長周新聞と出会う。その直後に長周新聞に「現代詩の根本問題について」を発表した。そこで彼は、戦後日本はアメリカの支配のもとで表向きの明るさとは裏腹に生活はいよいよ暗い根を張り始めており、「こうした歴史的な社会のなかで、少なくとも現代詩を口にする場合、この社会情勢と無縁な詩を書く事は、どの良心もが許さない」「私たちは詩人である前にまず人間であり、社会人であり、誰彼と変わらない存在なのだ。ただ自分の生き方を示す一つの方法として詩を書いている」と書き、「私はやはり何らかの意味で役に立つ詩を、と願う。そしてそれは少数よりも多数の人人に役立つ詩をと願う」と再出発の宣言をおこなっている。長周新聞を媒介として大衆との一貫した結びつきを持ったことが彼の詩業に飛躍をもたらすこととなった。


 50年代後半の長周新聞紙上での文芸座談会は、芸術創造や芸術運動上にあらわれてくる諸問題を通して、戦後日本社会を覆っていた「まやかし」のベールをはぎとるうえで重要な役割を果たした。アメリカ式消費文化があふれるなかで、社会的テーマへの迫りそのものを失い「花や雲」をうたう方向に流れる俗物主義とたたかって、地方で生活する人間を社会的歴史的にとらえるリアリズムの方向を鮮明にした。それをもっとも芸術に昇華させたのが、礒永秀雄であった。


 礒永は、戦後最大の政治斗争となった60年「安保」斗争の真っ只中で「修羅街挽歌」や「八月の審判」「輪姦」などの作品を生み出し、「極限の場において観賞に耐えうる芸術」を追求する基盤を築いた。「楽しいのは誰?」「ちょっと待て」などの詩や、「四角い窓とまるい窓」などの童話は、「高度成長期」にふりまかれた繁栄ムードのまやかしを勤労人民の感情を代表して風刺している。それはさらに「安保」以後の挫折ムードに警鐘を鳴らす「虎」、“共産党”の看板を掲げて腐っていく「自称革命の戦士たち」をあばく「こがらしの中で」「ただいま臨終!」などの反修詩のあいつぐ発表につながっていく。彼は、詩は政治の道具ではなく、真実の叫びであることを身を持って示した。


 そうした蓄積のうえに、六千余日を風雪もいとわず、毎朝部落のはずれの老人の所まで一かつぎの水を運び続ける親子を描く「一かつぎの水」などを収録した『訪中詩集・燃える海』(1973年)が生まれ、詩集としては異例の5000冊が勤労人民に求められた。そして晩年、人民大衆のなかにこそ新しい社会をつくる力量が十分に蓄えられていることを凝縮して形象し、楽天的ななかに格調高くうたう「夕焼けの空を見ると」「夜が明ける」「新しい火の山に想う」などの作品を次次に生み出しそれは今も愛唱されている。このことを礒永は「民衆文学の序章」のなかで、「文学の河すじも、うらぶれた告白から民衆の幸福を讃える側へと、変わっていかねばならぬ」と表現している。

 今の時代に増す生命力

 礒永秀雄の作品と詩精神は、戦後71年をへて、ますますその生命力を増している。資本主義社会の腐朽と衰退が進行し、日本社会の植民地的な荒廃がむき出しとなり、人を人とも思わぬ強欲で破滅的なイデオロギーがまん延する一方で、「時代は変わる」と世界でも日本でも人人が大規模に行動に立ち上がっている。そうしたなかで礒永作品は、たくましい生産人民の生活と気分・感情をその葛藤においていきいきと発展的に描き、戦争を阻止して新しい社会を建設する側へ人人の魂を組織してやまない。


 礒永秀雄は、ランボオ、中原中也、宮沢賢治について語り、古今東西の詩人・芸術家について深い理解を示し、そこから豊富なものを学びとっている。また、太平洋戦争という支配階級による犯罪的戦争を身をもって経験した一人の誠実な人間として、あるいは人民の芸術家として、戦後の社会を戦前を引き継いではいるが同時に新しい特徴をもっているものととらえ、腐りきった崩壊を支配階級のなかに見てとり、立ち上がっていく人民の生命力に未来を見出し、それに惜しみない賞讃を捧げた。この新鮮な時代意識を今に継承することが求められている。


 礒永の作品と詩精神は、平和運動に大きな貢献をしてきたし、青少年を奮起させ、新しい芸術創造の道を指し示してきた。今日、さらにその力を発揮する時期にきている。戦後、多くの詩人たちが「投げ与えられた自由」を謳歌しているとき、礒永は戦争で死んでいった死者たちになり代わってその怒りと悲しみをうたい、戦争をひき起こした者を告発し続けた。人人が「高度成長」の繁栄ムードのなかで楽しそうに過ごしているとき、礒永の目にはそれは苦しそうな姿に見えた。そして「高度成長」が破産し、再び戦争の危機が高まるなかで、「いよいよ世紀の長征がはじまる」「爆発的な歓喜で未来を拓く」「こころがおどってやまない」とうたう。


 戦後、平和な時期に平和をうたった詩人は多い。だが今、平和を全身でうたい切る詩人がどれだけいるだろう。戦争をひき起こすものへの決着を迫る側から、また未来を建設する側からうたい切る詩人が今ほど求められているときはない。


 礒永秀雄没40周年を記念して、礒永作品をさらに広範な人人に届け、観賞しあい、その業績を顕彰する運動を発展させることは、きわめて重要な意義を持っている。

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