いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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革命的行動を支えた思想  高杉晋作の漢詩に見る

明治維新と高杉晋作の正統な顕彰をすすめるうえで、高杉晋作が残した詩(漢詩)を紹介したい。高杉が活動した時代は、徳川幕藩体制による封建制度の矛盾が激化の一途をたどり、百姓一揆は全国いたるところに燃え広がった時代であり、他方では欧米列強の侵略の波が重なりあうようにして日本に押し寄せ、これに幕府が屈従的な条約を結ぶという、歴史の転換期であった。この古いものと新しいものとの根本的なたたかいの時期、民族の独立を守りぬくとともに、徳川幕藩体制を打倒して近代統一国家の建設へとすすめた高杉の、その革命的行動を支えた思想を、かれが残した漢詩から探ることができる。高杉は約370の漢詩、また俳句その他を残しているが、そのなかから読みとれるのは、かれが「君(藩主)への忠」「親への孝」という古い封建的な思想とたたかい、それを乗りこえて日本民族の独立を守り、また屈辱的な外交をおこなう幕府を倒して、歴史を発展させるために犠牲を恐れずたたかう立場へと飛躍していることである。

 

 ▼嘉永4(1851)年、高杉晋作は12歳で藩校・明倫館に入学した。つぎの詩は、藩校は道具立てばかりはととのっているが内容がなく腐敗していることを批判した、高杉10代のころの詩である。

 

 自笑
百年如一夢
何以得歓娯
自笑平生拙
区区学腐儒

 

 自ら笑う
百年一夢の如し
何をもってか歓娯を得ん
自ら笑う平生(へいぜい)の拙(せつ)
区区として腐儒を学ぶ

 

 人生は長くても100年には過ぎない、その100年も一夢のごとくに過ぎ去るのである。その夢のような一生はどうしたら喜び楽しんで暮らせるか。それなのにとりとめもなく腐れ儒者の真似をしてなにもすることがない。それをあざ笑う日日のおろかなことよ。

 

 ▼周囲の反対を押しきって国事犯・吉田松陰の開く松下村塾にひそかにかよいはじめた高杉晋作は、安政6(1859)年5月、19歳のとき、品川弥二郎に洋学修行のため外遊をあっせんしてくれるよう頼んだ。その手紙の追伸としてそえた詩と歌。

 

 録拙吟以搏思父品兄一粲


事業未成年月流
梅松叢裏一榛荊
満腔悲憤熱腸裂
空向親朋訴寸誠


 翼あらば千里の外も飛びめぐり
 万(よろず)の国を見しとしぞおもふ

 

 拙吟を録してもって思父
 品兄の一粲(いっさん)を搏(う)つ

 

事業いまだ成らずして年月流る

梅松叢裏の一榛荊(しんけい)

満腔の悲憤熱腸裂く
むなしく親朋に向って寸誠を訴う

 

 つまらぬ詩を書いて品川兄(弥二郎)のお笑い草に歳月は流れるがいまだに事はならない。梅や松の繁るなかの雑木も、あふれでる悲憤は熱く腸を裂く。真情をわずかに友にもらすのみ。
もし私に翼があるなら遠く海外に雄飛し、諸国を見聞してみたいと思うことしきりだ。

 

 ▼万延元(1860)年、江戸の伝馬獄に囚われた松陰と別れ、萩に帰国した後に詠んだ詩。高杉晋作21歳。高杉が萩につくまえに、松陰は処刑されていた。

 

我亦藩屏一介臣
満胸豪気幾時伸
課書読了草堂静
笑殺世間名利人

 

われまた藩屏(ぺい)一介の臣
満胸の豪気いずれの時にか伸びん
課書読み了って草堂静かなり
笑殺す世間名利(みょうり)の人

 

 わたしも一介の藩臣にすぎないが、胸にみなぎる壮志をいつ伸ばすことができようか。日課の書を読み終わってわが家は静か、功名や利欲のみを求める者をあざ笑って退ける。

 

 ▼高杉晋作は文久2(1862)年の5月6日から7月5日までの2カ月、幕使随員として清朝の上海を視察した。22歳のときであった。高杉は上海に行って、上海が英・仏などの植民地同然になっていること、それと同じ状態を日本に現出させてはならないことを痛感して帰国した。


 その上海で、清の軍隊が太鼓をたたき、旧式の中国銃を使って練兵をしているのを見て詠んだ詩。

 

 鎗銃轟空暁月明
 鼓声先報道台城
 自許皇国刀鋒鋭
 五大洲中可獨行

 

 鎗銃空に轟いて暁月(ぎょうげつ)明なり
 鼓声まず報じて台城に道(みちび)く
 自ら皇国に許す刀鋒(とうほう)の鋭
 五大洲中独り行くべし

 

 銃声とどろく空に有明の月は明るく、清兵は鼓を打って台場を進んでいく。わが皇国は鋭い刀(すぐれた近代兵器)を振りかざして、五大州中を1人闊(かっ)歩すべきだ。

 

 ▼帰国した高杉晋作は、時流に便乗し功名心からいたずらに「攘夷」を叫ぶやからを批判。藩主にたいして「防長割拠」「富国強兵」を訴えるがいれられず、脱藩亡命して外から衝撃を与えようとする。脱藩亡命は謀叛と同じくらい重い罪であるが、それをあえて踏みこえて行動に出た。23歳。

 

 官禄於吾塵土軽
 笑抛官禄向東行
 見他世上勤王士
 半是貪功半利名

 

 官禄吾に於いて塵土より軽し
 笑って官禄を抛(なげう)ち東へ向かって行く
 他の世上勤王の士を見れば
 半ばこれ功をむさぼり半ばは名を利す

 

 自分にとって官禄は塵や土よりも軽い。だからそれをなげうって東に向かっていくのである。それもこれも勤王のため、日本の国のためであるが、世間を見わたすに勤王の志士と自称するやから、功をむさぼり利益や名声を博するためにする人人ばかりで、真の勤王の志士は少ない。

 

 ▼元治元(1864)年1月、24歳のとき高杉晋作は、京都出兵にはやる長州藩の方向に異議をとなえ、軍隊を率いる来島又兵衛が説得に応じないので、「拙者は御割拠も真の御割拠が得意なり。進発も真の進発が得意なり。ウハの割拠は不得意なり。ウハの進発は聞くも腹が立つなり」といって、無断で久坂らのいる大阪・京都方面に止めに行ったために投獄される。そのとき、来島又兵衛のもとにおいていった詩。

 

 自作不忠不孝人
 欲令国政為維新
 笑他俗吏凡心老
 時好習来称

 

 自ら不忠不孝の人と作(な)り
 国政をして維新たらしめんと欲す
 他の俗吏の凡心老いたるを笑う
 時好習来臣(じんしん)と称す

 

 みずからあえて不忠不孝をおかしても、国政を一新しようとするのだ。心が朽ち果てた俗吏どもが、時流に媚(こ)びて忠臣と自称するのは笑止千万。

 

 ▼同年3月、萩の野山獄に投ぜられた高杉晋作は、80余日の獄中、1日一編の割合で詩をつくっている。4月11日の詩は、武士道的死生観をこえた吉田松陰の教え「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」と重なって読める。

 

 偸生決死任時宜
 不患世人論是非
 嘗在先師寄我語
 回頭追思涙空垂

 

 生を偸(ぬす)むも死を決するも時宜に任す
 世人の是非を論ずるをうれえず
 かつて先師のわれに寄するの語あり
 頭をめぐらして追思すれば涙むなしく垂る

 

 命を惜しむも死を決するも時代の要請にまかせ、世の人が是非を論ずることなど気にするな。かつて先師はそう諭(さと)された。思い起こせばいまはただ涙あるのみ。

 

 そのほか、野山獄中でつくった詩二編。

 

 為国破産家亦軽
 不辞世上喚狂生
 友人猶有不忘義
 昨日門頭呼我名

 

 国のために産を破るも家また軽ろし
 世上の狂生と喚ぶを辞せず
 友人になお義を忘れざるあり
 昨日門頭に我が名を呼ぶ

 

 国家のために家はつぶれてしまっても、家は軽いものである。世間の人が狂生とよぼうが、それもかまわない。旧知の人のなかに情誼(ぎ)をもっている人がいて、昨日獄門へ来てわたしの安否をたずねてくれた。

 

 天下滔滔多諂臣
 直言誰敢擲吾身
 披書看至朱明事
 也有幽囚読易人

 

 天下滔滔(とうとう)として諂臣(こんしん)多し
 直言誰か敢えてわが身を擲(なげう)たん
 書をひらき看(み)て朱明のことにいたれば
 また幽囚易を読むの人あり

 

 世の中には君主にへつらう家来が多い。直言して君主に逆らって身を捨てるものはきわめて少ない。歴史を読んで明のことになると、明の世にも讒(ざん)言のために牢屋に入れられて易書を読んでいた人があった。

 

 ▼元治元(1864)年、禁門の変で長州藩が敗退すると、幕府の征長軍が出発、4カ国連合艦隊は下関に迫り、藩政は幕府に屈服する俗論派に握られた。その10月に詠んだ詩から一編。高杉25歳、同月5日には長男の梅之進が生まれたばかりであった。

 

 内憂外患迫吾洲
 正是邦家存亡秋
 将立回天回運策
 捨親捨子亦何悲

 

 内憂外患わが洲に迫る
 まさにこれ邦家存亡の秋(とき)
 まさに回天回運の策を立てんとす
 親を捨て子を捨つるまた何ぞ悲しまん

 

 国内は乱れ外敵は来るという、日本の国家存亡のときである。いままさに天下の形勢を一変させる策を立てるときで、親を捨て子を捨てることがあってもなんで悲しもうか。

 

 ▼10月25日、高杉は捕吏をかろうじてのがれて萩を脱出した。そのときに詠んだ詩。

 

 捨親去国向天涯
 必竟斯心莫世知
 自古人間蓋棺定
 豈将口舌防嘲譏

 

 親を捨て国を去って天涯に向かう
 必竟(ひっきょう)この心世は知るなし
 古(いにしえ)より人間棺に蓋(ふた)して定まる
 あに口舌をもって嘲譏(ちょうき)を防がんや

 

 親を捨て故国を去って逃れゆく、この心世にだれ一人知るものはない。昔から、人間は棺に蓋(ふた)をして値打ちが決まるというではないか。あざけりやそしりになんのいい開きをしよう。

 

 ▼同年12月15日、高杉晋作は俗論派の占拠した藩政府軍をうち倒そうと、長府功山寺でわずか80人余で決起した。この直後、高杉は白石正一郎の末弟・大庭伝七にあてて手紙を書いたが、その最後につぎの詩がある。萩の藩政府から追討を受けることは覚悟のうえで、あえて主君の城に弓を引く、高杉のなみなみならぬ決意が読みとれる。

 

 売国囚君無不至
 捨生取義是斯辰
 天祥高節成功略
 欲学二人作一人

 

 国を売り君を囚(とら)え至らざるなし
 生を捨て義を取るはこれこの辰(あした)
 天祥の高節成功の略
 二人を学んで一人と作(な)らんと欲す

 

 国を売り主君をとらえて俗論派は暴虐をきわめている。命を捨てて義をつくすのはまさにこのときである。文天祥(南宋の忠臣)の高節と鄭成功(清に抗した明の謀臣)の策略と、2人に学んで1人でなさねばならぬのだ。

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