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学校に教師が足りない! 学期ごとに替わる担任 高齢退職者なしでは成り立たず 山口県や北九州の現場で聞く学校の実情

(2024年11月20日付掲載)

鈴なりになって肋木の練習に励む小学生たち

 義務教育の現場で教師が足りず、担任の先生が学期ごとに替わったり、授業が受けられない状況が生まれている。この10年間で経験豊富なベテラン教員が大量に退職し、補填するように20~30代の若手教員の割合が急増して年齢構成も変化する一方で、国や文科省が「教員は働きすぎだ」「ブラックだ」と煽っていることと関わって教員の志願者は激減し、人を増やすための投資がほとんどなされず、教育を担い支える人材がいない状態が深刻化している。学校現場は今どうなっているのか。山口県下や北九州市の実情から考えてみた。

 

予算も少なく軽んじられる子どもの教育

 

  今、公立の小・中学校の現場で「産休・育休をとる先生の代わりの講師がいない(見つからない)」「本来の配置より2人少ない体制で、なんとかやりくりしているが、近隣校も似た状況で、感覚が麻痺している」「やっと講師の先生が見つかった。もうすぐ70歳の方にも現場に立ってもらわないといけない」「病気休職の代わりの先生が来ないので、教頭が学級担任を兼ねている」といった実情があちこちから聞こえてくる。

 

 B これは県内のある小学校の具体的事例だ。70歳目前のベテラン教員は、ある教科の代替で週3回10時間ほど学校で教えていた。ところが12月から特別支援の先生の病休が出たため、教頭から「特別支援に入ってほしい」といわれ、週4日ほど働くことになった。というのも、すでに教頭は産休に入った先生の代わりに担任をしており、他に人がいないからだ。今、市教委に依頼して、特別支援の先生の配置を要望しているというが、それまでは担当として入るという。

 

 さらに2学期から産休に入る先生の代わりに20代の若い先生が来たが、初日から低学年の子どもたちが荒れて手に負えず、翌日から「怖くて学校に行けない」といって先生が不登校になった。ところが、その日は校外授業で引率が必要だったため、産休中の妊婦の先生が引率に出てきた。そして、その20代の教員は「自分には教師はできない」と数日でやめたという。結局、生徒指導主任でもある教務主任が担任となって回している。

 

 今、とくに低学年が荒れているという。これは仕方のないことだが、20代の子どもを持つ教員が増えているため、自分の子どもが病気をしたら休むことも多い。高学年ならばある程度事情はわかるが、低学年の子どもたちからすると「また先生が休んだ」といって落ち着かなくなるという悪循環も起こっている。

 

 また、教師がさまざまな枠にはめられて、自由に教育ができない実態がある。たとえば持久走大会がおこなわれたときに、親からの苦情が入った。その内容は「だいたい学校が子どもが行きたくないような行事をたくさん組むからいけない」という内容だ。それに対して、教師が「学校教育は苦手なものも得意なものも、失敗しながら努力することで成長していくと思うのですが」というと「今の時代に持久走とか水泳の練習とか必要なのか。私の友だちが都会にいるが、そこの学校は持久走、水泳などという前時代的な行事は中止している。そこで心臓マヒなどの事故が起きたらどう責任をとるつもりか。だから私の子どもは持久走の練習はやらさないし、全校練習がある時は居場所がないので、学校へは行かせない。持久走大会が終わったら考える」という。

 

 教員はそういう親への対応で精神を病んでしまう。そのようにいわれれば「そんなに文句をいうなら、あなたがやれよ」と思うのも当然だが、そこはグッとこらえて子どもの教育をどうするかと対応していくのが課題だという。今、持久走大会の練習がおこなわれているが、子どもたちが教室に戻ったあとにはマスクが運動場に散らばっている。それは学校が子どもたちに「落ちたマスクと鳥の羽は衛生上問題があるから拾ってはいけない」と教えているから拾わないのだそうだ。担任はもちろん管理職も見回りをする余裕がなくて、それらのゴミを拾うのは退職して非常勤で働く先生たちだ。

 

 先生たちの間では、「私たちメイドよね。親と子がお客でサービスを提供するのが先生になっている…」とぼやき、学校を回すのが精一杯の状態のなかで、これでいいのかと悩みながら日々に追われている。この小学校では遅刻して来る子が多く、朝の10時、11時に親が車に乗せて連れてくるのだという。学校も家も完全なる「子ども天国」状態といえる。

 

 そんな荒んだ状態を打開するために、ある学校で経験豊富なベテラン教員が子どもたちに朝の時間に運動をさせるようにしたら、子どもたちが自信をつけて成長しはじめたという。 若い教員たちは「そんなことして、朝から子どもにケガでもさせたらどうなるか」と恐れてできないが、経験のあるベテラン先生の力が発揮されている。

 

 文科省をはじめ社会の風潮として、「体罰はダメ、鍛えるのはダメ、あれもダメ、これもダメ」とがんじがらめにされて、さらに親からのクレームなどの対応で疲弊させられる。手足をもがれて学校現場は深刻だ。要は指導することが否定されているのだ。

 

欠員増加で穴埋め人事  学校行事は縮小

 

  ある小学校では、昨年からの産休が1人おり、今年度は10月に産休に入り、来年2、3月に2人の教員が産休育休に入るという。そうしたなか、10月からの産休に入った教員の代わりは見つかって胸をなで下ろしている。そして前年から産休をとった教員が12月に2年生担任として復帰する予定なのだが、「担任の先生が帰ってきます」というプリントが子どもたちに配られた。ところが子どもたちにとって「担任の先生」は4月から11月まで一緒に学んだ先生だ。愛着がある先生が突然替わることを告げられ泣いた子もいたという。

 

 「大人の事情として12月に復帰すればボーナスが出るからという理由も絡んでいるというが、子どもの気持ちはどうなるのか」という話にもなっているという。2年生の担任が11月で終わる教員は、来年2月から同じ学校の産休代替として1年生のクラスの担任をすることが決まっている。さらに12月~来年1月までの2カ月間は、教育委員会からの要請で別の学校に勤務するという。「2カ月でもいいからぜひ来てほしい。その学校も病休が出て教頭と教務主任が担任を持っている状況」と教育委員会に頼み込まれたそうだ。

 

 1人の教員が小刻みにいろんな移動をしてパズルの穴を埋めるように動いていく。「産休や育休はおめでたい話ではあるが、子どもの気持ちを考えるともう少し教員の配置の仕方を考えた方がよいのではないか。子どもたちが大好きだった先生が、3カ月後に同じ学校の1年生を受け持つ。若い先生が増えていて出産が増えるのはあたりまえだが、臨時採用で済ませているから学校にゆとりがないのだ。学期ごとに担任が替わったりしたら子どもも落ち着かない。その場しのぎでパズルを埋めていく感じでよいのだろうか」と話していた。

 

 C 別の小学校は1年生の担任3人のうち2人が6月に「病休」に入った。1人は新採教員、1人は経験の少ない50代後半の男性教員だった。その代わりに理科と英語の専科の教員が急きょ1年生の担任に入ったが、11月時点で担任が3人目となっている。その間、70代のベテラン教員が宿題の丸付けやテスト採点などの補佐要員で関わって、どうにか回していた。さらに2学期からは、3年担任の20代の新採教員が3週間ほど休んだため、急きょ70代教員が担任代わりのようなことをしてどうにか回した。「目の前に子どもたちがいるのだから、かわいそうだ。担任が休んだからといって子どもたちを放置するわけにいかない」と給与など顧みず、ほとんど善意と使命感だけで関わったという。「もう自転車操業ですよ」という声もあった。

 

 A 山口県下の山陰地域の退職教師には「○○小学校で先生が3人アウトになった」「6年の担任がメンタルをやられて、いま教頭が担任の代わりをしている」という話、「先生の不登校が起こっている」など深刻な状況ばかりが耳に入ってくるという。体育指導などをバリバリやっていた教師たちが「もう何もできない」と嘆いている。都会の学校だから荒れるとか、地方とか僻地とか関係ないということだ。

 

 一方で保育園まで楽しく行っていた小学1年の孫が、4月に小学校に入学してから学校に行きたがらなくなり、1学期は必死で学校に連れて行ったそうだ。学校に行きたくない理由が「学校がおもしろくないから」といわれ、「それを聞いて一理あるなと思った。子どもは素直だから学校がおもしろければ行くだろう。ところが、これだけ子どもの不登校が増えて、先生まで不登校になっている。そもそも学校そのものが危機にある」と指摘していた。

 

 不登校は全国的にも社会問題になっているし、その数は過去最多を更新し続けている。それこそ下関市内の近隣の中学校でも、生徒の1割が不登校という学校だってある。北九州の中学校では350人中60人が不登校になっている学校もあるという。一見、学校は落ち着いているように見えるが、いろんな問題を抱えた子が、学校に来ていないからだそうだ。

 

 今年の5月に本紙で小学校の運動会の廃止・縮小の動きについて「子どもたちを鍛えるのは悪か?」と問題提起した。しっかり運動をさせて身体と心を育てたり、友だちと協力して一つのことを成し遂げる経験がなければ心に響くこともなく、子どもたちも楽しくない。コロナ禍をへて学校行事もどんどん短縮されていき、嫌なことはしなくてもいいという傾向がますます強まるなかで、不登校の増加も深刻になっている。学校に行ってもおもしろくないのだ。

 

  新採教員の補佐をする60代の教員がいっていたが、「自分たちのときは、逆上がりでも勉強でも子どもたちが“できた”と喜んで成長する瞬間に立ち会えるのが、最高のご褒美だった。それはお金に換えられない。だからやってこれたし、今でも教え子たちとの関係が続く。若い先生たちには思い切ってやれといっている。きつくても三年頑張ったら何かが見えてくるからと――。かつて管理職に、“保護者になにをいわれても、自分の主義主張は貫いてくれ”といわれたが、失敗しながらも子どもと向かいあって心の内側を揺さぶりながら育てていくことの楽しさを、今の若い世代に体感してほしいという思いがある」と語っていた。

 

 この10年で教員の年齢構成は大きく変化して、20~30代の若い教員が増えている【表参照】。産休・育休(夫婦でとる場合も)が増加するのは必然だ。山口県で産休・育休の数は2022年は小学校で281人(全教員の6・7%)、中学校で80人(全教員の3・4%)、2023年度は小学校339人(同8%)、中学校は86人(同3・7%)となっている。団塊の世代の大量退職にともなって若い教員が増加することは早くからわかっていたはずだが、“少子化が進む”という理由から正規教員を増やすのではなく、退職層の良心頼み。再任用や非正規雇用に依存してきた穴埋め的な人事の結果として、そのような事態がもたらされている。

 

なり手なく確保困難に  頼りにされる再任用

 

  山口県下の大規模中学校では、ある日の職員会議で校長が「先生が足りないので、知り合いに教員免許を持っている人がいたらぜひ紹介してほしい」と呼びかけた。この学校では国語の教員に休職者が出たが、代替の教員がいなかった。そのため1時期は授業の代わりにプリント学習などをさせていたが、授業に遅れが出るため「このクラスには私が行きましょう」と別の学年の教員が授業のカバーに入った。

 

 「教員の持つ授業時数(負担)が増えるが、子どもたちのためにやろうという空気は職員室にあった。だけど、その年(2023年)はちょうど山口県の人手不足で35人学級が38人学級になったときで、クラス担任もいっぱいいっぱいだった」とふり返っていた。「目の前に子どもたちがいるから」という教師たちの使命感に依存して、学校現場がどうにか回っているのだ。

 

 中学校は1週間のうち6時間授業が4日、5時間授業が1日で週29時間の授業がある。大規模校で学級担任を持ちながら主要科目を担当するある教員の1日を聞くと、6時間のコマ数のうち4時間は授業、1時間は初任者研修で新採教員の指導時間にあてる。そして1時間の空き時間で担任するクラスの生徒34人分の「生活ノート」「自習ノート」に目を通す。「うちのクラスの生徒はきちんと提出するのでしっかり目を通す。もし荒れた学校で、生徒らのトラブルや問題が起これば、手の空いた教師が対応に追われるので空き時間はなくなる」と実情を語っていた。ギリギリの人員でなんとか回しているのだ。1週間29時間授業のうち27時間は教壇に立つ週もあり、1週間で空き時間は2、3時間だ。

 

 この学校の場合、定年退職した教員が再任用で現場に戻り、60代後半で学年主任や担任を持っている。以前では定年退職した60代の先生が担任を持つことなど考えられなかったが、今はそんな状態が珍しくない。病休、産休といった欠員が出た時に対応できる人員がいないこともあるが、4月の新年度スタート時から「再任用の先生方がいないと現場は回らない」のだ。

 

 教員同士の飲み会で60代後半でも第一線で働く先輩教師に「なぜそんなに頑張れるのですか?」と聞いたら「なんでやろうなぁ。自分にはこれしかできないから」といっていたという。そういう60代をこえた経験豊富な教師たちが学年主任をしたり、「給食主任」などの校務分掌業務を担当したり、あるいは若い教師に経験を継承したり、なくてはならない存在になっている。

 

  山口県教委では、夜七時過ぎでも教員確保のための電話がけを連日おこない「70代以上の諸先輩方にもどうか力を貸してほしいとお願いしている」という。産休育休を夫婦で取得するケースも増えている。

 

 別の例では「85歳の先輩先生に現場に来てほしいとお願いしたけど断られた」という話もあった。山口県教委は教員確保のために、昨年から「先生になるなら“やまぐち”で! セミナー」を各地で開催し、教員免許を持っている人を集めて「教員の1日」などを説明して県の臨採名簿に登録してほしいと依頼している。どの自治体も教員確保に必死で、とくに広島と福岡の県境に位置する下関と岩国は、越境して臨採教員の取り合いになる。宣伝を重視しているが「なかなか集まらない」という。

 

  以前なら若い教師とベテラン教師が互いの授業を見る「互見授業」などをして学び合ったり、意見をいい合ったりする余裕があった。人的な余裕がないなかで、悩みをもった若手教員が「迷惑をかけるから」とベテランに相談できなかったり、真面目な教員が背負い込んでしまい疲弊することを指摘する声もあった。

 

 ある教員は「若い先生との会話で、“子どもにまた裏切られました”とショックを受けていたときに、“子どもが問題を起こすのはあたりまえ。生徒がいうことを聞かないのはあたりまえよ”という話になった。そうやって若い先生も失敗しながら、同僚と意見を交わしながら、苦労しながらでも楽しさを見つけていくものだと思う。学校は負のスパイラルでブラックだといわれるが、それもまた違う。子どもが変わっていくことは楽しいし嬉しい。そのためにはやっぱりマンパワーがないと疲弊する。いろんな問題を抱えた子どもたちも多く、クラスを2人の教員で指導できるぐらいの改革をしてもいいのでないか。働き方改革といって、一人一人の働き方に対していろいろ国が口出しせず、国は人を増やす改革をした方がいい」と断言していた。

 

 先輩教員が「教員は金持ちにはなれないが、人持ちになれる」とその醍醐味を教えてくれたという。授業を通じて、生徒をどう理解していくかがすごく大事であり、カリキュラム外での人間的なかかわりにこそ教員や学校の存在意義があるという。それが中学校でも運動会や文化祭が縮小され、部活動は「地域移行」といわれる。「苦労があっても生徒から教えられるし、この子が変わったというときにやりがいを感じる。自分たちは5年、10年先のために授業をやっているのだから」という教員もいた。

 

どんな人間を育てるか  価値観多様化の中で

 

中学校の部活動

  20代の新採教員が増えているなかで、教師になる若い世代の価値観が変化していることに悩む声もあった。紹介した実情のなかでも教員不足も深刻だが、若い教員が続かないという実情もあるようだ。文科省が2023年12月に教職員の精神疾患による休職者数が過去最多の6539人になったことを発表したが、若い教員をどう育てていくかというのも課題になっている。以前なら“子どものため”という使命感で一致して教師集団があたることができたが、若い先生のなかには子どもへの責任感というより、自分の都合が第一で「こんな時に?」というタイミングで休んでしまう。踏ん張りがきかないのも特徴だそうだ。これは教員に限った特徴でもないと思うが…。

 

 ところがそれに対して「教師も労働者だから」「権利がある」といわれれば管理職も強くいうことはできない。この20年以上「個性が大事」という教育がされてきた世代とも重なり、「若い教師を鍛えることができない」ジレンマがある。

 

  ある学校では、新採の先生が夜9時まで「私できない」といって悩み泣いている状況があるという。問題を解決するために相談したり、一歩行動する精神的な強さがほしいのだが…と心配されていた。学校が変貌していく過程で育った世代でもあり、小さいころから衝突を避け、ケンカに親や教師が仲裁に入って自分たちで問題を解決する力を育ててこなかった結果であるようにも見える。なかなか周囲に余裕がなくサポートできないことや、そもそも子どもが好きで教員になっておらず、「職業」として選んだだけの人もいるため、厳しいことが起これば続かない。「親もお客様志向だから、そのうち親から“新採お断り”という意見が出てもおかしくない」とも語られていた。

 

  教員の世界だけの問題ではない。公務員の男性は、「以前は公務員は公僕であって市民の役に立つことが承認欲求になっていたのが、その社会的使命がなくなってしまって、“今だけ、カネだけ、自分だけ”でお金目当てでしか働かない。だから給料がいくらもらえるかだけで職業を選び、嫌なら辞めていく」と話していたが、社会に出ても自分の尻を拭けない、責任をもたない人間が増産され、残った人がその穴埋めに奔走するという状況は、どの職場でも同じ社会問題になっている。

 

 学校で病休で長期間休んで迷惑をかけているのに、同僚教師に「ありがとうございます」のお礼がいえないなど、自分の都合だけが尊重されてまわりが見えない。いろんな繋がりのなかで自分が存在し、そのなかで自分が誰かのために何かのために役割を果たしていくという思考そのものが育まれていない。ある意味、これまでの教育の結果だろう。そこから見ると、教員不足は結果であって、教育そのものを立て直さなければこの問題も解決しないのではないか。

 

 山口県内の魚屋の店主は、今高校生の男子をアルバイトとして雇っている。その男子が、「先生の話が薄っぺらいから、聞く気になれない。ここでは生活や人生に役立つ話をしてくれる。身体を動かして自分で得た経験を教えてもらえるので楽しい」といい、「今の学校の進路指導が仕事の内容や給与がいくらかなどばかりを見て、子どもたちに社会の役に立ちたいという気持ちの根本を教えられていないのではないか。進路といったら形だけで、進路を教える先生に社会経験がない」と今の学校の進路指導のあり方にも疑問を呈していた。

 

 また中学生や高校生と接するなかで、「包丁を握ってもうまくなろうという子は、その姿勢でわかる。できないけれど学びとろうとする姿勢や気持ちを大事にしたい。学校ではもっと身体を使ってしか得られない経験や喜びを学んでほしい。タブレットでは学べない」と話していた。

 

 市内の水産市場関係で働く若者が、最初は大企業に入って働いていたが毎日機械の一部になってやっていく作業に嫌気がさしてやめ、今は給料は少なくなったがいろんな人や漁師などと関わり、役に立てることに喜びを感じていきいきと働いているという。「自分のためだけ」「お金だけ」のためにやりはじめたら世の中が成り立たない。社会的使命というのが働きがいの一番大きな要素だ。

 

国は人材に予算投入を  地方に歳出改革を要求

 

 A 教員不足の大きな要因は、教員の大量退職によって採用者数の増加に対して、教員志望者が減少していることにある。教員という仕事が長時間労働や業務の増大などマイナスイメージばかりで宣伝されていることもあって、負のスパイラルになっている。モンスターペアレンツなどもいるなかで、教師なんてやってられるか! というのもある。また国の教育政策がお粗末すぎること、デジタル企業がもうかるタブレット学習には多額の出資をしながら人には投資しない。「子どもが好きで教員がのびのびと教育に専念できるような人員確保や定数法の改定など、人に予算を投入することが必要ではないか」と指摘する声は根強い。

 

 ところがこれだけ教員が少ない、足りない状況なのに財務省は、教員給与増加などの国が施策を実施する場合、地方自治体も応分に負担するよう歳出改革を求めた。「教員の給与を上げるから地方も他の予算を削って財源を確保しろ」というようなケチ臭いことをいっている。また残業時間短縮の達成度に応じて教職調整額を引き上げる財務省案に対して、教員の数を増やさず、教職調整額を“エサ”にして残業時間の縮減を迫るものだと抗議し、15日に「日本PTA全国協議会」をはじめ教育関係の23団体が「緊急声明」を発した。

 

 そこでは「全国の学校では、地域の特色や子どもたちの状況が異なるなか、さまざまな想定外の問題が起こっても真摯な対応をおこなっているが、教職員定数の改善も業務の学校外での受け皿もないなかで、単に時間外在校等時間が短いことをもって給与を引き上げるという仕組みを導入するだけでは、教師が充実した教育や指導が行えなくなり、我が国の学校教育の崩壊を招く」と警鐘を鳴らし、それが学校で子どもたちに真摯に向き合っている教師の職責を軽視するものだと抗議している。これをやったらもっと崩壊するし、あまりにも本末転倒すぎるのだ。

 

奪われた教師の指導性  従順な労働力を求める資本

 

  ある下関市内の管理職は「はっきりいって教育現場は崩壊している」という認識から「これまで教師はダメだダメだと叩かれ、モンスターペアレンツが助長されてきたが、教師へのリスペクト(敬意や信頼関係)がないと学校は成り立たない」といい、1学期の最初のPTA総会で「子どもの前で担任の悪口はいわないでほしい。いいたいことがあれば校長の私にいってくれ」とはっきりと伝えたという。まずは子どもと教師の信頼関係を築くことを大事にし、子どもが変われば親も変わってきたそうだ。

 

 不登校についても「行っても行かなくてもいい」という空気を打ち破って、最初は1時間から徐々に2時間、3時間と増やしていって、先生や友だちなど学校に行けば誰か一人でも頼れる人がいる状況に持っていき、不登校児をゼロにしたという。そこでも活躍しているのが定年退職した再任用のベテラン教師たちで、とくに保護者と若い教師の間をとりもって、溝を埋めるような役割を担っているという。現場には採用を絞っていた氷河期世代の40代の中堅が圧倒的に足りない。このなかで、若い教員たちを支え、導いていく力がどうしても必要とされている。単純に教師の採用人数を増やせば解決するという代物でもないのだ。

 

 今、不登校やSNSのトラブルなど、学校だけでは解決できない事例が以前より増えている。そうした問題に対して、校長退職者などが担うソーシャルスクールワーカーやガイダンスアドバイザーなどが家庭に入りこんで母親の相談にのったり、重層的に支援ができるように福祉支援機関につないだりしている。結局、人を育てるのは人であり、デジタルがどれだけ発達したとしても信頼関係や人間関係なしには成り立たない。

 

 貧困化も深刻ななかで、学校にはさまざまな矛盾が反映する。為政者からすると、賢いのは権力を司る一部だけでよいし、残りはバカで従順な労働力になればいいというのが、いってしまえば教育に対する本音だ。昔は「国家百年の計は教育にあり」などといっていたが、そのような矜持など投げ捨てて久しい。

 

 いじめや体罰などがあるたびに学校が袋だたきにされてきたが、そのなかで奪われたのは教師の指導性だろう。学校は子ども天国になってしまい、叱ったりすることすら躊躇するような状況がある。叱ったら親が怒鳴り込んできたり、子どものケンカが裁判沙汰になったり、カオスみたいな状況もある。そんななかで踏ん張っている教師は少なくない。教師から指導性を剥奪したら、それこそメイドでしかない。しかし、そんなメイドすら不足しててんやわんやしている。全国的に教師不足が問題になっているが、その責任は文科省なり政府にある。教師不足とその実情について、もっと深刻な社会問題として提起する必要があるのではないか。

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