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【記者座談会】子どもたちを鍛えるのは悪か? 運動会の廃止・縮小を考える 失われる経験の機会 「そのままの君」の酷

小学校の運動会で恒例の「玉入れ」をする低学年の子どもたち(山口県)

 山口県下関市では5月中に多くの小学校で春の運動会が実施された。この数年来、運動会は、コロナ禍を契機に中止および午前中開催に切り替わり、種目も選抜対抗リレーや騎馬戦、大玉転がし、組体操といった集団競技をなくしたり、ますます縮小傾向に拍車がかかっている。コロナ禍で家にこもる時間が長くなったことも影響して、子どもたちの体力の落ち込みが心配されるなかで、しっかり運動をさせて身心を育てていくのではなく、むしろ年1度の運動会まで「頑張らなくてもいい」と緩い内容にしたり、なくしてしまったり、水泳授業も空疎なものとなって泳げない子がゴロゴロといたり、あるいは日頃も教師の働き方改革の都合も合わさって昼休みが減らされるなど、全体として運動機会が減って子どものひ弱さを助長する動きが顕著になっている。教育とは「知育」「徳育」「体育」の三本柱を育んでいくものとされてきたが、なかでも「体育」とかかわって昨今の教育現場の現状について、父母でもある記者たちで論議してみた。

 

○         ○

 

 A いまや下関市では春の運動会が定番化し、コロナを経てどこも午前中だけの開催になっている。それまでは1日使っての運動会で、昼には家族で弁当を囲んだりしたものだが、コロナが簡素化していく契機になった格好だ。午前中運動会になってからというもの、種目は徒競走、ダンス、赤白対抗リレーくらいのもので、子ども1人の出番はせいぜい2種目か3種目程度。さっと済ませてさっと終わるものになった。

 

 授業時間も詰め詰めのなかで運動会の練習時間もあまりとれず、言葉は悪いかもしれないが、面倒臭い年中行事にされているというか、やっつけで運動会がやられるようになった感覚すらある。大半の子どもたちや親たちは、そのことをすごく残念がっている。「面倒臭い運動会が簡素化されてよかったね!」という声は聞かない。

 

 今年の下関市内の運動会で物議を醸したのが、ある小学校でおこなわれた「スポーツフェスティバル」だった。「運動会」ではなく「スポーツフェスティバル」という、よく意味のわからないイベントになってしまい、校区の親たちや子どもたちのなかで「いったい何がやられるのだろう?」と困惑が広がっていた。赤白対抗リレーをなくしたのと、学年競技をやめて「走る」「跳ぶ」「投げる」の3競技から子どもたちがやりたいものを選ばせ、例えば「走る」を選んだ子どもたちがおこなったのは障害走。「蟹歩き」「スキップ」「ケンケン飛び」などと書かれた札をめくって指定された走法で数メートルほど走り、次はスコップやお玉などにボールを乗せて走る。その後、頭に玉入れの球を乗せて走らせ、最後の直線は置いてあるコーンをジグザグに走るというもの。

 

 子どもたち自身は競ってゴールをめざしていたが、ゴールテープはない。1年生から6年生がみな距離も中身も同じ障害走をしていて、これでは高学年はモチベーションがあがらないだろうなと思うものだった。通常ならば「赤がリードしています!」といったアナウンスが流れるが、フェスティバルには赤白対抗の色分けがないし、競争ではないから「すばらしい蟹歩き!」「バランス感覚がすごい!」「地面を蹴って走る走る!」といったアナウンスが流れ、先生たちもなんとか一生懸命盛り上げようとしているのは伝わってきたが、観戦する親たちのなかでもなんだかな…の空気があった。

 

 最後の演目では縦割り班での全校綱引きがあり、子どもたちは勝つために一生懸命頑張っていたし、おおいに盛り上がってもいたが、赤白の採点がないので、「○○班の勝ち!」とアナウンスしていた。やっていることは勝負なのに、むりやり順位をつけない、競わせない、苦手なことや嫌いなことはさせない形にこだわっていて、一体子どもにどんな力を付けさせたいのだろう、何がしたいのだろうと感じざるを得なかった。

 

 この「スポーツフェスティバル」は、4月に突然に発表されたため、保護者のなかでも「なぜ運動会をなくすのか」「選抜リレーをやってほしい」と話題になっていた。校長が保護者など関係者限定で理由についてYouTube配信をしたものの、「いいね」マークで賛同する親は極端に少なかった。教員のなかでも「1年かけてつくっていくもので、準備期間が短すぎる」という意見があったと動画で明らかにしていたが、子どもの勇姿や成長が見たい保護者からすれば「アンケートもせずに決めるなんて」という不満の声が上がるのも当然だろう。

 

 エンディングセレモニー(閉会式)で、6年生の女子児童が「今日がはじめての全校練習でした」と挨拶していたが、本番の日なのに練習があまりなかったことをその挨拶は正直にあらわしていた。子どもたちが一番残念がっていた。学校で「運動会をやってほしい」とお願いしても聞いてもらえなかったと近所の6年生の男の子たちがぼやいていた。「オレたちがまともな運動会をやったのは1年生の時だけ。2年生の時はコロナで中止になって、あとは午前中。6年になったら運動会そのものがなくなった…」と――。チームのために頑張るとか、勝って嬉しいとか、負けて悔しいとか、練習を重ねて得られるはずの達成感が乏しいものになってしまったようだ。運動会をなくしていくのが時流なのだとしてもあまりに安易で、子どもたちの感情が揺さぶられるような経験を奪ってしまっていいのだろうかと思う。

 

  クラスみんなで劇をつくって発表する学芸会がなくなり、学習発表会になったのと同じで「もう運動会じゃなくて体育の発表会ですよ」という教育関係者もいた。最近はむしろ幼稚園や保育園の方が体操やマーチングに力を入れていて、子どもたちが親を感動させる。ところがせっかく鍛えても、小学校に上がったら一気にレベルが下がることについて「子どもの力をみくびらないで」と幼稚園関係者が残念がっていた。

 

 こうした動きが市内で広がっているのかと思いきや、コロナが5類になってから初の運動会ということで、本格的に集団競技や選抜リレーなどを復活させた学校もある。コロナ禍で運動会も時短になり、今は昼食を挟んで午後も運動会をやる学校はなくなっている。最近は弁当が準備できない家庭があったりという事情のもとで、午前中開催が常態化している。当然、種目はいくつかに限定されてしまう。だが、そんななかでも運動会という子どもたちにとって年に一度の一大イベントを盛り上げようじゃないか、午前も午後もやろうよという声が、保護者や地域のなかにも少なからずある。そこは縮小・廃止の流れとせめぎ合っている。

 

心も体も鍛えて伸ばす 縮小の動きの一方で

 

  「勝ち負けにこだわる」ことの意義について、ある小学校の教師が紅白対抗の応援合戦のことを話していた。今年から応援合戦の採点に保護者も参加できるようにしたことで、子どもたちはどうすれば勝てるか、盛り上がるかを本気になって考え始めた。当初は上学年(4~6年)だけがダンスをし、下学年は手拍子で参加する予定だったが、全員で踊るように変更するなど、勝ちたいという気持ちが新しい発想や創造意欲につながっていったという。下級生を率いてまとめていくためには知恵が必要になるし、その練習過程そのものの教育的意義が大きいようだ。その他、団体競技や徒競走の配点を聞きに来る子もいて、自分たちの所属する組が勝てるのか考えるために計算までして、紅白対抗が算数の勉強にもつながったそうだ。「鍛えれば子どもは伸びていく」という確信があるし、だから教師もきついけどやりがいがあるしワクワクするという。

 

  宇部市でも運動会は半日開催だが、組体操をやった学校があった。「人間おこし」(数人の土台の上に人が立ち、後ろ向けに倒れて土台が受けとめ、その後投げるように起こす技)を披露して会場からどよめきが起き、大歓声まで起きて盛り上がったそうだ。2016年ごろから組体操や騎馬戦は「危険だ」といって、教育委員会が安全対策をチェックしたりする動きが出始めて、とりやめる動きが広がった。その後、コロナも経て近年では組体操などをタブー視するような空気もあるなか、この学校では短い期間しかないが、技の難易度も考えながら子どもの力を信じて集中的に練習したという。

 

  学校によってとりくみ方にはかなり差がある。以前に比べれば競技内容も難易度は下がるかもしれないが、運動会という機会をとらえて集団競技を通して子どもたちの心と身体を鍛えて高めていこうという流れと、一方で「無理強いしてはいけない」「できる範囲でいい」「やりたくなかったらやらなくていいよ」「できなくてもそのままの君でいいよ」、すなわち何もしないという方向を推奨する流れがあって、二極化している。切磋琢磨するなかで、できなかったことができるようになったり、子どもたち自身が仲間と力を合わせて挑んだり、勝って嬉しい負けて悔しいの喜怒哀楽を共有したり、そんな姿を親たちも一緒になって喜んだり悔しがったり、コロナ禍以前は当たり前だったものと、そうではなくてしれっと何もしないという対極の流れがあって、たかだか運動会ではあるけれど、子どもをどう育てるかの方向性をめぐって学校現場でせめぎあいがある。

 

  これも時代なのか、運動会をするのに熱中症対策にも気を配らなければならないご時世になり、熱中症指数が規定値をこえた場合は、外での練習をさせてはいけないことになっている。子どもがエアコンに慣れていて熱中症になりやすいこともあり、運動会の最中に「児童のみなさんは、水分補給をしてください」と何度も何度も呼びかけていて、学校もピリピリしている。監督責任が問われるからだ。

 

 日頃からケガをさせたらすぐに担当教師や学校の管理体制の問題に発展し、メディアに袋叩きにされる構造も強まるなかで、全般としてその防衛本能から「危険」除去意識が助長され、「子どもを守る」以上に「学校を守る」ために「危険」を排除したがる傾向も強まっている。しかし、それで何もしないなら、子どもたちはいつみずからの肉体を鍛えるのか? なのだ。この問題は肉体だけに限らない。学校現場や教師を袋叩きにして萎縮させてしまい、指導性が奪われた末路でもある。教育者が誘(いざな)うというより、子守みたく立場を引き下げてしまい、学校はまるで「子ども天国」。今どきは「鍛えるなどもってのほか」という風潮すらある。

 

 確かに虐待や暴力などは論外とはいえ、たとえば知育にしても体育にしても「できないことをできるようになる」「わからないことをわかるまで努力して勉強する」の積み重ねが知識となり、体力や運動能力となるわけで、はじめからすべてできる人間などいない。そのためにはみずからを鍛えたり、大人から鍛えられたりする経験というのは必須だ。みずから律してできるようになる大谷翔平みたいな子が全員なら苦労はないが、大概はそうではない。教育という以上、子どもたちを導き、いざなっていく力が機能しないといけないし、そのために教師も親も、まともな子どもたちに成長していくように関わっていくことが必要なのだ。知育や体育だけでなく、学校という集団生活のなかで社会性を育み、自分と異なる性格や考えの人とも折り合ったり、ぶつかったり、問題解決したり、そのなかで徳育を育んでいくことも大切だ。

 

  競わせるのがかわいそうとか、足の遅い子に配慮するというような空気が強くなっている。勉強が苦手でも運動会では力を発揮できる子もいるし、走るのが苦手な子も一生懸命応援する。社会にはいろんな人がいて、誰でも得意不得意がある。そういうことを含めて子どもがいろんな経験を通じて学んで心が育っていくのに、その学ぶ機会をなくしてどうするのかと思う。

 

 ある学校で選抜リレーで転けた子がいた。その子に対して子どものなかで責めるような空気が生まれて、それを「イジメだ」と親が問題にしたということがあったそうだ。そのタイミングこそ子どもに教えていくチャンスなのだが、そういうトラブルが起こったからとリレーをやめたら、それこそ教育の放棄だ。

 

 C 子どもたちが以前なら競って運動会のリレー選手になりたがっていたが、最近は「責任をとりたくない」「重荷」といってリレーを嫌がる子が出てきたという。チームが勝つために、仲間のためにというのがモチベーションになるはずなのに、リレー選手になって「責任を負いたくない」、みんなのために頑張るということができない。ことは運動会のリレーの話だが、いったいなんの産物なのだろうかと思う。

 

泳げない子も増加 山口県は体力測定で最下位

 

 B 学校の集団生活のなかでは、友だちとケンカしたり、仲直りしたりしながら人の気持ちを理解したり、自分のことだけでなく人のために頑張る心なんかも育っていく。だいたい学校生活では、教室で勉強したことよりも、昼休みに友だちと遊んだことの方が記憶に残っているものだ。子どもの遊ぶ時間は大事なのに、最近では子どもたちが学校で遊ぶ時間も減っている。働き方改革の一環で、教員が定時に帰れるよう放課後の時間を確保するために、朝学の時間や昼休み、給食時間を短縮したり掃除を週2回にしたりしている。ところが昼休みを45分から30分に短縮したところ、子どもの落ち着きがなくなって、親たちからもっと外で思い切り遊ばせてほしいという要望もあり、元に戻した学校が複数ある。

 

 C 20代の若い教師が、クラスの子どもたちと始業前の朝の時間、中休み、昼休みと毎日鬼ごっこをして追いかけ回していたら、いつの間にか子どもたちの走力がついて、持久走大会でも受け持ちのクラスの子たちが上位を占めたことを誇らしげに語っていた。理屈ではなくて子どもは鍛えたら力がついていくし、遊びのなかでいろんな力をつけていくのに、その時間を減らしたら体力が低下するのはあたりまえだ。山口県は2022年度の体力テストの結果が全国ワーストだったとかで、県教委が現場の尻を叩いているが、そういうところだ。

 

 B 水泳も同じだ。コロナの2年間で水泳授業がなくなったので、泳げない子が増えている。これは相当深刻なようで、実は心配している親や教育関係者は多い。全国的に普遍性があるはずだ。島国なのに泳げない子ばかりになって、セウォル号沈没事件のときに起きたことの二の舞にもなりかねないと。小学校高学年や中学生でさえ25㍍を泳げない子がゴロゴロといて、学校によっては危機感を抱いて補習をしたところもあるようだ。

 

 小学校で夏休みの学校プールの開放をしなくなっているので、このまま泳げなかったら大変だと親たちが夏場に市民プールに連れて行って、しごきあげて平泳ぎくらいは習得させたり、みんな必死だ。あるいは、親が安全面は面倒を見るからと学校に申告して学校のプール開放を復活させた学校もある。放っておいたらスイミングスクールに行けない子は、泳げない子になりかねない。授業も水泳については水に触れる程度のものになり、泳げない子を泳げるように鍛えるということはない。そうして水泳教育の機会均等すら崩れている。コロナ禍を経て、親たちも「えっ? うちの子泳げないじゃん!」と案外焦ったりしている。

 

  体力低下の問題でいえば、先ほどもあったように2022年度の全国体力テストで山口県は最下位になった。慌てた県教委が各学校で「体力向上プログラム」を作成させたり、体力を向上させるための宿題を出すよう通知もあった。宿題を出すために教員がいくつかの体操パターンを動画に撮り、そのQRコードをプリントして配り、子どもが自宅でQRコードを読みとって動画を見ながら運動するなどだ。先生は一体なにをさせられているのかわからない。学校では体育の授業の前にラジオ体操をしたり、腕力をつけるために体育館に専用の器具をとり付けてボールを投げる練習をさせたり、昼休みにはドッジボールをさせたそうだ。

 

  県教委は学力テストの結果が悪かったときも大騒ぎして対策を講じろと現場に通知を出したが、体力テストの結果に一喜一憂して、あれもしろ、これもしろといっていることに対して現場では反発もあった。記録を上げるため春ではなく半年遅らせて秋にテストをするとか、例えば、握力のテストは右手を測る直前に左手を力強くギュッと握って右手を測れば記録が伸びるなど測り方のコツを伝授したりして、翌年は山口県では確かに記録は上がったというが、本当にこれで基礎体力は上がっているのかだ。ただのインチキではないか。

 

  以前は小学校1年生からマットや跳び箱などで基礎体力を身につけるようにしていたが、「自然に鍛えよう」といって“忍者ゴッコ”など遊び感覚でやるものが増えた。また高学年になるに従ってマットや跳び箱でも「閉脚跳び」や「頭はね跳び」など難易度の高い技を要求してきたが、最近は「ケガの危険性があるものは避ける」の傾向が強まっている。運動会でも裸足の子はほとんどいない。「裸足は危ない」といって靴を履くよう指導している。「土踏まず」は裸足で歩くことによって発達し、大地を踏みしめる力が身体の安定感につながっていくが、土踏まずが発達せず扁平足なら転びやすくなるのでケガが増えるのも当然だ。

 

 A 県教委は「体力向上しろ」と現場にハッパをかけながら、実際の学校では教員の働き方改革のために昼休み時間を減らして子どもの遊ぶ時間が削られる。これでは体力が向上するわけがない。鬼ごっこやドッジボールをするだけでも体力がつくのに。おまけに運動会でも何でも、あれもダメ、これもダメといって子どもが育つ環境から危険なことやリスクがあることをみな排除していったら、なにもできない子、なにもしない子、なにも経験したことがない子だらけになってしまう。肉体的にもひ弱になるが、これでは困難なことを乗りこえる力など育たない。精神面にも当然関わってくる。ある母親が「子どもが失敗したり、悔しがったりする経験を大人が奪ったらいけないと思う」といっていたが、本当にそうだ。

 

中学の部活は地域移行 「体力格差」広がる

 

部活動で汗を流す中学生

 A 教員の働き方改革とかかわって、中学校でもますます運動しない方向が強まっている。部活の地域移行はその一環といわれているが、実は経産省から持ち上がった計画で、公立中学校の部活動で担っていた子どもたちのスポーツ機会を民間に委ねて市場化、ビジネス化していくことが意図だ。ところが地方にはスポーツ教室などの受け皿などない。

 

 部活の地域移行についてはいろんな問題をはらんでいるが、一番の問題は学校から部活動を切り離すことによって、ますます子どもたちの運動機会の格差が生まれることだ。「教員の負担軽減」のためにクラブチームに入ればいいというが、送迎の負担や月謝負担などが新たに発生して、保護者や子どもに「負担移行」するだけだ。加えて部活動についても「土日はどちらか休め」「月から金のうち一日は休め」となって、あれもダメ、これもダメと規制だらけだ。

 

 B そんな状況だから、山口市のある中学校のサッカー部には、有力といわれる指導者(教員)が複数いるのに入部者がいないという事態になった。サッカーをしたい生徒はみな土日も目一杯練習ができるクラブチームに入ったという。行政の手が届く部活動にさまざまな規制をかけて、部活動を選ばないように外堀を埋めているような感じもある。一方で小規模校になると部活に入るのが全校生徒の半分に満たないという。入る部活がないという問題もあるかも知れないが、家に帰ればゲームで時間を潰せるし、運動する意欲が減退していることも心配されている。

 

 部活が教員の負担になっていると吹聴されているが、実は部活をやりたくて教師になっている人も多くいる。北九州の教育困難校に勤める教員がいっていたが、やんちゃな生徒も部活のなかで生徒指導など人間的かかわりを持っているから、クラスに戻ってもバランスが保たれる場合も多いという。部活は教育の一環であり、それも含めて総合的に学校が成り立っているのだと強調していた。教員の負担軽減ばかりがいわれ、子どもがどうなるのかが議論されない。ここでも部活をやりたくないという先生への配慮が最優先になっていて、管理職も部活を嫌がる教員に「やってくれ」といえないという。いえば強要、パワハラになるからとすごい気を使っている。これもまた「部活をやりたくない教員の権利」の側のことばかりがいわれて、子どもをどう育てるかという問題を見なければ解決策は見えないのではないか。

 

 C 子どもたちが、怒られ慣れていないし、苦手なことや逆境を乗りこえる経験をしていないので事態は深刻になっている。給食時間も嫌いなモノは食べなくていい、無理矢理食べさせるのは体罰になるといって、子どもたちは食べ物を残すのが平気になっている。「いただきます」「ごちそうさまでした」がいえない子というのがいる。

 

 「学校から消えたものリストをつくったらすごいと思うよ」と、ある教員が笑えない冗談としていっていたが、今年2月下旬に福岡県の小学1年生が給食で出たうずらの卵をのどに詰まらせて亡くなった事故を契機に、給食から一斉にうずらの卵が消えた。「次に消えるのは白玉団子か……」と予想している教員もいた。リスク排除、危険排除が異常だ。学校の校庭や街中の公園からもシーソー、高い鉄棒、回転ジャングルジムなどは消え、運動会からは組体操、騎馬戦、ムカデ競走、大玉転がし、平均台も消え、水泳の飛び込みも危ないからとやめになった。

 

 学校がこのような状況で、どこで子どもを鍛えるのか? だが、子どもの家庭環境による「体力格差」が大きいことも心配されている。スポーツ少年団などに所属して放課後や土日にサッカーや野球、バスケに明け暮れている子どもがいる一方で、金がかかるスポ少には入れず、家に帰れば親は仕事でいないのでゲーム漬けで、運動不足からくる体力の未発達や肥満の子どももいる。しかもスポ少に通う子も、サッカーや野球の技術は飛び抜けているが、鉄棒をやらせると逆上がりができなかったり、マット運動が苦手だったりと肉体的にいびつな成長をとげている子も少なくない。

 

  子どもは本来、身体を動かすことが大好きで、できないことをできるようになりたい、運動神経を磨き、競技技術なりを向上させたいという願望はすべての子どもが持っている。ところが、生活環境や遊びの質が変化してきたこと、さらに教育の現場においても過保護なまでに努力させない構造ができて、明らかに肉体的に鍛えられる機会が減っている。体力がなければ鍛えて体力をつければよいだけだ。しかし、この当たり前の解決策が当たり前に実行できず、むしろ体力低下を促進するような「鍛えてはならない」の規制が加わってきて、精神的にもひ弱な子どもが生み出されている。

 

  ある教師から聞いた笑えない話だが、小学校1年生の女子が、ある日のテストで「×」が付いたため、家で泣いて困っていると親から電話が入ったそうだ。「×を付けないでほしい」という要求に対して担任が「×」の代わりに「☆」を間違っている解答に付けるようにした。その後、子どもが「☆がある」と喜んだと親から報告が入ったという。子どもが嫌な感情になることを大人の側が排除して、問題を間違えたときに生じる悔しさ、不満、悲しみなどの感情と向き合わせない。極端な話かも知れないが、どこでも似たような事例が想像できる。

 

困難乗りこえる経験を 求められる指導性

 

 C ゴールデンウィーク明けに「退職代行業」がニュースになっていた。会社を辞めたい若者が、退職の届け出や手続きを代行業者に頼むという。そして代行業者の若者が「本人に電話させろ」となんの関係もない人から怒鳴られている。そんな人の衝突の間に入る代行ビジネスが成り立つ時代だ。代行業者の経営者が「メンタルの管理が重要なので、職員は積極的に休ませています」とコメントし、職場でみんなを癒やすワンちゃんが走り回っていたが、なんともシュールな光景だった。

 

 子ども同士のケンカやトラブルに親や教師が仲介に入ったり、リスク回避策ばかりが発達し、自分たちで問題を解決する力を育ててこなかった結果、社会に出ても自分で自分の尻が拭けない人間ができ上がっているのだろうか。確かにブラック相手の案件もあるのだろうが、矛盾が生じたら対面できない、自分で乗りこえるべき案件をカネを出して他人にやってもらう、嫌なことから逃げ回っていくような光景にも思えてならない。

 

 高校のテストでカンニングがばれた高校生が自殺した事件があったが、自分の非を認めて「ごめんなさい」がいえず、カンニングが悪いのにそれを指摘した教師の発した言葉が不服として責められている。本末転倒な世の中だ。下関市役所でも職員の代わりに母親が「息子をやめさせます」と伝えてきたり、休みをとる連絡も親がしてくるという過保護が一部で話題になっていたが、「鍛える」「鍛えられる」経験というのがなんだか「悪」みたく扱われて、極端な過保護が広がっているようにも感じる。

 

 それでいざ社会に出てみると、弱肉強食の嵐のなかに放り込まれて、打ちのめされて、引きこもりになってしまうというパターンも多いように思う。困難に際して、「なにくそ!」「見とけよ!」というガッツがあれば立ち向かってもいけるし、「疾風(しっぷう)に勁草(けいそう)を知る」ではないが、最も困難な状況でこそその人間の真価は問われるものなのだが、へなへなと崩れていたのではどうにもならない。昔の人は「苦労は買ってでもしろ」「かわいい子には旅をさせろ」と教えているが、苦労を乗りこえて乗りこえて、少々のことでは動じないメンタルであったり、強さであったりを身にまとい、そんな苦労尽くしの人生のなかでもたまに嬉しいことや楽しいことがあるものなのだ――と婆ちゃんがいっていた。そんなものなのだろう。

 

 A この20数年来、「頑張らなくてもいい」「できないのも個性」「そのままの君でいいんだよ」とやってきて、体育やスポーツ、あるいは遊びや生活全般のなかからあらゆる「危険」が除去されたぬるま湯で、子どもたちは本来身についているはずの筋力や体力を含めた力を伸ばすことができず、まさに「そのままの君」として大きくなる。そして腕立てができない筋力の子、顔面から転ける子などが珍しくなくなっている。進化するのではなく、成長を押しとどめ、むしろ退化させる結果につながっている。

 

 「あれをしてはいけない」「これをしてはいけない」というだけでは、人間の成長過程を否定することにしかならない。痛みや失敗を通じて、肉体的にも精神的にもたくましくなっていくのが当たり前の道理で、その経験を通じて「どうしたら次から失敗しないようになるか」「乗りこえられるか」を考えて体力面でも精神面でも自己を変化させて成長する。それは精神論ではなく、肉体的には運動強度を強めて細胞を破壊し、超回復によって筋肉肥大がはかられ、タンパク質を摂取することによって大きな身体へと成長していく過程を見ても同じだ。

 

  体育は知育や徳育面での成長とも密接に結びついており、鉄棒やマラソンなどで苦しさを乗りこえてやりきった自信が支えとなり、そのなかで培われた集中力や忍耐力が知育や徳育の面でも、友だちと心を通わせて学校生活をよりよくやっていく力として発揮されたり、子どもたちが意欲的になっていくという経験はよくあることだ。

 

 子どもの成長は「そのままの君」で放置していたのでは望めない。危ないから「やらない」「やらせない」ばかりでは、結局のところ何が危ないかすら認識できない。学業についても同じで、「そのままの君」つまり「バカのままの君」で放置されることほど酷なものはない。苦労し、努力することによってしか知識は身につかないのに、集中して学業に向き合うことをさせずに放置される。そして興味関心や個性尊重といって、自分のやりたいゲームやYouTube鑑賞ばかりに熱中してバカ育ちになるというのではなにをかいわんやだ。そこは教育する力が加わらないといけないのだ。

 

 学校現場ではこの30年来、教師の指導性が否定されてきた。メディアによる「いじめ」や「体罰」キャンペーンを通じて腫れ物に触るような体制が強まり、教師が子どもに怯え、親に怯え、教育委員会に怯え、文科省に怯え、メディアに怯え、手足をもがれたロボットのように萎縮させられてしまっている。それは親をとり巻く環境も同じで、大きな声を出して叱っただけで児童相談所が首を突っ込んでくるような世の中でもある。そしてひ弱な被害者意識だけが助長され、みずからの辛抱や頑張りによって困難にうち勝つのではなく、イジメを理由に報復自殺してしまったり、なんともしれない状況があらわれている。強く生き抜いていくのではなく、死んでしまったのでは元も子もない。そうなったら親としてもたまらない。

 

 指導性を否定する、鍛えることを否定する圧力をはね除けなければ思い切った教育ができない仕組みのなかで、子どもたちをどのように成長させていくのかが社会全体に問われている。

 

(5月31日付)

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この記事へのコメント

  1. 結局マスコミが無責任に騒いだからではないでしょうか?マスコミやコメンテーターが教育というものを語り、世の中の雰囲気を変えれば変わるのではないでしょうか?マスコミが作ったならば、マスコミが新たな雰囲気を作れるはず。戦ってくださいよ。この記事を大きく取り上げてくださいよ!日本の未来のために。

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