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運動会から興奮と感動奪うな 異様なピラミッド撲滅運動

危険といってひ弱さを助長してどうなる

 

 今、小学校では春の運動会の練習がたけなわである。運動会といえば、日頃勉強の苦手な子もここぞとばかりに奮起し、騎馬戦や棒倒し、クラス対抗リレーなどの真剣勝負に挑み、「赤勝て、白勝て」と喉も枯れんばかりに応援する。父母や祖父母も子どもたちの頑張りに声援を送り、その成長を喜び涙するーー こうした光景が目に浮かぶ。ところが近年の運動会は少し違う空気が漂っている。各種競技に「危険だ」という理由で一斉に規制が始まり、今年に入ってからは組体操やピラミッドがやり玉となって、多くの学校でとりやめる事態になっているのである。大玉送りやムカデ競走まで「事故が起こってはいけない」と自主規制する地域もある。運動会に何が起こっているのか、誰が運動会から感動と興奮を奪っているのか、記者座談会を持って論議した。


 
 「可哀相」で子供育つか 棒倒しやムカデ競走まで規制



  下関市では小学校51校のうち30校が春に運動会をおこなう。当初30校のうち9校が組体操を予定していた。ところが4月の校長会で組体操の安全対策として、肩車やサボテンやピラミッドなど「人が人を支える技」をするときには1組に1人の教師がつくぐらいのことが必要だという論議になり、「それだけの人数の教師もおらず、時間的にも無理だ」と断念した学校が数校出ている。組体操をする学校に対しては、市教育委員会が練習を見に行き、安全対策が万全かどうか見極めたうえで実施するかしないかを決めるという。「人」という漢字は人と人が支えあってできているのに、まさにそれを体現した組体操について「けしからん」と規制する力が働いている。


  福岡市の場合は、市教委が市立小・中学校の運動会でおこなう組体操について、ピラミッドとタワーを全面禁止すると4月28日に通知した。5月末の運動会に向けて212校のうち161校が組体操を予定していた。ピラミッドは139校、タワーは104校(重複あり)が実施予定だった。多くの学校がすでに練習を始めており、突然の「全面禁止」に教師も子どもも驚いている。2人組の倒立や肩車などは認めるとしている。


  北九州市教委は今年、「運動会・体育大会及び練習時における児童生徒の安全確保のガイドライン」を作成して全小・中学校に下ろした。「組体操のガイドライン」では、「タワーやピラミッド等の児童生徒が高い位置に上る技、跳んできた児童生徒を受け止める技、1人に多大な負荷のかかる技など、大きな事故につながる可能性がある組体操の技については、確実に安全な状態で実施できるかどうかしっかりと確認し、できないと判断される場合は実施を見合わせること」とあり、組体操の2人技、3人技の「サボテン」や「飛行機」なども危険度が高いとして、練習のさいの教員配置などを事細かに指示している。同市では昨年度まで、小学校130校のうち100校が、中学校では62校のうち34校が組体操でピラミッドをしていた。


  下関市内を見ても、ここ4~5年は50~60人の大人数でつくる立体型ピラミッドをとりくむ学校が増えていた。それが2014年頃から、「人間ピラミッドは無謀だ」「危険だ」という学者の発言をマスコミや文科省が大きくとりあげ始め、昨年には大阪市教委が「ピラミッドは5段、タワーは3段まで」という規制を出し、今年に入って禁止を決定。3月には文科省の外局であるスポーツ庁が、全国の教育委員会に対して「ピラミッドやタワーをはじめ、倒立や肩車も含めて、確実に安全でない場合は組体操の中止を」と通知をおろし、4月にかけて各県教委・市教委が同様の通知を学校に下ろしている。スポーツ庁は東京五輪に向けた選手強化、金メダル大幅増を目的にできた組織だが、悪い冗談だろうかと疑問が語られている。


 B なぜ組体操ごときにこれほどムキになって規制を加え悪者扱いするのか不思議でならない。


 D 「ピラミッドは危険だ」という論文を発表した名古屋大学准教授によると、「負傷の件数自体は跳び箱やバスケットボールの方が多いが、組体操は学習指導要領に記載がなく、したがって体育でやるのは不適切、それを学校現場が勝手にやっているのが問題」だという主張だ。しかし指導要領は各教科内容の大枠を定めるもので、運動会の内容を決めるものではない。当然騎馬戦もムカデ競走も記載はない。


  彼の著書を見ると、子どもをピラミッドの一番上に登らせることについて、「厚労省の労働安全衛生規則は、高さ2㍍以上の高所で仕事をするときには囲い、手すり、覆いを設けねばならないとしているが、組体操には囲いも手すりも覆いもない。大人の労働の世界ではあってはならないことが、子どもの教育の世界でくり広げられている」とかみついている。また、同じ主張の弁護士は「建築基準法では学校の階段は手すりをつけ、3㍍ごとに踊り場を設けねばならないとしているが、ピラミッドには手すりも踊り場もない。運動会の競技ごときでなぜこんな危険な目にあわなければならないのか」といっている。運動会の種目に建築基準法を適用する人間など見たことがなかったが、そのような屁理屈をメディアが大きくとりあげて、学校現場に圧力を加えている。


 放っておいたら世間一般では「変人が何かいっている」くらいの類いの主張なのに、さも正論であるかのように持ち上げる。メディアの関わりが犯罪的だ。子どもを心配しているかのように装って、もっともらしい紙面展開をするわけだ。いじめ、体罰キャンペーンと同じで、終いにはピラミッド撲滅運動まで始まったか、という感じだ。


  土台の子に200㌔以上の重さがかかるし、彼らに光が当たらないので、土台の子がかわいそうだともいっている。ここまでくると「オイオイ…」と思う。わかりあえる土台がないというか、永遠に見解の相違としてすれ違うしかないのかもしれないが、土台になった子たちをそのように見なしていること自体どうなのかと思う。ガタイに恵まれているから土台に選ばれるわけで、最下層の中心などむしろ誉れではないかと思うが、ピラミッド批判派は「かわいそうな子」と見なしている。それで小さな身体のもっとも軽い子、てっぺんでT字型をする役がもっとも光が当たると見なしている。上か下かの二元論で捉えて「かわいそう」とかの評価をしているわけだ。


 そういう人は上しか見ていない。上ばかり見ている人間の価値観が「かわいそう」と勝手に判断している。ピラミッドは上が、騎馬戦も上が、と上ばかり格好よくて下積みをバカにする側の世界観なのだ。


  何をもって上がよくて下が悪いのか意味不明だ。子どもの頃、T字型役のてっぺんの友だちは「チビの役ばっかり…」といって悲しそうだった。子どものなかではむしろ逆で、より下層の段に行きたい、もっと発育したい、強くなりたいという思いが本来的に強いと思う。土台の子が目立たないところで頑張って支えているから、上に乗る子が登れるし、発育スピードの違いも見極めた上で配置が決まり、みんなで持てる力を一つにするのがピラミッドだ。1人でも痛みに耐えかねて肩を下げたりすると崩れるし、上の段に乗る子が下の子の尾てい骨に足膝を乗せていなかったとかで負荷も違ってくる。思いやったり辛抱したり、それこそが醍醐味だろう。というより、「かわいそう」も何も、昔は完成したら最後に右、左、上と首を降ってみんなで同じ方向を見た後に、ドーンとペシャンコに潰れるところまでが演舞だった。息があっていたら痛くないし、その一瞬に集中することも含めて、よくできたものだと思う。


 D 教師たちは運動会でピラミッドをやるにあたっては、相当周到な準備をして臨む。たとえば50~60人の大人数で組み立てる立体ピラミッドでも、表に見えない中央で支える子どもに最も負荷がかかり、1人でも気を抜けば崩れて危険を伴う。練習といえども緊張していなければできない。緊張感の伴う練習を重ねて、子どもたちが互いに声をかけあい励ましあって、集団で力をあわせて一つのことを成し遂げた経験は、その後の人生でかならず支えとなるから本気でとりくむ。それを見守る父母や祖父母が子どもの頑張りに涙を流し、惜しみない拍手を送る場面も運動会の忘れがたい思い出となる。


  ピラミッドを指導してきた小学校教師は「人が人を支える経験、人の命を支える緊張感を味わわせたいと思ってやってきた。今の子どもたちは一つのことを集団の力でやり遂げる経験があまりない。だから運動会を利用して、きつくて苦しいことを乗りこえたからこそ得られる楽しさを経験させたかった」と話していた。別の教師は、「自分たちは練習の過程を大事にしている。運動会の時期は子どもの体力がぐんと伸びる時期でもある。そのなかで身体を鍛え人のために踏ん張る、自分が崩れたらみんなが崩れるという緊張感が大事」と語っていた。


  たかがピラミッドだが、実際に体育祭や運動会で立派な演舞が決まった時の感動はすごい。あの子どもたちの頑張りを見て、「すごい!」「よく頑張った!」と感じるか、「かわいそうな子たち」と思うかでは感性からして180度違いがある。しかし「かわいそう」派の声がメディアによって大きな物になり、学校現場がむしろ萎縮しなければいけない事態になっている。おかしな話だ。



 あれもダメこれもダメ 面白くない運動会



 A 組体操だけでなく、運動会そのものに対してあれこれの規制が増えている。北九州市教委のガイドラインは、「大玉送り」「平均台」「棒引き」「ムカデ競走」も規制対象にしており、「もしケガや事故が起こればおおごとになる」という異様な空気ができている。


 「ムカデ競走」は「倒れた際に大きな力がかかるため、事故防止のために一グループを少人数でおこなうこと。足の動きが乱れた際に、足の固定が外れやすい固定具を使用する」と指示している。また「平均台を使った技」については「過去に多く事故が発生していることもふまえ、平均台を走る技は避ける」、「棒引き」は「棒を引き合う際、転倒して引きずられることがないよう、一組ずつ審判をつけるなど配慮すること」と事細かに指示している。


 さらに今年から騎馬戦のガイドラインで「組み合う形でおこなう場合、お互いの顔と頭部が接触しないよう、右肩同士でぶつかる約束をしておく、一斉の競い合いはおこなわず、1組の競い合い(騎馬2騎)につき、補助の教員が2人以上付く。騎馬を組んだ技(変化走)の競争は走らず、歩いて行う」としている。特殊な例だと思うが、騎馬同士がぶつかるのは危険だといって、子どもたちが手を組みあった場面から騎馬戦を始めさせる学校もあるという。ここまで規制されると、もう運動会なんてやめてしまえ! ダンスでもしておけ! という声が出てきそうだ。


  北九州は歴史的に教組の組合主義の影響が強いといわれる地域だが、徒競走で順位をつけなくしたり、選抜対抗リレーをなくしたりしている。規制でがんじがらめにされている。競争はダメ、危険だからダメ、あれもダメ、これもダメ。それで運動会から興奮と感動を奪って、いったい何がおもしろいのかだ。だいたい、運動会というのは年に1度の体育の祭典であって、子どもたちも朝から戦闘モードで挑む。栄養ドリンクを飲んで張り切ってくる子までいる。親まで含めて戦闘モードで、観覧席のとりあいからしてすごいことになっている。あの興奮と緊張感のなか、日頃は弱いと思っていたような子が頑張って強い子を負かしたり、番狂わせが起きたり、クラスやチームのために奮闘して絆が深まったり、転けても立ち上がって完走する子に惜しみない拍手が送られたり、観覧席も含めて盛り上がる。興奮と感動こそが醍醐味なのに、そのために欠かせない戦闘性や協調性を奪って何がしたいのかと思う。


  中学校男子の騎馬戦は騎馬を倒すまでが勝負だったが最近は鉢巻きをとったら終わり。棒倒しも棒を倒すまでではなく、棒の上にある旗をとるまでになっている。「組体操は1段か2段でいい」「組体操をやめてソーラン節をやればいい」という流れもある。これではやっている子どもたちも、見ている側もまるでおもしろくないものになる。棒倒しでも、だいたいやんちゃな目立ちが攻撃側に回りたがるが、いい気になって踏んだり蹴ったりしてくる乱暴者をクラスの団結で撃退したり、仲間のために1人1人が奮闘しなければ「やられた…」「僕がかわいそう…」では痛みだけで何も残らない。緊張感があるし、そのなかで追い込まれて育つわけだ。家族も見ているし、何なら女の子も見ている手前、男たるもの見せ場で奮起せよといった世界だ。攻撃側に光があたって防衛側は「かわいそう」という代物ではない。


 同じように騎馬戦でも上に乗っている子に光りがあたって、騎馬になる子は「かわいそう」とか見方がまるで違う。それらを含めてチームなんだというのを否定している。騎馬になるようなガタイのいい子は、自分が乗ったら騎馬がつぶれてしまうことくらい自覚している。それで「オマエ、絶対に負けるなよ」と上に乗る子に託すし、その気持ちに応えて上の子も頑張る。いったい何が「かわいそう」なのか厳密に見てみることが必要だ。「かわいそう」といわれて、「そうです。僕はかわいそうなんです」というような子の方が大丈夫か? と思う。


 社会に出てからが悲劇 鍛えることの大切さ



  ピラミッド問題でもそうだが、あの程度の肉体的苦痛に耐えられずして、いったいどんな大人になるのかだ。ピラミッド如きの苦痛に耐えられないような人間が、大人になって世間に放り込まれたとき、もっと辛い肉体的苦痛、精神的苦痛など乗り越えられるだろうか。「かわいそう」といって過保護をやるのは、一見優しいように見えるかもしれないが偽善だ。そのようなモヤシを育てて、後から「ゆとり世代」「さとり世代」などと酷いあだ名をつけるのだからひどい。


 「最近の若者は…」という言葉はいつの時代も上世代のなかで使いたがる人人がいるが、自分たちの世代よりも劣る世代が育って満足したり優越感に浸っているようでは日本社会は発展しない。「俺たちを乗り越えていけ!」くらいの気構えでかかるし、そのために子どもや若者を鍛えていくというのは社会にとって不可欠だ。昔の人は「若い頃の苦労は買ってでもしろ」「可愛い子には旅をさせろ」「ライオンは子どもを谷底に突き落とすのだ」といってきたが、あえて苦労や困難を与えて鍛えるという哲学を持っていた。大人になったときにもっと大きな困難や苦労が待ち受けているし、少少のことでへこたれない強靱な肉体や精神を育てようとしていた。


  苦労とか困難についてどう見なすかだ。行き詰まったり悩んだりしながら子どもたちが人間として成長していくなかで、困難こそが強くすると見なすのかだ。「かわいそう」「危険」といって無菌状態にするなら、ちょっと嫌気がさしたら耐えられないような子が量産される。3日で辞めていく新入社員とかが話題だが、困難から逃げ出していく受益者気質が培養されたら社会全体をダメにしてしまう。ひきこもりの自宅警備員にしてしまったり、ネットおたくにしてしまったり、社会と向き合うことから逃げていってしまう。それで「最近のゆとり世代は…」「さとり世代は…」とバカにする方が残酷だ。 


  教師たちは、少しつまずいただけでケガをしたり、倒立の練習の最中に自分自身を支える力がなくて骨折したりと、最近の子どもは体ができていないし体力がないことも問題にしていた。小さい頃から鍛えられておらず、ひ弱になっている、それでは社会に出てから困る、と。運動会の練習時間が昔に比べて少なくなった、進級したばかりの春にやること自体に無理があるという意見も根強い。鍛えないとダメだということだ。



 子どもを逞しく育てる 教師の指導性回復を



  文科省の「個性重視」教育、「鍛えてはいけない」「そのままの君でいいんだよ」というものがいかに犯罪的かをあらわしている。今回の組体操の規制には、最近の「いじめ」「体罰」キャンペーンと同じ構造がある。いじめ問題も、「被害者」側がいじめられたと感じればそれがいじめと認定され、親だけでなく警察やマスコミ、教育委員会までが加わって、「加害者」側を総攻撃する構造ができている。教育的に解決できる場合がほとんどなのに、教師の指導性が否定されて権力による統制ばかり強まり狂暴なる自己中心イデオロギーが煽られている。


 教育現場では二十数年前から「自由・民主・人権」路線で「そのままの君でいいんだよ」という個性重視教育がやられてきた。そのもとで、子どもを集団の規律に合わせて我慢させたり努力させることをさせず、「自分が感じたまま」「思うまま」が尊重されてきた。そして教師の指導性を否定して野放しの「子ども天国」にした結果、学級崩壊なども頻発するようになった。「鍛えてはいけない」は動物状態のままにするということで、規制が効かない子どもを量産してきた。


  だから学校で悪さをした子どもを叱ると、「ごめんなさい」という言葉は出てこないで、「だって、おもしろかったから」「やってみたかった」という言葉が出てくる。自己保身のためにウソをついたり、それが発覚すると言い訳や屁理屈を披露するのには長けているというのも教師たちが実感している特徴だ。また「○○君の方が先にしていた。僕は悪くない」と人のせいにして正当化し、問題をすり替えることも多い。子どもたちの基準が、「自分が楽しいかどうか」「気持ちがいいかどうか」が最大で、「人様に迷惑をかけたらいけない」「友だちはどう思うだろうか?」といった人間としてのモラルの基準、善悪が教えられていない。集団性が断ち切られて、自己中心的なイデオロギーが一方で強烈に存在している。その反社会的な傾向が人を刺したり、佐世保事件のように友人を解剖するまでになる。


  しかし今の学校現場は教師が物事の善悪を徹底して教育することがはばかられている。何か事が起きるとすぐに「体罰」騒ぎに発展したり、学校を袋叩きにして解決能力をマヒさせてきた。“いじめ”問題でも言った者勝ちの風潮が煽られている。いじめがいけないというだけでなく、同時に不当ないじめには挫けない強くたくましい子どもを育てなければならないのに、そっちには余り関心がないようだ。死んでしまっては元も子もないのに、「報復」側の反撃が一方的に良しとされる風潮のなかで、子どもの報復自殺が助長されている。どっちが悲劇なのかだ。


  文科省やマスコミ、それに弁護士や裁判所までが加わって「ピラミッド撲滅運動」をやっている。こうして教師の指導性や誇りを奪うから、子どもは育たないし教師の精神病も増える。


  運動会というのは日本的な行事のようだ。欧米には運動会がない。競技大会はあるが、全員参加の学校行事としてやるところは他にないという。運動会の起源は、明治時代になって学制が敷かれてからで、1900年の小学校令改正で体操科が必須科目となり運動場設置が義務づけられて、各学校主催の運動会が始まった。当時は地域と学校とを結ぶ運動と交流の場であり、村祭り的なコミュニティの連帯を強める場が日本の運動会の原型だという。たたかいを遊びにしており、遊びだが真剣勝負だ。


  日本の祭りも、農耕や漁労と結びついて生まれたが、福島県の相馬野馬追が数百騎の馬で神旗を奪いあうものだったり、福岡県筥崎宮の玉せせりが男衆200人で重さ8㌔の玉を奪いあうものだったりと、闘争心あふれるものも多い。豊作祈願のすもうや綱引き、力比べも各地にある。火山噴火や地震、台風、津波と自然環境の苛酷な日本列島だが、その自然を畏れるとともにそれに負けず、たくましく生きてきた民族性をあらわしている。戦時中はそれが軍国主義に利用され、戦後はアメリカによって骨抜きにされ崩されてきた歴史がある。米占領軍が日本人の大和魂を恐れてチャンバラ映画を禁止したというのは有名な話だが、「しごきはいけない」といっている間に、横綱はモンゴル勢に独占され、日本人が10年ぶりに優勝したといって大騒ぎしないといけなくなった。


  「ピラミッド撲滅運動」も、こうした日本人の集団性や闘争心を嫌う勢力が煽っているということではないか。運動会にあらわれている問題は、たんに「危険か、危険ではないか」ということではない。子どもたちから民族的背骨を抜くのではなく、次代の担い手としてたくましく育てるかどうかの問題だ。

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