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親日感情溢れたイラン巡回交流展 群炎美術協会前会長・盛山重信氏に聞く

 1961年に創立された群炎美術協会は、現在全国に数百人の会員を擁し、東京都美術館において年1回の公募美術展を開催している在野の美術団体である。群炎美術協会は2012年、創立50周年記念の一大イベントとして、イランの古都イスファハーンとテヘランで半月間の「イラン国内巡回交流展」をおこない、イランの人々と交流・友好を深めた。それは日本とイランの文化交流の先陣を切る意義深いとりくみとなった。その後、日本・イラン芸術家交流協会を立ち上げ、今年6月には第1回交流展を東京で開催する準備を進めている。本紙は群炎美術協会前会長の盛山重信氏にインタビューし、イランでの巡回展の経験やイランの人々の反応、日本に対する思いなどを聞いた(掲載した写真も盛山氏からの提供)。

 

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 群炎美術協会とイランとの文化交流のきっかけは、日本に働きに来ていた1人のイラン人美術愛好家、モハメド・ホセイン・ハニー氏が2000年の群炎展に応募してきたことだ。彼の絵は独特の個性を持っており、群炎の賞を得たこともあって、「美術家の仲間たちにも群炎展に応募するよう働きかけてくれないか」と私から持ちかけた。すると、何と彼は8000㌔以上も離れたイラン本国の、テヘランの美術大学で講師をしている友人たちに呼びかけていた。

 

 当時会の事務局長をしていた私は驚き、うれしくなって、2002年2月の会創立40周年記念展でイラン交流展をやろうと本腰を入れた。前年に9・11テロ事件があった直後だったので、美術作品を成田空港で受けとるさいのチェックが厳重で、家を朝6時に出て帰ったのが午後10時を過ぎていたのを覚えている。

 

 結局、展示会場の一つの部屋をイランコーナーにし、彼らの作品32点を展示した。作品はイランの伝統的なミニアチュールではなく、意外にも抽象画、半具象画だったことに驚いた。また、届いた作品の制作者は男性ばかりだと思っていたが、25人中9人が女性作家だったことにも驚いた。イメージとしてイランの女性は社会で活躍できないと思ってきたことに、他国を知らない自分を恥じた。

 

 次いで2005年の愛知万博のとき、イランのパビリオンに出品していた画家のモハンマド・ホセイン・ハザイ氏との出会いがあった。せっかくだから東京でも作品展をやりたいという彼の要望に応えたわけだが、それで終わらず、愛知万博で彼の作品を見て感銘を受けたという地元の母親たちのグループが彼を招待して豊田市美術館で展覧会をやる動きに発展した。創立45周年の46回展では2回目のイラン交流展をやり、ハザイ氏を招くとともに、ペルシャ絨毯の展示もやった。

 

 すると今度は、ハザイ氏がイランに帰国したさい、イランの日本大使館に行って群炎45周年の図録を見せて、日本大使館が主催してイランでおこなう「日本文化週間」事業に群炎が共催という形で参加できないかともちかけてくれた。

 

 こうした人と人とのつながりのなかで、2012年1月19日から29日まで、イスファハーンとテヘランで巡回交流展が実現した。会員の絵画や写真美術、金工・木工・陶器などの工芸、人形美術・彫刻とともに、3・11東日本大震災の衝撃的な爪痕の写真や被災地の子どもたちの絵も借りて展示した。さらに会員のなかで先生をしている者がいたので、会場でお茶や書道の実演もやった。そのため会員7人でイランに行った。

 

 なにもかも初めてのことだった。アメリカの経済制裁で、それまで週2便出ていた成田空港からイランへの直行便がなくなり、中国経由で行かないといけないというなかでのとりくみだった。

 

 イランで巡回交流展をやってみて、その反響の大きさに驚いた。なにしろ連日長蛇の列ができる大盛況となったのだから。国営テレビも連日放映してくれた。

 

巡回展で展示された絵画に見入る参観者(テヘラン)

 

イラン人の入場者で溢れた会場(テヘラン)

 

 イランの人たちは私たちが行く前から「tsunami」という言葉を知っていて、東北の津波被害を伝える写真の前では心を痛めていた。実はイランは日本と同じ地震国で、南東部のケルマーン州で地震があったときには世界遺産である古代の要塞都市「アルゲ・バム」が壊滅的被害を受けた。そのときは群炎展で募金を募り、イランに寄付したのだが、日本政府が同じ地震国として耐震建築技術などを提供すれば平和構築に大きく貢献するのではないか。

 

 巡回展では、イラン人は茶道の実演にものすごく興味を持っていたようだ。「なぜお茶を飲むのにあのように礼儀正しくするのか?」と不思議がっていた。お茶の文化を目の当たりにして彼らは、日本人が礼儀正しい国民だということをあらためて知ったのではないか。もっと日本はイランに日本の文化を発信すべきだと実感した。

 

 また、イランにも昔から書道がある。それは一種のカリグラフィー(字を美しく見せる書法)のようなものだが、イスファハーンにはペルシャ書を油絵で描いている書道家もたくさんいた。その技術力はたいしたもので、油絵の扱い方はものすごくうまい。私はその作品を見たとき非常に感動した。深い心情を表現したものもけっこうあった。

 

日本の習字の実演にも人だかりができた(テヘラン)

 

茶道の実演はなかでも大反響だった(イスファハーン)

 

 イランに行った7人の会員は、「イランの人たちがこんなに温かく迎えてくれるとは思わなかった」と驚いていた。お互いの気持ちを自由に交流するこうした場が本当に大切だと思った。びっくりしたのは日本に来たことがないのに日本語の達者な若者が多いことで、聞くと「将来日本に行きたいので、大学で日本語を勉強している」とのことだった。大学の先生が日本人の名前をつけてくれたと自慢する学生もいた。

 

 イスファハーンは日本の京都や奈良に匹敵するほど歴史的な文化遺産が多い街だが、そこでは紀元前からペルシャ文化が営々と流れてきた歴史を感慨深く思った。日本とイランとの交流も、1400年前のササン朝ペルシャの時代にはすでに始まっており、イランからの贈り物が奈良・東大寺の正倉院に残っている。日本の人にはそうしたことにも思いをはせてもらいたい。

 

イスファハーンの会場・現代美術館の近くにあったイマーム広場。モスクや回廊が四方に配され、世界遺産に登録されている

 

 巡回展の実現に尽力してくれたのが当時の在イラン日本大使・駒野欽一氏だ。彼はペルシャ語が堪能で、イランの詩を翻訳したり解説したりする。その駒野氏が「80年前にイランと日本が国交を樹立し大使館をオープンしてから、こんなに大規模な文化交流をやったのは初めてだ」といっていたのを思い出す。

 

 ついでにいうとペルシャ世界の四大詩人はイランから出ており、西欧文学に影響を与えている。ハーフェズ、サーディー、フェルドゥーシー、ルーミーの四人で、マシュハドやシーラーズにある彼らの霊廟にはたくさんの観光客が訪れている。3・11大震災後、イラン人が日本国民に哀悼の意を込めて次のサーディーの詩を贈ってくれたと、駒野氏がいっている。「世界の人々はみな同胞 人の誕生の源は同じだから 一人でも痛みを覚えれば 誰一人安穏としていられない」

 

広島、長崎に深い同情

 

 はじめて訪問し体験したイランは、日本のメディアが報道する状況とは大きな落差があったと断言できる。なぜ日本のメディアは偏った報道しかしないのか。私も会員もイランに行く前は、核の問題があってイランは「恐い国」「危険な国」というイメージがあり、行く前には半ば「遺書を書かなくてはいけないか」というような思いだった。しかし今では私の口癖は、イランはけっして悪い国ではない、百聞は一見にしかず、一度行ったら好きになる国はイランだよ、といっている。とにかく一度イランに行ってみたら、いかにイラン人が日本びいきかということがよくわかる。

 

 そうした親日感情はどのようにして培われたのか。第二次大戦が終わってまもなく、イギリスがイラン原油を国際市場から締め出したとき、日本の出光がイラン原油を買い付けに来たことは、今でもイラン国民の記憶のなかに鮮明に残っているし、それが若い人たちにも伝えられている。

 

 また、アメリカが広島や長崎に原爆を落としたことをイランの人はよく知っており、同情心が強い。これは恥ずかしい話だが、白血病で亡くなった佐々木禎子さんの話はイランに行って初めて知った。イラン人から「日本人はアメリカに原爆を落とされて散々苦しめられたのに、何でアメリカにものをいわないのか」と質問されたこともある。

 

 イラン人は黒澤明や小津安二郎の映画もよく見ており、『七人の侍』は人気だ。NHKの朝の連続ドラマ『おしん』は視聴率が90%にもなったといっていた。親や家族を大切にするということを含め、日本人は自分たちと同じ感情を持っていると思ったようだ。原爆でたくさんの人が死に、焼け野原になったけれど、貧しいなかから頑張って経済を復興させてきた日本人に、尊敬の気持ちを持っている。

 

 絵描き仲間のなかで、ヨーロッパに旅行したとき、買ったばかりのカメラをベンチに置いていたらあっという間になくなったという話がよく出る。ところがイランに行ったとき展覧会場にカメラを置き忘れたが、ちゃんとその人の所に戻ってきたのでみんなが驚いた。治安がいいということだ。イスファハーンの観光地はチリ一つ落ちていない。聞くと毎日深夜にゴミを回収しているという。観光客に対する気遣いが貫かれている。

 

 そのほかイランには武闘家が多い。沖縄空手や少林寺が人気だ。合気道の有段者である日本人女性がイランに旅行に行ったら、向こうの道場からお呼びがかかったという話があるほどだ。イラン人は日本の大相撲も好きで、衛星放送でよく見ているようだ。イランというと砂漠にラクダというイメージだが、実は四季があり、緑が多く、果物が豊富でおいしい。

 

 戦後一時期はアメリカがイランを自由にできていたのに、イラン革命でそれができなくなり、そこからイラン・イラク戦争を引き起こしたり経済制裁をやったりしてきた。だからイラン国内では国民生活のうえで困難な問題も抱えているようだ。しかし中東では、王制で議会すらない国が多いなか、イランは共和制で民主主義の国だ。そういうことを含めて私は、日本人と心情が重なる部分があると思う。そして私たちにできることは、文化を通じてイランの人々とつながりを持ち、一歩でも二歩でも相互理解を深めていくことだと思っている。

 

 イラン映画の『旅の途中でFARDA』(監督・中山節夫、日本イラン合作映画)、『そして人生はつづく』(監督・アッバス・キアロスタミ)、『ボーダレス ぼくの船の国境線』(監督・アミールフセイン アシュガリ)の三つは、ぜひ日本の人たちに見て欲しい。よくあそこまで如実にイランの人たちの心情を表現しているなと思う。人を殺す場面が多いハリウッドの映画とはまったく違い、奥深さがあるし、映画を見て心打たれる部分が多い。芸術を通してその国の国民がなにを考えているのかが背景に感じられる。

 

 私は沖縄県の石垣島の出身だが、石垣島の民俗芸能は労働のなかから生まれている。浜辺で男女が輪になり、奏でる三味線の旋律に乗せ一人一人が踊る。その場で「われこそは」と飛び込み、そしてきれいな踊りを披露する。それを方言で「イズスドウヌス(この場をしきるのは私だ)」だと仄聞したことがある。それが民俗芸能の本質だと私は思っている。

 

 戦後、美術界も旧来の家元制度の影響が色濃く残ったままで、既存の枠組みのなかでしか表現できない、独自性が育めないものになってきた。これに対して群炎の創始者の故・阿部武久代表が「美術団体に権威は無用。自己のオリジナリティを犠牲にせず、一人一人がキャンバスの上で自由に表現する」ということを訴えてきたし、私たちもそれを目標にしてきた。それは先の民俗芸能の精神と相通ずるものがある。

 

 日本とイランの文化交流も、ときどきの政治の風向きにとらわれず、人間と人間とが自由に交流するなかで発展していけばいいと思う。

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