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『生きるための図書館』から、私が思っていること 滋賀県多賀町立図書館長・西河内靖泰

 にしごうち・やすひろ 1953 (昭和28 )年大阪市生まれ。立正大学文学部卒業。東京都荒川区役所に勤務。荒川区内の図書館に18年間勤務し、2009年3月に荒川区を退職。その後、滋賀県愛荘町、多賀町で図書館長を務める。桃山学院大学兼任講師、広島女学院大学特任准教授、16年から広島大学司書教諭講習講師、17年から山口大学非常勤講師。18年4月に下関市立中央図書館長、19年4月から滋賀県多賀町立図書館の館長。

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 新年あけましておめでとうございます。私は、一昨年の4月から昨年の3月まで、わずか1年間ですが、下関市立中央図書館の館長をしておりました。市民の皆様にきちんとご挨拶する間もなく、下関を去ることとなりまして、まことにすみません。私としては、もう少し下関で頑張りたいと思っていましたが、事情がありまして、今は、以前も居ました滋賀県の多賀町の図書館長をしています。


 長周新聞さんには、下関の図書館に在任中は、よく私の話やコメント、図書館のことなどで度々登場させていただきました。この度、新年に当たり、図書館に関する本のことについて、少しお話させていただきます。

 

 昨年6月、図書館に関した本が出版されました。本のタイトルは『生きるための図書館』(岩波新書、本体価格780円、224頁)。副タイトルに「一人ひとりのために」とあります。著者は、竹内悊(さとる)・図書館情報大学名誉教授、元日本図書館協会理事長です。この本が出されて、図書館に関わる人たちから様々な書評や紹介がされています。私も、共同通信から頼まれ、次のような紹介文を書きました。

 

 「本のタイトルには、人びとを引き付けて離さないものがある。この本のタイトルもそうだ。図書館はどんなところなのか、どんな存在なのかを明確に示している。人びとが「生きるために」(生き抜くために)、図書館はあるのだと。
 本書では、まず、住民なら誰でも自宅から10分ぐらい歩けば図書館がある東京・多摩地区の市の図書館の分館を訪ね、その日常の風景を語る。その風景は、ごく普通の当たり前の姿なはずだが、私をなぜか懐かしく、愛おしく感じさせてしまう。
 続いて、子どもたちの読書に取り組んだ人たちの努力について、語られる。その人たちの活動によって、公立図書館には児童室が当たり前になり、図書館も増えていったことを。著者は、子どもたちと本とに関わる人の大切さを問いている。専門性と経験とセンスを持ち、常に学び続ける専門の人たちの存在。それは、図書館の現場、つまり「読者」との関わりから生まれたものだ。
 著者は、図書館を使う人を「利用者」とは呼ばず、「読者」と呼ぶ。「利用者」という言葉には、図書館を入館者数で評価する、人びとを一人ひとり大切にみていない空気を感じる。図書館は、本と人を結び付けるところだ。図書館にある多種多様な本たちが、人びとの「生への力」(未来の可能性)を支えてくれる。
 東日本大震災は、図書館にも大きな被害をもたらした。被災者である市民と図書館員が、これからの生活に向けてどのように取り組んだかについての記録が語られる。そこからは「生きるための」という図書館という存在がみえる。
 「図書館とは何か」を私たちに問い、その答えを示している本だ。だから、力づけられるが、図書館員である自分には重い。自分たちが何をやってきたのか、これからどうしようとしているのか、それを問いかけている本でもあるからだ。」
 (共同通信配信、2019年9月15日・京都新聞掲載)

 

 この本のオビには、図書館のことを、「学校で、地域で、いまこそ必要とされているところ」とあります。書かれていることは、ごく当たり前のことです。ネットでの感想のなかには、当たり前のことしか書いてなくてつまらないというものもありました。ですが、私はだからこそ、この本は大切なものだと思います。

 

図書館の日常を支え続ける

図書館での絵本の読み聞かせ

 第一章は、「地域の図書館を訪ねて」とあり、東京・多摩地区の市(調布市)の図書館の分館の日常の風景を紹介しています。私は、先の紹介文で、その風景を「懐かしく、愛おしく」感じると書きました。この本でも触れている2011年3月11日の東日本大震災で壊滅的被害を受けた岩手県陸前高田市の図書館の映像を見せられて、私は衝撃を受けました。


 それまで、当たり前だと思っていた、子どもたちが、親子が、お年寄りが、本を選び、読んでいる図書館の日常の姿は、決して当たり前ではないということを。それは、一瞬の強力な力で崩れ去ってしまう存在だったのです。ごく自然に本を手に取り、本を開く、そのことができる素晴らしさを実感したのです。私には、それ以来、図書館の日常の当たり前の姿は、「懐かしく、愛おしく」大切にしていくべきものとして、心に刻み込まれています。その姿を支え続けることが、図書館員たる自分の役目だということも。


 だからこそ、図書館はどんな人であってもその利用を拒みたくはありません。昨年10月、首都圏を襲った台風19号の時、東京・台東区で自主避難所を訪れたホームレスの人たちの利用を「住民票がない」との理由で断ったことがありました。さすがに、この台東区の行為に対して批判がおき、区長が謝罪することになりましたが。


 災害救助法では、ホームレスを排除できるはずがないのに(同法の事務取扱要領では、現在地救助の原則があり、住民票がなくても今居る、その自治体が対応するとある)、なぜ、こうなるのでしょうか。普段からホームレスの人たちを迷惑な存在としてしか認識していないからです。


 図書館では、ホームレス風利用者について、問題になってきました。他の利用者の迷惑になるから、できるだけきてほしくないと。でも、図書館には、人びとの「利用の自由」も含む「図書館の自由」の原則があります。また、欧米では、その存在をただ迷惑がるのではなく、彼らに対する具体的な図書館サービスに取り組んでいる図書館もあります。迷惑がる発想そのものは、図書館としてふさわしいものではないと、私は思います。

 

学ぶことを求める人の為に

 

 迷惑がるといえば、学生の図書館の「席貸し」問題があります。日本の図書館では1960年代以前は受験生の勉強部屋となっていたところが多く、本を借りる人はあまりいませんでした。60年代後半からの貸出に重点を置いた図書館サービスの展開のなかで、「席貸し」は図書館サービスではないとの考え方(だからと言って、使わせないということではなく、一定の時間制限やエリア制限をすることになりますが)になり、学生の閲覧席の長時間利用に制限が加えられるようになります。図書館が発展していく中で、図書館の利用を多くの人たちに拡げていくためには、これらの制限はやむを得ないものであったと思います。かつて、私も、あるラジオ番組で、学生の図書館の閲覧席利用の制限について、図書館の立場を説明したことがあります。納得はいただけませんでしたが。


 ただ、新館づくりを直接自分が担当してみると、主に学生が使うことになる学習席の要望は強いことが分かります。このところ、新しくつくられる図書館には、あえて(むしろ積極的にみえる)学習席をつくるところもあります。それに対して、図書館界の重鎮が批判されていました。図書館は資料提供のための機関であり、「席貸し」は図書館サービスではないとして。この方の言わんとする立場はわからない訳ではありませんが、強く非難されることとは思えません。


 学ぶことを求める人たちに、その環境を整えることも、教育機関でもある図書館の役割ではないでしょうか。単なる「席貸し」と言って、切って捨てる発想は、私には図書館にふさわしくないと思います。今、子どもたちの貧困問題に関心が高まっています。これらの子どもたちが十分に落ち着いて勉強する環境が自宅に備わっていると言い切れるのでしょうか。彼らに、そうした環境を提供すること、施設的にその余裕がないのであれば、他の公共施設や教育機関を紹介したり協力を求める努力をするのが、図書館としての姿勢であってほしいです。


 「生きるための図書館」とは、人びとが「生き抜いていくために、あらゆる人たちに開かれ、何者も排除せずに、一人ひとりのために、存在する図書館」そのものだからと思うからです。

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