【はぐるま座長崎普及班通信】 長崎の町衆は長州びいき! 4月におこなわれる劇団はぐるま座『動けば雷電の如く―高杉晋作と明治維新革命』長崎公演にむけたとりくみが進められている長崎市では、埋もれた明治維新と長崎との深い関わりが掘り起こされ、新鮮な感動を呼んでいる。
これまで長崎は、龍馬や明治の元勲との関わりがクローズアップされる一方、民衆と明治維新との関わりはほとんどないといわれ、これらの歴史が明るみに出たことはない。実際、「書物に残されたものは原爆で焼かれ、郷土の歴史が調べたくても残っていない」と多くの人が語っているが、父祖たちの誇りある歴史は厳然として語り継がれている。
薩長同盟推進する舞台にも
市内丸山にある史跡料亭花月は今年創業367年(1642年創業)。ここでは、花月にある日本最古の洋間(春雨の間)で高杉晋作と薩摩藩の五代友厚が会談し、鉄砲をイギリスから購入する商談がまとまったことが誇りとして語り継がれている。慶応元年3月のことである。これは、高杉が2月に長州藩内の藩論を統一させた直後であり、薩長同盟の前年である。
当時の長崎は、薩摩、長州、土佐をはじめ外国人も出入りしており、日本並びに世界情勢の最先端の情報が入っていた。とくに丸山が中心的な位置であり、かなりの人たちが出入りして交流している。
長崎は幕府直轄地の天領であったため、禁門の変以降長州は出入り禁止になり、長州屋敷からも追放された。だが、長州の人間は薩摩を名乗って長崎に来ている。「白石正一郎などもかなり口利きしていただろう」といわれ、「長州が朝敵となり追放されているにも関わらず、徳川幕府に楯ついていったというところに長崎の町衆の支援があった。長崎の町衆は、長州びいきだった」と語られている。
「薩長同盟も偉い者がやったのではなく、もともと薩摩と長州の下部の藩士たちに素地があった。それは長州が追放されてから薩摩を名乗っていたことに表れている。下っ端の者が長崎を舞台にそういう動きをしていた。これらの上に薩長同盟というものになった」。
五代は高杉とともに上海に行った人物で高杉とは旧知の仲。
また、花月では「高杉さんはどどいつも非常にお上手でみんなから親しまれていた」とその人柄についても語られている。「今でも高杉さんのどどいつがうたい継がれている」。芸子さんのお座敷でも一番やる機会が多いという。
戊辰戦争に参加した振遠隊
また天領であった長崎にも明治元年、戊辰の役の奥羽戦争に行った振遠隊(337人)があった。しかしその歴史はあまりにも知られていない。もともとは治安維持部隊・遊撃隊として組織されたが、情勢の変化のなかで、「上海や香港のように長崎はこのままいけば植民地になる、1番危険性が高いのが長崎。それは絶対に避けなければならないと町人の次男、三男の町衆が戊辰戦争に行っている」と語られている。
大正6年に発刊された福田忠昭著『振遠隊』によると、「嘉永安政以降における長崎は、開港以来の最も危険にして多端なる時代なりき。政治は元より外交軍事貿易1つとして革新の時期に在らざるはなかりき」と記されている。外国貿易では、安政6年6月に幕府が神奈川、函館2港を開港したことにより、それまで長崎にすべて入っていたものが入らなくなり、「長崎会所が一手売買の特権は、変じて一般商人、相対自由の商法となれり。市民が会所貿易利益金に潤ひたる昨日の歓楽は、最早一塲の夢となれり。かくて長崎の根本的変革期は突進し来たれり」と記されている。
また外交面では、「御役所と称して200余年来、尊敬畏怖の中心たりし西奉行所には、洋夷として会するだに恥辱とせし外国使節共が、御役人と相並びて出入りせり。毛色の異妙なる、眼色の変わりしオロシヤ連は、稲佐に上陸するのみか、宿泊までも許可せらるるに至り、付近農家の婦女達が稲佐遊郭の発端を形成するまでに世は変化しぬれば、出島籠居の蘭人も次第に市内遊歩の自由を保証せらるる様になりぬ。されば世人の驚愕は一方ならざりき」とされ、こうした時代背景のなかで振遠隊が結成される。
役職についたのは、土佐藩出身・石田栄吉。石田は、中岡慎太郎とともに長州の忠勇隊に入り、禁門の変にも行っている。その後高杉晋作率いる奇兵隊に入隊し、四境戦争小倉口の戦いに参加。そして坂本龍馬を隊長とする土佐の海援隊に入って後、振遠隊となる。
奥羽出兵のときには「新大工町より大波止迄、見物送之人々山をなし、通行し難し、互に押合提灯白昼の如く」(福田忠昭著『振遠隊』)であり、町民が応援したことがわかる。
ある男性は、「戊辰戦争に勝って帰ってくると、海援隊の上の者たちは“勝った勝った”とやったが、実際の戦に行った人たちはなにも語らずに静かに町人に戻っていった。それが長崎の町衆なのです」と語った。
振遠隊の招魂場は梅ヶ崎神社に梅ヶ崎招魂社としてつくられた。これは下関にある桜山招魂場と同じく、標柱はみな同じ高さであった。
しかし、長崎では戦後意図的に抹殺されてきた。梅ヶ崎招魂社は昭和37年に佐古招魂社に移転され、現在では「梅ヶ崎招魂社並同墳墓地跡」として碑が建っているのみで移転先に昔の面影はない。
招魂社近くに住む高齢男性は、「招魂社は戦前は春分の日の夜に招魂祭がやられ、出店がたつなど賑やかにおこなわれていたが、戦後そういうことはなくなった」と語る。また、昭和五七年にキリスト教の牧師であった市議が「忠魂碑への公金支出は憲法違反」とする忠魂碑訴訟を起こし、「それ以後、廃れ方が激しくなった」と話した。また、別の男性も、「ここのことは忘れ去られている」と語った。
現在に通じる明治維新の心
だが、明治維新のときに長崎からも「植民地にさせない」という独立と世直しをかけて町衆が立ち上がったように、現在も共通の意識と市民の結束が脈打っている。
5年前からおこなわれている長崎西洋館での原爆と戦争展では、「原爆を落とされたが、植民地にはさせない」という思いが噴出している。「原爆を落とされてもしょうがなかった」と発言した久間元防衛相は瞬く間に辞任に追い込まれ、伊藤一長元市長銃殺事件では、市長選のひっくり返しなどにも町衆の結束と力が現れている。
ある商業者は、「高杉の攘夷と開国は独立して開国の考え。今がそうですよ」と語り、ある自治会長は、「長崎も全国と一緒。今は民主主義ではなくて格差社会。政治家が幕府の殿様。日本は暴動が起きないのがおかしい。今この人たち(振遠隊)に出てきてもらわないといけない」と話した。
今公演を通じ、長崎の民衆の側からの維新の誇りを広く知らしめ、現代を変革する力にしていきたいと期待が高まっている。
なお、劇団はぐるま座『動けば雷電の如く―高杉晋作と明治維新革命』長崎公演は、4月12日(日)長崎市公会堂で昼夜2回上演される。後援団体は、原爆展を成功させる長崎の会、下関・東行庵、史跡料亭花月、長崎市、長崎市教育委員会ほか。
長崎の歴史偽造・抹殺と、底に流れてきた反骨精神 森谷浩章
長崎は戦後日本社会のなかで重要な位置を占めている。原爆投下とかかわってアメリカの戦後対日支配の象徴的な役割を負わされている。その一方で市民の内部にある強い独立精神・自治精神の流れがある。
長崎では広島につづいて峠三吉の原爆展が4回開かれ、今年も6月に5回目が開催される。それは「祈りの長崎」と伝えられていた虚像をはぎとり、被爆市民の思いは広島とまったく同じであることを証明した。長崎はさまざまな欺瞞のベールがかぶさっている。それは長崎の内部からではなく外部から働いている。
劇団はぐるま座の『動けば雷電の如く』長崎公演のとりくみのなかで、明治維新に関わる長崎の真実が明らかにされている。その代表的なものは、長崎から町家の二男、三男二百数十人が振遠隊なる部隊を編成して倒幕戦争に参加している事実である。それは長崎町衆の誇りとされてきたが、その後意図的に偽造され抹殺されてきた。
徳川幕府の屈辱的な横浜開港は、外国貿易を独占していた長崎に大打撃を与えた。同時に、オランダ人だけではなくイギリス、アメリカ、フランス、ロシアなどがどっと入り込み、また外国交易は薩摩や土佐の海援隊などに横取りされるというなかで、このまま植民地にされてはならないという長崎町衆の強い意志が倒幕戦争への参加となったと語られる。
明治元年、江戸は開城し明治新政府は成立したとはいえ、いまだ幕府の軍事力は解体しておらず、会津藩をはじめ奥羽地方を拠点に武力による巻き返しを図っている。この幕府の軍事力を解体しなければ、幕府の領地没収、交易の自由、身分制廃止などの近代国家成立にはすすまない。近代化・工業化をするといっても農民を土地に縛りつけた封建制度を取っ払わなければ労働者をつくり出すことはできない。その一方では、朝廷を頭に抱いて徳川幕府体制を続行させようという、坂本龍馬が船中八策で提言した内容の、大政奉還による幕府温存の試みがあった。このなかで、長崎の町衆は薩長軍とともに世直しと独立のために身を挺してたたかったのである。
勝利後は振遠隊の幹部をしていた土佐の海援隊員などが、自分の手柄にして出世していく。それは戦斗を担った町人、百姓を裏切って下級武士どもが明治の元勲になっていく長州藩でも同じ事情であった。そして明治維新は元勲どもの歴史であるかのように偽造されていく。
この倒幕戦争は、薩長同盟が大きな役割を果たした。薩長同盟は長州藩が幕府恭順派の俗論政府を打倒し、情勢を転換させることによって可能となった。この薩長同盟は、慶応元年の長州が藩論統一を成し遂げた直後から、長崎を舞台にしてはじまっていた。
高杉晋作が直接に長崎に出向き第2次の長州討伐軍との戦争に備えて新式の銃をグラバーから購入しようとする。だが長州は外国貿易は禁止されており、薩摩が購入した形にする。この交渉が、史跡料亭花月において、高杉と薩摩の五代友厚とのあいだで成立した。昨日まで敵味方としてたたかった薩長の関係のなかで、同盟関係のなかでは最も決定的な軍事協力がはじまった。坂本龍馬立ち会いのもとで木戸と西郷が薩長同盟の文書を交わす翌慶応2年の前に、実態そのものがすすんでいたのである。
禁門の変があり、朝敵の烙印が押されたもとで幕府直轄の長崎で高杉が堂堂と活動できたのは、長崎町衆がいかに長州びいきであったかを物語っている。
なお長崎では坂本龍馬と彼が率いた亀山社中、のちの海援隊の評判がきわめて悪い。海援隊は大酒を飲んで暴れていたならず者集団であり、龍馬はそのヤクザの親分だったとも評価されている。長崎においては、現在つくられた龍馬の姿は美化されたものだと断言されている。
長崎町衆の誇りである振遠隊の戦死者を弔う招魂社が梅ケ崎につくられた。しかし台湾出兵や西南戦争の戦死者と一緒にして移転され、現在ではほとんど姿をとどめない。明治以後の元勲も維新の真実は嫌いであったが、戦後のアメリカ占領者とそのいいなりの売国政治家も明治維新は嫌いなのだ。
開港以来の長崎の歴史は、明治維新と原爆が歴史のもっとも大きな出来事であろう。大浦天主堂は慶応年間に、徳川幕府を使って日本を植民地支配しようとしたフランスによって、キリシタン弾圧で殺された26聖人天主堂として建てられた。原爆を投下して長崎に乗り込んだアメリカ占領軍は、「ここはキリスト教の土地だ」といって本願寺の寺を追い出して二六聖人の碑を建てた。「聖人」というのはカトリックという一宗教団体内部の聖人であって、日本人がたいそう世話になったからついた肩書きではない。政治ことに外国人政治が人目につくように扱いすぎなのだ。
「神の摂理として原爆を喜んで受け入れるように」と説いた永井隆もGHQがとりたて、天皇も見舞いに立ち寄った。本島元市長も原爆遺跡をつぎつぎにつぶしたほか、「平和教育は原爆を原点としてはならない」という政治的な規制を加えた。信仰は自由である。しかし長崎におけるキリスト教は余りにも政治にかかわりすぎている。日本を植民地支配しようという外国勢力の政治と直結しすぎている。政治で弾圧されたから、政治で仕返ししてやるというのでは、イスラエルと似ておだやかではない。
長崎は祈りとあきらめの歴史のように描かれる。それは外側から描かれているのだ。長崎を内側から見た市民の中に流れる歴史は強靱な反骨の歴史である。だれもが知っているように、戦後の長崎の街を支えた基幹産業は水産業であるが、この水産業の中心は東海、黄海から渤海湾までのりこんだ以西漁業であった。それは政府の中国封じ込め政策に逆らって、日中民間漁業協定を結ぶなど民間の日中友好漁業として発展した。政府間では仲がよい韓国との関係では、李承晩ラインによって日本漁船がつぎつぎに拿捕されたのとは対照的であった。
そして近年も、伊藤市長が遠慮することなくアメリカの原爆投下に抗議し、また国の規制緩和に抵抗して地方の自治を守る姿勢は全国の市長のなかでは目立っていた。この伊藤市長は山口県長門市の通(かよい)という漁村の出身であったが、この地からも多くの百姓、漁師が倒幕戦争に参加している。明治維新の誇りが一つのルーツになって、長崎町衆との響きあいがあったことは疑いない。その伊藤市長が銃殺されたとき、数日で市長選を勝利させた市民の底力は全国に知れ渡った。
長崎は一流が豊富なところである。いま寂れてきたとはいえ水産業が全国一流であることを否定するものはいない。町衆の結束力も一流であり、それがつくり出す祭りも一流である。外国との友好・交流、とくに中国との歴史的な民間交流の蓄積は全国一流である。食文化としてのチャンポンを見るまでもなく、中国文化が長崎文化、日本文化として見事に融合しているのも一流である。長崎の実際の歴史的な経験に照らして明治維新を評価する長崎の目も、一流である。
市民が担うところの全国一流が豊富な長崎で、東京に行って出世したという長崎の有名人は一流が少ない。そのへんが長崎偽造ともかかわっている。政治家で久間代議士やそのほかの代議士を見て、全国の人は一流とはいわない。コンサートに来て年寄りに「恨んではいけない」などと説教するという「さだまさし」も、全国の人は一流とは見ていない。外国かぶれの東京コンプレックスで、長崎を見下しているようでは、一流にはなりようがないのだ。