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「大学の危機を乗り越え、明日を拓く」  大学人有志が呼びかけ初のフォーラム開催

 明治大学グローバルホールで3月31日、「大学の危機をのりこえ、明日を拓くフォーラム」(通称「大学フォーラム」)の第1回シンポジウムが開催された。同フォーラムは白川英樹(筑波大名誉教授)、梶田隆章(東京大学宇宙線研究所所長)らノーベル賞受賞学者、日本学術会議元会長の広渡清吾(東京大学名誉教授、元副学長)、軍学共同反対連絡会・共同代表の池内了(名古屋大学名誉教授)ら51人の賛同で2月に設立した。大学が改革によって危機的な状況に置かれている問題について、国公私立の枠をこえ、また広く市民とともに考え、この事態を打開する最初の試みとなった。

 

第1回シンポジウム(3月31日、東京・明治大学)

 初めに呼びかけ人を代表して広渡清吾氏が趣旨説明に立ち、大学フォーラム立ち上げに至った経緯を紹介するとともに、「国公私立という設置形態の枠をこえて“日本の大学とは何か”という問題の場をつくる、ともすれば大学関係者の業界的利益、関心のなかでしか議論されてこなかった状況を突破したい」とのべた。

 

 同フォーラムでは、シンポジウムなどを通じて問題提起をして議論を展開し、成果を社会に還元しながら、個別のテーマについて研究会を組織するなどの活動を想定している。情報提供をおこなうことを通じて大学問題についての市民社会の認識を深め、広げていくことを中心的な活動とし、必要な場合には議論の成果として社会に対するメッセージをうち出すことも検討しているとした。

 

 広渡氏は、フォーラム設立の呼びかけにさいして示した4つの共通認識を改めて紹介し、「これらの問題はすでに多くの人人から指摘され、解決すべき問題として一致されているが、現状を打開するための大きな声と力を市民社会のなかで形成できていない」とし、大学フォーラムがそのような声と力を市民社会のなかにつくり出す役割を果たしていきたいとのべた。

 

 第1回シンポジウムは、大学問題の全体像を共通認識にするという位置づけで、東京大学宇宙線研究所の梶田隆章所長、甲南大学の井野瀬久美恵教授、和歌山大学の山本健慈前学長、徳島大学の山本裕之教授が講演をおこなった。講演内容の要旨を紹介する。

 

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基礎科学の持続的発展に向けて

        東京大学宇宙線研究所所長 梶田隆章

 

 『ネイチャーインデックス』(2017年3月23日付)で、「日本の学術研究が少しずつ下降気味で、政府主導の新たなとりくみによって、この低下傾向を逆転させることができなければ、科学の世界におけるエリートとしての座を追われることになりかねない」という指摘がされた。日本の論文数は世界2位から4位になった、トップ10%論文が世界4位から9位になったなどの話もあったが、私はもう少し深刻だと思っている。

 

 各国人口100万人当りの論文数の推移を見ると、日本はぎりぎり最下位ではないが、論文数が増えておらず、下の方だった国が論文数を増やしている。これをどうしたらいいのか真剣に考えるときだと思う。

 

 論文数について考えてみたい。論文数は研究者の数が多ければ多くなる。また1人当りの研究時間が多ければ多くなる。研究資金については多ければいいものかというと、今まで10人の研究者が1万円の研究費をもらっていたのを、「科学研究が重要だ」といって予算を倍にし、だが「選択と集中だ」といって1人に20万円の予算を与えると論文数は減る。研究資金は増やすとともに、どのように配分するのかが極めて重要だ。

 

 必ずしもトップ10論文が正しいのかわからないが、トップ10論文のような重要な論文を増やすにはどうしたらいいか考えると、さらに条件が増える。自分で研究課題を決められる研究者がどれだけいるか、研究時間も1人当り自由な研究時間があること、自由に使える研究資金があることが重要だと思っている。

 

 日本の学術を考えるとき、国立大学運営交付金が2004年以来、低下傾向であることは忘れてはいけない重要なポイントだ。近年は低下傾向を止めてもらってはいるが、2019年度についていうと、約1・1兆円のうち300億円ほどは競争的資金になっており、資金を不安定化させるので、これが研究力の弱体化につながると思っている。

 

 この間に1400億円以上の削減があり、これが影響を与えている。国の根本的な考え方として近年、「競争的な環境にして、研究費も競争的に獲得しなさい」といわれてきた。学術研究にとって自分たちがやりたい研究をやれる研究費は、基本的に科研費か研究費補助金だけだ。2019年度は科研費を増やしてもらい、2004年度の国立大学法人化の年と比べると600億円増えている。ただし、運営費交付金の削減をカバーするにはまったく不足な状況だ。

 

 続いて研究時間だが、研究者は研究時間がなければ研究できない。資料から見ると法人化以降、大学の教員はさまざまな業務が増え、かつ運営費交付金削減にともなう人員削減もあり、教育業務は増加している。研究に使う時間を減らして対応しているのが現状だ。

 

 続いて人材の問題を考えてみたい。「我が国を支える人材」とは、科学技術基本法第一条の一部で、「科学技術の水準の向上を図り、もって我が国の経済社会の発展と国民の福祉の向上に寄与するとともに、世界の科学技術の進歩と人類社会の持続的な発展に貢献する」となっている。そのためには科学技術の水準の向上をもたらす人材が活躍できる社会の実現が不可欠だと思う。とくに研究、開発、その他高度な知識や能力で日本を牽引していく人材の育成が非常に重要で、これが大学に課された使命だと思う。

 

 しかし大学で何が起こっているかというと、すべて運営費交付金削減と絡んでいて、2007年度からの6~7年で人口構成が大きく変化した。任期付き教員が爆発的に増えて任期なしの教員が減っている。半数が任期なしになって自分の生活設計ができるようになるのは40~44歳だ。つまり40歳くらいで初めてクビになる心配をしなくていい教員の方が多くなる。「研究が好きなんだからクビになるなど考えずに研究すればいいではないか」という意見もあると思うが、そのような乱暴な意見が若い人に響くのかということだ。

 

 博士課程進学率の推移を見ると、2003~2016年のあいだに全体としては82%に減っている。内訳を見ると、留学生は86%、社会人から博士課程に来る人については157%と非常に増えている。問題は修士課程から博士課程にそのまま行く若い人が、56%と約半分になっていることだ。日本はおそらく今後も科学と技術で世界と互していかなければならない。だがそのような科学と技術を支えていく人材が急激にいなくなっている。「日本がある時代に博士の学生をつくり過ぎたのではないか」といわれる方もいるが、世界と比べてみると、日本以外のアメリカ、ドイツ、フランス、イギリス、韓国、中国のいずれも博士号取得者が増加している。中国はこれから増えるが、他の国に比べて日本の博士号取得者は少なく、韓国と比べても半分くらいだ。

 

ボトムアップ研究

 

 科研費というシステムは素晴らしいシステムだと思っている。なぜかというと96年から今までずっと科研費の論文の15%がトップ10%論文に入っている。ボトムアップの研究がいかに重要かを示している。一方で非科研費論文は常に7、8%と世界平均を大きく下回る。日本にいくらでもお金があるわけではないので、いい研究をすることを考えるなら、いい研究費補助金システムが必要だということを如実にあらわしている。

 

 科研費には額の大きいものから小さいものまである。運営費交付金が大きく削減され、何もないところから芽を出すような研究さえできなくなっている状況があるなかで、科研費システムはまったく芽が出ていないところから新しい芽を出すような研究をサポートすることが重要ではないかと思う。額が小さくてもいいので、多くの研究者が自分が本当にやりたい研究に対して資金配分が受けられるシステムが必要だ。

 

 昔は運営費交付金で自分のやりたい研究の芽を出すことができた。今それができなくなり、科研費も採択率が低いので、なるべくお金がとれそうな研究をやる方向に向いている。研究者の意識調査で、「短期的な成果が出ることを志向する研究者」が大学等でも大幅に増え、一方「長期的な研究戦略を重視して、研究テーマにじっくりと取り組む研究者」は大幅に減った。何もないところから何かの芽を出す研究者のマインドがなくなってきている。研究費をとらなくてはいけないから、何かしら成果が出ることを何でもいいからやる方向に向いてしまっている。これは日本の学術研究にとって問題になるのではないかと思っている。研究者のマインドをどうにかとり戻さなければいけない。

 

基礎科学の回復と将来の発展へ

 

 学術研究の危機が広く認識されているが、なぜかそのたびに「選択と集中」「大学改革」がいわれる。だがこれから芽が出ようとする研究が、「選択と集中」によって自由にできない仕組みは、学術研究・基礎科学研究に向かないと思っている。このマインドを変えていく必要がある。

 

 そして大学の現場の感覚では「大学改革」を進めるたびに研究者が振り回され、研究成果が落ちる。だが「改革が不足しているのでもっとやれ」となってさらに成果が落ちるという負のスパイラルに陥っていると思っている。基本に返り、日本の学術の発展を考えるときではないか。このままいくと本当にとり返しがつかないと思う。

 

 もう一点、日本は「金は出さなくても競争さえさせれば成果が上がるはずだ」といってきたが、その壮大な実験は失敗に終わったと思っている。日本の高等教育への公的支出はOECD加盟国で下から2番目だ。このようにさまざまな大きな問題があるが、解決していくには、国の税金を使うことを抜きにできない。社会に広く理解をいただき、そのうえで日本の学術をどうするのかについて合意を得て、今の危機を乗りこえる必要があると思っている。

 

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大学の特性・個性・自主性のゆくえ

         甲南大学教授  井野瀬久美恵

 

 私は地方の私立大学で人文社会科学の分野に身を置いている。人文社会科学の世界では博士課程に進学する学生は激減しており、もっと悲惨だ。人文社会科学の研究者の就職先は基本的に大学で、学生・院生たちの就職先は社会にあまりない。私立大学・人文社会科学・教育という面から、頻出し過ぎて意味がわからなくなってきている「特性・個性・自主性」という言葉を見直してみたい。

 

 2月27日付の朝日新聞で「大学の質、国が関与強化」という記事が出た。大学などの教育内容や財務状況の質保証に国が関与するということで、「認証評価」を義務づけていくという内容だ。ここに「あくまで自主改善」との言葉が並んでいる。18歳人口が減少し、4割が定員割れするなかで、「大学の自治を重んじて、質保証を大学の自主努力に任せてきた文科省も動かないわけにはいかなくなり…」となっている。私立大学で人文社会科学の世界に身を置いていると、この因果関係は逆だと思わざるを得ない。

 

 私は大英帝国をフィールドとする歴史学者だ。その私が「この国の大学のゆくえ」を考えるきっかけになった一つは、「学術と安全保障に関する検討委員会」のメンバーだったことだ。2017年に出した声明文は「学問の自由」「大学の自治」を考え、それをベースにして書いたが、それが脅かされているのではないかと考えている。憲法に「学問の自由」が書いてある意味も若者たちと議論しづらくなってきている。

 

 ウェンディ・ブラウンの著書で邦訳『いかに民主主義は失われていくのか』がある。ネオリベラリズムのステルス革命によって、戦争のようなむき出しの暴力ではなく、こっそり忍び寄ってきていつの間にか変えられていくという内容だ。著者は「平等」「自立」「自由」の言葉には政治的な意味があったが、これらの用語は経済的な力にとってかわられ、人民主権の卓越した価値が減退し、それとともに専門技術や市場の評価基準、ガバナンスなどによって大学や世界がこっそり変えられていると指摘している。ヨーロッパでは知識をインパクトで計測するようになり、アメリカではもっとも元がとれる大学ランキングがもっとも大きな意味を占める。このことを声明を読み返しながら考えている。

 

 「人文・社会科学の役割とその振興に関する分科会」でも(人文系廃止のニュースとなった)6・8通知に対して提言を出したが、市場価値に合わせた評価基準や指標というものは人文・社会科学の立てつけになっていない。アメリカではオバマ政権の下でROI(投資対効果)による大学評価が導入され、毎年出されるようになった。

 

 また学術会議の「総合ジェンダー分科会」委員長をやっていて、アンケートの結果が徐徐に上がってきているが、有期雇用の増加、常勤ポストの減少が文系では私学領域で非常に深刻だということがわかってきた。これら3つが私が考えるポイントになった。

 

脅かされる学問の自由

 

 大学は設置基準によって、認可という入口、つまり事前に規制がかかっていたものが、80年代の規制緩和との関係で、事後チェックにかわった。「どんどんつくっていいけどチェックしますね」という形だ。18歳人口は下がるのに対して、私立大学は急増し、入学定員割れするようになった。1991年の大学設置基準の大綱化のあと、21世紀に入って「評価」が大きなキーワードになってくる。04年の国立大学法人化とともに認証評価制度が導入され、私立学校法も改正されてきた。さらに、大学が「自分たちの個性・特性を選べ」といわれ始めた。02年からCOEプログラムが入り、14年からは安倍内閣が教育再生会議で「今後10年間で世界大学ランキングトップ100に10校以上ランクインさせる」というかけ声によって立ち上げられた「スーパーグローバル大学創生支援事業」が導入された。これは41もの評価・指標があり、各大学が自主的に設定できるものだと思っていたのが全然そうではなく、中身までリードされていくものだ。

 

 12年の国立大学ミッションの再定義では評価目標として測定可能なKPI(売上目標の達成設定などで使われる)の設定が導入されて評価と資金配分がおこなわれるようになり、13年には私立大学にも改革総合支援事業でポイント制が導入された。スーパーのポイント制のように「これをやると2アップします」という。そのなかで大学がパターン化し、平板化され、自主性・自立性といいながら選ぶ余地がなくなっている。そしてつくられたのが「とうとう政府が介入せざるを得なくなってしまった」というストーリーだ。どちらが原因でどちらが結果なのか分け入って考える必要がある。

 

 とうとう国立大学では運営費交付金の一部がとり崩され、19年度は1000億円が競争的資金として傾斜配分されてくる。執行部は食べても地獄という意味で、「毒まんじゅう」と呼んでいる。先日、「柴山イニシアティブ」というものも出た。そこにあるのは「手厚い支援と厳格な評価」だ。「評価する人間の権力化」という以上に、「本当にあなたたちに評価できるのか?」ということだ。指標が人文社会科学の立てつけにも、共同研究を促す立てつけにもなっていない。アマゾンで本やフライパンを買っても「評価どうですか?」と来る。評価に慣らされている。

 

 学生たちが研究者になりたいという選択肢を人生に入れてくれなくなった。それとの関係で、大学という場に対する敬意すら欠いてくる学生が増えていることが心配になっている。ほとんど出席せず、試験を受けて落とすと「なぜ?」と聞く。教育・研究のためが中心ではなく、マネジメントやガバナンスといった経済・経営用語に特化され、そのための管理業務が増え、学生と向き合う時間が不足している。

 

 民主主義や社会の改善などにつながる、自分たちがどういう権力とかかわり、どういう問題を理解しなければいけないのか、そのツールを提供するのが高等教育の重要な役割であったはずなのに、大学であろうと国家であろうとビジネスであろうと個人であろうと、ともかく競争力を最大限にする、向上させようとする、人間をそのようにしか見ない。「人材」が「人的資本」にすり替えられている。このようにパターン化されてくると、自由と自立性の意味が「妨害されない」ということになり、市民性の意味は単なる選挙権になってしまう。

 

教育研究の原点に立ち

 

 私の最大の疑問は、個性・特性が明確化すれば大学は自主性を回復できるか、自立性を高められるか、その結果質が向上するかということに尽きる。私立大学は入学定員を充足するだけでなく定員の1・1~1・2倍の間に収めなければいけない。うちの大学は昨年1・20を超過した学部があり、1億2000万円をカットされた。そこで今年は90名定員で99名までの間でという綱渡りをしている。さらに関西では関西国際大学などが学部譲渡の形をとり、非常に短い期間で大学の連携が進んでいる。これで本当に大学の個性・特性はどうなのかと思う。

 

 うちの大学の創設者の教育理念は「人格の修養と健康の増進を重んじ、個性を尊重して各人の天賦の特性を伸張させる」「個性を尊重し自主・自立の精神を」と、今日私のタイトルにうたったものがすべて入っている。だが建学の精神が改革の「盾」や「矛」になっているかということだ。私が最近驚いたのが、学生同士の支援を資格化、点数化して3つの級別にしていくというものだ。私は、学生たち全員の数値化、ランキング化は違和感を感じるといったが、「もう決まっているから」という理由でうちの学科は議論をしなかった。文学部が口をつぐんだらおしまいだ。

 

 結局原点は何かということだ。教育・研究の本質から的外れの議論が一体どこでどのようにされているのか。緊縮財政で犠牲を強要することが当たり前のようにいわれているが、それは本当なのだろうか。そういったことも含めて私たちに必要なのは時間だ。学生と向き合う時間だ。今の学生たちは「なぜこれを考えないといけないのか、知っておかないといけないのか」という「知の原資」のようなものが共有できない場合が多い。体のいい「評価されたい」「いいね」ではなく、ゾワゾワ、ザワザワと違和感を起こし、そこから対話が始まる。その時間がほしいと思う。

 

 今の状況はわくわく感がない。今日本で一番欠けているのは、失敗という挑戦だ。今出ているいろいろな評価だけでは縮み上がってしまうだけではないかと思う。結局は保護者も含めて大学が社会全体からの信頼回復をすることが必要だと思う。そのために言語化していくことが必要だ。人文社会科学系の研究者にはまだまだやらなければいけないことがたくさんある。私たちが言語化して対話を求めていくことを大事にしなければいけない。

 

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地方国立大学の現状と課題

        前和歌山大学学長 山本健慈

 

 2019年は地方国立大学の衰弱が決定的になる。それは日本の学術の裾野としても教育としても支えているので、これが崩壊すると日本の高等教育が崩壊につながる。そういう崩壊元年にならなければよいと思う。

 

 今年で新制国立大学発足から70年を迎える。1949年の新制国立大学発足にあたって、「新制国立大学は特別な地域(中略)を除き…1大学1府県の実現をはかる」とした。86大学あるうち、国立大学といっても本当に多様で個性ある大学なので、これが伝える難しさだと思っている。2022年から第4期が始まるが、すでに第4期をどうするかで白熱した議論になっている。

 

 私は民主党政権発足と同時くらいに学長になった。2010~12年にかけて事業仕分けがあり、2012年4月の国家戦略会議から非常に厳しい提案があった。「国立大学を潰すことになってもおかしくない」という危機感から、すぐに学内で会議を立ち上げ、全構成員に覚悟を呼びかけた。われわれがつくり出す価値は、どんなに日本の社会制度が変わっても和歌山の地域に必要だという自信を持ってやろうといった。

 

 あれこれのとりくみをして2015年3月に退任したが、翌年4月から学長のリーダーシップを強化する法の施行があった。私は文科省などに対しても、この法改正は必要ないとくり返し伝えた。独立法人化移行で学長は何でもできる権限を得ているので、むしろ学内の自由な議論を抑制することになるのではないかと反対した。しかし法が施行されたため、最後に、教授会の議論で私のリーダーシップが阻害されたことは一切ないと声明を出した。

 

 地方大学ではとにかく予算が減って、さまざまな体制が弱体化し、一方で地域とか国際といったミッションは拡大するのでそこに体制をあてなければいけない。全体としては衰弱しながら頑張っているという実感だった。退任するのが第3期中期目標期間に入る直前だったので、外部人材が参加する経営協議会に危惧を伝えると、外部委員で「社会的議論をきちんとして、国立大学の財政支援を考えなければいけない」という議論をし、「地方国立大学に対する予算の充実を求める声明」を出してくれた。これは反響が大きく、22大学がこれに続いた。和歌山の場合は県議会、市議会がこれに呼応して決議を上げたところもある。

 

 退任直前の2015年3月に合同記者会見を開いたのをきっかけに、国会議員も与党の議連をつくるなどして今日まで動いている。国会議員もこういう場で初めて国立大学の現状を知ることになった。

 

 2015年秋に運営費交付金の減額が提案されて大騒ぎになり、このときは文科省も動き、中教審も緊急決議を作成した。文科省の動きはここまでで、それ以後ほとんど動きが生まれない。その後財務省は戦術転換をし、競争させる資金転換を見事にやった。昨年11月2日には財政審が、「毎年度の教育・研究の質を評価する共通指標にもとづいて配分する割合をまずは10%まで高める」としたことに対し、国大協会長声明を出し、国立大学法人法の本旨に則った運営費交付金措置を訴えた。共通指標配分などさまざまあるが、これもまったく未整備の指標で、文科省は本音はやりたくない。財務省の方は「運営費交付金全体が競争資金でいいんだ」という考えだ。

 

 国立大学の状況を見ると運営費交付金ですでに人件費を賄えておらず、授業料などで補填して運営している。値上げに踏み切った大学もある。このなかで2017年5月の財政等審議会財政制度分科会の提出資料では「地域ぐるみで教育力の高い大学に再編・育成していくための仕掛けが必要だ」ということをいっており、この戦略にもとづいて財務省は動いている。「18歳人口の減少を踏まえた高等教育機関の規模や地域配置」というのがあり、これをめぐって各大学長は自分たちの大学はどうするのか、第四期の最終の学生定員などを考えている。

 

 残念ながら、「子どもが減っているから国立大学の学生定員を削減してもいい」「もう教育機会均等の役割は果たした」という認識で、18歳人口減を踏まえた定員規模と地域状況にもとづく再配置となっている。

 

 だが大学の進学率は都道府県で差があり、東京と沖縄や鹿児島などは30%以上の差がある。ここで地方大学の定員を減らすことになると、より進学希望者が進学できないことになる。あるいは東京の大学に出て行くだけで、地域にとどまる青年が増えるわけではないと進言した学長もいた。国立大学協会は地域再配置することに反対しているし、地方国立大学の学長もそう思っている。東京大学総長も地方八六大学のネットワークがあることに強さがあるのだと、くり返しのべている。再編の動きのなかで、ある学長が「地方大学の価値は行って見ないとわからない。地方の国立大学が日本社会の構造を支えているのだということをしみじみと実感した」といわれた。こういうことをどのように伝えていくかが重要になっている。

 

 最後に、日本の高等教育政策の決定過程がどうなっているか。2017年秋に大転換があり、内閣府が大学改革をやり始め、文科省はそれに従う形になった。翌年に大学改革担当室がつくられ、トップは経産省でその下に文科省がいる。文科省が学術・教育の方向をしっかり持てるような状況をつくっていく必要があるのではないかと思う。また、学術コミュニティや大学コミュニティなどでも活発に議論できないなかで、高等教育全体を議論するようなものが今後発展していってほしいと思う。

 

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大学は競争すればよくなるのか

        徳島大学総合科学部教授 山口裕之

 

 徳島大学という地方国立大学で専門は哲学だが、労働組合の書記長をやることになり、いろいろ調べていくと地方国立大学がどんどん悪くなっていることがわかった。

 

 2004年に国立大学が独立法人化され、このときは大学が自主・自立的な競争によって改善することがうたわれた。しかしその後交付金の削減が続き、2015年あたりから財務省が分配を変える方向に転換した。人件費や物件費や基本的な教育費に充てる分を削り、競争的に配分する部分を増やした。政府が改革メニューを用意し、いかにそれをやりそうかという作文を審査してお金をくれる。それで大学がめちゃめちゃになった。しかし財務省は、大学の改革が遅れているから、もっと評価による配分を増やすといい始め、交付金の10%、今年は約1兆円の交付金のうち1000億円を評価によって配分するといい出した。総合イノベーション科学技術会議では3年後には全額評価による配分だといった人がいる。

 

 また少し前から教員を年俸制にしろというのがある。年俸制というのは野球選手と同じで、前年の打率によって給与を上げたり下げたりするというものだ。これまで形は年俸制にして定期昇給するという、名前だけ変えた月給制を導入したりしてきたが、財務省にばれて今年からは徹底的にやれといってきた。「アメリカの大学は非常に競争的環境に置かれ、そのなかで切磋琢磨している」としきりにいうが、アメリカを模倣するとして日本でやっていることは書類審査だ。

 

 今までやってきたことは大学が設定した目標を達成したかどうかで評価するKPI・工場の生産管理に使う手法だ。財務省がよくいうのはPDCAサイクルだが、経営はどんどん変わっていくので多分今KPIなどしている工場はあまりない。これは自分たちで目標を設定するので、目標を低くすることができる。うちの大学はKPIの評価が二項目低く、一つが寄付金の額を7億円と設定したが、1億円しか集まらなかったことで減額された。そこで寄付金目標を2億円にした。しかし財務省が気づき、今年から「共通指標により評価をやれ」といってきた。

 

 共通指標について文科省の資料を見ると「会計マネジメント、外部資金、若手研究者比率、トップ10%論文、人事給与・施設マネジメント」となっている。外部資金をたくさん調達したら、たくさんお金をくれるという。税金は公共のものだ。もうからないが必要なものにお金を出すのが税金の社会的使命だと、中学校の公民の授業で習うはずだ。哲学などもうかるはずがない。そういうものこそ支えるのが国家の役目ではないのかと思うが、そうではないようだ。

 

 若手研究者比率にしても若手を雇うのに金がいるし、人事給与・施設マネジメントは要は年俸制を入れるかどうかだ。「各大学の独自の判断で」といっているが、導入しなければお金をくれない。自主性の意味がわかっていない気がする。これらの指標は教育・研究には関係ない。政府が考える大学の運営形態に従わせることが「競争」の目的のようだ。今の大学が強いられているのは政府への従属競争だ。

 

 そもそも日本の大学は悪いのか。悪いという根拠は「日本の大学は世界大学ランキングで下位である」などのようだが、実はノーベル賞受賞者数は2000年以降2位だ。100年間のノーベル賞受賞期間全部合わせても5位だ。オックスフォードにいる教育学者が、大学ランキングについて「もともとイギリスの大学ブランディング戦略だった」と指摘している。2000年頃、中国人留学生がアメリカに流れたので何とかイギリスに持って来ようとした。当然イギリスに有利なようにつくることができる。日本はその負ける土俵に乗ってしまった。しかも19年度版のランキングでランクインした学校数だけで見ると日本はイギリスより多い。

 

 日本の大学はそんなに悪くなかったはずなのに、実際に悪くなってしまった。論文数の数は明らかに大学独立法人化の翌年あたりから落ちている。論文数の低下が起こっているのは大学改革が始まった後だ。それに対する財務省の見解は「改革が遅れたのが原因だ」ということだ。大学改革は1990年頃から急激に盛り上がり、2004年に独立行政法人化されるが、そのとき日本の大学の研究力が低いという話はほぼなかった。梶田先生が「金は出さなくても競争すれば論文数が減るという壮大な実験」といわれたが、実験はまず目的・仮説を立てる。やってみて仮説が反証されたら捨てる。これが科学の基本だ。仮説になっていないことについて、結果からみて結論を変える、これは科学論文でやったら改竄だ。

 

 ではなぜ「競争主義的政策」が大学を破壊するのか。要は金がなくて人件費が足りない。かわりに3年や5年で競争主義的に配分される額が増加するので、人間も3年とか5年しか雇えず、有期雇用の教員が増える。人が減ると授業は減らないが、評価は書類管理なのでやたらと書類を書かされる。政策決定者である文科省も財務省官僚も現場にいないので、弊害の当事者にはならないためいいようにできる。しかも「弊害は大学のせいだ」といって改革が強化される。現在、「改革」が自己目的化し、破壊が進行して止まらないという形になっている。

 

 研究者を競争させるとどうなるのか。「3年以内に成果を出せそうでないと不利だ」となると、3年で達成できる目標しかやらない。チャレンジせず、研究不正はするようになる。「業績不振だ」といわれ給料を減らされたらその分仕事を減らし、余計に頑張らなくなる。実際に、民間企業でも富士通で業績評価を導入すると会社が大赤字になった例がある。大学の学内アンケートでも「もっとしっかり評価してくれ!」「なまけているあいつの給料を減らすべきだ」という恨みがましい空気が芽生えてきている。

 

 結論だが、競争主義的政策をやめようということだ。政府がPDCAサイクルを回すべきだ。具体的には人件費や施設費、物件費等に充てられる基本的な予算を保障したうえで、最低限今の給料でいいので、せめて落ち着いて研究ができて、3年後にクビだといわれないくらいの資金を確保してほしいということだ。生活がかかった全面競争は絶対に破壊されるというのが私の主張だ。

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