スペインのカタルーニャ自治州では、10月1日にスペインからの独立を問う住民投票がおこなわれて「独立賛成」が九割を占めたのに続き、同27日に開かれたカタルーニャ州議会で「独立宣言」が可決され、プッチダモン州首相はカタルーニャの独立を宣言した。これに対してスペインのラホイ政府は同州の自治権停止、プッチダモン州首相解任、州行政の指揮の中央省庁への移管、州議会の解散と12月21日の選挙実施などの介入策を打ち出し、全面対決の様相になっている。大規模なゼネストをたたかったばかりのカタルーニャの住民は「独立を阻止するために中央政府は暴力で来るかも知れないが、いつでも街に出る準備はできている」「私たち全員を逮捕することは不可能だ」といささかもひるんではいない。カタルーニャの人人のこうした頑強な運動は、300年をこえる「虐げられた歴史」と独立運動の内容を知ることなしには理解できない。
カタルーニャは、フランスと国境を接するスペインの北東部にある。北には3000㍍級のピレネー山脈、東には地中海を臨む逆三角形のこの地方は、人口約750万人の自治州(州都はバルセロナ)である。人口ではデンマークを上回り、ヨーロッパでは中程度の国に匹敵する。歴史的に見れば、カタルーニャはスペインという一つの国のなかに押し込められた、独自の言語や文化を持った一地域である。交通の要衝として古代から栄え、現在では繊維産業や自動車など重化学工業が集積するスペイン随一の工業・商業地域としてスペイン経済を牽引している。
カタルーニャは有史以前から、他の民族によって生活の場を次次と蹂躙(じゅうりん)されてきた歴史を持つ。紀元前3世紀に始まるポエニ戦争の結果、ローマ帝国の支配下におかれ、ローマ帝国没落のさいにはゲルマン民族が侵入して乱暴狼藉の限りを尽くし、8世紀初頭にはイスラム教徒軍によって占領された。9世紀初頭には北のフランク王国がイスラム教徒軍を駆逐し、カタルーニャを緩衝地帯、つまりイスラムに対する盾にしている。ちなみに中世キリスト教徒であるフランク軍は野蛮なことで有名で、異教徒であるイスラム教徒に対して「大人を鍋に入れて煮たうえに、子どもたちを串焼きにしてむさぼり食らった」という記録が残っている。
中世ヨーロッパに封建制社会が成立する時期は、カタルーニャというまとまりが意識されはじめる時期に重なる。1137年、フランク王国から独立してカタルーニャ・アラゴン連合王国が誕生する。その後都市の時代が到来した。バルセロナなど主な都市に人口が集中し、大都市ではギルドに組織された職人や富裕な商人たちが力を蓄え始めていた。王侯貴族や僧侶の力が弱まり、王は戦争をしようと思えば商人の懐を当てにせねばならず、王が勝ちとった領土はそのまま商人の商圏となった。カタルーニャ商人は地中海交易で富を蓄え、商売を円滑におこなうために世界最古の海事法令集がカタルーニャ語で編まれた。
この時期、カタルーニャ語による文学が誕生した。ローマ帝国の広大な領土の共通語であったラテン語は、それぞれの土地の土着語の影響などを受けてさまざまな発展を遂げ、そこからフランス語、スペイン語、ポルトガル語、イタリア語、そしてカタルーニャ語が生まれた。
13世紀には世界最古の身分制議会の一つ、「カタルーニャ議会」が創設されている。また、バルセロナの市会「百人議会」が誕生した。バルセロナはそれによって独立自治都市のような性格を帯びることになる。現在のバルセロナの市議会はこの「百人議会」の会議場でおこなわれている。
「朕は国家なり」といわれる王の強権がまかり通っていた当時、カタルーニャは王と商人や中小貴族が協約を結び、民との協約によって統治を任されているという協約主義が生まれていた。これは当時としては画期的なもので、王の召使いが鮮魚にかけられている税金を払わないといって、バルセロナ市が強硬な抗議をおこない、王に税金を納めさせたという逸話が残っている。
スペイン帝国時代 絶えぬ農民たちの反乱
しかし、カタルーニャ・アラゴン連合王国の繁栄も長くは続かず、15世紀末には隣のカスティーリャ王国に統合されることになる。イベリア半島で最後のイスラム王国であるグラナダ王国も陥落し、こうしてスペインは統一された。同時期、スペインのイサベル女王の命令を受けたコロンブスが奴隷と黄金を手に入れるためにアメリカ大陸に到達し、先住民を奴隷にして本国へ連れて帰っては酷使して1000人単位で殺し、また現地で金を探し出せと命令しては、逃げ出す者を縛り首にしたり火あぶりにした。こうしてフェリペ2世のときにスペインの版図は世界最大になり、「太陽の沈むところのない帝国」といわれた。
一方、カタルーニャは新大陸経営から締め出され、長い衰退期へ滑り墜ちていく。貿易の中心は地中海から大西洋に移り、年間の寄港船数が平均1100隻をこえていたバルセロナ港は、1505年の寄港船数がわずか5隻となった。
この時期、スペイン帝国に対するカタルーニャ住民の粘り強い反抗の歴史が書き残されている。フェリペ4世が30年戦争(1618~48年)への参戦を決め、カタルーニャにもさらなる徴兵と徴税を課したことから住民の反乱が起こった。直接のきっかけは、カタルーニャの農村に駐屯していたカスティーリャ軍が、まるで占領地の住民に対するかのように乱暴狼藉を働いたことだった。これに反発した都市と農村の住民が収穫用の鎌を手にしてバルセロナに押し寄せた(1640年6月4日の「収穫人戦争」)。
反乱は膠着状態のまま12年も続いたが、農民たちは敗北し、ピレネー以北のカタルーニャのフランスへの割譲が決められた。同じように戦争の負担を嫌って反乱を起こしたポルトガルは巧みに国際情勢を利用して独立を勝ちとるが、カタルーニャはそうならなかった。
続いて起こったスペインの王位継承戦争(1701~14年)は、スペインにブルボン朝の中央集権的な絶対王政をうち立てることで収束した。都市住民を中心にカタルーニャは14カ月の抵抗を続けたが敗北した。ブルボン朝フェリッペ5世は、カタルーニャ地方政府の解散を命じ、カタルーニャ語の公文書での使用を禁止し、支配言語としてスペイン語(カスティーリャ語)を普及した。カタルーニャにあった6つの大学は1つに統合され、内陸の寒村サルベラ村に移された。
「300年の歴史を持つ独立運動」というのは、ここから始まる。ラテンアメリカで虐殺と収奪の限りを尽くしたスペイン帝国は、国内の被抑圧民族に対しても同じことをやっていたのである。しかしカタルーニャ語は為政者に禁止されたとはいえ、都市の職人や農民たちの唯一の生活言語であり続け、それが百数十年後の復活を可能にしたことを見逃すことはできない。
1930年代の内戦 打倒フランコの拠点に
20世紀初頭、カタルーニャの独立機運は一気に高まった。「カタルーニャ・ルネッサンス」と呼ばれる言語と文化の復権運動が19世紀末に生まれる。担い手は進歩的ブルジョアジーと知識人であった。さらに1892年には内陸の都市マレンサでこれらの勢力がカタルーニャ主義連合を結成し、地方自治を要求した。労働運動や自治運動の発展を基礎に、第一次大戦時にはプラド・デ・ラ・リバを長としたカタルーニャ自治団体連合を設立したが、それはカタルーニャ共和国樹立のさいの統治機構の土台となるはずのものだった。
1931年、軍事政権が崩壊してスペインに共和制がうち立てられると、カタルーニャは第二共和制の承認のもとに独自の憲法と独自の政府をつくり、1934年、スペインからの独立を宣言した。ところが1936年7月、フランコ将軍による反乱が勃発し、ドイツとイタリアの支援を受けたフランコ軍と、国民の支持を受けた共和国政府軍との内戦に突入した。フランコ軍と戦った主力は、カタルーニャ共和国の正規軍と世界55カ国から駆けつけた約4万人の義勇兵であり、これにソ連も援助した。スペイン内戦は欧州を2つに分ける「赤か黒か」の戦いの縮図であり、そのなかでカタルーニャは共和国政府軍の拠点であった。
バルセロナやタラゴナにおいて激しい市街戦をくり広げたが、1939年1月にバルセロナは陥落、最後に残ったマドリードも3月に無条件降伏し、3年にわたるスペイン内戦はフランコ軍の勝利に終わる。カタルーニャでは内戦での死者および海外亡命者は15万人にのぼった。共和国政府はカタルーニャ政府とともにフランスに亡命した。
その後、王党派地主や教会、大工業家といった勢力に支持されたフランコは独裁体制を敷き、共和国側であったカタルーニャに対して、自治も独自の言語や文化も否定する強硬措置をとった。それは18世紀の禁止令と比べてもはるかに厳しいもので、公的な場でのカタルーニャ語禁止はもちろん、出版・教育・新聞・放送などの場からもカタルーニャ語を締め出し、通りや広場の名も、さらに個人の名前すらスペイン語に変えられた。
それでも自治と言語をとり戻すたたかいは、約40年後の1975年、フランコが死去してスペインが民主化されるまで続いた。幾多の先人たちの尊い犠牲によって1978年に新憲法が制定され、スペイン全体の公用語はカスティーリャ語とするが、カタルーニャ、バスク、ガリシアの言語はこれと併せて公用語にすることができるようになった。憲法第3条第3項は「スペインの言語的に豊富な多様性は、国の文化的財産として尊重され、保護される」と規定している。1979年にはカタルーニャとバスクで自治権賦与の住民投票がおこなわれ、賛成多数で承認された。
欧州危機のなかで 緊縮と自治否定に反旗
現在のカタルーニャ独立運動は、こうした歴史的背景を持ちつつ、直接にはリーマンショックに端を発する欧州の国家財政危機のさいの、中央政府が押しつけた緊縮政策と自治権の否定に対する反発が契機になっている。
スペインの住宅バブルの真っ最中であった2000年、フランコの流れをくむ国民党のアスナール政府が総選挙で絶対過半数を獲得して中央集権化の動きを見せ始め、これに反発して自治州の権利拡大を要求する運動が全土で高まった。カタルーニャは2006年、新しい自治憲章を制定した。ところが憲法裁判所は2010年、新自治憲章は「憲法の定める“スペインの揺るぎなき統一”に反している」とする違憲判決を出した。憲法裁判所といっても、裁判官の大半は国会や内閣推薦の政府側の人物である。憲法裁判所が違憲としたのは、カタルーニャを「ネーション(民族)」と規定する部分や、カタルーニャ語を優先的に公用語として使用するとした条項、財政・司法・域内行政の独立性などの強化に関する条項であった。違憲判決はアイデンティティの根幹を否定したのである。
また、違憲とされた条項とかかわって、税制の不公平感に対する不満が爆発している。現状では、バスクとナバラには認められている徴税権がカタルーニャには認められていない。そして自治州が国税を中央政府に納め、中央政府がそれを自治州に再配分するが、カタルーニャはもっとも豊かな自治州の一つなので、中央に納める額は多く、戻ってくる額はそれより少ない。問題は、法律が定めるその差額の上限がEUのなかでもっとも高い(ドイツは4%、スペインは8・5%)ことであり、港湾施設や鉄道など同州への公共投資が低く抑えられていることである。
従って、財政危機を理由に中央政府が緊縮策を押しつけてきたとき、カタルーニャでは「富が中央に奪われている」「中央政府がバラマキをやってきたツケを、なぜわれわれに回すのか」という不満が爆発した。さらに11年にラホイ政府が登場し、「カタルーニャ語による授業は必修時間の定めがない選択科目にする」と決めたことは、火に油を注ぐ結果となった。
2012年9月11日の「カタルーニャの日」、バルセロナでは約150万人が参加して独立を求める大規模なデモ行進がおこなわれた。しかも参加者は、赤ん坊を抱いた母親から息子を肩車した父親、杖をついた高齢者までがやむにやまれぬ気持ちで街頭に出たもので、それだけに迫力が違ったという。この力がアルトゥール・マス前州首相を突き動かし、州議会の解散・総選挙を発表させ、こうして独立の是非を問う住民投票への道が開かれた。
独自の歴史と言語、伝統や習慣を持つカタルーニャの人人の独立と民主主義を求める大衆運動は、300年以上にわたる苦難の歴史に裏打ちされており、中央政府の弾圧や懐柔で屈するようなものではない。それは腐敗堕落するスペインの二大政党制に鉄槌を加え、IMFやEU、ECB(欧州中央銀行)による新自由主義・グローバリズムと激しく対立し、その支配を揺さぶっている。