いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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ルポ「ウガンダ北西部、南スーダンとの国境から」 日本学術振興会特別研究員PD・飛内悠子

カジョケジから逃れた人々が暮らすモロビの難民居住区(ウガンダ・モヨ県)

 カジョケジ(Kajo―keji)崩壊のニュースを聞いたのは1月の末、まだ日本にいるときだった。旧中央エクアトリア州カジョケジ郡、現在イエイ川州におけるカナポ、ニェポ、リレ、リウォロの4つの郡に分かれている―は南スーダンの最南部に位置し、ウガンダと国境を接する場所である。ククと呼ばれる東ナイロート系の言語を話す民族の故地であり、2008年の国勢調査ではその人口は約20万人であった。治安が悪化しているとは聞いていた。でも正月には知人からウガンダで学ぶ娘たちが帰郷したというメールをもらっていた。1月には新しい聖公会カジョケジ教区主教の就任式が盛大に行われたことも知っていた。


 まさか、そんなに急に?


 あわてて知り合いにメールをし、電話もしたがつながらなかった。2月4日、はやる心を抑えながら取るものもとりあえずエンテベ行きの飛行機に飛び乗った。カンパラでウガンダの携帯を使って知人に連絡を取るとつながった。多くがウガンダに来ていた。みんな無事に逃げていた。ホッとするとともに、「カジョケジ崩壊」のニュースが事実であったことを知った。


 「カジョケジにはもう誰もいないよ、みんな逃げたよ」


 このことばをこれから何度も聞くことになる。


 南スーダンの内戦の状況が「壊滅的な」事態に陥っているというのは、自衛隊が首都ジュバに駐屯しているという事情からも日本でもニュースで報じられているので、よく知られている。2013年12月にジュバで起きた大統領警備隊内の銃撃戦をきっかけに始まった内戦は、当初南スーダン北部を中心に戦われた。なぜなら、内戦が現大統領派(SPLA―Juba)と前副大統領派(SPLA―IO)との権力闘争にそれぞれの出身民族が深く関わるようになったものであり、大統領の出身民族であるディンカ、前副大統領の出身であるヌエルの両方とも南スーダン中北部を故地とする民族だったためである。また北部には石油という資源もあった。内戦は長期化し周辺諸国、アメリカ等の仲介により何度も和平が結ばれたが、それはすぐに反故にされ、互いが互いの非を非難し合っていた。2015年八月アメリカやIGAD(政府間開発機構)が半ば脅しをかける形で和平合意(Agreement on The Resolution of The Conflict in The Republic of South Sudan)が結ばれた。それは両派の権力分有、両派による暫定政府の樹立を定めるとともに、ジュバから25㌔圏内からの軍の一旦撤退を決定するものだった。


 何度も危機に陥りつつも2016年4月、前副大統領リヤック・マチャルのジュバ入りによって暫定政府が動き出したかのように見えた。だがそれはさらなる惨劇への序章だった。


 和平協定によって定められたジュバからの軍の撤退は有名無実化していた。政府軍はジュバからの撤退を拒否、対するIOもリヤックについてジュバに入り、さらに南スーダン南部にこれまでも駐屯していた政府軍に加えてIOの兵士が入った。この政府軍とIOとの対立が「平穏」を保っていた南部に混迷をもたらした。両派は互いに反目し合って小競り合いを繰り返すのみならず、その余波が南部の民間人にも及ぶようになったのである。

 


 暗雲が立ち込めるようになった南部の状況が激変するのは、2016年7月首都ジュバにおける政府軍とIOとの戦闘の発生後である。ジュバを追い出されたIO―以降はリヤック・マチャル派を示す―は南西部を通ってコンゴにまで逃亡した。その通り道が旧中央エクアトリア州のライニャ郡、イエイ郡、モロボ郡である。この三郡は戦闘の舞台になっただけではなく、兵士たちの物資強奪、レイプ等の的となった。ジュバからウガンダに向かうもう一つの交通の要所、ニムレも両軍の待ち伏せ、戦闘の舞台となり、住民は住まいを追われることになった。2016年8月、私が北部ウガンダを訪れたとき聞いたのは、「ニムレとイエイにはもう人はいない、みんなウガンダに逃げた」というものだった。そして南スーダン難民の受け入れ先として有名だったアジュマニ県はホスト人口と同数の難民を抱えてこれ以上の受け入れが不可能となり、南スーダン国境近くのユンべ県に新たな難民居住地が開設されていた。

               ◆     ◆ 

 「カジョケジを政府軍がとろうとIOがとろうと構わない。私たちがカジョケジで平和に暮らせればそれでよい」

 夏に私がアジュマニで感じたのは南スーダン南部出身、そしてウガンダ北部の人びとの政府軍、はっきり言ってしまえばディンカ人への不満である。もちろんIO側も略奪や民間人への攻撃を行っていたし、政府軍の兵士が全員ディンカとは限らない。しかし、ディンカのプレゼンスが圧倒的に高かった。これまで南部出身者は政府を牛耳るディンカ人への不満は持ちつつも互いに互いを「利用して」うまくやっていた。だが、その空気が明らかに変わっていた。ディンカの評価急降下―ふと、南スーダンの内戦の泥沼化への不安が胸をよぎった。それでも私の知る人たちは与えられた場所で何とか生きるすべを見つける人たちであり、銃を取るとは思えなかった。実際、カジョケジの住人たちは地域のリーダーたちが軍と交渉し、略奪や強盗をやめるように交渉することでかろうじて南スーダンの中で日常生活を保っていた。


 だが私が九月にウガンダを後にしたのちも内戦が終わる気配は全く見えなかった。国連は南スーダン内での虐殺の可能性を示唆し、政府は難色を示していたPKOの増派をいったん受け入れたものの、のちに再度拒否をした。政府の国民和解への試みを、政府関係者以外は冷笑を持って迎えた。そして首都ジュバが作られた危うい平穏を保つ一方で、地方での兵士たちの民間人への攻撃は激化の一方をたどった。それに反発した南部出身者たちがIOに加わるという状況も見られるようになり、政府軍でもIOでもない私設ゲリラ兵団までが現れるようになったと言われた。


 住民による日常を守る必死の努力もむなしく、カジョケジが「崩壊」したのは1月27日、カジョケジ北部のモンデコロックでの政府軍とIOによる戦闘がきっかけである。しかし、住民が避難を決意したのは両軍による戦闘ゆえではない。戦闘自体はそんなに大きいものではなかったという。彼らが避難を決意したのは政府軍がついにカジョケジの住民に銃を向けたためである。モンデコロックの戦闘ののち、カトリック教会の日曜礼拝に来ていた人びとを銃で撃ち、女性を捕まえてレイプしたという。六人がなくなったと聞いている。


 1月の半ば過ぎから政府軍による住民への嫌がらせは激化していた。ウガンダに抜ける道では必ず邪魔をされ、携帯やお金を取られる。住民の牛や車は接収される。そしてIO側の兵士による略奪もあった。こうした状況に加えて住民への攻撃に恐れをなした人びとは雪崩をうったようにウガンダへと逃れた。「カジョケジにはもう誰もいない」状況となり、市場や学校は閉鎖、残った人も日常生活は営めない状態となった。


 「政府は一体なにをしたいのか」と思わず聞いた私に友人は「ディンカ達はエクアトリア(南スーダン南部)の住人を追い出して牛をつれてくるつもりなんだ」と答えていた。そしてメレ、ロミンといったカジョケジの中心部に位置する他の村でも民間人への攻撃が行われた。


 民間人殺害、強奪、レイプを繰り返す政府軍を政府がどのようにコントロールしているのかはわからない。すでに野放し状態なのではないか。少なくともカジョケジ郡の状況を聞く限り統制がとれているようには全く見えない。


 そもそもなぜ民間人を攻撃するのか全く分からないのである。住民がすべて逃げ、人がいなくなった土地を支配する意味はどこにあるだろうか。ただ殺し、土地を奪い、住人を土地から追いやるだけの軍を政府軍と呼ぶ悲しさはことばにし難いが、実は前のスーダンとの内戦中も住人は軍と対峙していた。彼らにとって常に現在の政府軍、そしてIOの源流ともいえるスーダン人民解放軍(SPLA)は「(北部スーダン政府の)アラブよりマシ」程度の存在である。ちなみに政府も「お金を食べる存在」としてほとんど信頼されていない。ただ、前のスーダン内戦時には住人達は一応SPLAに義を感じていた。スーダン政府側か、SPLA側どちらにたつかといえば間違いなくSPLA側だった。しかし今回は違う。住人達、特にカジョケジの人びとはどちら側にもくみしない。


 なにしろ軍が入ってくるまで全く平和だったのである。現金収入には常に困っていた。常に天候を気に病み、土地を巡って内輪もめを起こすこともあった。2014年にはマディとククとの間で国境を巡っての争いがあったが両者の協議により収まっていた。そうした日常に頭を悩ませることが出来るほど、平和だった。それを壊され、ついには家を追い出された。やっと帰ってきたばかりだったのである。前の内戦時の避難先からの住民の帰還がほぼ完了したと言われたのが2012年だった。帰還後、支援もほとんどない中で家を建て直し、耕作地をならし、ヤギや牛を育て、日常を創り上げてきた。帰還後すぐには収穫は望めない。満足のいく収穫を得るには帰還から一年を待たねばならない。なのに10年足らずで彼らは再び家を追われなければならなくなった。


 だが、彼らはあきらめない。逃げる算段をつけながら、避難先でより良く生きるための仕込みをし続ける。

               ◆     ◆ 


 カンパラを発ち、コンゴ国境に近い、ウガンダ北西部の中心都市、アルアでウガンダ国教会のマディ・ウエストナイル教区の事務所で資料をコピーし終わった私は資料を貸してくれたセクレタリーのところに返しに行った。


 「調子はどうだい?」とクク語で問われて振り返ると、よく知るカジョケジ教区の主教とスタッフがソファに座っていた。カジョケジを逃れたのち、ウガンダでの活動を認めてもらうためにマディ・ウエストナイル教区を訪れていたという。セクレタリーは慣れたように書類にサインをしてスタッフに渡していた。慣れているのは当然である。第1次、第2次スーダン内戦時もマディ・ウエストナイル教区はカジョケジ教区に協力してきている。


 アルアでの調査を終えて、カジョケジと国境を接するモヨ県に移った。モヨ県はウガンダの県の中でも歴史の古い県である。アジュマニ県と共に中央スーダン系の言語を話すマディ人がマジョリティを占めるマディ・ランドを形成する。東ナイル系の言語を話すクク人とは言語が全く違う民族の住む場所である。だが、カジョケジとの距離の近さから想像できるように、モヨとクク人との関わりは深い。クク人の商人はモヨで商品を仕入れ、カジョケジに運んだし、カジョケジのマンゴーはモヨの市場で販売されていた。そして2度のスーダン内戦時の避難先でもあった。


 モヨ県の中心地、モヨタウンにはクク人が経営する商店が並ぶ一角がある。モヨタウンでアルアからの乗合タクシーを降りて、トランクを引きずりながらクク人集住地区に向かっていると「ユウコ!」と声をかけられた。私のカジョケジでの滞在先の村の知人がいた。1カ月前にカジョケジから難民居住地に移ったという。難民居住地はタウンから離れており、今日は兄の薬を入手するためにタウンに来ているという。彼は私を近くの宿泊施設に案内してくれ、流暢なマディ語で宿泊できるかスタッフに確認してくれた。彼の家族がみなモロビという難民居住地にいるのを確認し、カジョケジの様子を聞いた。村は住人が去った後、兵士により略奪され、何も残っていないという。村の住人はウガンダに逃れ、難民登録所を経てモヨにあるいくつかの難民居住地に配置された。


 翌日、エレピという場所に知り合いのマディ人を訪ねて帰ってくると、宿泊所がにぎやかだった。高校生くらいの男子が718人で泊まることになったらしい。彼らはよく響く声で話し、宿のスタッフに自分たちの要望を伝えている。交渉が成立したらしく、彼らは連れだって外へ出ていった。ほどなく帰ってきてまたしゃべりはじめる。話すことばはこの近隣のことばであるマディ語でもクク語でもルグバラ語でもない。彼らは誰だろう? この疑問はほどなく解決した。たむろしてしゃべっていた彼らのところにひとりの女性がきてアラビア語で話をしていったからである。南スーダン人か―あとで聞いて見ると、彼らはジュバのPOC(避難民収容施設)からモヨのセカンダリースクールの寮に入るために来たとのことだった。もともとはアッパーナイルにいたという人もいた。ひとりのアラビア語がどうもハルツーム方言に近いと思って聞いてみると、やはり2011年までハルツームに住んでおり、そこからジュバへ移ったという。


 ある日の朝、宿泊所で書き物をしていると、「ヤンギ?」と声をかけられた。見ると宿泊所のテラスにござを敷いて寝ていた人である。なぜ私のクク名を知っているのか…? と怪訝に見るとジュバの居候先のご主人の弟だった。ちょうどカンパラからモヨに夜行バスで戻ってきて、休憩していたところだという。これから難民居住地に戻るのだと。私のジュバの居候先の家はカジョケジの経済的中心地から七―八㌔離れたリミという場所の出身である。私は2012年そこでククの名前をもらったのだった。そのリミももうほとんどの人は避難し、いない。「日本からなんかいいもの持ってきたか?」とお決まりの質問をしながら、彼はこれから一旦難民居住地に戻り、そして今度はジュバに行くことを話してくれた。国際赤十字のスタッフの面接を受けるとのことだった。そしてシャワーを浴びて去って行った。


 書き物を終え、お昼を食べに外に出ると食堂で声をかけられた。振り返るとウガンダ国教会のマディ・ウエストナイル教区のアーチディコンがいた。ランチを求めてさまよった私を見つけて声をかけたらしい。彼とはアジュマニの教会でよく会っていた。「モヨは変わりないよ、ただ問題はカジョケジの戦争だけだ」とイスにどっかり座って言う。「昨日はカジョケジ教区用の事務所を探すのに忙しかった」というのを聞いて、私は「ああ、あれモヨの難民居住地に作るんでしょ?」と聞くと、「いや、タウンに作るよ、すぐそこだよ。主教は今日カジョケジから来たところだ」という。ランチを取った後にそこに連れて行ってもらった。


 カジョケジ教区の事務所はモヨタウンの中心部からほど近いところにあった。もとはディンカ人の孤児院があったというその建物は木目を生かしたつくりで、一見過ごしやすそうである。だが電気やインターネット、そして家具等を入れる必要がある。外のベンチに数人、そしてテラスには主教と開発担当の司祭がいた。アーチディコンと主教たちは今後のスタッフの住まいについて相談をしていた。主教は今日モヨに移ったが、教区事務所と神学校内にはまだベッドや机、パソコン、ソーラー発電装置などが残っている。すべて建物の中に入れ、鍵をかけているという。トラックを出してすべてモヨに運ぶ予定である。ひっきりなしになる電話を受け、主教やスタッフたちは自分たちがモヨに移ったことを伝えていた。そして昼間、トラックを出し政府軍やIOのいる道を避けてモヨに行くルートを取る相談をしていた。

               ◆     ◆ 

 モヨ滞在4日目―難民居住区に向かった。モヨの西部レフォリと呼ばれる場所までは乗合タクシーがあると聞いていた。レフォリからはバイクタクシーを使うようにと。だがモヨタウンのタクシーパークで聞くと、居住区まで直通のタクシーがあった。つまり、それだけ居住区とタウンを行き来する人がいるということである。実際、乗り込んだタクシーの中でもクク語が聞こえていた。運転席の横に座り、出発を待っていると、不意にガラスをたたかれた。振り返ると、カジョケジ教区のアーチディコンがいた。「こんなところで何してるんだい?」と聞かれ、「居住区へ行くところだ」と答えた。彼は顔をしかめ、「ああ、いまはもうカジョケジはダメだ、人はもういないよ。私も主教と一緒にカジョケジを出たんだ」と言っていた。タクシーパークにいるということは、彼もどこかに出かけるということになる。聞いて見るとアルアに向かうという。「アルアで数日過ごしてイエイに行く」ということばに驚き、「イエイ? 何しに行くの、危ないじゃない」と問うと、「いや、今イエイは危なくないよ、少なくともタウンは。レーベルたちがいるのは郊外だから。今はカジョケジの方が危ない」と言って、彼は悠々とアルア行きのバスに乗り込んでいった。


 タクシーが満席になるまでしばらく待ち、モロビと呼ばれる居住区へと向かった。モヨにはモロビ以外に3つの難民居住区があるという。その道は想像以上に遠かった。レフォリまで約40分、そこからさらに40―50分。道は当然ながら舗装はされておらず、土埃の舞う中を車は進んでいく。途中で荷物を満載した南スーダンナンバーの車を追い越した。カジョケジからの荷物を運ぶ車だろう。原野の中に突然白いUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)のシートに覆われた家が見え始めた。木肌も新しい家々が点々と立ち並ぶ。いや、家と呼ぶべきかテントと呼ぶべきかはわからない。そして家々の間にナンバーが打たれた大きな水のタンクが点在する。タンクの周りには水を運ぶためのジェリカンが列をなしていた。居住地はかなり大きく、10万人以上の人がいるという。ほとんど全員がカジョケジからきている。レフォリをはじめとした3つの難民登録を行う場所を経て、各居住区に振り分けられる。モロビは3つのゾーンに分かれ、かつ水のタンクの番号で現在地を確認する。


 辿りついた難民居住区のタクシーパークは大きな市場の中にあり、多くの人が行きかっていた。家を建てる人が多いからだろうか、木材や釘、屋根にかける萱等が目立つ。だが、シートを敷いて野菜が売られる一角もある。野菜の仲買人のトラックも来ていた。キャベツが満載されている。知人に電話して彼の家まで迎えに来てもらった。


 知人の家は市場から近いところにあった。天井が低いテントと、比較的大きなテントが立てられている。そしてその背後では数人の若者が家に屋根をかけようとしていた。


 その家は、一家の主人と妻、そして2―3歳の娘と、主人の兄弟たちがいた。その兄弟の1人が私の知人である。カジョケジの経済的中心地、ウドにある村に家を持っている。だが、主人は長くジュバで暮らしていたという。2016年の6月、仕事の契約が切れ、次の仕事までの休暇をカジョケジで過ごしていたところ、7月にジュバで戦いがおき、カジョケジに留まらざるを得なくなった。居住区に来たのはつい先日、バイクで取るものもとりあえず逃げたとのことである。「あのバイクでだよ。」とテントの前に泊められている数台のバイクを指す。逃げる途中で転倒し、足を痛めた。居住区内に保健施設はあるが、満足な治療は受けられないため、タウンのクリニックに行く必要がある。また、通常ウガンダでは難民に耕作地が提供されるが、モロビではまだ提供されていない。おそらくあまりの急な難民の増加にウガンダ政府も対応しきれていないのだろう。だが、4月から耕作がはじめられねば七月以降の収穫量に影響が出る。配給食糧にだけ頼ることはできない。なにしろ全く足りないのだという。テントの外では彼の妻がゴマをすってペースト状にしていた。「ここには学校もない、治療も受けられない、食べ物も十分ではない…どうすればいいんだろう?」と途方にくれていた。


 そして日曜日、居住区での日曜礼拝に行くというカジョケジ教区主教の車に同乗して再び居住区に出かけて行った。居住区に入るのは初めてという主教やスタッフは「ここにいるのはほぼクク?」と興味深げに窓の外を見ている。途中で車を降り、居住区内に足を踏み入れた。本当に仮小屋に近い建物の前で、かまどに湯を沸かそうとした女性に主教が「こんにちは」とクク語で声をかける。すると返ってきたのはアラビア語である。「あなたはカジョケジから来たの?」という主教の問いに、「そう、カジョケジから来た。けど私はククではなく、マディ。夫は前のククとマディとの戦いで死んだ」という答えが返ってきた。彼女の境遇にスタッフたちも一瞬ことばをなくすが、「それでも生きていられて良かった。神の加護ゆえだ」と返信した主教に彼女は「そう、私は生きてここにいる。」と答え、料理を再開した。そして振り返り、ある方向を指さしながら「昨日あそこで火事があったんだよ。人がなくなったんだ。ジェリモの人だよ」といった。


 指された方向をみると、焼け焦げた木の残骸の周りに人が集まっていた。集まっていた人に話を聞くと、どうやら女性が昨晩、火の中に身を投げて焼身自殺をしたことがわかった。火の手は突然上がり、助け出すことは不可能だったという。命からがら逃げてきて、なぜ今死を選ぶのか…今度こそ本当にことばを失う。主教は彼女の名前を書き取り、家族はどこにいるのかと問い、そばでうずくまっていた子どもたちを呼んで祈った。


 車に戻り、教会へと向かう。前回とは違う道を行く。何人もの案内を経てようやく目的地に到着した。


 大きな木、しかしあまり葉が繁っていないため影が作りにくい――の下に椅子が並べられている。その奥には長屋のような建物がある。一瞬、その建物が教会かと思ったが違った。すでに20人以上の人がいて、車から降りたスタッフと再会のあいさつを交わし合う。ほどなく、主教とスタッフ、そして集まった司祭たちが長屋の中に案内されお茶と揚げパンがふるまわれた。お茶には砂糖がつきものだが、大きな頭陀袋一袋分を教区が提供している。外では礼拝の参加者もお茶を楽しんでいる。お茶を飲みながらの会話は、居住地での生活についてである。どこに住んでいるのか、いつ来たのか、そして何に困っているのか―1番の問題は水だった。ナイルの水を汲み、各居住地に配っているのだがとても足りないのだという。そして食べ物である。支援食料では全く足りない。居住地に市場はあるが、現金がなければ買えない。みなカジョケジに備蓄食料があった。例年4月から始まる耕作期にカジョケジでは耕作が出来た。八月から始まる収穫期に食料を備蓄し、12月から7月迄の乾期と翌年の最初の収穫期に備えるのが常であった。それを持ってこれた人はまだいいが、持ってくることが出来なかった人は戻ることを計画する。逃げるとき、車がある人は車を、バイクの人はバイクを、お金があれば乗合タクシーを借りることが出来る。そういった場合持てるだけの荷物を持って逃げる、だが、何も持たずただ逃げるだけだった人もいる。彼らは危険を承知でカジョケジに戻る。現在、カジョケジは政府軍とIOがにらみ合い、各地を巡っている状況だという。その目をかいくぐって自分の財産を取りに戻るのである。「キャッサバを取りに行ったんだ。」「え、乾燥させたやつ?」「そうそう」といった会話が交わされる。それを評し私の隣にいた司祭は私に向かって「静かな戦争だ」と言った。


 説教は主教の「4月にはマンゴーが降ってくる! 私たちはマンゴーを食べるのだ!」という声から始まり、出エジプト記を題材になされた。負けてはならない―というのがメッセージだった。そして名前がなかった教会はカジョケジにおける教区の中心地、ロモギの名を取ってつけられた。


 その後、主教と教区スタッフが、居住地内の司祭や教会指導者の数を確認し、居住区内の組織作りに取り掛かった。


 私たちが居住区を後にしたのは午後五時半を過ぎていた。

              ◆     ◆ 

 私が見たものは、聞いたものは何だろう? と思う。これは南スーダン全体に共通する状況ではないだろう。南スーダン北部やジュバ、そしてナイル川の東側ではまた違った状況が展開されているはずである。これがカジョケジ、もしくは旧中央エクアトリアにおける状況であることを確認する必要がある。


 虐殺や戦闘から逃げまどうだけの人ではない。戦闘は行われ、人びとは逃げ、居住区には新しい市場が出来る。人びとは兵士の目をかいくぐって財産を取りに行く。だが、その財産も運が悪ければ略奪されている。居住地での新しい生活をつくるために懸命に働く人びとである。そして時にはジュバに職を見つけに出かける人びとである。


 確かに戦争なのだろう。政府軍とIOがにらみ合い、互いに互いを警戒しながらカジョケジの中を歩く。そして突如戦闘が勃発する。だが、そこで展開されたのは戦争を越えた何かなのではないか。家を捨て、逃げなければならないということは、そこにあった自分の人生を捨てなければならないということである。特に農耕を生業とするクク人にとって、耕作地を捨てて逃げるとは生計の道を捨てることと同義である。だからこそ、人びとはギリギリまでカジョケジに残った。だが、命には代えられない。殺される恐怖から逃れるためには逃げるしかなかった。そして逃げる算段を立て、荷物を抱え、それぞれの交通手段を使って逃げた。命の安全が確保されたあとも生き延びるために、安全の天秤をにらみながら自分が出来ることを懸命にやっていた。


 4月にはカジョケジのマンゴーの木が実をたわわにつける。わざわざ取らなくても待っていれば勝手に落ちてくる。子どもたちは学校帰りに落ちたマンゴーを拾い、食べたり、抱えたりしながら家に向かうのが常だった。そして本当なら耕作を始めなければならない。四月に戻れるならどんなにいいだろう。しかしそれが難しいことはみんな知っていた。

 「私たちは故郷を忘れることはできない。しかしここに来ることが出来たのはよいことなのだ」

 そう言って、ククの人びとは難民居住区で自分たちの生活を創っていく。

 2017年2月28日

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