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ジェノサイドを終わらせるために日本が果たすべき役割 パレスチナ問題における大国の責任を問う 法政大学名誉教授・奈良本英佑

(2024年12月20日付掲載)

イスラエル軍の爆撃で破壊されて瓦礫の山となり、多数が死傷しているガザ(11月11日)

奈良本英佑氏

 パレスチナ・ガザは「この世の地獄」と言ってよい。昨年10月以来、イスラエルによるガザ市民無差別殺戮が続き、ガザ保健省によれば少なくとも4万4000人以上が死亡した。英医学誌『ランセット』掲載論文(今年6月)は、瓦礫の下に埋もれた遺体や、食料・飲料水の欠如などによる関連死を含めた死者数は18万人以上とも推定している。

 

 「ガザ・ジェノサイド戦争」ともいうべきこの戦争は避けられなかったのか。2005年にイスラエルは、この地区から軍隊と入植地を撤去。翌年、パレスチナ「自治区」の議会に当たる評議会選挙で、イスラーム主義を掲げるハマースが第一党となり、単独政権が誕生、翌2007年、それまでパレスチナ自治政府(PA)の主流派だったファタハなども加えた連立内閣が成立した。世俗派からイスラーム主義者まで加えた、「挙国一致内閣」が誕生したのだ。

 

 この時、「カルテット」に代表される国際社会が、このPA統一政府を歓迎し、イスラエルとPAの交渉を奨励・支援していれば、状況は変わったかもしれない。ハマースが評議会選挙に参加したことは、暗に「オスロ合意」の枠組みを認め、長期の停戦に応じる用意があると解釈することもできたはずなのだ。当時のハマース幹部、イスマーイール・ハニーヤ(2006年からPA首相、今回の戦争でイスラエル軍により殺害)は、メディアに対し、イスラエルとの「長期フドナ(停戦)」の可能性を語っていた。またこの時期、ハマースは対軍・民を問わず自爆攻撃を停止している。

 

 この「カルテット」とは、2000年のPLO―イスラエル頂上会談の失敗、第2次インティファーダ後のオスロ合意とアメリカ仲介によるPLOとイスラエルの交渉挫折を受けて作られた枠組みともいえるもの。アメリカ、ロシア、EU、国連の四者をこう呼んだ。カルテットには、「長期フドナ」の用意を示唆していたハマースも含めたパレスチナ側とイスラエルとの間で新たな交渉を呼びかけ、支援する選択もあったはずだ。

 

 だが、カルテットはそのような期待に応えず、ハマースに対して「テロ放棄」をせっかちに要求、PLOとPAに圧力をかけ、ファタハなどとハマースの合意に基づく「挙国一致政権」をつぶしてしまった。2007年、ガザ地区における内戦、PAが分裂、ヨルダン川西岸地区をファタハ中心の政権、ガザ地区をハマース主体の政権が統治している。

 

 このPA分裂以来、イスラエルはガザ地区を封鎖、ヒト、モノ、カネの出入りを厳しく制限、この地の人々を「生かさず・殺さず」の状況に押し込めた。カルテットはこのガザ封鎖を追認、「天井なき牢獄」と呼ばれるようになったこの状況を黙認した。このガザ封鎖に抗議して、同地区からイスラエル向けのロケット砲、これに10倍、100倍のイスラエル軍による空爆。この繰り返しが、今回の破滅的なジェノサイド戦争につながった。

 

英仏が中東を分割支配 ユダヤ人移民を支援

 

 この問題を考えるうえでとくに強調したいことは、こうした大国の責任である。

 

 「カルテット」を構成するアメリカとロシア、この両国を含む5大国が安保理の拒否権を持つ国連、EUを構成する英仏独などは、いずれも「パレスチナ問題」と呼ばれる長期紛争に責任がある。

 

 これらの大国が「イスラエルによるテロとの戦いを断固支持する」といっている。この諸国の無責任さを問いたい。現在の国連安保理常任理事国のうち、中国以外の4大国には、今のパレスチナの事態に対する歴史的責任がある。

 

 まず、イギリスとフランス。


 大戦に先立つ1897年、スイスのバーゼルで開かれたバーゼル会議が、「パレスチナにユダヤ人のホームをつくる」と決議した。シオニストとはユダヤ民族主義者のことで、「ユダヤ人は一つの民族であって、古代イスラエル王国のあったシオンの丘(パレスチナ)にユダヤ人国家をつくる権利がある」という立場の人たちのことだ。

 

 これを利用したのがイギリスだった。イギリスは第一次大戦が始まる時期、中東地域に勢力圏を拡大するため拠点をつくりたいと考えていた。そこでイギリスはフランスと謀って、第1次大戦中の1916年、オスマン帝国領を分割する秘密協定、サイクス・ピコ協定を結んだ。

 

 これにロシアとイタリアが加わり、地中海東側のオスマン帝国領をイギリスとフランスが分割・支配することになった。このときパレスチナをどうするかが議論になった。当時、ヨーロッパのカトリック教会とギリシア正教会は聖地管理をめぐって争っており、聖墳墓教会(キリストの墓とされる場所に建つ教会)のあるエルサレムをめぐるこの4カ国のキリスト教徒の衝突を避けるため、エルサレムを含むパレスチナは国際管理地域となった。

 

 第1次大戦が終わると、1920年にオスマン帝国の戦後処理に関するサン・レモ会議が開かれ、パレスチナは国際管理からイギリスの委任統治領に移った。一方フランスは、現在のシリアを中心とした地域を勢力圏にした【地図参照】。

 

 イギリスがパレスチナを勢力圏の一部として支配できたのは、戦時中のバルフォア宣言に従って、この地域にユダヤ人のナショナルホーム(民族的郷土)をつくることをめざすシオニストの移民を援助したからだ。パレスチナにユダヤ人の民族的郷土をつくることは、イギリスとフランスを中心として講和会議に参加した諸国が認めた。このときアメリカは、講和会議を途中で抜けている。

 

パレスチナ分割と米国 シオニズム運動拡大

 

 次に、戦間期以降のアメリカ。


 ドイツでナチスが政権をとったのが1933年。彼らは「ユダヤ人」の排斥、迫害、虐殺を進めた。ナチスは、ユダヤ人は人種だという考え方に立っていたが、厳密にいうと「ユダヤ人」という人種はない。ユダヤ教徒とその子孫が一括してそう呼ばれた。ナチスによると祖父母のうち1人でも「ユダヤ人」なら、彼らの孫は「ユダヤ人」とされた。

 

 ナチス政権の影響でヨーロッパ全域に反ユダヤ主義が広がるなか、「ユダヤ人」は身の危険を感じ、生活の将来に展望を失い、パレスチナへの移民も加速した。それまではパレスチナへのユダヤ人移民は非常に少なかったのだ。

 

 こうして1933年以降のパレスチナでは、ヨーロッパからの移民が増えたために、そこに以前から住んでいるアラブ系の人たち――宗教的にはイスラム教徒が多数派、少数のキリスト教徒、少数のユダヤ教徒もいた――との衝突が拡大した。ヨーロッパ人たちが突然、「ここは将来、われわれの国になるんだ」といい出し、土地をどんどん買いこみ事業を始めたので、先住民とぶつかったわけだ。

 

 このため、1936年から39年のパレスチナ・アラブの大反乱が起きた。イギリスはこれに手を焼き、収拾に苦慮したが、1939年に第二次大戦が始まる。大戦で大反乱は収束したが、パレスチナの先住民はこの反乱で力を使い果たし、その社会は荒廃した。そして第2次大戦が終わる。

 

 その間、ヨーロッパのユダヤ人たちのなかで、アメリカに移民する者も多かった。そのなかでシオニストが力を伸ばしていく。

 

 ナチス政権の誕生以前は、アメリカのユダヤ系市民のなかで、パレスチナにユダヤ国家をつくることに、消極的、あるいは反対する人たちが多かった。ところが1933年以降、シオニストやその支持者が増え始める。ナチスの虐殺のニュースが入ってくるなかで、アメリカでもシオニストの政治運動が盛んになる。

 

 アメリカにいたシオニストたちは、1942年5月に通称「ビルトモア会議」を開き、パレスチナにユダヤ人国家を建設すると決議した。それに乗っかって米国政府は、ユダヤ人の入国をしぶり、ときには妨害した。

 

 戦争が終わる頃には、アメリカの政治家、労働組合指導者、ジャーナリストのなかにシオニストの影響力が拡大した。1948年の大統領選でトルーマンは再選をめざしたが、そのときシオニストたちは「トルーマンを助けて、アメリカをシオニズム運動支持国にする」という方針を確立した。そしてトルーマンは再選された。

 

 アメリカの軍や国務省は、パレスチナにユダヤ国家をつくることには反対した。「中東に紛争の種をまくことになる」という理由だ。ところがトルーマン大統領は、それを押し切ってシオニスト支援の方針を突出させた。

 

 第2次大戦が終わり、疲弊したイギリスはパレスチナから撤退する方針を決めた。パレスチナの将来についての決定権をイギリスから委ねられた国連は、1947年の総会でこの問題を審議した。

 

 国連にパレスチナ問題の委員会が設けられ、「多数派案」=パレスチナ分割案と、「少数派案」=連邦制案(独立ユダヤ国家に反対)の2つが出され、総会で審議された。このとき積極的に多数派案支持の票集めに動いたのが戦後最強国となったアメリカだ。経済援助などを使って賛成国を増やした。たとえばフランスは必ずしも多数派案に賛成ではなかったが、アメリカから「賛成しないと戦後復興を支援しない」と脅され、賛成に回った。

 

 こうして1947年11月29日の国連総会で、パレスチナをユダヤ国家とアラブ国家に分割し、エルサレムを国際管理下に置くことが決まった。当時パレスチナ人口の3分の2を占めた「アラブ人」に国土の3分の1、少数派の「ユダヤ人」に土地の3分の2を割り当てる。誰が見ても不公平な分割だった。

 

シオニズムに反対する在米ユダヤ人団体「平和へのユダヤ人の声」の呼びかけで「即時停戦」を求めてグランドセントラル駅を占拠する人々(2023年10月27日、ニューヨーク)

ソ連もイスラエル支援 内戦時に武器送る

 

 さらにソ連の問題がある。


 ソ連はシオニストとパイプがあった。というのも初期のシオニスト運動では、左派(社会主義者)が主導したからだ。彼らは東ヨーロッパの共産党や社会主義政党とのつながりが強かった。

 

 シオニストの出身地を見ると、東ヨーロッパ(旧ロシア帝国)が多い。イスラエルの初代首相になったデヴィッド・ベングリオンはポーランド出身だし、社会主義者ではないが初代の大統領ハイム・ヴァイツマンもポーランド出身だ。

 

 アメリカのトルーマンは、シオニストを支援することでパレスチナに中東支配の橋頭堡をつくろうとしたが、ソ連のスターリンも、シオニストを支援すればパレスチナにソ連の友好国をつくることができると期待した。だから、ソ連もパレスチナ分割決議に賛成した。

 

 1948年5月のイスラエル建国の前後にかけて、シオニストとパレスチナ人の間で内戦が始まる。パレスチナ人は人口は多かったが、組織されておらず、一方シオニストの側はよく組織された民兵組織をもっていた。シオニストは数百のパレスチナ人の村落を襲撃・破壊し、そのなかで約75万人のパレスチナ難民が生まれた。

 

 そのときイスラエルに対して、旧式とはいえ重火器を持っている近隣のアラブ諸国(ヨルダン、エジプト、イラク、シリア、レバノン)が宣戦布告し、第1次中東戦争が始まった。シオニストの軍隊の弱点は、重火器がほとんどなかったことだ。そこでスターリンと話をつけて、当時のチェコスロバキアから高性能の戦車や戦闘機、機関銃を手に入れた。国連は戦争の拡大を防ぐために武器禁輸を決議していたが、ソ連は武器を分解して送るなどしてシオニストに提供した。

 

拡大し続ける軍事援助 戦後の米・イスラエル

 

 その後から今日まで、イスラエルにもっとも多くの軍事支援を与え、イスラエルを非難する安保理決議をあげようとしても拒否権を行使してそれを葬ってきたのがアメリカだ。

 

 そもそもそれは、戦後の冷戦の産物だった。第2次大戦後、アラブ諸国のなかで次々と欧米の支配から脱却しようとする革命が起こる。1952年にエジプトで王政を打倒する革命が起き、その影響を受けてシリアやイラクでも社会主義を志向する共和政が生まれた。彼らは欧米の影響力から独立を守るためにソ連に接近し、ソ連もアラブの革命政権を取り込もうとした。アメリカはこれに対抗するために、イスラエルを拠点にしようとした。

 

 当初、この地域に権益を持っていた英仏がアラブ諸国に対抗しようとした。転機は1956年の第2次中東戦争で、エジプトがスエズ運河を国有化したことに対して、英仏がこれをつぶすためにイスラエルとくんでエジプトに攻め込んだ。そしてあっという間にシナイ半島を占領した。ガザ地区もそれまではエジプトが支配していたが、それをイスラエルが奪った。

 

 これに割って入ったのが米ソで、双方に圧力をかけて戦争をやめさせた。しかし結果的にエジプト、シリア、イラクはソ連に接近し、アメリカの思惑は成功しなかった。これが契機になり、アメリカとイスラエルの運命共同体的関係が強まった。

 

 それ以降、アメリカは「親ソ国家であるアラブ諸国からイスラエルを守る」という名目で、イスラエルへの政治・軍事・経済援助を拡大していく。イスラエルは中東、とくに地中海東岸地域におけるアメリカの拠点になった。

 

 そして1967年の第3次中東戦争によって、イスラエルはガザ地区とヨルダン川西岸地区を占領してしまう。国連安保理決議242号はイスラエルの占領地からのすみやかな撤退を求め、アメリカもこれに賛成したが、イスラエルはこのとき以来、ガザ地区と西岸地区を占領し続けている。

 

 イスラエルはユーラシア大陸とアフリカ大陸との架け橋の位置にあり、そのすぐ近くをスエズ運河が通っている。陸上交通や海上交通の戦略的要衝であるわけで、そこに強力な親米国家が存在し続けることは今でもアメリカの権益にとって重要だ。そこからアメリカは政治・軍事・経済援助を拡大し続けている。また、戦争がやまないことは、アメリカの軍産複合体の利益になることだ。

 

 また、アメリカのシオニストは第2次大戦中に力をつけ、戦後、トルーマン政権を動かすまでになった。その勢力は今でもずっと残っていて、それはイスラエルロビーと呼ばれている。有名なAIPAC(米国イスラエル広報委員会)というロビー団体があり、とくに選挙で力を発揮している。ユダヤ系市民はそれほど多くはないが、2大政党制の選挙で人口の多い州では、イスラエルロビーがどちらに票を移すか、どちらに金を出すかによって勝負に大きく影響する。だから、政治家はそれを無視できない。

 

 もう一つ、アメリカの特殊な事情として、キリスト教原理主義、いわゆる福音派がアメリカでは最大の宗教勢力であるということを見る必要がある。彼らは、聖書に書いてあることは現実になりつつある、聖書の記述に従って世界史は動いていると考える人たちだ。だから、パレスチナにおいてはユダヤ教徒が勝利するんだ、これを支援するのは神の御心にかなうことだと考えている。

 

 イスラエルロビーだけでなく福音派の行動によって、米国政府の政策が影響を受けてきたといえる。

 

日本政府に行動求める 中東研究者有志が声明

 

 私たち中東研究者有志は、すでに昨年10月の危機発生以来、即時停戦・人質解放、ガザ救済と国際法の遵守を訴えるアピールを発し、問題の平和的解決に向けて提言をおこなってきた。しかし、1年を経て状況が一層深刻化し、今や中東全体に戦争が拡大しつつある現在、国際社会が決意をもって殺戮をやめさせるための行動を起こすことが急務である。日本みずからがその役割を果たすことが求められていると考えて、11月7日、アピール第3報「ガザ危機の深刻化とイスラエルによる戦争拡大を憂慮し、日本政府および国際社会に行動を求める声明」を出した。

 

 声明の一つのポイントは、日本政府がアメリカに対し、イスラエルへの軍事支援をやめるべきだと進言する必要があるという点だ。それを恐れるべきではない。これは非常に大きな問題だ。アメリカの軍事援助が続かなければ、イスラエルがあのような無謀な戦争を続けることは不可能だ。アメリカはイスラエルに毎年38億㌦の軍事援助を続けている。それがガザ戦争が始まって最近までに、合計してその数倍に跳ね上がっている。猛烈な軍事援助をやっているわけだ。そうしておきながら停戦交渉を「仲介」している。

 

 1993年のオスロ合意のときも、パレスチナとイスラエルの仲介役の中心はアメリカだった。しかしアメリカは仲介役といいながら一方的にイスラエルに肩入れしており、「アンパイア」が一方の「応援団長」を兼ねているわけだ。

 

 今、ユダヤ系アメリカ人の中でも、若い世代は圧倒的に戦争に反対だ。アメリカはイスラエル応援団長をやめるべきだ。

 

 もう一つ、対イスラエルの関係において、日本政府はなにをすべきか。

 

2014年5月、来日したネタニヤフ首相と会談し、軍事協力強化を約束した安倍首相(当時)

 安倍政権の時期の2014年5月、ネタニヤフ首相が来日、安倍首相と会談して、国家安全保障会議同士、IDF(イスラエル国防軍)と自衛隊幹部の意見交換や閣僚級を含む軍事交流など、軍事面での連携強化を約束した。これ以来、両国間で軍事情報の交換をおこなうなど緊密な協力体制がつくられた。2022年の防衛相会談では、両国が軍事技術開発の協力推進で一致している。

 

 また、経済協力を進めることも約束した。両国間の輸出入を盛んにするということだが、その中には日本がイスラエルの武器を購入することも含まれている。イスラエルの武器は、戦場で性能が確認されている。つまりパレスチナ人を殺したり、パレスチナの病院や学校を破壊した実績があり、非常に優れているという意味だ。そういう兵器を買ったり、そういう国へ武器の部品を輸出するとは何事か。イスラエルとの軍事協力や経済協力を直ちにやめるべきだ。私たちはそうした内容を、12月13日に外務省に出かけ、担当官に訴えた。

 

 さらにもう一つ、イスラエルとの外交関係を見直すべきだ。たとえばイスラエルに派遣している日本の大使を召還し、もっと下級の外交官を通常の連絡業務に当たらせる。それは国際政治において、相手国への強い不満を表明する手段としてどの国もやっていることだ。

 

 アピールでは、問題の根本的かつ平和的・包括的解決への道筋を示すためとして、国際社会がパレスチナ独立国家の樹立と国連加盟を明確に支持することもあげている。パレスチナ国家を承認している国は、今世界に145カ国ある。しかし、日本はまだ承認していない。パレスチナ人の正当な権利を日本も尊重する立場にあるという意思表示として、パレスチナ国家の承認を今の時期にやる意義があると思う。

 

 以上が中東研究者有志アピール第3報の新しい点だ。

 

 日本は、国連加盟国という一点を除けば、「カルテット」のメンバーではない。しかし、国際社会で依然として強い発言力を持つ「大国」の一つとして、この残酷な「ジェノサイド戦争」を終わらせる責任の一端を担うべき立場にあることを最後に強調したい。

 

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ならもと・えいすけ 1941年生まれ。法政大学名誉教授。1965年から毎日新聞記者。その後、米プリンストン大学院で中東史を専攻し、1991年から法政大学教員。著書に『君はパレスチナを知っているか―パレスチナの100年―』『パレスチナの歴史』など。

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