マクロン政府がうち出した年金改革法案をめぐり1月から100万人をこえる大規模な反対デモや基幹産業を中心にしたストライキが断続的におこなわれてきたフランスでは、国民の圧倒的な反対世論を無視して、4月中旬にマクロン政府は年金支給年齢を62歳から64歳に引き上げる年金改革法の交付を強行した。だが市民の怒りは沈静化するどころか、マクロン政権が国会採決を省略する手法(憲法49蒸3項)を濫用して年金改革を断行し、暴力によって市民や労働者の運動を弾圧することに反発が高まり、政府への底深い怒りと不信感が蓄積。そのなかで6月27日朝、パリ郊外のナンテールで17歳の若者が警察の検問中に射殺される事件が発生し、この若者がアルジェリア系移民出身であったことから、フランス国内の移民差別問題に火が付き、各地で大規模な暴動に発展した。フランス政府は、沈静化のために銃や催涙弾を常用する警察や武装部隊の力に頼っており、各地で内乱状態ともいえる緊迫した事態に陥っている。
年金改革をめぐってマクロン政府は、数カ月におよぶ100~300万人規模の反対デモや、鉄道、交通、衛生、電気、燃料などの主要部門で長期ストライキがおこなわれてきたにもかかわらず、主要労組との対話も拒否し、議会での審議時間も短縮して、最後には議会採決をせずに法案を可決させる禁じ手(最低限必要な福祉予算などの可決にのみ認められた憲法49条3項の特例)を使って法案を通過させた。これに対して労働者や市民の怒りが爆発し、「ファシズムの再来を許すな」「独裁者は辞任せよ」が広範な人々の世論となってフランス全土に広がった。
フランスでは、大規模デモによって法案を取り下げさせた先例は多くあり、2019年の第一次マクロン政権による年金改革法案(年給支給開始年齢を65歳に引き上げる法案)では、国鉄やパリ交通公団が47日間の長期ストに踏み切り、燃料課税への抗議から始まった「黄色いベスト」運動が巻き起こるなかで廃案に追い込まれた。2006年の「初期雇用契約」(若者の雇用試用期間を2年間に延長する法案)も、学生や労組による大規模デモやストライキを受けて当時の政府は採決後の法案を撤回した。ゼネストが国を麻痺させた1968年の「五月革命」では、政府・労組・経団連による「グルネル協定」が締結され、労組の権限拡大や大幅な賃金引き上げを獲得。独裁的な政治をおこなったド・ゴール政権の崩壊にも繋がった。
そのような歴史的体験から「政府が間違ったことをすれば、まず戦う」という社会文化が根付くフランスでは、「革命で王政を倒し、共和国を建設したのは無名の市民(自分)たち」という意識が、現在も一般市民のなかに確固として座っている。国家権力が力でねじ伏せようとすればするほど、国民の反発は逆に高まるのが常で、年金改革とそれを強権的に進めるマクロン政府の政治運営に対する抗議デモやストライキは開始から6カ月たった今も断続的に続いている。
政府と国民との間で対立が激化すると、必ず出現するのが、組織された暴徒集団(ブラック・ブロック=全身黒ずくめの集団など)で、一部で彼らによる建物への放火や略奪行為が発生すると、それを待ち構えたように政府側は武装警官を大量に動員し、警棒、ゴム弾、催涙弾などを使って平和的なデモも含めて力ずくで解散させる。同時に主要メディアは「デモが暴徒化!」とセンセーショナルに報じ、人々が街頭で意志表示する行為そのものを「暴動」と断定し、政府による暴力的な鎮圧を後押しするという構図だ。
フランス政府は、「黄色いベスト運動」を契機にして、デモ鎮圧を主任務とする機動暴動鎮圧部隊(BRAV-M)、武装した特殊警備警察部隊(CSI93)などの武装部隊を強化し、パリやその周辺の広場での集会・デモを禁止し、違反者を片っ端から逮捕するなど取り締まりを徹底した。
マクロン政府の支持率は、3月以降過去最低の20%台に落ち込んでおり、政府vs市民の対立構図は固定化し、社会的な怒りは蓄積される一方となった。マクロン大統領は支持率アップのために地方行脚を開始したが、大統領や閣僚らが赴くすべての場所で、市民は鍋などを叩き、「マクロンは辞任しろ!」を叫ぶ抗議行動を展開。そのためマクロンは治安部隊による警備を強化して、隔離された空間で限られた相手で「市民との対話」を演出。また大統領の訪問先での抗議集会やデモ、「ポータブル音響装置」(鍋のこと)の禁止条例を出すなど、モグラ叩き式に市民の言論や表現の自由を次々に規制した。
国民の怒りの高まりを受けて国政野党は、政府に対して年金改革への賛否を問う国民投票の実施を提案したが、それを審査する憲法評議会(与党政治家や大統領が人事権を握る)が、5月にこれを却下。その後も左派や中道会派の議員らが退職年齢の延長条項を廃止する法案を提出したが、これも大統領の圧力を受けた国民議会の議長が憲法特例条項を使って6月8日に却下し、審議すらおこなわれなかった。
民主主義を謳いながら議会さえも軽視し、大統領権限の拡大を許す「第5共和制」(1958年にド・ゴール政権がアルジェリア戦争中の軍部クーデター後に執行権を強化する意図で作られた憲法に基づく共和体。議会に対して政府が優位であり、強行採決や緊急事態条項を含む)の限界性が明確に問題視され始めていた。
警官が17歳の少年射殺 深刻な移民問題再燃
そのような政府への不信や怒りが高まるなかで起きたのが、パリ西郊ナンテールでの警察による少年射殺事件だ。
6月27日の朝、17歳の配達員ナエル少年が車を運転中に警官2人の検問を受け、至近距離で射殺された。警察は当初、「(少年が)命令に従わなかった」「停止せずに車が向かってきて警察官が危険に晒されたため(正当防衛)だ」と発表したが、事件当時の一部始終を捉えた映像がインターネット上に流出し、それらが嘘だったことが判明した。
流出映像と助手席にいた若者の証言によれば、ナエル少年は命令に従って停車し、運転席の窓ガラスを下げて検問に応じた。そのとき警官の1人が銃床で少年のこめかみを突き、銃口を突きつけて「お前の頭に一発入れるぞ!」と恫喝。もう1人の警官が「撃て!」と叫んでいる。もう一度銃床で突かれたはずみでオートマチック車のブレーキペダルから少年の足が離れ、わずかに車が前進した瞬間、警官1人が少年の胸を撃ち抜き、車は目前の道路標識に追突して止まった。映像からも警官は停止した車の運転席側に立っており、「車が停止せずに向かってきた」は虚偽発表であることが確認できる。
ナエル少年は、アルジェリアとフランスの二重国籍を持っており、これまでも同じような移民出身者を標的にした警察の射殺事例があいついでいたため、事件はフランス人口の10%を占める移民の怒りをかき立てた。
今回と同じように「命令に従わなかった」という理由で警察が射殺した人数は、過去10年間で50%増加しており、2022年は13人。その多くがアフリカ系(黒人)かアラブ系だ。
このような「命令への不服従」を理由にした警官の射撃は、アフリカ系やアラブ系移民に対するフランス警察の差別意識を根底にして増え続けているといわれる。
とくに2017年のオランド政権末期、刑法改定で警察による銃器使用の規制が緩和され、警察が「命令拒否」と認めしだい発砲することを許容する解釈がまかり通るようになったことも、それを助長していると指摘される。法改正以降、警察による殺害数は5倍に増加した。
フランスでは2005年にもパリ北部地域でアフリカ出身の10代の若者2人が警察に追われ、変電所に入って感電死する事件が起き、フランス全土で抗議デモが巻き起こった。フランス警察の人種意識については、5月1日にも国連人権委員会が検査(UPR)で批判し、政府に対して民主的な対処を要請。だがマクロン政府は警察の人種差別問題を否定し、同委員会は6月に同じ要請を2回くり返している。
フランスは、1960年代から高度経済成長を支える労働力として多くの移民を積極的に受け入れており、旧植民地である北アフリカのアルジェリアやモロッコ出身者が上位を占めている。彼らの多くはパリ郊外の地区(カルチエ)に点在する地区で暮らし、貧困に苦しみ、就職差別や宗教の違い(移民にはイスラム教徒を多く含む)などによる差別に晒され、安い労働力として消費されるだけの社会的地位を強いられてきた。フランスの人口に占める移民の割合は、1968年には6・5%だったが、2021年には10・3%(10人に1人以上)を占め、その数は700~800万人に達している。
都市郊外の貧困地区に多く住む移民系住民が、公共サービスの劣化、高い失業率、ドラッグ売買、人種差別や警察からの迫害など数多くの困難に直面していることは、社会科学の研究者や自治体の長から指摘され続けてきたが、マクロン政府がこの問題解決に動いたことはない。
事件の真相を捉えた映像が出回るなかで、マクロン大統領や内務大臣も警察を批判せざるを得なくなり、「10代の少年の死を正当化できるものは何もない」(マクロン)とのべ、発砲した警官はすぐに勾留された(その後、公判前釈放)。この措置に対して警察労組は反発している。マクロン政府自身が警察の暴力に依存し、それを奨励してきたからだ。
政府が、年金改革などの抗議デモの沈静化を警察権力に依存し、警察の権限が拡大(武器、暴力行使、逮捕要件を緩和)するなかで、「殺しても許される存在」として弱い立場の移民がターゲットになったことは想像に難くない。少年を殺害した警察官は、デモ鎮圧部隊BRAV-MとCSI93の元所属員でもあった。
射殺事件が起きた6月27日からナンテールで若者たちは怒りを爆発させ、車などの放火や破壊などが起き、翌日の晩以降は、パリやリヨンなどの大都市や中小都市にもその動きが波及し、車、公共施設、警察署、市役所などが放火や破壊の対象となった。ここに組織された暴徒集団も便乗して、商店などでの略奪も起きた。
ナエル少年の母親は、殺された息子の追悼のために「白い行進(ホワイト・マーチ)」を呼びかけ、ナエル少年の居住区でもあり事件現場となったナンテールで6月29日、1万人をこえる人々が追悼デモをおこなった(警察発表6200人)。人々は「ナエルのための正義を!」「正義なくして平和なし!」などの横断幕やプラカードを抱えて平和的に行進したが、終着地点には動員された大量の治安部隊が待機しており、これらのデモにも催涙弾が放たれた。
このような強行措置が若者たちの怒りの火に油を注ぎ、パリでは来年のパリ五輪に向けて建設中のプールが激しく燃えたほか、パリ南郊ライレローズでは市長宅に車が突っ込み、火を放つなどの騒動となった。政府は武装警察4万5000人を動員して鎮圧に動いている。抗議者たちが花火を撃ち込むなかで、警察側は自動小銃まで使って鎮圧を図っているが、その後も無通告のデモが各地で頻発し、各都市で夜間外出禁止令が出るなど緊迫した状況が続いている。
マルセイユでは1日、警察によっていかなるデモ・集会も禁止され、夜間には公共交通は停止し、CRS(治安維持部隊)の大規模な増援に加えて、憲兵隊の装甲車両、ヘリコプターや警察の飛行機が市内の監視にあたる事態となった。同市では、警察が撃った閃光弾が直撃して、スクーターに乗っていた男性が死亡している。
これらの騒動での逮捕者は5日現在で3500人にのぼり、その60%は犯罪歴のない人々であったと報じられている。
マクロン大統領はデモが激化していた6月28日夜、歌手エルトン・ジョンの公演を見に行っていたことが物議を醸したが、若者による暴動激化を受けて「子どもを家に閉じ込めておく責任は親にある。親にすべての責任を負わせる」と豪語し、ネットやSNSを遮断することも提案。「暴力に対しては断固たる措置をとる」として、その社会的要因の解決に触れることなく、国家による暴力に拍車を掛ける姿勢を見せている。ウクライナ・ロシア戦争でウクライナ支援の急先鋒になってきたマクロン大統領だが、「現在のパリ近郊は、キーウより緊迫している」と揶揄されている。
解決策もたぬマクロン 「制御不能」の声も
内戦を想起させるような国内の騒乱状態を見かねて、サッカーフランス代表のキリアン・エムバペ選手(カメルーン出身の父とアルジェリア出身の母をもつ移民2世)は声明を発した。
声明では「すべてのフランス人と同じように僕らも若きナエルの残忍な死にショックを受けた。何よりも彼と遺族に心からの哀悼の意を表する。当然ながら、この容認しがたい死が起きた状況に対して鈍感でいるわけにはいかない。この悲劇が起きて以降、人々の怒りの発露を目にしてきた。労働者階級出身の僕らの多くはこのような痛みや悲しみの感情を共有している」とのべたうえで、「だが暴力は何の解決にもならない。ましてや、それを表現する人々やその家族、愛する人や隣人に対して、必然的かつ絶え間なく向けられるのであればなおさらだ。暴力の時代は終わらなければいけないし、追悼、対話、再建へ道を譲らなければいけない」と訴えた。
だが、マクロン大統領は4日、自治体の長200人との面談後、バンリュー(パリ郊外の貧困地区)の問題解決のために予算を出すことを明確に拒否し、あくまで治安部隊による沈静化を図り、自身の政策実現を武力によって遂行する姿勢を崩していない。国民に銃を向けることは、反発の根源的な解決を先送りし、暴力の応酬が長期化することを意味しており、内外の識者からも「もはや制御不能状態」「人権宣言の国フランスが強権的専制国家へ移行した」と指摘されている。
フランス国内の社会矛盾は、年金問題に端を発し、物価高問題、雇用・賃金問題、環境破壊問題、移民問題に至るまで激化しており、メディフ(フランス版経団連)をはじめ一部の富裕層の利益を最優先するマクロン政府と国民との対決構図はますます先鋭化している。
共和国理念とレジスタンス精神にもとづいて国民の世論と行動が高まるなかで、政権側が議会では多数決の原理を無視(憲法特例の濫用)し、街頭では武力で抑え込むという民主主義とは名ばかりのファッショ的姿勢で対応する限り、さまざまな社会的分野でたたかう広範な人々の連帯は広がり、強化されていくほかない。強権政治は統治の弱体化のあらわれであることをフランス国内の混乱ぶりは示している。