メディアから流れる日々のニュースを疑いの目で見ないと、みずからの生存までもが脅かされかねない。2011年3月を境に、そうした認識に達し、周囲の世界に対する見方を一変させた日本人は少なくないはずだが、私もその一人である。
昨2022年は、各国の政府や国際機関を牛耳ることで現在の世界を支配しているとおぼしい匿名の勢力(呼び名はさまざまだが、そうした勢力が実体として存在することは、動かしがたい事実と認定してよいであろう)の害意がかつてないほどむき出しになり、いよいよわれわれを殺しにかかっている、と感じる1年だった。フォローしているいくつかのTwitterアカウントやブックマークしている動画サイトを通じてフランスから届く情報には、コロナワクチン接種を拒否する医療従事者が職を、したがって生活手段を奪われたままに捨て置かれているとか、対ロシア制裁による燃料不足を理由に、この冬、学校、公共交通機関等の公的サービスが停止するといった、政府による自国民への深刻な人権侵害の様相が刻々と告げられている。反ワクチンの論陣を張ってきた『フランス・ソワール』紙が、文化省が公共性の観点から報道紙誌に認めている税制上の優遇措置を剥奪されるなど、言論弾圧もなりふりかまわぬものになってきた。
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ところで、私がほぼ日課として接するそれらの情報には、人々からしばしば「陰謀論」と叩かれるものが含まれている。陰謀論とひとくくりにされる数々の言説の中に、真実をうがつものが少なからずあることはまちがいないと思われるのだが、確信をもって真偽を判定するのは容易ではない。そこにはまた、とうてい首肯しがたい、流言飛語のたぐいとみなすべきものも混じっていることは明らかで、ひとたびメインストリーム・メディアへの信を失った者には、まことに高度なメディア・リテラシーが求められるのだと痛感する。
ウクライナ戦争をめぐる報道に接することで、「情報戦」という言葉もなじみ深いものになった。ネットの言論空間もまた、操作されており、ひとつの事象に関して単一のソースを元に拡散される情報ばかり見ていると、真実から遠ざかる危険があることを肝に銘じなければなるまい。
そんな中で出会った一冊の本は、世界の現況について正確な見通しを与えてくれ、今後の世界がどのようなものであるべきかを考えるうえでの指針となってくれると確信できるものであった。ヴァレリー・ビュゴー(Valerie Bugault)とジャン・レミ(Jean Remy)の共著、Du nouvel esprit des lois et de la monnaie(『新しい法の精神と貨幣について』、Sigest刊、2017年初版、2021年第四版)がそれである。
著者の一人であるビュゴーは、陰謀論の害悪から市民を守るための啓発活動を行なっているフランス語のサイトConspiracy Watch(https://www. conspiracywatch. info/)において、陰謀論者と認定されている人物だ。これほどにも明察に富んだ有益な書物を世人の目から遠ざけることが企てられているからには、同サイトの活動理念について、また、言論界全体における「陰謀論」という語の使われ方について、深い疑念を抱かずにはおれない。
さて、その『新しい法の精神』には、何が述べられているか。それぞれ法学(ヴィゴー)と金融(レミ)を専門とする2人が、「自然権」に立脚して、政治体と貨幣制度の正しいありようを再定義し、フランスの現状がそこからいかにかけ離れたものとなっているか、そこにいたった歴史的経緯とともに説き明かす。はじめに「主権」とは何かが問い直され、主権者は一定の領域を持つ「国家」内に居住する「民」であること、したがって「民の支配(デモクラシー democratie)」が政治体の本源的な姿であることが確認される。だが、これを旗印に掲げたフランス革命は、「命令委任 mandat imperatif」(会議に臨むある集団の代表が、その集団全体の意思決定に束縛されること。これなしに民は主権を保ちえないことを、ルソーが『社会契約論』の中ではっきりと述べていた)という絶対的要請をなげうったために、選挙で選ばれた議員が財力のある者と結ぶという、現代世界を覆う「富の支配(プルートクラシー ploutocratie)」に道を開いてしまった。こうして、政治の領域は経済の領域によってしだいに侵食されていく。その過程は、長いあいだ民主主義の建前のもと隠然と進行したのだが、欧州連合の発足によって公然と制度化され、今にいたっている。貨幣はといえば、それは「財」ではなく、交換を円滑なものにするための人為的な制度である。現代の経済学は、貨幣を財とみなすという誤った前提に立っているために、「富の支配」を補強する役にしか立っていない。政治の側が制御することによって、貨幣の本来の機能を回復しなくてはならない。
おおよそ上のような内容が、段階を踏んで、噛んで含めるように説き進められていくので、論説というより、一冊の教科書を読んでいるかのようだ。何かひとつの、ある学問体系の教科書ではなく、主権者ということになっている国民の一人一人が、主権者としての地位を真に獲得するための教科書。学校で、社会で、これまで教わってきた常識をひっくり返されるが、その一方で、われわれの代表であるはずの政府が、われわれの敵としか思えない者たちに奉仕するさまを目撃するという日々の経験と、ことごとく符合する。これは常識の方が間違っていたのだと、誰もが納得するはずだ。書かれていることの明証性を認められない者がいるとすればそれは、専門分野という縄張りの中で培った思考の枠組から出ることのできない、学者たちではあるまいか。
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『新しい法の精神』を読んだうえで日本国憲法に目をやると、前文の冒頭から、「日本国民は、正当に選挙された国民の代表者を通じて行動し」と、さっそく書き改めなければならない文言が飛びこんでくる。「主権が国民に存することを宣言」した直後の文には、「国政は、国民の厳粛な信託によるものであ」り、「その権力は国民の代表者がこれを行使」する、それが「人類普遍の原理であ」ると、はっきり述べられているではないか。
ビュゴーとレミの著作によって、議会制民主主義の制度が人類普遍の原理などではけっしてないことが明らかにされたいま、日本国憲法の土台は大きく揺らいでいると私は考える。
ヴァレリー・ビュゴーは、2021年末に「レヴォリュドロワ RevoluDroit」という名のウェブサイトを始動させ、「富の支配」を支える現在の体制に代わる、まったく新しい政治制度の構想を提示している。その存在に気づいたばかりで、まだじっくり見ることができていないが、憲法を廃し、これに代わるものとして憲章charte(正式名称は「フランスの不可侵の諸価値についての憲章」)を置く(十六条から成る条文がすでに整えられている)、一人一票の選挙ではなく「利益集団 groupement d’interet」なるものが国家の意思決定の基本単位となるなど、一瞥するだけでも、その斬新さに胸躍らされるものがある。
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未来に向けたこのように具体的な青写真を描きつつも、それが簡単に実現するとは、ビュゴー自身、考えていないだろう。200年来、不動の真理のようにそびえてきた制度を覆して、それとはまったく異なる制度を打ち立てようというのだから、どのような道筋でそれが可能になるのか、想像もつかない。にもかかわらず、基本に据えられた理念が多くの人に知られ、咀嚼され、腑に落ちるまで理解したうえで共有されることは、まちがいなく有意義であり、また必要である。現体制の欺瞞性を暴く段階は過ぎ、ほどなく全世界規模で訪れるであろう体制崩壊後の社会を再編成するためのアイデアを自分の中に育てていく作業に、私たちは皆、取りかからねばなるまい。
フランスとは歴史も文化の基盤も異なる日本で、「民の支配」はどのような形をとるのが望ましいか。どのような形でなら実現可能であるか。「レヴォリュドロワ」は、それを考えるための強力な道具のひとつとなってくれるはずだ。フランス語を解さない人が大半を占めるこの日本で、できうれば協力者も得て、ビュゴーたちの議論をよりくわしく紹介することを、私自身の新年の抱負としたい。
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つじべ・だいすけ 1963年生まれ。東京大学文学部フランス語フランス文学専修課程卒業、同大学院人文科学研究科仏語仏文学専攻博士課程満期退学。1999年に東京大学大学院人文社会系研究科助手をへて、2002年から福岡大学人文学部講師、2014年から福岡大学人文学部フランス語学科教授。研究分野は18世紀フランス文学。