南米チリで大統領選挙の決選投票が19日におこなわれ、大手メディアの予想を覆して「チリを新自由主義の墓場にする」と訴えた左派の35歳ガブリエル・ボリッチ氏が大差で当選した。南米12カ国では2019年に「大きな政府」を掲げてアルゼンチンで左派政権が復活、ボリビアでも反米左派政権が2019年にいったん崩壊したが1年で返り咲き、ペルーでも今年7月に新自由主義に反対する元小学校教師のカスティジョ氏が大統領に就任するなど、チリを含めて七カ国で左派政権が誕生し、かつてない「左派ドミノ」の波が起こっている。中米ホンジュラスでは先月の大統領選で「貧困と格差是正」を訴えた左派のカストロ氏が勝利した。来年10月に大統領選挙がおこなわれるブラジルでも新自由主義を標榜する現職ボルソナロ大統領の再選は困難との世論調査結果が出ている。世界に先行して新自由主義に侵食された中南米諸国で貧富の格差拡大は耐えがたいものとなり、広範な層が反撃に立ち上がっており、この波は日本を含めて世界中を席巻するすう勢を示唆している。
ボリッチ氏は19日、首都サンティアゴ中心部で詰めかけた数万人の支持者を前に「今日、希望が恐怖にうち勝った」「謙虚さと大きな責任感を持って職責を引き受ける。国の将来が今後数年に懸かっていることを理解している」と勝利宣言した。
チリでの大統領選挙は11月21日に第1回目の投票がおこなわれた。1回目には7人の候補が出馬する乱戦となり、いずれの候補も過半数を獲得できず、19日の決選投票となった。1回目の投票で1位となったのはピノチェト軍政時代を礼賛する極右派のホセ・アントニオ・カスト氏で27・91%を獲得、2位が学生運動出身で左派政党の社会融合党から出馬したガブリエル・ボリッチ氏で25・83%の得票であった。
大手メディアは「ボリッチ氏の逆転はまずない」と予想し、「接戦」を煽っていたが、2回目の投票が締めきられてから約1時間半後、開票率が約50%の時点で早々にカスト氏が敗北宣言をおこなうなど、ボリッチ氏が予想を上回って得票した。最終段階の得票率はボリッチ氏56%、カスト氏44%の大差でボリッチ氏が勝利した。
ボリッチ氏は現在35歳。大統領に就任する来年3月には36歳になるが、チリ史上最年少の大統領となる。世界的にももっとも若い政治指導者の1人となる。ボリッチ氏は10年前、学校教育の民営化に反対し、大学授業料の無償化などを訴えて数千人規模の抗議運動の先頭に立った。ボリッチ大統領就任は、ピノチェト軍事独裁政権から民政に移管した1990年以降も続いた中道路線から左派路線に舵を切る画期的なものだ。
ボリッチ氏は選挙戦で「チリが新自由主義の起源であったならば、それはまた墓場になるだろう」と新自由主義に真っ向から対決する姿勢を明確にした。そのうえで、格差是正のため、「富裕層への課税強化」「福祉国家の実現」「豊富な天然資源への国家関与強化」「民営化された年金や健康保険制度の改革」「労働時間を週45時間から40時間に短縮」「ピノチェト独裁政権時代の憲法改正」などを掲げた。また、経済政策では国内産業を保護する立場に立ち、自由貿易協定(FTA)の拡充に慎重な姿勢を表明し、未批准の環太平洋経済連携協定(TPP)11の見直しを主張した。
他方でカスト氏は「新自由主義の継続」を主張し、自由貿易を重視する姿勢を示すとともに、ピノチェト独裁政権の業績を賞賛した。
今回の大統領選挙では1973年にピノチェト軍事独裁政権が「新自由主義」を導入して以来約50年が経過するなかで、国民のなかに鬱積した怒りが噴き出すものとなった。選挙戦期間中にも新自由主義に反対する大規模な抗議デモが起きるなど、大衆的な運動の盛り上がりのなかで投票がおこなわれた。
水道や教育、医療、公共サービスを儲けの具に
チリでは2019年、「財政健全化」を目的とした公共料金引き上げの一環としての地下鉄運賃の値上げに反対して、約120万人が参加する過去最大規模の抗議デモが起こった。地下鉄で800ペソ(121円)から830ペソ(126円)の値上げが発表されると、高校生や大学生が先頭に立って抗議の無賃乗車デモをおこなったことが起爆剤となり、チリ民衆の怒りに火がつき、抗議行動は全土に広がった。
ピノチェト軍事政権下で導入された新自由主義によってもたらされた、社会保障諸制度の民営化、資源の民営化、さらに1990年の民政移行後も続く公共サービスへの市場原理導入などに対する怒りの爆発だった。軍事政権以降のどの政権も新自由主義からの転換をおこなわず、問題の根本的な解決をしてこなかったことに対して民衆は立ち上がり、「歴史上最大」の120万人デモに結集した。参加者は手に手に「30ペソじゃない、30年だ」のプラカードを持ち、問題は地下鉄料金の30ペソの値上げではなく、民政移管後30年間におよぶ搾取の強化だと叫んだ。
さらに民衆は民政移管後の30年にとどまらず、問題の根源がアメリカ・CIAの支援を受けてアジェンデ社会主義政権をクーデターで転覆させ、政権を握ったピノチェト軍事独裁政権の時代にまで遡ることを追及した。同政権はシカゴ・ボーイズ(シカゴ大学の新自由主義を信奉する経済学者)に任せた新自由主義にもとづく経済改革によって、国家の役割を最小限にとどめる「小さな政府」を実行した。教育、医療、年金などの公的社会福祉制度をことごとく民営化し、多くが民間企業の手に渡り、本来国民に対して保障されるべき基本的公共サービスが企業の利益を追求する事業になっていった。
国際金融機関は「チリ経済は南米の優等生」と呼んだが、現実にはチリ社会の収入格差は拡大した。2019年の統計では、平均賃金は約57万4000ペソ(約8万6000円)となっているが、50%の就労者の賃金は40万ペソ(約6万円)以下で、7割近くの就労者の収入は平均賃金に届かない。また、人口の1%が富の33%を所有し、多くが貧困に苦しむという不平等を生み出している。
家計調査では、チリの家庭のおもな支出は食料、交通料金、家賃、医療費となっており、地下鉄料金は二番目に大きな支出を直撃するものだった。なお、抗議デモによって地下鉄料金値上げは撤回された。
チリは世界でもっとも格差の大きな国の一つになっており、その原因は、電気や水道などの民営化による負担増だ。このほか年金、教育、医療など国民生活に必須不可欠な部門の民営化によって不平等は拡大し、人々の生活は耐えがたいものになり、憤懣は鬱積していた。
2019年の史上最大規模の抗議デモに立ち上がった民衆はさらに、問題の根源が新自由主義を推進する1980年の憲法にあることを追及し、憲法改正、新憲法制定を要求してきた。軍事独裁政権下で作成された憲法が民政移管後も効力を維持している。たとえば憲法では、企業による天然資源の搾取を制限なく保護している。また憲法では、政府が社会福祉を拡張することや企業に介入することを制限し、福祉事業の民営化を保護している。
史上最大規模の抗議デモを沈静化させるために2019年当時のピニェラ大統領は、新憲法制定の是非を問う国民投票の実施を容認し、2020年10月25日の国民投票では圧倒的多数が憲法改正に賛成した。同時に新憲法を作成するための代表者会議のメンバー155人の選挙でも左派勢力が多くの議席を占め、憲法草案は「新自由主義の見直しをはかる」「格差是正や国や政府の役割を高める」方向で進む見通しだ。新憲法については22年のなかばごろに新たな国民投票が予定されている。
チリ大統領選挙でのボリッチ氏の勝利は、約50年にわたる新自由主義政策のもとでの格差拡大、貧困拡大、社会の荒廃などに対する広範な民衆の積もり積もった憤激の発露が背景にある。これはチリのみならず、中南米諸国でも共通した民衆の行動として出現しており、日本もまた例外ではない。
ごく一握りの大企業、グローバル企業が圧倒的多数の国民の生命、生活の維持に必要不可欠の水や医療、教育、福祉などを金もうけの道具にする新自由主義の弊害は世界的に弾劾の対象となっており、新自由主義からの脱却がすう勢となっている。