東アジア地域包括的経済連携協定(RCEP=アールセップ)の承認案が衆院本会議で可決された。RCEPは東南アジア諸国連合(ASEAN)10カ国と、ASEANとFTAを結ぶ5カ国(日本、中国、韓国、オーストラリア、ニュージーランド)の計15カ国による包括的な自由貿易協定だ。2012年11月に交渉が立ち上げられ、2013年5月に交渉開始、昨年11月15日に各国首脳が協定書に署名したが、交渉過程も合意内容も非公開で秘密主義が貫かれた。昨年11月の署名後にやっと交渉草案が公表されたが、内容について国民にはほとんど知らせず、国民的な論議もないまま政府は今国会に承認案を提出し、強行可決するに至った。RCEP協定はいわば政府が国民に目隠しをして締結した「秘密協定」の性質をおびている。秘密主義は環太平洋経済連携協定(TPP)でも同様であった。公表されている範囲でRCEPの内容について見てみた。
政府は、RCEPは経済規模(GDP)や人口、貿易額のいずれも世界の約3割を占める世界最大規模の自由貿易圏であり、発効により日本のGDPを約2・7%押し上げる経済効果があることを強調している。RCEPの経済規模を世界最大にしているのは中国だ。参加国の人口を見ると、中国約14億人、インドネシア約2億6000万人、日本が約1億2000万人と続いており、中国が突出している。また、RCEPの大きな特徴となっているのは、参加する15カ国の経済・社会発展の格差が非常に大きいことだ。とくにカンボジア、ラオス、ミャンマーなどの後発の途上国が含まれている。
また、2012年にRCEP交渉を立ち上げた時点ではインドが参加していたが、2019年に離脱した。インド最大の酪農協同組合が安価なオーストラリア産やニュージーランド産の乳製品が市場に出回ることで国内の酪農業が大打撃を受けるとRCEP反対を表明したのをはじめ、安価な中国製品の流入で国内産業がダメージを受けることを懸念する世論が高まったためだ。
なお、RCEPの発効はASEANの六カ国以上、それ以外で3カ国以上が批准手続きを終えてから60日後になる。タイや中国はすでに承認済みだが、発効時期は確定していない。
RCEPの協定文は二〇章からなり、関税撤廃や大幅引き下げなどを目玉とする「物品の貿易」(第二章)をはじめ、非関税障壁の撤廃を加盟国に要求し、多国籍企業がビジネスをおこなううえでの障害をとり除くための構造改革や規制緩和を求めている。人、物、カネが国境をこえて自由に行き来することを保証するもので、二〇のテーマのなかには、移民問題と直結する「自然人の一時的な移動」(第九章)や、チャイナ・マネーの流入や中国IT大手の進出にかかわる「投資」(第一〇章)、「サービスの貿易(金融サービス、電気通信サービス、自由職業サービスに関する付属書を含む)」(第八章)、ファーウェイ製品排除問題とも関連する「政府調達」(第一六章)などがある。
さらには、著作権や医薬品の特許と関係する「知的財産」(第一一章)、食の安全とかかわる「衛生植物検疫措置(SPS)」(第五章)等々があり、どれ一つとっても日本経済のみならず政治や社会体制に直接的な影響を与えるものであり、政府は国民に内容を周知する責任がある。
韓中からの輸入増必至 安全性検査も骨抜き
「物品の貿易」では、農産物の輸入増大の影響が懸念されている。政府は「重要五品目(コメ、麦、牛肉・豚肉、乳製品、甘味資源作物)」を関税削減・撤廃の対象から除外したので影響はないとしている。
RCEPは日本が中国や韓国と初めて結ぶFTAであり、両国からの農産物輸入はこれまでも日本農業に大きな打撃を与えてきており、発効により大幅な輸入増は必至だ。中国や韓国からはとくに野菜の輸入が多い。日本の生鮮野菜輸入実績を見ると、中国産が65%、中国以外のRCEP圏産が15%で合計80%にのぼる。加工・冷凍野菜を含めると、中国からの輸入は30年間(1990~2018年)で27万㌧から155万㌧へ6倍に増えている。
とくに中国は果物の一大生産国でもあり、ミカン、柿、ナシ、キウイ、グレープフルーツなどの生産は世界の50~75%を占めている。果物に加えジュースや加工品の輸入も増大する可能性が高い。
農業に影響がないとする政府の見解は実際に合致しておらず、「重要五品目」のみならず今後多面的に注目していく必要がある。
物品の貿易ともかかわって、第四章には「税関手続き及び貿易円滑化」を掲げている。これはTPPでも同じ項目をもうけており、税関手続きの迅速化・簡素化を促すものだ。「円滑化」の名のもとで安全性や税関体制がないがしろにされる懸念がある。日本の場合を見ても、輸入食品は増加する一方だが、通関・検疫体制は縮小され、検査率は年々低下してきている。簡素化・迅速化を求めるのではなく、安全性や検査体制の強化こそが必要になっている。
第一〇章の「投資」の項もTPPの「投資」の章を雛形にしている。ただし、TPPでの投資章は「投資の自由化」と「投資の保護(投資家対国家紛争解決制度〈ISDS〉)に分かれているが、RCEPでは「投資の自由化」だけで、ISDSは含まれていない。
交渉において投資章は難航分野の一つだった。日本や韓国はTPP型の投資の自由化やISDS条項を含むことを主張したのに対し、中国やインド、ASEAN諸国はISDSを含むことに反対し、結果として投資章の条項にISDSは盛り込まれなかった。
ISDS条項とは、たとえば日本企業が中国でおこなった投資が、中国政府の政策変更により投資効果が見込めなくなった場合、日本企業が中国政府を相手どり補償を要求することができる国際メカニズムの設置を意味する。海外事業を展開する日本企業にとっては最重要課題の一つであり、TPP等には含まれる。他方で中国が今まで締結したFTA等には本格的なISDSは含まれない。
第一一章の「知的財産」も難航した項目の一つだった。世界の知的財産権の九割は先進国の企業が保有し、圧倒的多数の途上国・新興国は「利用者」でしかなく、とくに医薬品特許をめぐっては途上国と先進国の激しい対立が続いてきた。TPPでは、バイオ医薬品のデータ保護期間をめぐり5年を求める途上国・新興国側と、12年を求めるアメリカが激しく対立した結果、「8年」で妥協した。その後アメリカがTPPから離脱したためTPP11では凍結された。
RCEPでは日本と韓国が中心となり、TPPと同じ水準の医薬品特許保護の強化を求める条項を提案した。これに対しASEAN諸国やインドが激しく反対したため、「バイオ医薬品のデータ保護」や、製薬企業が当局の審査への不服から特許の延長を求めることができる「不合理な短縮についての特許期間の調整」などの条項は排除された。
RCEPの「知的財産」章においては、「農民の種子の権利」をめぐっても途上国と先進国の対立が激化した。参加国の人口22億7000万人のうち、半数以上が農民とくに小規模農民と先住民で占められ、種子を自家採種し伝統的な農業を続けている。
参加国の農民にとって、「植物の新品種の保護に関する国際条約(UPOV=ユポフ)」の1991年改定版の批准をRCEPで義務化されることが大きな懸念材料だった。日本はすでに批准しており、日本を含む先進国側は途上国・新興国にユポフ条約批准を強く迫った。RCEP参加国で批准していないのは、中国、ニュージーランド、タイ、インドネシア、マレーシア、フィリピン、ブルネイ、ミャンマー、カンボジア、ラオスの10カ国だった。これらの国の農民にとって、ユポフ条約批准で国内法が改定されれば、品種登録が増加し、これまで自由におこなってきた自家採種や種子の交換などが規制されることになる。
交渉ではタイ、フィリピン、マレーシア、インドネシア、インドの農民が中心となり、日本と韓国への批判を強め、結果的にRCEPでは締約国にユポフ条約1991年改定版の批准義務は課されなかった。
デジタルルールも後退 国有企業制限も排除
第一二章の「電子商取引」では、巨大IT企業を多数有するアメリカが策定してきたデジタル貿易をめぐるルールは盛り込まれなかった。アメリカは「自由で開かれたインターネット上で製品やサービス、データの自由な流通を促進するために、国際貿易ルールを変革する」とし、「デジタルに関する二四のルール」をもうけ、それは日米デジタル貿易協定などの雛形として踏襲されている。
だがRCEPにはデジタル分野でアメリカと争う中国が参加している。RCEP参加国のなかでTPP参加国は日本、オーストラリア、ニュージーランド、マレーシア、ブルネイ、ベトナム、カンボジアの7カ国だ。つまりRCEPでは、「TPP型のルール形成を求めるTPP参加国グループ」と「国内の規制を維持しようとする中国やインド(離脱前)、インドネシア、そしてデジタル分野の開発が困難な後発開発途上国(ラオス、ミャンマー、カンボジア)」の対立となり、結果としてTPP型のルールは踏襲されなかった。RCEPでは各国がデジタル分野で自国の法令や規制を行使できる余地がTPPより確保された。
また、電子商取引に関するデータ・ローカライゼーションの禁止も日本の産業界が強く支持する項目だ。ローカライゼーションとは、締約国の領域内にコンピュータ関連施設を設置するよう事業者に要求することだが、RCEPでは、原則禁止ではあるものの、締約国政府が公共政策の正当な目的を達成するために必要であると認めた措置は採用・維持できるとした。
デジタル貿易に関してはRCEPでTPP型のルールは大きく後退し、各国の主権や政策の余地を確保する結果となった。これは日本や韓国など先進国グループが求めたTPP型のルール導入に対し、中国やインド、ASEAN諸国が抵抗した結果だ。ただし、RCEP発効後も、日本など先進国グループと中国・ASEAN諸国がデジタル貿易ルールをめぐり攻防を続けることは必至となっている。
第一六章の「政府調達」は、RCEP交渉の初期段階では対象となっておらず、途中で追加された。
「政府調達」とは、国や政府機関、地方政府などが物品やサービスを調達したり、建設工事を発注するさいのルールで、TPPでは国内企業と同じ条件を外国企業に与えなければならないとなっていた。
このルールをRCEPでも盛り込むことを主張したのは日本をはじめとする先進国で、これに中国や新興国・途上国が反対した。結果、政府調達章の内容は抽象的な内容にとどまり、TPPで規定されたように調達範囲や基準額を具体的に約束するものではなくなった。
また、TPPにはあった「国有企業」(政府が出資して公的なサービスを提供する、金融、郵便、病院、鉄道、空港、公有企業などへの財政支援の禁止)の章についても、中国やASEAN諸国の反発が大きく、RCEPには盛り込まれなかった。
交渉全体を通じて、TPPを下敷きとしたルールを押し通そうとした日本など先進国グループの主張はことごとく骨抜きにされ、中国やASEAN諸国が途上国をまきこんで主張した内容が盛り込まれた。
中国主導の新ルールへ 途上国を取り込んで
RCEPに至る経過を振り返ると、中国は2004年にモノの関税引き下げをめざした自由貿易協定(FTA)である東アジア自由貿易協定(EAFT)を提案した。参加国はASEAN+3の13カ国だった。一方日本はサービス・投資の自由化や知的財産権の保護に関心を強め、より包括的なパートナーシップをオーストラリア・ニュージーランド・インドを含めた16カ国で締結しようとCEPEA構想を逆提案した。この時点では日中の力は伯仲しており、どちらも主導権をとることができず、両プロジェクトは並走した。
2011年に日中は実質CEPEAに近い形で交渉を開始することで合意した。サービス・投資・知的財産権を交渉分野に含み、メンバーとしてはオーストラリア・ニュージーランド・インドの参加が想定され、最終的に地域的な包括的経済連携協定(RCEP)交渉の立ち上げにつながった。この合意は国力を飛躍的に増大させた中国が、日本と互角以上にたたかえるとの自信のあらわれだった。
中国は欧米先進国が主導してつくりあげてきた国際経済ルールを、中国が途上国の意向を踏まえてつくり直すという戦略でRCEP交渉に臨み、TPPには加盟できないような途上国が受け入れやすい国際経済ルールをRCEPで実現することをめざした。ASEANと途上国をとりこんだ中国の戦略のもとで、日本は、中国主導が際立つ協定に署名せざるをえないところに立たされていた。
中国主導の国際経済ルールの典型的なものは、投資に関する項でのISDSの排除、電子商取引におけるデータ・ローカライゼーション禁止の排除だ。これについてはルールが破られたさいにも紛争処理にかけてはならないとされた。
RCEPは当初は日本が提案したCEPEAがベースになる可能性もあったが、結局は中国の意向が強く反映するものとなった。中国の主張が通った背景には、中国がアジアにおける圧倒的な国力を有してきていることと、中国がアジアの途上国が受け入れやすい国際経済ルールを提案したことがある。日本側が主張したTPP型のルールはアジア諸国には反発を招き、中国は途上国に配慮した内容を提示し、それをアジア諸国は受け入れたということだ。
専門家は「長い目で見ると、2020年はアメリカや日本の主導したTPPではなく、中国が主導したRCEPのルールによって東アジアがカバーされたターニングポイントの年として刻まれるかもしれない」とのべている。