ベネズエラ情勢が緊迫するなか、「ベネズエラを知る集い」が7日、明治大学リバティタワーで開催された。同国で実際になにが起こっているのか、人人の生活はどうなっているのか、とくに国内報道では伝わらない米国の介入がとり沙汰されるなかで、真実を知り声を上げていく必要があるとして同実行委員会が主催した。集いでは元共同通信記者でありラテンアメリカ研究者の伊高浩昭氏が「ベネズエラ問題の深層」と題して講演したほか、映像上映もあった。伊高氏の講演内容を割愛して紹介したい。
シモン・ボリーバル 大きな祖国という思想
ベネズエラに石油が発見されたのは、コロンブスなどがベネズエラに行く前、何百年、何千年も前かもしれない。マラカイボ湖という湖があり、そこにブクブク浮いているものがやがてコールタールみたいに固まっていく。それを古来先住民族は、木造の船の板と板の間から水が入らないように塗っていた。これが燃える水だと認識されたのが19世紀の末頃で、商業化されたのは1910年代だ。
ちょうど日露戦争があった1904年頃、米国で自動車生産が始まった。それが瞬く間にあの広い領土を席巻し、石油の需要が高まった。米国にも国産の石油があったが、テキサスの延長線上でメキシコも石油がとれる。そこから石油を輸入する。外国からも輸入する。ベネズエラの石油も大変重要になった。米国石油会社のスタンダードオイル、欧州のイギリス、オランダからロイヤル・ダッチ・シェルなどが入っていった。米国の自動車社会が最高潮に達して需要がどんどん高まり、その影響で世界の自動車が増えていった。そして石油の需要はさらに高まっていった。
ベネズエラで石油が産業として本格化したのは1935年だ。それまで農牧の国だったが、その輸出収入を石油の輸出収入がこえ、ベネズエラは産油国として世界に名乗り出ていった。それから第二次大戦になり、南米諸国は米国につき、そこである種の特需が起こった。石油は武器を動かすためにとても重要だ。真珠湾以降、米国は本格的に参戦し、ベネズエラも特需を受けた。第二次大戦が終わった頃はラテンアメリカでトップクラスの暮らしができる国になっていた。
第二次大戦後の50年代にはベネズエラではマルコス・ペレス=ヒメネスという軍事独裁政権が続いていた。これを反独裁の軍と市民が組んで立ち上がり、クーデターを起こして独裁を追放した。二度と軍人に政治をとらせないためAD(民主行動党)、COPEI(キリスト教社会党)、URD(民主共和連合)の主要政党が集まり、プント・フィホ協定を結ぶ。これは三政党で協力して文民政権を続けていこうというものだ。5年ごとの大統領選挙に三政党から誰かが立てば軍人につけ入る隙を与えない。これがプント・フィホ協定だ。民主共和連合はすぐに脱退し、民主行動党とキリスト教社会党が残って、40年にわたって政権交代を続けながら文民政権を続けてきた。
ベネズエラは石油産業が基幹産業になり、その勢いで1960年に設立されたOPECの原参加国として、イラン、イラク、サウジアラビア、クウェートとともに参加した。これはベネズエラの一つの誇りだ。1976年にカルロス・アンドレス・ペレスの政権が石油産業を国有化し、国有石油会社PDVSA(ペデベーサ)を設立し、その資産を外交などに使った。通信社などをつくって経済をみんなで発展させていこうと、「ラテンアメリカ経済機構」を設立するなどお金をばらまいた。この伝統がチャベスにつながっている。
ベネズエラではシモン・ボリーバルがスペインから南米諸国の北部を独立させた英雄として位置づけられており、1983年が生誕100年祭だった。チャベスはそのころ軍の士官学校を卒業して少尉などだったが、その年は100年祭に向けてベネズエラ中でシモン・ボリーバルの人物やどのような思想を持っていたのかなどが報道されたり、シンポジウムがおこなわれたりした。チャベスはそこでシモン・ボリーバルに影響を受け、1982年に「革命的ボリバリアーノ運動200」を結成する。
彼はサンボと呼ばれる先住民族とアフリカの混血だ。サンボがベネズエラの大統領府に入るなど、当時の白人優先社会の常識ではあり得なかった。勉強好きで頭が良かったが、貧しい家庭で大学に行けないため、野球が好きなのでピッチャーとして大リーグに行こうかと本気で思っていたようだ。結局お金を払わないで行ける士官学校、軍用大学に進学し、成績はよくてどんどん目立つ存在になっていった。
ラテンアメリカはスペインの支配によってスペイン語を話す国が20カ国ほどある。ブラジルなどポルトガルの植民地もあり、それらがバラバラだった。シモン・ボリーバルは「大きな祖国」という思想を持っていた。それぞれの国は小さな祖国で、これらが統合しなければ強大な米国にやられてしまう。だから統合しないといけないという思想だ。スペインからラテンアメリカの国国を解放すると、今度は団結して米国に対抗しようという思想が生まれる。この思想はそれ以前からあったが、ボリーバルが広め、これが今のラテンアメリカ統合思想につながっている。
キューバの歴史上最大の人物とされるホセ・マルティの『我等のアメリカ』という著作があるが、これはアメリカ合衆国のことではなく、南北ラテンアメリカ・カリブ海を含めた私たちのアメリカをつくらなければならないというもので、これがシモン・ボリーバルの延長線上にある。チェ・ゲバラ(キューバ)もラテンアメリカ全体に革命社会を広げようとした。
カラカソ暴動 この国を変えるしかない
1989年2月27~28日にかけて「カラカソ大騒乱事件」が起きる。当時、石油景気が落ち、国の経済がうまくいかなくなった。その結果、IMFや世界銀行などのいい分を聞いて、補助金を切ったり、公共料金の値上げをおこなった。緊縮財政で一番打撃を受けたのは貧しい庶民だ。カラカス周辺の山脈の斜面には、石油景気で中央から多くの労働者が来て掘っ立て小屋を建てて住んでいたが、生活がたちゆかなくなり、裕福な人や中産階級が住んでいた低地に下りてきて暴動を起こした。これに対し、カルロス・アンドレス・ペレス政権は軍隊を出動させ、機関銃やライフル銃で暴徒を撃ち殺した。政府発表で死者は約340人となっているが、僕が被害者側、貧しい人たちの側に聞くと800人とか、1000人をこえているとか、3000人だという話もあった。これは永遠の謎で正確な数字は出てこないだろうが大惨事になった。
チャベス自身が伝記に書いたり話したりしているが、そのとき彼は小さな部隊を率いて人を殺す立場にあった。彼によるとその日は風邪をひいて出動しなかったという。彼は「自分も属している軍隊はシモン・ボリーバルがスペインから独立するためにたたかい、そこで生まれた栄えある独立軍であり、それが自国民に銃を向けて殺しまくったことは絶対に許せないと思った」と書いている。
彼はそこから仲間を集め、なんとかベネズエラを変えなければならないと政治運動を起こす。その結果として1992年2月、実働部隊を率いて政権打倒のクーデターを起こす。これにいくつかの部隊が同調したが結局失敗し、相当数の市民が犠牲になり、チャベスも部下を失った。チャベスは頭がいいものだから、国営テレビに引っ張り出され、テレビカメラの前で部下たちに武器を置くよう呼びかけた。彼はそのとき「今は降伏しよう」といった。「今は」という言葉はテレビを見ていたベネズエラ中の人人に印象づけられた。「こいつはいつかやるな」と。
チャベスは軍事裁判にかけられ監獄に2年間入れられた。一方、マドゥーロはその頃、高校を出てロイヤルバスの運転手になり、その後キューバの外国人の指導者養成学校に行った。そこで2年間、社会主義教育や米国とたたかうためになにが必要かをたたき込まれた。
チャベスは2年後、ラファエル・カルデラ大統領の恩赦で監獄から出る。しかし部下の兵士にも政府軍にも死者が出ており、四面楚歌だった。もんもんとしていた時期もあり、「自分が大統領になってこの国を変えるしか生きる道はない」という方向に行った。
そうした時期に彼を招待したのがキューバのフィデル・カストロだった。国賓対応で招待され、キューバとベネズエラの蜜月関係はここから始まる。カストロは革命前からキューバに石油がないことを認識しており、革命後にベネズエラにゲリラを送って革命を起こそうとするが失敗していた。ベネズエラの石油はカストロの頭にあり、チャベスが将来ベネズエラの主人公になればという希望を持っていた。チャベスはカストロからさまざまなことを学び、少し心強くなる。
その1年後、1998年12月の大統領選にチャベスは「ボリバリアーナ革命」を掲げて出馬し当選した。この大統領選にはミス・ベネズエラの一人が既存の支配体制の大統領候補として出馬しており、外国の通信社なども含めて彼女が勝つとみられており、これは驚きだった。「今は降伏しよう」といったのがこのとき実った。その頃ベネズエラはかつてのように石油が潤沢になく、人口も増え、一人当りのとり分が減り、貧しい人が増えて、カラカス周辺をはじめあちこちにスラムができていた。そういう人人がチャベスを支援した。
1950年に軍と市民が組んで独裁を倒したのち、40年間にわたった大政党による政権交代のシステムがここで崩壊した。この頃、伝統政党の崩壊がラテンアメリカ各国で起こった。日本でも自民党と社会党の55年体制があったが、社会党はバラバラになっている。ベネズエラの場合は98年、東西冷戦が終結して約10年後にそれが起こった。そしてチャベス時代が始まる。
チャベス大統領就任 米国支配からの脱却へ
大統領就任の宣誓は、キリスト教国なので普通は聖書に手をかけておこなうが、チャベスはそれをせず「新しい憲法をつくる」「この古い時代に別れを告げる」と大改革を示唆した。そして1990年2月5日の就任から12月には新憲法を制定した。
それに当たって選挙で政憲議会をつくるが、国民投票で71%の賛成を得た。新憲法の下で2000年4月30日にもう一度大統領選をおこない、再度当選した。新憲法は大統領は連続2期としているが、彼は旧憲法で1期目だったので、新憲法で2回できると解釈し、さらに長期政権にするため憲法を変えていく。
新憲法の下で長期政権を志向したチャベスは、そのためにベネズエラ統一社会党をつくる。ドイツ系の学者が提唱した「21世紀型社会主義」理論を気に入り、その学者を顧問にして学び、自身の政策として打ち出した。20世紀型社会主義は共産党の一党独裁で、この指揮の下に国を運営し、他の政党が公的に出てくることは禁止されている。自由選挙ではなく共産党中央委員会などトップの話し合いでまとめるシステムで、おおよそ無神論だ。革命で生産手段をすべて国家の物にするのはもう古いということで、21世紀型社会主義は、複数政党制自由選挙、経済は国営、民営、中間的所有権のある混合経済などを打ち出している。ただし複数政党制自由選挙をやるならば、そこで勝たなければならない。そこでベネズエラ統一社会党を設立した。
21世紀型社会主義はどこの国でもできるため、ベネズエラの特色を出すためにやったのがボリバリアーナ革命だ。「21世紀型社会主義の根幹は建国の父であり、軍隊の創設者であるところのボリバリアーナ革命だ」とし、国名もベネズエラ・ボリバリアーナ共和国へ、軍隊もベネズエラ国ボリバリアーナ軍とした。
チャベスは就任してまもなく、米国を中心とする外国の石油資本が入っていたマラカイボを中心とする伝統的な西部油田、オリノコ川流域の東部油田の両方のロイヤリティ・採掘権料を大幅に引き上げた。さまざまな形でこのような改革を打ち出したため、資本家たちが恐怖心を持った。そこで経団連とプント・フィホ体制を支えていた有産階級、大使館をカラカスに持っている米国が組み、2002年にクーデターを起こす。アメリカの大統領はブッシュ(息子)の時代だ。
チャベスの身柄は一時、カリブ海の小さな島に幽閉され、彼はそこで暗殺される可能性もあった。あるいはどこかの国に放り出され、政権を失う可能性もあった。しかし、カストロが軍幹部に電話をかけまくったり、チャベスの娘がオルグをしたりしているうちに、カラカス市民が事態を知った。カラカソ大騒乱を起こした人人の末裔や子孫たちがチャベスの味方をし、大統領府に何十万人という人が押しかけた。当時、軍はチャベスの同期が大佐など決定権を持つ立場にいた。貧しい人人が「チャベスを返せ」といっているのを見て、勝ち目があると判断し、落下傘部隊を持っていたバドウェル将軍が仲間たちに連絡して戦車を出動させた。
クーデターでペドロ・カルモナという経団連のような組織の会長が臨時大統領になっていた。大統領のタスキも、チャベスが使っていたのは嫌だといってスペインに注文して新しいタスキをつくるほど相当準備していた。そしてクーデターに参加した軍人や自称大統領の連中がパーティーをしていると、突然参加者が帰り始めた。テレビを見ていると不利のようだとみたからだ。チャベスはヘリコプターで島から救い出され、クーデターから3日後に大統領府に戻り政権に復帰する。
これに米国のブッシュが絡んでおり、その証拠はさまざまに公表されている。ここからチャベスはブッシュ憎しとなり、2006年には国連でブッシュが演説した翌日に同じ場所で「昨日ここに悪魔がいた。まだ硫黄の匂いがする」と演説した。
2005年には、アルゼンチンで開かれた第5回のラテンアメリカ大統領会議で、米国が米州自由貿易地域(ALCA)の設立を画策していたのを、議長国でもあるアルゼンチンのキルチネル大統領、ブラジルのルラ大統領と組み、緊急動議で潰した。米州自由貿易地域は1800年代の終わりに米国がキューバに攻め込んだころすでに持っていた案だ。シモン・ボリーバルの米州統合思想とは違い、米国が南北米州、カリブ海を支配しようとする構想だった。それが失敗し、米国国務省、ホワイトハウスのトラウマとなって残っている。
日本の新聞が枕詞でいつも「反米左翼のベネズエラのマドゥーロ大統領」と書くのは大間違いだ。最初に反ベネズエラになったのは米国だ。チャベスは別に米国を追い出したわけではなく、ロイヤリティを値上げしたのだ。しかし米国が反ベネズエラで来たから、対抗して生き残るため米国に対峙している。
米州自由貿易地域はスペイン語の頭文字でALCA(アルカ)というが、チャベスはカストロとともにこれに対抗し、ALBA(アルバ)をつくろうとなった。アルバはスペイン語で「夜明け」という意味がある。米州ボリバリアーナ連盟の頭文字もアルバだ。ボリビアやニカラグアなども集め、米国の経済統合思想に反対して、進歩的左翼的な国がまとまったアルバをつくった。
チャベス最大の功績 LA諸国共同体を結成
先述のクーデター事件は、国会議論をしたことにして政策として通す権利をチャベスに与える授権法ができ、それで農地改革などをやるのだが、これに財界が猛反発してクーデターにつながったというものもある。ますます有産階級とチャベスのあいだに軋轢が生じていった。チャベスは復帰後、軍隊内で反対している者たちを追放し、バドウェルという将軍を国防大臣に据えた。
ところが2002年12月頃から2003年にかけて、3~5カ月にわたって今度は石油クーデターが起こる。国営石油会社に残っていた旧支配層の息がかかった部長などが、「石油をつぶせばベネズエラ経済の命綱が切れてしまうからチャベスが倒れるだろう」と考えた。コンピューターで石油を止めると製油所に流れている石油が冷えてコールタールになってしまう。すると複雑なパイプが詰まって輸出ができなくなり、タンカーも動かなくなる。これも退職した技師や外国から呼んだ技師たちの力でチャベスは何とか3カ月乗り切ったが、この影響はその後数年間、石油産業に尾を引いた。
2003年、チャベスは石油収入は減ったが、支持層の貧しい人たちの生活を改善するために、収入をこえた支出をおこなう赤字政策を始めた。これが今日の経済危機の始まりになっている。
2010年にチャベスはガンがわかり、キューバで手術を受けることになるが、2011年12月には、ラテンアメリカの指導者をカラカスに集めてラテンアメリカ・カリブ諸国共同体(CELAC)を発足させる。これがまさにシモン・ボリーバルの「大なる祖国」が初めて形をとったもので、チャベスの最大の功績である。米国がやっている米州諸国機構(米州機構)に対抗して、「われらのアメリカ」が組織として形をとった。この思想で重要なのは、米国がモンロー主義による覇権主義などをやめ、対等に仲良くやっていくならば一緒にやりましょう、という寛容な思想だ。
チャベスはその他、カリブ連帯石油機構・ペトロカリーベ、南米諸国連合・ウナスール、さらにOPECを活性化させたほか、ダボスでおこなわれる世界経済フォーラムに対抗して世界社会フォーラムの設立に尽くすなど、対米対決姿勢を鮮明にした。
チャベスはガンで死ぬが、2012年12月にキューバに手術を受けに行くとき、これが最後になるということで涙顔で国営テレビで演説し、「ベネズエラ万歳」といって別れを告げる。直前に後継者にニコラス・マドゥーロを指名した。マドゥーロが若い頃にキューバで勉強し、キューバ側からの要望も強かったこともある。
マドゥーロ政権へ 米国の政権転覆の企み
マドゥーロ政権になり、大勝すると思ったら伝統的な支配勢力がベネズエラ民主会議をつくり、ミランダ州知事のエンリケ・カプリレスを統一候補にした。米国や経団連から相当金も流れたりして、僅差でマドゥーロは勝った。このときすでにクーデターをやる側の研究が進んでいた。昔は米国が背後にいてその国の軍隊を反乱させてクーデターを起こしていたが、時代が変わりそのようなことができなくなった。ホンジュラスのクーデターは当時の大統領の自宅に行き、パジャマ姿の大統領を飛行機に乗せてコスタリカへ連れて行って落とし、留守のところにクーデターを起こした。置き捨てのようなやり方だ。2004年頃、ハイチでもアメリカ、カナダ、フランスが組んで軍用機で大統領をアフリカに連れて行き、落として政権をとった。それもできない場合はメディアを動員したりして時間をかけて倒していく。今マドゥーロがやられているのは後者の手法だ。
選挙で僅差で負けたカプリレスの側が街頭暴力(グアリンバ)を起こす。「開票にインチキがあった」といって暴動を起こして選挙を曖昧にし再選挙をやるとか、クーデターを起こすといったやり方もクーデター読本に書いてある。それをやった。マドゥーロが正式に大統領になるが、1週間にわたってそれをぶっ壊そうと野党側が最初に非合法な行動をとった。
そして2012年、グアイドの親玉であるレオポルド・ロペスという極右政党の人民意志党(VP)党首がカラカス周辺で大暴動事件を起こす。何度もやって50人くらい殺された。焼き討ちや略奪などもあった。大規模なグアリンバだ。その混乱のなかで、「マドゥーロは悪いやつだ」「つぶして当たり前だ」という世論がメディアでつくり上げられていった。たたかいのなかで人権蹂躙とか弾に当たって市民が死ぬなど人権問題も起こり、マドゥーロもそこで責任を負わされて次第に不利な状態になっていく。そして2015年2月、オバマ大統領が突然、「ベネズエラは米国の安全にとって脅威である」「非常事態を発動する」というまったく実態のないことをいい出す。これは「米国はベネズエラを倒すぞ」という意志表示だった。ここから今日に続く米国政府の具体的な介入が始まる。
それまでに米国は一方的な経済制裁をしている。北朝鮮の場合は国連安保理で決議して、いわば国連として公式に北朝鮮に経済制裁をしているが、ベネズエラの場合はそれもなく、米国が一方的にやっているものだ。しかしあたかもそれが自明の理みたいに書いている。この制裁は弱い者いじめではないか。
ベネズエラで米国のクーデターが失敗し、石油クーデターが失敗したあと、CIAがセルビアの首都・ベオグラード近郊に軍事訓練施設をつくり、クーデターを起こす要員に爆弾の仕掛け方などの訓練をおこなっているが、そこにVPが呼ばれて訓練を受け、帰国してクーデターを起こす起爆剤として街頭暴力活動をやってきた。グアイドはその政党の出身者だ。
米国は介入するな 自国の問題自国で解決
今年の問題になるが、トランプ政権の国家安全保障担当になったジョン・ボルトンは、大量破壊兵器がないのにイラク攻撃を推進した人物で、対北朝鮮強硬派でもある。イランに戦争を仕掛けようと陰謀に燃えているのもボルトンだ。オバマが築いたキューバ政策をひっくり返し、キューバ、ベネズエラ、ニカラグアをつぶそうとしている。今、ラテンアメリカの悪の三角形はこの3カ国だとトランプ政権は見ていて、戦略を持っている。とくに、米国の大統領選挙が来年の11月に控えている。これまで「独裁か民主か」といってベネズエラを攻めてきて、マドゥーロ大統領は独裁者だという宣伝が行き渡ってきた。どんな形でもマドゥーロを倒せばトランプの株が上がると考えている。
しかし、米軍が介入して選挙前に米国の若者の血が流れるのはまずいということで、ベネズエラの軍隊を二つに割って米国の負担を少なくしてマドゥーロをつぶそうというのが米国の戦略だ。しかし、なかなかベネズエラ軍がつぶれない。チャベス以来、軍が市民政権のなかに入り込み、軍民合同政権になっているからだ。石油の富で軍隊の給料を年に何度も上げたり、将軍たちが閣僚になるなど軍が手厚く待遇されており、クーデターを起こしにくくなっている。ある意味巨大な腐敗の構造があって、そこに軍も巻き込んでしまった。政治的・法律的に腐敗はいけないだろうが、何が何でも戦略的に政権を維持していくという意味では、「それなりの政治能力がある」という見方をする人もいる。
そういうわけでなかなかつぶれないため、米国は昨年8月、コロンビアなどと組んでドローンでマドゥーロを暗殺しようとして失敗した。何度か暗殺に失敗している。これらは60年間のキューバに対するカストロ暗殺作戦や経済封鎖などのノウハウをすべて生かしてやっている。また、それに合わせてメディアを動員してマドゥーロ悪玉論を植えつけ、倒すことは正しいことだという世論をつくった。キューバのときはカストロは人気があったので米国はできなかった。チャベスにもできなかった。マドゥーロは崩しやすいと見たが、今日も倒れない。
ベネズエラの石油収入は最盛期の4分の1に減ってしまった。ベネズエラは石油産業の繁栄で、国産食料より輸入した方が安かったため、国内の生産構造が発展しなかった。そこに制裁で輸入ができなくなっており、それが今日の医薬品不足や食料不足になっている。そこに伝統的な経済政策の失敗があっただろう。
チャベスもマドゥーロもそれは知っていた。石油は上がり下がりが激しいので、経済安定のためには多角化しなければならない。しかし多角化することができなかった。そこに米国が経済制裁をし、銀行をストップさせたりベネズエラの資産を凍結させ、外貨も減らしてベネズエラを兵糧攻めにしている。
これではいけないということで最近いくつかの話しあいがおこなわれている。5月にノルウェーの仲介でベネズエラ野党のグアイド派と政権側が協議した。野党連合のなかに約20政党あり、暴力肯定派のVPではなく、非暴力派の民主行動党やキリスト教社会党など老舗政党がマドゥーロと話し合って抜け道を探していくなら解決策が出そうだが、それでは米国は負けるので話しあいにブレーキをかけている。
まずいことにクーデターを計画したとして逮捕されていた海軍少佐が拷問で死んだという疑惑が浮上し、それが暴露されて2人が捕まり国際的な非難を浴びている。また反政府の小さな蜂起に参加した16歳の少年にゴム弾が当たり失明した。この二つの事件が大大的に報道され、ベネズエラは人権がないんだという騒ぎになっている。
最近、国連人権高等弁務官事務所のバチェレ人権高等弁務官(チリの前大統領)がベネズエラに来て、報告書を発表した。マドゥーロ政権下で法律の枠外で反政府派を約5280人処刑したというものだ。それを踏まえて反政府派は国際刑事裁判所にマドゥーロを訴えようとしている。
ベネズエラは非常に厳しい状況にある。だが中国やロシアは国際赤十字を通じて物資を支援しており、ベネズエラは受けとっている。米国はコロンビア国境などから、「人道支援物資」と銘打って米軍主導で物資を搬入しようとしたが、赤十字を通さないため、何が入っているかわからないとしてマドゥーロは拒否した。それをもって「ベネズエラは人道援助を拒否した」と宣伝しているが、赤十字を通した物資は受け入れている。
今のベネズエラの状況は、チャベスやそれ以前のプント・フィホ体制から続いてきた石油に頼りすぎた経済の破綻がある。チャベス、マドゥーロの二代の政権は貧しい人たちの生活を向上させたが、結局石油に依存したため、経済そのものがダメになってきた。弱ったところに米国がベネズエラをつぶそうと攻勢をかけて五年になる。
なぜ米国はベネズエラをつぶしたいのか。2012年12月にオバマがキューバと歴史的な国交正常化をした。米国の政策でラテンアメリカに二つの社会主義国を持たせてはいけないというのがある。ベネズエラの21世紀型社会主義をつぶそうということだ。ベネズエラの石油埋蔵量は3000億バレルで世界一で、この石油資本を米国が狙っている。ボルトンが石油産業の親玉たちに「ベネズエラの石油をいずれまたうまくやれるようになる」といったと報道されている。ベネズエラがすべていいわけではない。だがベネズエラの問題はベネズエラ人が話し合って解決すればいいことだ。野党は選挙で負けて米国と組んだが、彼らがベネズエラの世論を代表しているかというとそうではない。
1823年の米国のモンロー主義宣言から、あと4年で200周年になる。トランプが再選されれば200周年を迎えるのはトランプだ。トランプはそのときにモンロー宣言のように、米州自由貿易機構をつくりラテンアメリカ全体を一つにしたいと考えている。そのためにキューバ、ベネズエラ、ニカラグアを倒そうとしている。革命を起こしたキューバはなかなか倒れないし、ベネズエラもチャベス登場から20年たち、そう簡単に倒れない。
ベネズエラ人の問題はベネズエラ人に任せるのだ、米国の裏庭ではない、米国は介入すべきではないと声を大にして叫ばなければならない。
基本的に納得がいく記事になっていると思う。しかし、右派の野党側に何故このように多くの支持者がいるのか、また、バチェレ人権高等弁務官の報告にあるように、庶民階級の立場に立つ左派政権が非人道的行為を何故行うのか、それは事実なのか、分からないことが多々ある。ベネズエラに限らず、中南米は、アメリカ政府の受け売りのようなマスメディアの情報しかなく、本当のところが分からないことが多すぎる。