本紙は沖縄県知事選の取材と並行して、米軍基地が建設される契機となった沖縄戦において県民はどのような体験をしたのか、年配の方々に話を聞こうと取材を進めてきた。今回は、家族の多くを失い、戦災孤児として生きてきた金城ハツ子氏(当時6歳、那覇市在住)の体験を紹介する。
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戦争当時、私は6歳で、糸満市賀数にあった実家で、両親と8人の兄弟、祖母や叔母とその子の13人で暮らしていた。家は農業と商売をしていたが、父は防衛隊に召集されていなくなった。叔母は足の病気で寝たきりになり、その息子は鉄血勤皇隊に入り、南部でびっこを引きながら逃げていたと聞いたが、どこでどのように亡くなったのかはわからない。長姉は、戦争が始まる前に腸チフスにかかって亡くなり、私たち兄弟も六女まで5人が感染したが入院してなんとか助かった。病院にいる頃に沖縄での戦争が激しくなり、毎日のように「ドドーン」と砲弾の音が聞こえていた。
賀数の実家は大きかったので、米軍の空襲で真っ先に焼かれ、私たち家族は防空壕で生活した。毎朝、トンボ(米軍の偵察機)が飛んできたら壕に逃げる生活だ。壕の前のイモやキビ畑から食料をとっていたとき、トンボの機銃掃射を受けて2人が即死し、母も太ももを貫通する大けがを負った。病院に行けないので、いつも母は傷口から機銃の破片をピンセットで抜きとろうとしていたのを覚えている。
この壕が敵に知られてしまったため、親戚の壕に避難した。ある日、壕に2人の日本兵が入ってきた。1人は頭に、もう1人は腕に包帯を巻いていた。日本兵は、生後6カ月の弟に銃を向け「この子を連れて壕を出ないと殺すぞ」といった。赤ん坊が泣くと敵に見つかる危険性があるからだ。太ももの傷が治っていない母は、赤ん坊に母乳をあげることで傷の治りが遅くなるともいわれていたので、結局、女学生だった次姉が弟を連れて壕を出ることになった。
その次姉が親戚と避難を続けていたある晩、糸満の白銀堂付近を海づたいに南へ避難しているとき、米軍が張りめぐらした鉄条網に触れ、たくさんの弾が飛んできた。次姉は腕を負傷し、我が子を負ぶっていた叔母は脇腹をえぐられ、片腕をそぎ落とされた。赤ん坊は弾よけになって叔母の背中で息絶えた。叔母たちは避難することはできなくなり、翌朝に米軍に投降した。叔母は死んだ赤ん坊をその後何日も負ぶったままだったそうだ。身代わりに死んだ我が子を自分の手で埋葬するよりも、負ぶっている方がまだ楽だったのだろうと思う。
ガスをまかれ母と生き離れた
私たちが生活を続けた壕の真上では、焼け残った民家を米軍が陣地にしたらしく、毎日米兵たちが話す声が聞こえていた。包帯を巻いていた日本兵は、頭の傷にたくさんのウジが湧き、包帯の隙間からぽろぽろと地面にこぼれ落ちていた。この日本兵たちもいつの間にかいなくなっていた。
煙を出すと米軍に見つかるので火を炊けず、わずかな麦を水でふやかし、それに黒糖の粉をかけて食べた。それが唯一の食料だった。物音を立てることができないので、食事をするとき以外はみなまったく動かなかった。
ある日の朝、米軍は壕の中にガスを撒いた。すでに私たちが隠れていることを知っていたのだ。ガスの真っ白い煙がもうもうと立ち込めて何も見えなくなる。私たちは身を寄せ合い、母の見よう見まねで一枚の濡れタオルに口を当てて呼吸した。ガスを吸うと声が出なくなり、体がだるくて座っていることもできない。
母の傷も癒えてきたころ、これまで静かにしていた母が急に荷物をまとめはじめた。「なぜ?」と子どもながらに不信に感じ、その日は寝ずに夜中まで起きて母を見守っていたが、いつのまにか眠りに落ちていた。目を覚ますと、母と9歳の長男、女学校を出たばかりの三姉が壕からいなくなっていた。「まだ近くにいるかもしれない!」と思い、私はすぐに壕の外に飛び出し、周囲に米軍がいることも忘れて、母の耳に届くことを信じてワーワーと大声で泣いた。妹と四姉も出てきてみんなで泣いた。だが、二度と再び母たちを見ることはなかった。壕に残されたのは、6歳の私、3歳の妹、ボーッとした性格の四姉と祖母の4人。思えばみんな足手まといになるものばかり。米軍に包囲されるなか、母は「どうせ全滅するのなら、せめて長男だけでも…」と思ったのではなかったかと思うが、いまもやりきれない思いがある。
その日、2回目のガスを撒かれ、母がやっていたように私たちはタオルを口に当ててしのいだ。非常食として保管していたムギや黒砂糖、炒った大豆などの食料だけは置いてあった。母の我が子へのせめてものつぐないだったのかもしれない。見よう見まねで水に浸して食べた。私は妹から片時も離れずに抱いていた。彼女は母がいなくなってからも一度も泣かなかった。よく辛抱したものだと思う。
3歳の妹を背負い逃げ惑う
ついに3回目のガスを撒かれ、今度は壕の入り口に火を付けられた。炎が近づき、怖くなって「逃げよう」となり、夜になって私は妹を背負って壕から出た。祖母も出てきたが、四姉は恐ろしかったのか、いくら待てども壕から出てこない。「このまま外にいたらみんな殺される!」と思い、3人だけで逃げることになった。ガタガタ震えながら3人で歩いていると、すぐに米兵に見つかり捕虜になった。隙を突いて逃げようとしたが、またすぐに捕まった。
米軍のGMC(トラック)の荷台に乗せられ、どこかの山の裏にある金網に囲まれた収容所に着くと、私と祖母はそこで降ろされた。だが妹だけは、案内役の老人から「この子は病院へ連れていき、治療してからまた連れてくる」といわれた。「ガスを吸ってフラフラしているだけでケガではない! 降ろしてくれ!」と、祖母は帯の下に隠していたお金まで出して妹を返すように懇願したが聞き入れられず、トラックはサッと収容所から出て行ってしまった。これが妹との生き別れだった。
私と祖母はその後、北中城の捕虜収容所へ移動した。2人とも頭からDDT(消毒剤)をかけられ、丸坊主にされた。次に宜野座村の収容所へ移され、枝打ちの開墾作業に従事した。ここで偶然、生後6カ月の弟をつれて壕を出ていった次姉と再会した。私たちと別れた後、どこかで親戚と合流して逃げ回っていたようだが、生後6カ月だった弟がいない理由を訪ねると「栄養失調で死なせてしまった」と話していた。
捕虜収容所は墓地となった
捕虜収容所では栄養失調でたくさんの人が死んだ。収容所は墓地でもあった。男手はみんな墓掘り作業だった。祖母はこの収容所で亡くなり、たくさんの遺体と一緒に収容所に埋められた。
配給される食料は米が数えるほどしか入っていないお粥しかなく、働ける人は米と味噌汁がもらえたが、のぞけば顔が映るような「鏡の汁」といわれていた。イモは皮を剥くのはもったいないから丸ごと食べた。木の根のようにやせ細った芋や石垣に這った草、地面に生えた雑草など食べられるものはすべて口に入れた。それだけみなひもじい思いをしていた。
戦災孤児になった私は「孤児院へ行きなさい」といわれたが、偶然、叔母に出会って引きとられた。それからテント小屋の小学校へ通わせてもらった。親がいる子は鉛筆を持っていたが、私は休み時間になると校舎の外へ出て、地面に落ちている鉛筆の芯を探し、それを使って授業を受けていた。中学校までは卒業したが高校へは行けなかった。時計が読めるようになったのは中学に入ってからだった。
叔父一家は、子どもが7人いたが、叔父は防衛隊、長男は工業高校でみんなバラバラで逃げていたという。最後は友軍(日本軍)の手榴弾による自決の巻き添えになり、兄は指を失い、姉は目を失って義眼を入れ、亡くなるまで頭には弾の破片が入っていた。火葬をしたさいに破片が出てきた。母の妹(叔母)は、目の前で夫が米軍に射殺され、叔母は背中に負ぶっていた子どもが自分の身代わりで亡くなり、いつまでもその子を負ぶって逃げたという。本当に酷い話ばかりだった。
戦争は家族を引き裂いて奪っていった。生き別れになった妹だけは今も生きていると信じているが、家族は誰一人骨もない。沖縄では、今も壕を掘れば遺骨や遺品がたくさん出てくるし、学校の校庭からも艦砲の不発弾が見つかる。空から米軍の部品が落ちてくるたびにゾッとする。私たちにとって戦争は終わっていない。国はアメリカのいいなりで危うい方向に進んでいる。軍隊が住民を守らず、一番弱い人たちが犠牲になったのが沖縄戦だった。米軍であろうと、自衛隊であろうと、戦争をするための基地は沖縄にはいらない。人間の殺し合いでしかない戦争は二度と起こしてはいけない。