320万人もの日本人が中国や南方の戦場で、また原爆や空襲によって殺され、国中が焦土と化した敗戦から73年目の8月15日を迎える。実際に戦争を体験した人人が80代、90代となり、直接話を聞くことが困難になろうとしているなかで、次の世代に二度と戦争の惨禍を味わわせないため、戦争体験や被爆体験をさまざまな形で継承することがますます重要になっている。山口県の詩人・礒永秀雄は先の大戦で学徒出陣によって南の島へ送られ、多くの戦友の死に直面し、九死に一生を得て日本の土を踏んだとき、詩人として生きる決意を固め、生涯その姿勢を貫いた。晩年には、国語教師として勤めていた山口県立光高校文芸部の『光芒』第26号(1976年3月発行)に「遅すぎた目覚め」と題するエッセイを書いている。この作品から、戦後出発に関する部分を抜粋して紹介したい。
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戦争のあったころ
人にはそれぞれぬきさしならぬ体験がある。説明しても説明しきれぬ実感がある。それは当人にとって人生の一つの節となることもあるのだ。その体験が人生の上に支配的な影を落としているとき、われわれはそれを原体験と呼ぶ。
ぼくの場合、それは戦争であり、死に直面させられたことであった。
昭和十八年十二月、学徒臨時徴集で、文科系の学生の大半は駆り立てられた。「大君に召される」ことを光栄と受けとめ、「醜(しこ)の御盾」として出陣することが日本男子の誇りである時代であった。「死んで還れ」が合言葉であり、敗戦の兆しのようやく見えはじめたそのころ、出陣はすなわち死を意味していた。「身を鴻毛の軽きに置いて」いさぎよく戦って死ぬことは「悠久の大義に生きる」ことで、決して「死」を意味することではないと言い聞かされていた。そこにはいっさいの「なぜ?」は許されなかった。こうした死の美学をあえて否定する者は、非国民の名で糾弾される時代であった。
「ああ、立ったまんまで死んでいくんだ」
灰色の青春には、なに一つ楽しい思い出もなく、閉ざされた未来の前に立ちつくしているぼくには、言い知れぬ倦怠感だけがあった。ぼくは生まれてはじめて詩を書いた。
孤絶
雪の夜を
わたしの歌はどこえやら
雪の夜を
わたしの歌があったとて
雪の夜を
雪の夜を
榾火のあかく
立ちて崩るる……
そのぼくにも、一つだけ救いがあった。出陣の決まった十月、大学の壮行会で、文学部長はこう言ってくれた。
「きみたちは不幸にして学途半ばで出征するが、きみたちのあとには、講師がおり、助教授がおり、教授がいて学問の灯はしっかり護りつづけているから、後顧の憂いなく大学の門を後にしてほしい。しかし、きみたちは学途半ばで出征するのだから、どんなことがあっても必ず生きて還ってきてほしい……」と。
ぼくは感動した。当時タブーである「生きて還れ」という言葉で励まされたことは、ぼくを勇気づけて十分だった。
「よし、生きて還ろう。死んでたまるか」
生の美学
大学の軍事教練を拒否したのは入学当初のことである。運動場では退役将校の号令の下、銃剣で藁束を突き刺す、いわゆる刺突の訓練が行われていた。中学生のころから、あれを何年やらされてきたことだろう。ぼくは唖然とした。「大学よ、おまえもか」――ぼくはそのとき以来、教練の授業を放棄した。たといそのことによって卒業証書が与えられぬとしても、ぼくは人殺しの練習を拒んだことを誇りに思ってもいい、と思いながら。
その大学で、ぼくは美学を専攻した。そこで学んだものは「死の美学」ではなく「生の美学」であった。カントの門を叩いた詩人シラーが「美しい魂」として教えてくれたもので、それはざっとつぎのような譬話が中心である。
――雪の中に行き倒れた男がいた。彼は歩く力も起き上がる力もなく雪に埋もれていた。通りかかった一人の旅人は、男の倒れているのを見て見ぬふりをして通り過ぎた。つぎに通りかかった男は、倒れた男の傍に寄ったが、隣の町まで彼の道づれをしたのでは自分の命も危うくなると思い、「しばらくの辛抱だ。隣の町に着いたらすぐ救助の人びとをよこすから」と言い残して立ち去った。ところがつぎに通りかかった第三の男は、病人の傍に寄るといきなり彼をかつぎ上げ、彼を背負ったまま雪の中を隣町まで歩いていった。そして病院に男を預けて治療を頼み、名前も告げずに立ち去っていった。この第三の男の行動の中にこそ美があり、彼の美しい魂が、愛と奉仕の果敢な行動を支えているのである、と。
「聖書」の「よきサマリア人」に似た話であるが、無条件に人の生命を救いきっていくこの行動の美学は、ぼくを捉えて離さなかった。
「おのれを生かし、人を生かすためにこの世はあるのではないか」
裏返せば「おのれを殺し、人を殺すためにこの世はあるのではない」ということである。
死を待つだけの戦場
軍隊では一兵卒で通すことにした。幹部候補生の列外である。死ぬのはごめんであり、人殺しはなおさらお断りである。もし将校にでもなれば、いつどこで人殺しの命令を下すことがあるかもしれぬではないか。
フィリッピンで「モノノ用ニ立チウベシトモ思ワレヌ」兵士たちが寄せ集められ、新しい一個聯隊が編成された。そしてそのまま南の孤島に追いやられた。ニューギニアの西北、赤道に近いハルマヘラという島である。船舶工兵とは言いながら、舟艇をアメリカ軍の爆撃でやられてしまい、生き残り組は、短い騎兵銃を持ったまま、もと関東軍の歩兵の師団に転属させられ、連日にわたる敵機の猛爆撃の下で、トカゲの鳴き声まで学んだ斬込隊のゲリラの特訓を受けたりすることになり、食うや食わずの一年有半が続いた。
ぼくはやがて中隊から四十キロも離れた山中の兵器監視小舎に取り残され、労役だけは免れたものの、密林の中の自給自足生活で、ただ死んでいくだけの毎日を送った。
人が死ぬ。つぎつぎにいとも簡単に死んでいく。機関部に魚雷を受けた輸送船はまたたく間に沈む。その渦に巻きこまれ、海の藻屑と消えた生命はどれだけおびただしい数にのぼったろう。戦わなくても殺されるのだ。その島でも、極度の重労働と栄養失調で戦友はばたばた殪れた。たった今、手を振って監視小舎を立ち去った友は、ものの三十メートルもいかぬうちに敵戦闘機の銃弾であえない最期を遂げた。密林の中でゲリラに毒矢で殺された斥候兵。点火していないと思って湿った導火索に息を吹きかけたとたん、ダイナマイトが爆発して木っ葉になった下士官。飲まず食わずのところへ食糧が届き、流動食にしなかったばかりに飯を食って死んだ召集兵。郷里の沖縄の敗戦を知って気が狂い、脱走し、銃殺された初年兵、病苦のあまり、みずから命を絶った学生兵。まだある。まだまだある、みんな「テンノウヘイカバンザイ」とも言わず、「オカアサン」とも叫ばず、南海の孤島にひっそりと朽ちていった。
どうしようもない。しかたのないことなのだ、死は。それにはなにか順番のようなものがあって、みんな早晩そこへ追いやられるのである。
飢えの中で
食糧がない。だから植物から虫にいたるまで手あたりしだい採っては食べ、下痢をすれば止すのである。ようかんに似ているところから、黄色火薬まで食べた。激しい腹痛を起こしたことはいうまでもない。餓鬼の世界である。
ぼくは射撃に自信があった。密林の中で、見通しの悪い梢にとまる鷲は射てなかったが、山鳩やオウムは比較的低い枝にとまるので目標にしやすかった。飢えをしのぐために、ぼくはあえて殺生をはじめた。
ある日一羽の白いオウムを射ち落とした。それをオトリに、つれあいのもう一羽を招き寄せようとした。しかし寄りつかないのである。「仲のよい鳥の中でも、やはり薄情なつれあいというのはいるんだな」と思ったりした。ところがその夜のことである。激しい鳴き声と羽搏きで、たしかにつれあいを求めて生き残った一羽が宿舎のほとりを飛びまわった。夜、眼のみえるはずはない。あちらの木にぶっつかり、こちらの宿舎の屋根にあたり、それはまさしく壮絶ということばでしか形容のできない不気味な羽搏きと鳴き声が夜っぴて続いた。やりきれなかった。ぼくはそれ以来、鳥は射たないことにした。
人を焼く
山の向うの谷に野戦病院があり、マラリアで病死した戦友の遺体受領に来るようにと連絡を受けた。大男だった戦友は、痩せ細って死んでいた。軍医は戦友の右手首から先を、メスで切り取ると、パラフィン紙にくるみ、飯盒の中に無造作に抛りこんでぼくに渡してくれた。遺体は毛布にくるみバナナ林の中に穴を掘って埋葬するように、右の手は焼いて遺骨を取るようにという指示であった。衛生兵の手を借りて埋葬を終え、右の手は持ち帰って湿った密林の奧で荼毘に付した。銃の手入用のスピンドル油をふりかけ、消えそうになる火をかき立てながら、半日近くかかって焼いた。くすぶりつづける肉の臭いは、毛やラシャを焼くあの臭いである。やっと残った小さな骨を拾い、携帯燃料の空き缶に入れて持ち帰ったが、屍臭は半裸のぼくの毛穴という毛穴にしみこんで、何度水を浴びても、なかなか消えなかった。
バナナ畑には墓標を立てに行った。なじみの薄い戦友で召集兵だったが、急に親しい想いでおもかげが浮んできた。ぼくは瞑目して合掌しながら、死者の冥福を祈る経文の一つでも習っておけばよかったものをと、なすすべを知らぬ自分がなさけなかった。今にして思えば、それは同時にみずからへの鎮魂歌を求めていたゆえとも思われる。
生き永らえて
さいわいぼくは生き永らえて四年ぶりに故国の土を踏むことができた。昭和二十一年六月、敗戦後十か月目である。久びさに見る日本の野山と水の色は、さわやかな美しさでぼくに迫った。ぼくはそのときはっきり詩人を志した。奪われた青春は奪回すべく、それは永遠の青春につながるものでなければならなかった。死線を越えてたどり着いた処は、つねに出発点であり、同時に帰着点でなくてはなるまい。生死とともにあり、かつ生死を超えた一点が、ぼくにとっては詩であった。「詩を生きる」―ぼくはただ猛烈に生きたかった。あらゆるまやかしを拒否し、絶望を乗り越え、生涯青春につながるまっとうな生き方をしていこうと思った。
高校時代の友人たちは、出征したまま消息を絶ち、敗戦後一年たっても音沙汰のないぼくを、てっきり戦死したものと思い、寄り集まってはぼくの死を無駄にすまいと誓い合っているということであった。ぼくは心から感動した。
復員後は、年老いた引き揚げの両親を養いながら、さらには妻子を抱えながら、激しく詩を人生を生きようとした。しかし厳しい現実の前に幾度か夢がみじんに砕かれたとき、きまって還ってくるのは、死んだ戦友たちに対するうしろめたさであり、ぶざまな生き方しかできないおのれのさがの拙なさであった。
しかしぼくは詩を、ドラマを、童話を、小説を書きまくった。書いたものはすべて背後に捨てて、いつもただ出発だけがあり、戦いだけがあった。
用意していた墓碑銘
南の孤島に生きていたころ、山の木の間から海を眺めては口ずさむ詩があった。ぼくの生命を捧げるのは、はたして何に、そして誰に、という自問自答だった。ぼくはひそかにそれを「絶唱」と呼び、ぼくの墓碑銘にと心組んでいた。
絶唱
海原の
うしおの果てに咲く花の
白きを
今日は
誰に捧げん
戦友の誰彼たちは死んでいった。ぼくは生き残ったからには、ぼくは彼等の分を含めて、凋まない白い花を、日々咲かしつづけていかねば済まぬ気がした。
ぼくは死んだ戦友に語りかけるかのように、おのれの生きざまを問いつづけ、生存のあかしを詩に刻み、まやかしには真向から対決せずにはおれなかった。