世代を結び強まる被爆地の使命
東広島市の東広島芸術文化ホールくらら市民ギャラリーで21日から26日まで、広島大学学生有志と原爆展を成功させる広島の会が主催する第1回原爆と戦争展がおこなわれている。これまで広島の会が広島大学で毎年おこなってきた原爆と戦争展を参観したり、原爆展スタッフとして活動してきた学生たちが集まり、学生自身のとりくみとして宣伝や設営なども担い、今回初めて開催に至った。会場には東広島市内の被爆者、戦争体験者や学生、親子連れなどが訪れており、学生らと交流を深めている。また、地域の参観者からは、地元の広島大学の学生らが被爆体験継承活動を真剣にとりくんでいることへの歓迎と支持が寄せられている。
この地域で初めておこなわれる原爆と戦争展には、戦争体験世代が多数参観し、パネルの展示内容と重ね合わせ自身の体験を語っている。東広島市には原爆投下から数日後に原爆による負傷者が多数運び込まれ、その様子を目の当たりにしたり、家族が手当てに出ていたこと、広島市内の病院へトラックに乗って負傷者の手当ての応援に行ったことなど、当時の経験を語る80代の参観者が多いのが特徴となっている。
広島の会の被爆者も会場に詰め、学校で配布されたチラシを見て参観する親子連れなどに被爆体験を語っている。
藤岡久之氏(当時12歳)は比治山近くの地域で家屋疎開中に被爆した。作業中にかがんだ瞬間に爆風で20㍍ほど吹き飛ばされて気絶し、屋根の下敷きになった。一瞬体が浮いたところから記憶が無く、火が燃えている音で気がつき、自力で這い出そうとしていると、だれかに腕をつかまれてガレキの外へと引き上げられた。そこから歩いて自宅へ帰る途中に見た広島の街の惨状について「ものすごい火の手で防火用水に体ごと浸かりながら家まで歩いて帰った。ある防火用水に入ったとき、何かに躓いて滑って転んだ。水の中に手を入れて“何か”をつかみ引き上げると、火の手を逃れ、水の中に飛び込んだまま亡くなった女学生だった。電車も車もみなひっくり返り、皮が剥がれ、赤身が出て血が噴き出している人、下半身の皮がずるむけになった人が、みな幽霊のように同じ格好をして歩いていた。日赤病院の近くにある実家も燃えた」と話した。自身も家屋の下敷きになったときにくるぶしの骨が砕け、そのまま肉の中に入り込んでしまっているため、手術などすることができず、現在までそのままの状態で痛みが残っているという。父親も頭から腕の先までガラスが刺さり、被爆から一年間手を付けられず、毎日のように痛がっていたが、3年かけてすべて抜きとった。当時小学生だった弟はまったく外傷はなかったが3年間下痢が続いた。
藤岡氏は「私たちは戦前も戦中も戦後もすべて経験した。戦争が始まると、召集された先生を“勝ってくるぞと勇ましく”“生きて帰るな”と全校で歌ってバンザイで送り出したが、誰も帰ってはこなかった。戦後は、家の下敷きになったときのけがのおかげで足はずっと痛かったが、陸上部に入り、長距離をやった。“原爆に負けるものか”という気持ちで生きてきたし、みな同じ境遇で、誰かしら家族が原爆を受けていた。この展示を見ることで当時を思い出す。今の小学校高学年から中学生くらいの子どもたちがもっと見るべき内容だと思う。広島市以外の廿日市や呉でも展示をやってきたが、こうして県内各地で参観者を増やしていかないといけない」と話していた。
24日には被爆体験を聞く会をおこない、原爆展を成功させる広島の会の日高敦子氏と林信子氏が午前と午後に分けて被爆体験証言をおこなった。戦争体験世代から学生、親子連れまで幅広い世代の参加者が体験を学んだ。
日高氏は、当時九歳で爆心地から3・5㌔㍍離れた千田町で被爆した。顔がぐちゃぐちゃに焼けただれ、着物はちぎれ、みな裸で皮が爪まで剥がれた負傷者たちが次から次へと放心状態で逃げてくる光景を目にした。従妹(3歳)の「よしえちゃん」は焼けた家の下から寝たまま白骨の状態で見つかり、その母である叔母は家の中から六カ月になる赤ん坊を助け出したが、自身は9月8日に「この子を自分の手で育てたかったけど、私の運命だからしかたがないね」と言い残して亡くなっていった。助け出された赤ん坊も虫の息だったが、母親が死亡した後、奇跡的に回復し、今でも子どもと孫を持ち元気でいることが自分たちの救いでもあると語った。
日高氏は「核と人類は絶対に共存できない。自分は原爆の後遺症で甲状腺の手術を四回やっている。自分の言葉ではささやかでどれほど伝えることができるか分からないが、黙っていては何も伝わらないと思って語り続けている。私たちが体験した戦争は2・26事件から太平洋戦争へと突き進んでいった。今の日本も憲法改正や集団的自衛権、自衛隊の海外派遣など危ないと思う事が多多ある。70年前、進駐軍が呉へ来たとき、通訳をしている女性が“アメリカは100年かけて日本をだめにする計画を持っている。だからあなたたちがしっかりしないといけない”と話しかけてきた。私は“心配いりません。日本人はそんなことありません”と心のなかで言い返したが、いまになってそのことを思い返し、その通りかもしれないと感じている。戦争とは何か、平和とは何かをしっかりと考えてほしい。あの戦争で320万人が亡くなっている。二度と戦争をくり返してはいけない」と語った。
林氏は被爆当時17歳で日本赤十字病院の看護学生だった。自身は建物の中にいて助かったが、同僚は寮の梁の下敷きになり、顔が潰れて亡くなっていた。夜の病院のロビーは、暗闇の中で手当てや水を求める負傷者で埋め尽くされていたが、翌朝にはみなその場で息絶えていた。負傷者の傷口にはウジがわき、ただでさえ傷が痛いのにそのウジが傷の中を動きまわる。その痛みを訴えることすらできない人が多いなか、それをピンセットでとることしかできず、「これが治療といえるのだろうか」と感じていたという。連日次次に負傷者が運び込まれ薬もつけてあげられない状態だった。トラックから降ろして寝かせてあげることで精一杯で、その負傷者も翌日には息絶えていた。死亡した人人を毎日何度も火葬し、一人ずつお骨を拾って封筒に入れた。
体験を聞き終わった後、参加者が質問や感想を出し合い、交流をおこなった。
若い世代の参観者は、展示や被爆者の体験や思いを積極的に学び、体験を受け継いで自身が伝えていく立場として決意を新たにしている。
展示を見て、2氏の被爆体験を聞いた広島大学の男子学生は「祖母が九歳のときに被爆した体験を幼い頃から聞いてきた。自分は来年から中学校の教師になるが、進路が決まり、“教師になって子どもたちに何を伝えたいか”と考えたときに、やはり原爆や戦争についてしっかり伝えられる人間になりたいと思った。しかし同時にこれまで自分のやりたいことばかりやってきて自分が何も知らないことも気づかされた。遅すぎるくらいだが、今必死に勉強している。教師になれば、個人的な意見や考えなど簡単に口にすることは難しくなるだろうが、自分は被爆者の体験や生の声、それぞれの思いや考え方を学んだうえで、子どもたちに教育できる大人になりたいと思う。展示も戦前から詳しく記されていて一日では読み切れないほど濃い内容だった」と話し、パネル冊子を買い求めた。
宣伝ポスターを見て展示を参観した広島大学の中国人女子学生はアンケートに「戦争や原爆について当事者の証言を読みました。すごく貴重なものだと思います。戦争は被害国にももちろん残酷なものですが、戦争を発起した国の国民に対してもよくないことです。現在世界でまだ戦争が起こっています。まだたくさんの人が苦しんでいます。このような平和運動は世界でもっと広がっていくといいと思います。国と国の間でもっと理解を深めてほしいです」と記した。
若い世代のとりくみに地域からも期待
広島大学学生有志メンバーは、毎年広島大学で開催してきた原爆と戦争展を参観し、8月に広島市内でおこなう原爆と戦争展でスタッフとして活動してきた学生たちが中心となっている。これまでも広島大学での原爆と戦争展の宣伝ポスターを作製するなど積極的に活動する学生が増えてきていたが、今回初めて主催者という立場で地域で原爆と戦争展を開催することになった。
学生らは準備段階から何度も会合をおこない、チラシやポスター作製、会場周辺の商店や学校へのポスター掲示やチラシ配布、会場設営などを広島の会の事務局とともにおこなった。開催期間中には広島修道大学の学生も加わり、毎日会場にメンバーが数人常駐し、スタッフとして受け付けや会場との交渉なども担っている。宣伝ポスターやチラシに記してある「主催 広島大学学生有志」を見て、「広島大学の学生たちがこういうとりくみをしているのは良いことだ」と関心を持って会場へ足を運ぶ参観者もいる。
準備期間から中心メンバーとして活動してきたスタッフの男子学生は「事前にメンバーで集まって何度も話し合い、自分たちで考えながら計画してきた。周辺の商店や学校にポスター掲示やチラシ配布のお願いに直接いき、校長先生とも話をして協力してもらうことができた。八月にスタッフとして参加した原爆と戦争展には時期的にもたくさんの人が参観していたが、この時期に展示をやって、関心を持って参観する人がどれだけいるだろうかと心配もあった。だが、いざやってみると、偶然会場に来た人でも展示を見てアンケートにも自分の思いをしっかり書いてくれる人が多かった。広島大学で学生が動いて、県内の修道大や経済大など他の大学でもこういうとりくみが広がっていけばいいと思う。この展示は継続してとりくんでいきたい」と意気込んでいた。
スタッフとして参加している1年の男子学生は「自分は四国の出身で被爆体験など触れる機会はほとんどなかった。大学での原爆と戦争展で被爆者の体験を聞き、より関心が深まった。体験者の生の声に触れる機会は五年後、10年後にはなくなるかもしれない。会場に来る小学生など、自分より下の年代が参観してくれることが嬉しいし、若い世代が平和について真剣に考えていく基礎として、この展示や体験者の話が役に立つよう自分も活動を通して成長していきたい」と語った。
学生たちは被爆体験を聞く会で司会を担い、意見・感想交流会をおこなったり、会場に来た参観者の感想を聞いたりしながら交流を深めていた。
東広島市内での本格的な原爆と戦争展は、地域住民が足を運び、被爆体験を聞いたり、第2次大戦の歴史の真実に触れる場として多くの人人が支持を寄せた。今後も継続して開催を求める声も多い。
参観した40代の男性は「学生以来、こういう資料を見る機会がなかった。この歳になり改めて峠三吉の詩を読みながら被爆当時の写真を見ると、訴えかける内容が深いと感じた。こうして公に開かれた場所で戦争体験者から親子連れまで地域の誰もが無料で参観でき、貴重な被爆体験を聞くことができる場があることは非常にいいことだ。悲惨な写真も数多く展示されていたが、自分自身は歴史の事実としてこういうものは隠したり遠慮したりする必要はまったくないと思っている。学生さんたちには頑張ってこれからもこの活動を継続していってほしい」と話していた。
初日から25日までの5日間で参加者約530人が訪れ、21人が新たに賛同者になった。広島大学の学生らが地域の被爆者、戦争体験者に体験を学び、交流を深めるなかで繋がりが強まっている。また、地域でも活動が認知され、大学内でも0Bや後輩、サークルなどで関係を広め、今後地域での活動を発展させ、定期的に同展を開催していく出発点となった。