広島県廿日市市のはつかいち美術ギャラリー(廿日市市役所併設)で12日から、第9回廿日市「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる広島の会)が始まっている。米軍の軍事行動をはじめとする朝鮮半島をめぐる緊迫した情勢や、核兵器禁止条約への日本の不参加、また、広島に隣接する岩国での米軍基地増強など、急速に高まる戦争の危機に対する強い切迫感をともなって、参観者は凄惨な被爆体験の継承とともに、戦争を阻止する強い行動意欲を語っている。
米軍岩国基地隣接地域の緊張
開会式でははじめに広島の会の高橋匡会長が挨拶した。
高橋氏は、「先日からしきりに報道されているが、アメリカ軍の艦隊が北朝鮮を包囲するために急きょ北上している。第2次大戦の被害者であり、戦争のはじまりから苦い思いをしてきた体験者として一番の願いは、戦争はもう二度とあってはならず、核兵器はつくるな、持つな、使うなだ。そのために国連で世界115カ国が集まって核兵器禁止条約を協議しているさなかに、トランプという得体の知れぬ大統領が誕生して世界各地で軍事挑発をし、いつ戦争が起きても不思議でない情勢がつくられている。しかも日本政府はこのアメリカの行動を歓迎している。戦争を知らない政治家ばかりだが、72年前の歴史の一片でも知っているのなら、いかにすべきかは子どもでもわかるのに1人も反対意見を出すものがいない」と語気を強めてのべた。
さらに、「広島では戦後、二度と戦争をさせぬという決意に立ち、核兵器を廃絶する運動がおこなわれてきたが、唯一の被爆国という日本政府が“核保有国との仲裁の労を執る”といういい訳で核兵器禁止条約に反対、不参加を決めている。しかも外務大臣たるや広島の中心部から立候補して今の地位があるにもかかわらず、職を賭して核兵器禁止のために動くのではなく、自党の方針に倣ってあのような態度にまで行き着いた。地元は怒り心頭だ。胸の中は憤りでいっぱいだが、このような時期だからこそ原爆と戦争展は非常に有意義だ」とのべた。
続いて、上京中の眞野勝弘市長の代行として列席した堀野和則副市長が、「1945年8月6日、1発の原子爆弾によって広島の街は廃虚と化し、一瞬にして多くのかけがえのない命が奪われた。72年目を迎えた今でも多くの被爆者の皆様が後遺症に苦しんでおられる。核兵器は人類をはじめ地球上の生命にとって脅威以外のなにものでもない。これまで被爆地の市民は、同じ過ちをくり返さない思いを訴え、核兵器の全世界からの廃絶を強く願ってきた。この原爆と戦争展も、そのとりくみの一つだ。悲惨な過去を語り継がなければならぬという活動が、多くの人人とつながり、核兵器廃絶の輪が広がり、真の平和が実現することを願っている」と挨拶した。
地元を代表して被爆者の川端義雄氏は、「1発の原子爆弾で20万余の人人の命が奪われた現実は、耳だけではわからない。この展示会と被爆者の話を通じて知ってもらいたい。原爆は爆心地から半径1・6㌔はほぼすべて焼き尽くした。それに加えて放射能が残り“70年は住めぬ”とまでいわれた。にもかかわらず、アメリカは原子力の平和利用を宣伝して日本中に原発を作り、地震による事故で福島では六年経っても故郷に帰れない状況になっている。私たちも原爆を受け、放射能被害によって長く治療もしてきたが、しっかりと伝えていくことが今必要だ。一方で朝鮮半島では、アメリカが駆逐艦を派遣して先制攻撃まで口にしている。戦争は始めれば後戻りができない。その現実を直視してほしい」と訴えた。
看護学生として被爆者の救護活動をおこなった林信子氏は、「原爆では、顔が砕け、気が狂ったようになって死んでいった友だちを目の当たりにしている。残された命のある限り、胸の奥で涙を呑んで死んでいった友人や同胞の分もこの体験を伝えていく義務がある。一人でも多く語り継いでいきたい」と気迫を込め挨拶。会場で被爆体験を語る決意をのべた。
無惨に殺された肉親…
知人と一緒に参観した78歳の女性は、被爆当時は廿日市に送られてきたたくさんの被災者の救援に従事したことを明かし、「戦争の裏を返せば隠されたことがあるとわかり衝撃を受けた。負けることがわかっていて戦争を進め、上層部だけがアメリカに助けられた。国民に伝えていることと現実とがかけ離れていて、現在の安倍内閣と繋がることがたくさんある。今ほど不安な時期はない」とのべて、協力を申し出た。
被爆2世の女性(60代)は、当時、母親が広島市中区十日市(爆心地から600㍍)に住んでいたが、女学生として観音町の三菱で働いていたため一命をとりとめたものの、祖母は自宅もろとも灰燼(かいじん)に帰したことを語り、「当時17歳だった母は、母親(祖母)の骨を探したけれど見つからず、母が使っていた茶碗の欠片を遺骨がわりに持ち帰ったという。母は両親を失ったショックから、絶望して川に飛び込もうとしたが、川面にはすでに死体の山。全身に火傷を負っていた中学生の弟の傷に湧くウジ虫をとり、人骨を粉にしてまぶして治療していたと話してくれた。その弟も回復したけれど、風邪のような症状が悪化して亡くなり、解剖すると体中が放射能に冒されていたことがわかった」とのべた。長く保母をしていたため、その母の体験を紙芝居にして伝えてきたことを語り、「最近では、悲惨なものを覆い隠して、原爆をきれいに描く風潮に違和感を覚える。原爆資料館も、私たちが聞いてきたこととは雲泥の差がある。辛くて目をふさぎたくなるようなことでも、くり返してはならない現実として伝えなければいけない。原爆を話せば“加害者の責任”ともいわれるので黙ってきたが、また戦争になりそうな時代になってきた。日米安保とか“核の傘の下”というが、そんなものが必要ない社会をつくらなければ核兵器廃絶も平和な未来もない」と話して、今後2世として自身の体験を伝えていく意欲をのべた。
大芝小学校五年生のときに被爆した80代の女性は、爆心地から2・5㌔㍍地点で被爆し、一人で郊外へと避難した経験とともに、自宅は全焼し、道路で遊んでいた3歳の弟が全身ヤケドを負ったことを語った。「めそめそ泣いている暇もなく、黒い雨が降るなかでも畑のトマトや雑草まで食べて生き延びた。避難先では住居や食べ物などを提供してくれたたくさんの人に助けられて生きることができた。それでも姉は甲状腺癌になり、弟も体中を癌に蝕まれて亡くなった。近所の友人は三篠小学校に通っていたので校舎もろとも焼けてしまった。これまで話をしたくなかったが、今年初めて孫に話した」とのべた。
同伴した70代の女性は、夫の自宅が相生橋(爆心直下)付近にあり、原爆によって家族6人が全滅したとのべた。父親だけが背中に大火傷を負いながらも生き延びたが、29年後に白血病を発症して死亡。最後は甲状腺癌で声も出なくなっていた。12歳の弟は、学徒動員で建物疎開に出たきり帰ってこなかった。「夫は“うちだけでなく、隣近所みんな一家全滅だ。家族の死体も見ていないから涙も出なかった”といっていたが、本人も貧血でよく倒れ、心臓の手術をしたときには医者から“血管がボロボロだ”といわれていた。戦後は、被爆者であることを公言すると結婚や就職ができないといわれていて、夫もこれまで語ったことがない。それでも、今は北朝鮮をめぐって一触即発の雰囲気になり、日本政府は万事アメリカのいいなり。転勤でシアトルに居住したこともあるが、コミュニティカレッジで意識調査をすると、原爆の犠牲者数について“5万人”とか“3万人”というレベルでしか知識がなかった。反省などしていないし、正義だと思っている。日本人が黙っていたらいけないと思った」と話した。
また、岩国基地所属の米軍属から英会話を習っていたとき、米兵が「基地が狙われたら、兵士も軍属もその家族もみんな基地に集合し、30分後には本国に帰る訓練をしている」といっていたので、「基地内で働く日本人はどうなるのか?」と訪ねると「私たちには関係ない」と話していたことも明かし、「米軍には日本人を守る意志はない。日本人は対等だと思っていても、東洋人への差別意識は根強く、“日本人は自分たちのしもべ”くらいに思っている。だから日本人としての意志を持たず、アメリカに調子を合わせていくなら悲惨なことになる。原発再稼働にせよ、核兵器禁止条約への不参加にせよ、日本政府にはその意識がまるで見られない」と語気を強めた。二人で「原爆展に協力していきたい」と賛同者に記名し、知人に見せるため英語版被爆体験記を買い求めた。
爆心地から約4㌔の広島市東区矢賀で被爆した男性は、「原爆投下前までは呉など各地が焼かれていたが、日本の報道機関は“勝った、勝った”と伝え、真実を伝えなかった。だが、もう日本は逃げるだけで、防御することすらできなかった。原爆では国鉄の同僚が多く亡くなったが、無傷でどこも悪くなかった同僚が4日後から髪が抜けて、下痢が止まらず、会社の寮の廊下に便を垂れ流していた。最後には精神が狂乱状態になって死んでいった。川土手に運んで火葬したが、毎日、そのような死人を焼く臭いが漂っていた」とのべた。
「当時は小学校でも木銃を担がされ、戦争の練習をさせられ、教育勅語を唱えさて軍国主義を煽っていた。北朝鮮を見ていると昔の日本と同じだと思ってきたが、森友学園問題や安倍政府のやり方は、国民を悲惨な方向へ導いた当時と同じ思想ではないかと感じる。トランプのシリアへのミサイル攻撃も、電話一つで“賛成します”というような国は世界中どこにもない。しかも自民党は身内でかばいあい、野党がだらしないのをいいことに調子に乗っている。とても国民を守るような政府とは思えない」と語った。
市職員も多く参観し、「祖父がソロモン海峡で戦死して遺骨も帰ってきていない。アメリカは日露戦争後からオレンジ作戦をつくって日本との戦争を想定し、いかにアジアに侵略するかを考えていたことに驚いた。現在の日米安保と重なり、日本を守るのではなく、利用するだけではないか」「廿日市は隣に岩国基地があり、最近は市民が恐怖を感じるほど低空飛行の度が増している。岩国基地の増強も沖縄の辺野古問題も、あたかも“危険回避”であるかのように市民をだまして進めている。広島も巻き込んで戦場になる可能性があり、被爆地として一歩も引けない状況になっている」と口口に語った。
いま新鮮に迫る被爆体験
原爆資料館の初代館長の親族にあたる女性は、「当時、山陽女学校の生徒として被爆者の救護活動を手伝ったが、火傷でめくれた皮膚の下の肉の鮮やかなピンク色が目に焼き付いている。広島理科大学(広島大)の教授だった父は、原爆資料を収集して資料館の創設に尽力したが、原爆症に冒され、吐血をくり返しながら亡くなった。抽象的な平和資料館ではなく、あくまで原爆資料館でなければならないと強調していた」と語った。同行した女性も「毎回展示を見ているが、今日ほど新鮮な気持ちで迫ってきたことはない」と、緊迫する情勢との関係で感想をのべた。
廿日市市内の男性歌人は、最近詠んだ『耳ざとくなり』と題した数編の短歌をもって訪れた。
「守つてやるぞ 守つてやるぞとF35・オスプレイなど日に日に増える」「大挙して外人部隊のやつて来る新兵器を下げ岩国基地へ」「耳ざとくなりたりわれら雲の中を飛ぶヘリの数・機種までも知る」「冬雲の中より聞えるヘリの音みんなオスプレイだと直ぐに分りぬ」「ここは何処の国だつたのか一瞬に戸惑へり市外の外人部落」「被爆者と大統領の抱擁を如何に見んとや複雑なりき」と最近の情勢を詠んだ歌や、「爆心地近くより爆風に乗り姉は三キロメートル先の川に堕ちたり」「父と母の背や胸の火傷に湧く蛆を箸で捕りたり夏がまた来る」と自身の脳裏に蘇る記憶を怒りを込めて歌っている。「今後も被爆者としての思いを自作の歌にして提供したい」と協力を申し出た。
「二度とこのような時代にしてはならない」と戦時中に使用された「教育勅語」の原文を提供する男性や、子どもを連れた若い母親や20代、30代の社会人も参観し、「子どもたちを戦争に送りたくない」「直に体験を学べる最後の世代として受け継いでいきたい」と切迫した思いを語って会への協力を申し出ている。
原爆と戦争展の会場では、15日(土)と最終日の16日(日)に被爆者による体験を語る会がおこなわれる。
参観者のアンケートより
▼当時中学1年生になったばかりで軍関係の仕事をさせられた。軍馬の食べ物草を集め乾燥さす。兵隊食の缶詰造りに工場へ。8月6日。家屋疎開に市内鶴見町へ、家の中の柱等をノコで切断し、倒れやすくする作業中、光線を目にし体が浮き上がり、家の下敷きになり失神。この爆発を見ていた比治山に駐屯していた暁部隊の兵士が、山を下りて救出に来て、崩れた家の中より救出された。左足首を負傷して歩けなかった。鶴見橋の上から市内全市が火の海に。広島駅から宇品間の電車道一杯に火傷、血だらけ、全裸、わめく、道幅一杯に右往左往。当時のことを毎日夢に見ている今日この頃…。(85歳・女性)
▼私の父は昭和20年45歳過ぎて兵隊に出て行き、シベリアに。他の人より遅れて、それでも帰ってきた。原爆を落としたアメリカが正当化するためにすべてを日本の責任にしたと信じている。その米国に機嫌取りばかりして国民をないがしろにしている小泉政権から安倍まで腹が立つ。現在の選挙制度は主権在民の基本を踏みにじるものと思う。今現在、北朝鮮の核に怯える毎日だが、米国は本土から遠く離れた所へ基地を持ち、なんでもできるが、一番の被害は沖縄か岩国になる気がする。素人集団の大臣でどうなるか心配だ。(76歳・男性)
▼戦時中、国民を欺き続け、兵隊を無駄な死へと追いやった旧日本軍、首脳部の冷酷さもさることながら、無差別攻撃をくり返したアメリカ軍の残虐さにもゾッとさせられます。つくづく正義の戦いなどないと思います。アメリカは、昔も今も他国に対しては無慈悲です。そのことを十分認識してつきあっていかなければならないのです。(女性)
▼私の姉は原爆で亡くなった。学徒動員で出ていた。父が7日に探しに行き、見つかったが、帰りのリアカーの上で亡くなった。父に会えて安心したのだろう。わずか14歳の命だった。今私は元気で幸せに暮らしている。いつも姉にすまないと思いつつ…。(82歳・女性)
▼私は昭和18年2月生まれです。父がマリアナ島で戦死。父の顔も知りません。この年になっても心の傷は続いています。一生情けない…涙が出ます。(74歳・男性)
▼社会情勢が不安定のなか、二度と日本が戦争に参加することがないように命の大切さを子・孫に伝えています。母が72年前、広島市の十日市に在住しており、祖母を亡くし、苦労してきた話を忘れてはいけないと思います。(61歳・女性)
▼現在の日、米、韓、中、朝鮮の動きが恐ろしく、アメリカのやり方に心底恐怖を感じる。他国を「悪」として挑発し、他国に出張っていって、ぐちゃぐちゃにして…。軍人を政権の中心にすえて軍事費を増加させ、日本にもたくさん軍備をさせ、基地を提供させ…本当にいつでも先制攻撃をやる準備があると、宣言されてしまっている。(61歳・女性)
▼学校の平和教育では知ることのできなかった戦争・原爆についての知識は、みずからが関心を持って、調べ歩かねば得られないことが多く、戦後72年を迎える今の時代、これからの世を担っていく若い世代が何を見聞し、どう行動していくのかが重要だと考えています。
たくさんの人に見てもらいたい展示だと思いました。さまざまな視点から戦争・原爆、これからのために自分ができることを考えさせられるすばらしい機会だと思います。(34歳・女性・写真家)