沖縄県で「原爆と峠三吉の詩」による原爆展を展開中の原爆展全国キャラバン隊(長周新聞社後援)は、24日と27日の恩納村役場での展示につづいて、28日には沖縄戦で米軍上陸地点となった読谷村の役場玄関前で原爆展を開催した。
積年の思い語る体験者
読谷村では、役場周辺の波平地区を中心に、沖縄戦を特集した長周新聞の号外「沖縄戦はせずとも戦争は終わっていた」を大量に配布した。どこへ行っても「ご苦労様です」「ありがとう」と熱烈に歓迎された。留守番をしていた90歳近い老婦人は、チラシを見るなり「広島や長崎の人たちもたいへんだったでしょう。わたしの夫は役場に勤めていたので、兵隊にはとられなかった。だから家族で山原に逃げのびたが、この近くにかくれていた人たちのなかでも、ハワイ帰りの人がいたガマの人は助かったが、アメリカが上陸したとき、チビチリガマでは殺しあいをして自決した人たちもいて気の毒だった。アメリカのやることはほんとうにひどい。いまもイラクで同じことをやっているじゃないですか。アメリカが騒ぐと、いつもああなる。アメリカは出て行くべきですよ」と声を震わせて語り、長周新聞の号外を「家族で読ませてもらう」と喜んで受けとった。
読谷村役場の原爆展会場でもパネル展示とともに長周新聞の号外が熱烈に歓迎され、「これまで黙ってきたが、やはり語らなくてはいけないと思った」と筆舌に尽くしがたい壮絶な体験を語り出す年配者があいつぐなど、圧倒的な支持と底深い共感が寄せられた。
「これを見ると少年時代にもどっていくような気がする。見るだけで腹立たしい」と語りかけてきた70代の男性は「沖縄戦のときは12、3歳だったが、10・10空襲でやられ、艦砲の攻撃にもやられ、ヤンキーが上陸してきたのもこのあたりだ。無残な死体がごろごろしていた。このパネルの写真を見ていると、じいちゃんや親父が目の前でヤンキーに撃ち殺されたときのことを思い出す」と、凄絶な体験を語りはじめた。
「米軍が上陸するとわたしたちは馬や馬車で辺土名の山のなかへ逃げていった。辺土名からずっと歩いた安波川という、いま水力発電所がつくられているあたりだった。わたしたちがかくれたり歩いたりした道がいまもある。経験のない人たちは“あれは戦争だったからしかたがない”と切りかえもきくが、子どものころに経験したわたしには、いまだに思いきることができない。
アメリカのやつは、わたしらには考えられないようなことをやる。何十人という米兵が敗残兵を捜しに川の下からずらりと並んで上がってきた。そのとき、逃げようと身構えた親父とじいちゃんが撃ちぬかれた。じいちゃんは即死だった。親父は血まみれで倒れていたが、生きていた。米兵はかくれていたわたしたちを引っぱり出してきて、わたしたちと同じ顔だちをしたアジア系の米兵に命令し、目の前に倒れて苦しんでいる親父のとどめを刺させた。親父の遺体は、顎(あご)が2つに割れていた。米兵が壕の中から死んだ人たちの足をつかんで引っぱり出し、物のようにほうり出しているのもこの目で見た」と唇を震わせた。
さらに友軍の特攻機が何機も来たが、網の目のような砲火を浴びせるので敵艦まで届かないうちに落ちていった光景や、航空服を着た若い少尉の遺体が海岸にうち上げられていた様子などをふり返り、「あの人たちが気の毒でたまらない。わたしらも竹槍で米軍を突き殺せといわれていたが、そういった軍人たちがアメリカの指図で自衛隊をつくり、いまではイラクでアメリカの戦争に協力しているとはどうしたことか。沖縄戦はいまのイラクと同じだった。アメリカのために子や孫が召集されていくのでは、戦争で亡くなった親父やじいちゃんたちは浮かばれない。地元の人間はヤンキーにとっては虫けらと同じだった」と語気を強めた。そして「あまりに悲惨なので、みんな体験を語ろうとしない。しかしこれを見たら思い出すのではないか。思い出すのはつらいことだが、やはり伝えなければならないと思う」と、キャラバン隊への期待とともに決意を語った。
米軍が上陸したとき2歳だったという婦人は「わたしは泣き虫だったので、ガマにかくれているとき米軍に声が聞こえたらいけないと、おしめを口の中に入れられていたと姉たちから聞いている。学徒だった母親の弟は、読谷飛行場で亡くなった。サイパンへ働きに行き、身体をこわして帰って来たおじいさんは、兄弟を2人、子どもを2人沖縄戦で亡くし、一家でたった1人の男手になってしまった。長男はいまだに帰らないままだ。おじいさんは“どこかに生きている”とずっと捜しつづけ、慰霊の日にもお参りには行かない。“戦はちゅ(人)くえむ(食う)”(戦争は人を食う)というが、戦争が終わった後は、食うことも家を建てることもみんな自分たちでやらなければならなかった。カヤで家の屋根を葺(ふ)いて、しょっちゅう葺きかえて、食べるものもなく、生き残ったものもたいへんだった。2度とこんなことをさせてはいけない」と訴えた。
避難民も見境なく攻撃
8歳のとき、馬車や牛車に家財道具を乗せて山へ逃げた体験を持つ67歳の婦人は「水は絶対に必要だったので、川沿いにできるかぎり山奥へと逃げた。途中から馬も入れないような狭くて険しいところへ来たときには、母、祖母、姉の4人で、それぞれが頭の上に重い荷物を担いであがった。長い避難民の列の最後の方の人が砲弾にあたって亡くなった。老人や女、子どもばかりで、軍隊の隊列でないことはわかっていたはずだ。それでも見境なく攻撃してきた」と唇を噛みしめた。「戦後、トラックが復員兵を乗せてくるたびに、父がもどってくると思って母といっしょに出迎えに行ったが、何度行ってもだめだった。これが最後のトラックだといわれた日は、とても悲しかった。アメリカは絶対に許せない。広島の写真を見たらよけいにそう思った。原爆もそうだが、沖縄戦もむりやりやったのだ。父親を返せといいたいですよ」と声を強めた。
「催涙弾を投げこまれたガマの住民は、みんなオレンジ色の鼻汁を出していた」と語る67歳の婦人は「わたしは栄養失調で立つこともできない状態だった。捕虜になったら殺されると思って大騒ぎになっていたところへ、アメリカは食事やお菓子を与えて手なづけたと思う」と憤りこめ、「兵隊にとられていた父親は数年後に帰ったが、米軍基地に土地をとりあげられたので、よその土地を借りて生活しなければならず、長いあいだ貧乏だった。昔住んでいたところは米軍基地になっており、ふるさとの面影などない。普天間基地は返還してもらうにこしたことはないが、米軍がひきつづき沖縄に居座っているのでは問題の解決にはならない。静かで豊かな沖縄にもどしてほしい」と訴えた。
真剣に見入る若い世代
20代、30代の若い世代も熱心に参観し、最後までじっくり見ていく人が多かった。「こういうことが、また起ころうとしていると思うと…」と喉(のど)をつまらせた30代の婦人は「日本軍も悪いけれど、沖縄戦でアメリカがやったひどいこともはっきりさせるべきだ。このあいだのヘリの事故でも、ほんとうになまなましくて胸が痛くなる。日常に追われがちだが、子どももいるし、こういうとりくみをつうじて、いま自分たちがなにをしなければならないか、しっかり目を見開かなければと思う」と涙をぬぐった。
「アメリカは謝罪してないんですか? 冗談じゃない!」と署名した役場の婦人職員(20代)は「日本の政府はアメリカのいうことばかり聞いてほんとうに不甲斐ない。国民のこと、沖縄のことをなんと思っているのか。基地はなくすべきだ。沖縄だけでなく、広島も長崎も同じ目にあわされているのだから、わかりあえる。このままだと戦場になりますよ。がんばりましょう」と若い瞳を輝かせた。