いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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東京大空襲から80年:「火だるまの子ども」 次世代に伝える東京大空襲の体験 東京都江東区・築山実(当時16歳)

(2025年3月7日付掲載)

米軍による空襲で焼き尽くされた東京下町。両国から深川方面をのぞむ(1945年3月)

 第二次世界大戦末期の1945年3月10日、米軍による無差別爆撃で一夜にして10万人が焼き殺された東京大空襲から80年を迎える。もはや日本の敗戦が決定的だった当時、マリアナ諸島を出撃して東京上空に侵入した米軍B29、352機は、人々が寝静まった午前零時すぎから東京下町を中心に油脂焼夷弾約38万発(約2000㌧)を投下した。住宅密集地を囲むように爆撃され逃げ場を塞がれた人々は、強風に煽られて広がる大火災に呑まれ、約3時間のあいだに家屋焼失27万戸、死者10万人に及ぶ大惨事となった。その後も8月まで続いた東京全域への空襲では、判明しているだけで死傷者・行方不明者は25万670人、罹災者は304万4197人(東京都調査資料)にのぼる。世界史においてもっとも無惨な大量殺戮であるにもかかわらず、戦後日本では犠牲者への補償も、国家事業として慰霊碑の建立すらされていない。この記憶の抹殺に抗して、東京下町では遺族や住民の手によって慰霊碑が建立され、忘れてはならない凄惨な体験を後世に受け継ぐ努力がされてきた。そのうちの一人、東京都江東区森下5丁目町会長として犠牲者の追悼と記録継承のため尽力した故・築山実氏(2021年逝去)が2015年に本紙に寄せた東京大空襲の手記『火だるまの子ども』(1972年執筆)をここに紹介する。

 

○       ○

 

「火だるまの子ども」 築山 実(当時16歳)

 

築山実氏

 3月9日、寒い夜だった。風もそのころ強いと感ずるほどは吹いていなかった。


 食事をすましたころ、空襲になったが、何事もなく、すぐ解除になった。

 

 今夜はこれで朝までぐっすり眠れる、やれ嬉しやと、ひと安心して床に入った。兄と雑談しているとまたも警報のサイレン。またかと兄は半身体を起こすと、すばやくラジオのスイッチを入れた。

 

 「ブー」とブザーの音がやむと、一瞬、家内中の者はラジオに耳を傾けた。「東部軍情報、東部軍情報、敵B29らしき数編隊南方洋上より本土に接近しつつあり、厳重なる警戒を要す」

 

 たしかこんなニュースであったと思う。まもなく静かな、まっくらな夜空を破って、あの無気味な空襲のサイレンが鳴り響いた。

 

 「たいへんだ、今夜もまただいぶ焼けるかもしれないぞ、実、起きろ」と兄はゲートルを巻き、私のふとんをばっとはがした。寝ているどころではない。闇の中とはいっても毎度のこと、素早く支度をしているうちに、はや、ブルン、ブルン爆音はまさにB29だ。「敵機来襲、敵機来襲」表では群長のかん高い声。

 

 兄と私は、階段をころげるように駆け下りた。
 そして縁の下に造った防空壕へと飛び込んだ、と同時に、パアッと急に外が明るくなった。何かと思って壕から顔を出すと、照明弾である。私はこのとき初めて照明弾を見た。五つ六つと地上4、500㍍ほどの所に浮かんでいる。

 

 東京中の電気を消してまっくら闇にしても、これではなんにもならない。下界は丸見えである。まるで強力な水銀灯のように。シャラ、シャラ、シャラ、焼夷弾だ。爆弾と落ちてくるときの音が違う。私はまるでカニが急いで穴に入るかのように、壕へすべり込んだ。父、母、兄、妹、私と5人息をばこらした。西の方に火の手が上がった。きょうはとても近い。

 

 姉は近くではあったが(住吉町)住み込んで勤めていたので、この夜は家にはいなかった。6歳の妹は、その夜にかぎって「こわいよ、こわいよ」と泣き出した。

 

 この夜が、兄、姉、妹との最後の別れになる夜とは、神ならぬ身の知るよしもない。わずかの時間に、四方八方が火災を起こし外は真昼のような明るさだ。これまで随分空襲を経験してきたが、こんなにも大きな火災が生じるとは、夢にも思ってみなかったことである。ふだん防火訓練をやっていた、火たたき、トビ口、はしご、手押しポンプ、水にひたしたむしろ、防火用水と、何一つ実際に役立つものは、この日ばかりはなかった。

 

空襲で焼け出された人々は家財を抱えて縁故先を訪ね歩いた(1945年3月10日、東京浅草)

 私の家は現在も元の場所、三ツ目通りであるが、前の横通りを見て、100㍍ほど近くまで、炎が迫ってきたころは、人波がぞくぞくと三ツ目の大通りへと、あふれるごとく避難して来た。

 

 まもなく火が襲い、私の家も焼ける寸前だというのに、それは、ワラをもつかむという、心境なのだろうか? 5人、6人と避難させてくださいと、家へ飛び込んできたのもよく覚えている。

 

 「だめだ、逃げるんだ」関東大震災の折り、九死に一生を得た父がさけんだ。しかし今夜とは、ぜんぜん立場が違う。上から火災の材料が、次々に落下してくるのでは、関東大震災とは、勝手が違いすぎる。

 

 3人で2階へ土足のまま駆け上がると、重要な書類を3人に等分して、身に付けた。兄は仏壇から位牌を取り出し、雑のうの中へ押し込んでいた。すでに炎のため、家の中は隅々までが明るすぎるほど、明るい。リヤカーを出すと、米、しょうゆ、ふとんなど、重要物資を山積みにした。

 

荒れ狂う赤い猛ふぶき

 

 三ツ目通りは、避難の人、人、人、自転車、リヤカー、大八車と修羅場に一変した。私はその雑踏に圧倒された。強風、そして火が、風を呼び、プラスアルファとなって、ヤカンがころげ、毛布が舞い、なべがころげ、かまが走る。

 

 右へと逃げる人、左へ避難する人、日ごろ私の母校、高橋国民学校(現・深川一中)の地下室へ避難するよう演習を受けていたので、近所の人もだいぶ避難したらしい。

 

 隣の塚田自転車屋さん一家も、年老いた両親と夫婦子供、5人で我が家よりひと足早く、学校へ避難して行った。その3日ほど前、埼玉県の親類へ家財道具一式疎開したばかりなのに、とうとう、学校から生きて帰ることができなかった。

 

 また、前の金物問屋、村尾さん一家は、そのころ少なかった自動車に乗って避難して行ったものの、どこへ行ったか、人も車も、やはり帰ってはこなかった。

 

 このころから、わずか数時間たらずの間に、本所、深川、浅草、向島区の人びとは、火炎地獄、生き地獄の真っただ中に巻き込まれ、苦しみ、悶え、そして、次々何の罪もない老若男女が、煙に巻かれ、炎に襲われ、壕の中で、川の中で、また道路で、死んでいったのだ。炭のように真黒になって……。

 

 はや四方八方は、火に囲まれ、猿江公園へ行きたくもわずか2㌔㍍足らずの所へ行くことは、もはや困難。

 

 その間も、空には、火炎、黒煙の立ち込める切れ目から、敵B29が低空で飛び回り、間断なく焼夷弾を落下していくのが、手に取るようによく見える。自転車に付けたリヤカーを押し、人波にもまれ、あえぎながら数十㍍行くと、兄は「忘れ物をした。すぐ戻るから」と言って、ひとり急に引き返した。父はその年に兵隊検査を終えた兄に「真っすぐ行っているからすぐ戻れよ」と、兄の背中へ大声を浴びせ、「ウンすぐ戻る」の返事に、いちじ止めた自転車を再び動かして、前へと進んだが、飛んでくる毛布が、布が、自転車やリヤカーの、輪に何度かからみつき、取りはずしながら、人波のため蛇行し進んで行った。

 

 このあっけない別れが、兄と最後の別れとなってしまったのだ。
 ずっと後で、いろいろな人に聞いてわかったことは、群長に声を掛けられ、一緒に消火していたらしく、その後、菊川橋方面へと2人して避難して行ったのを見たとのこと。

 

 なかなか戻らない兄を気にしつつ、千葉街道を横ぎり、総武線亀沢町ガード下まで来てしまった。ここは線路に沿って両側50㍍ほど強制疎開になり、広々とした空地に、家を取り壊した古材を利用して造った防空壕が、点々と、かまぼこ形をしてあった。土盛りもしてあり、入口は木製のわくにトタン張り。

 

 「避難場所はここにしよう」父の一声で自転車をとめ、空いている壕を探したがすでに満員。それでもやっと、母と妹だけ入れてもらい、父と私はしかたなく、ガードの柱、南側へ身を寄せ火炎を防ぐことにした。自転車、リヤカー、山積みした荷物を30㍍ほど前に置いて。

 

 このあたりは、省線錦糸町―両国間の中間。今まで緊張していたが、少し気持ちにゆとりができると、父が兄を心配して、「隆は、とうとうついてこなかったな。しかし、無事、安全な場所へ避難することができたかな?」と話しかけてきた。「若いんだから兄さんはだいじょうぶだよ。お父さん」私も気になりながらも、家族の者は絶対死にっこないと確信していたので気安く答えた。

 

 うちの家族の者は絶対一人といえど死にっこない。これはどこの家庭でもあてはまる言葉だと思う。そんな話をしているうちに、とうとう炎は近くまで襲いかかってき、火の粉が、赤いふぶきとなって舞い始めた。ガード下の柱は南側の風よけの部分に、7、8名座れるほどの幅があり、どの柱の南側も、7、8名ずつの人が身を寄せ合って座っている。

 

 風速が20㍍もあったであろうか、後は今、どの辺まで家が焼けているのか、柱につかまり、ちょっと顔を出したら、火の粉に顔をたたきつけられ、あやうく倒れてしまうところだったから、余程の強風に違いない。

 

 火の勢いは、ますます強くなり、赤い猛ふぶきとなって、我が身を襲う。火の粉(子)、いや火の親を、手で払い、もみ消す。リヤカーの荷物に火が付いた。しかし、今はそこまで行くことすらできない。目の前に燃え上がった大事な品々に、手一つ出せないとは、そのときの気持ちはたとえようもない。

 

 大きくいえば、我が家の全財産ともいうべき品々なのだ。今ごろは住みなれし家も焼け落ちたか? 田舎に親類がないこととて、疎開もほとんどしてはいない。

 

目の前で燃えた子ども

 

空襲によって焼かれ路上に折り重なる炭化した焼死者(1945年3月、東京本所)

 炎は地を走り、鳴門の渦となり、襲ってくる。母と妹の入っている壕は、炎の中に消えた。安否を気づかいながらも、足で蹴り、手で払い、無我夢中で炎と戦った。ちょっとでも手足の動きを止めれば、パッと火が衣服につき、一瞬に燃え上がってしまう。小さな火の粉は襟から、袖から入り、身体を駆けめぐる。その熱いこと、服は焼け焦げ、手、足、顔は、火傷でひりひりする。一カ所にかたまっている父もほかの人びとも、苦しさに耐えきれそうもない様子が、ひしひしと感じられる。

 

 私の隣にいた国民学校1年生ぐらいの男の子が、2、3㍍先へと急にころがった。今まで何度となく火をもみ消してやっていたが、自分の身体さえ生死の境という限界ぎりぎりのところをさまよっている今、自分の身体に襲う火の粉を払う手を休めようものなら、我が身さえあぶない。防空頭巾に火が燃え付いたのと「熱いよ、苦しいよ、助けて」というのと同時のようであった。

 

 その場にいた父も、また、ほかのおとなたちも、おそらく手を差しのべて救いたかったであろうが、だれもが呼吸さえ苦しく、吸い込む空気は熱く、口中はかわき、生きる限界も、もはや時間の問題と、あきらめかけていたときでもある。

 

 防空頭巾の火を消すことができないとわかるや、夢中でひもを引きちぎって、前へと投げ捨てた子供は、何秒か暴れていたが、ガソリンでも全身に掛けられたように、パッと燃えあがり、身体全体けいれんしていたのも、私は幻のごとく眺めざるをえなかった。

 

 鉄カブトだけとなったら、坊主頭はものすごく熱く(まさかと思うであろう、鉄カブトが焼けるなぞ。頭に30秒とかぶっていられないのだ)、手足で火を払いながらも、今度は鉄カブトを、上げたり下げたり、最後の最後の力をば振り絞り、大奮闘。

 

 どすん、と木が燃えながら落ちてくる。鈍い音が、そのころから耳には入っていたが、それが、両側広く疎開してあり、その地上5㍍も上の、レールを止めてある枕木が燃え、止め金具が緩み、燃えながら落ちてくる音とは、全然知らなかった。全く火の気のない、あんなにも高い枕木までもが、燃えるとは……。半死半生だというのに、いつ頭上へ落下するのかわからない枕木までも気にしなければならなくなった。

 

 いよいよ自分の死が近づいてきたことを察した。吸い込む空気も力なく吸い、手も足も、全く疲れはててしまった。

 

 今、目の前で、生まれて初めて見た。元気な子供が死ぬまでの様子を。初めから終わりまでを。炎の犠牲者、火だるまになった幼き子供。最期は本当にあっけなく、近くに親がいたのか、一人のがれてこの場にいたのか……。

 

 自分は幸運に恵まれて、生き残れるのだ。無事、この場も切り抜けられて、と考えていたものの、それも今は絶望的な状態に追い込まれ、早く死んでこの苦しみからのがれ、楽になりたいという気持しか持てなくなった。

 

 酸素欠乏で死にかけた金魚のように、パクパクやっているころには、死んだ子の服は燃えつくし、人形の、キューピーのような色に変わってから、今度は黒くなりかけていた。

 

防空壕も炎で焼け落ち

 

上野公園付近での死体埋葬 (1945年3月16日)

 強風と猛火に襲われしころから、何百人、いや何千人もの人びとの、お念仏の声が遠く、近く、高く、低くと聞こえていたが、その声が急に変わった。

 

 火が弱まった、火が弱まってきたぞ、がんばれ、がんばれ、かすかな声が強風に打ち消され、ときおり耳元を流れ、だれ言うとなく伝わり、口々に励まし合う掛け声が、だんだんと近づき、夢の中で聞こえている錯覚さえ起こしつつも、はっとして気がついた。

 

 まだ生きていたのだ。我ながら本当にそのときばかりは、不思議に感じたことはない。事実、目に見えて火力の弱まりを感じた。奇跡、まさに奇跡としかいいようのない気持。あと数分炎が弱まらなければ、おそらくこのままで生きてはいられなかったであろう。

 

 完全に火は弱まった。火の粉も減り、くすぶる煙が気になるころは、まだ春とは名ばかりの冷たい北風が火傷の身体を吹き抜ける。今度は逆に寒さが身にしみ始めたころ、東の空が白みかけてきた。

 

 一睡もせず、また火の粉のため、チカチカ痛く、思うように目もあけられない。身体は綿のごとく疲れ動く気力すらない。父も無事でいたが、私と同じ様子。その柱にはなぜか昨夜の半数ほどの人しか見当たらない。風も弱まり、まだくすぶる煙の中から、昨日とはうって変わり、カワラ屋根にもさえぎられずに太陽がゆらゆらのぼってきた。

 

 気持を取りなおして、父とともに、母、妹の入っていた壕へ出掛けて行ったが、なんと無残……。

 

 その防空壕は焼け落ち、いく筋か、紫煙、白煙が立ち上がっているだけではないか。2人ともこの下敷きになって死んでしまったのか、しばし父と2人唖然となり、立ちすくんでしまった。

 

 あの炎の勢いでは、むしろ助かったのが不思議なくらい。「かわいそうなことをした」父はただそれだけ言うと頭を深く下げた。私もこらえきれなくなって、あとからあとから出る涙をどうすることもできなかった。自転車もリヤカーも鉄の部分だけを残して、昨夜置いた場所にころがっていた。これはなんにでもあてはまる言葉だが、昨日に変わる今朝の姿。それも今はただ眺めるだけ。

 

 虫の知らせか、父と、近くを何の気なしに歩き回った。悪臭の立ち込めるくすぶる遺体の多さに驚きつつ、風呂屋の疎開後とみえ、タイルの湯舟があった。

 

 その中に数名の人が入っていたが、べつに気にも掛けずに通り過ぎると、突然、後ろから、「実、お父さん」と言うかん高い声。後ろを振りむくと、髪は焼け乱れ、顔は真黒け、モンペは焼けて、ぼろぼろ。だがよく見るとたった今、壕の下敷きとなり死んだとあきらめたばかりの母が、そこに立っているではないか。

 

 父も私も、心から喜んだものの、母が涙ながらに話す言葉に、また涙。防空壕の中に11人ほどの人がいたが、だんだんと増す火の勢いに、苦しさもまた増し、ついに耐えきれなくなった。最後に壕に入った母は、出入口にいたので、全員の「戸をあけてくれ。苦しい、苦しいよ。入口にいちばん近い人あけてくれ」という声で、壕の戸をあけたところ、一瞬にして炎が壕を襲った。その場だけはわかっているが、そのとき、苦しまぎれにパッと飛び出したものか、何か苦しく、土の上をごろごろころがっていたような気もするが、全然わからず、北風の寒さに、ふと、気が付いたら、土の上に横になっていたという。

 

 むろん妹の富美子は、壕の人全員と一緒に死んでしまった。母は狂わんばかりに泣き叫んでいた。「お父さん、すいません、すいません」あとは声にならず。

 

国民学校は死体の山に

 

 やっと気持を取りなおした親子3人、今は焼け落ちたであろう我が家の跡に行けば、兄もそして姉も、我われを心配しながら、首を長くして待っているだろう。

 

 くすぶる四方を眺め、今までは焼け残った材木と思っていたものまでが、よく見ると、遺体ではないか。死んだ人の多さに、また、新たに驚き、思わず足もすくんでしまった。

 

 頭を下げ下げ、三ツ目通りへと出て、昨夜来た道を、三人哀れな姿で戻っていった。

 

 あちこち死体があったが、三之橋の上は、どうしても、死体の上をまたがなくては渡れず、その数の多さに驚いた。

 

 一夜にして焼け野原になった東京、目の届く限り焼け野原、三之橋の上から四方を眺め、立っているものは、ビル、煙突、金庫、ひん曲がった鉄骨、質屋の蔵、哀れな姿、日本の都、大東京、いったい東京のどこまで焼失してしまったのか、心細くなってきた。

 

 また、焼けてしまうと、遠近感というものが変わり、菊川の電車通りも、すぐ足元のような気がする。

 

 やっと家の焼跡にたどりつき、17年間、見なれた建物はといったら、高橋国民学校、墨田工業学校、そして深川消防署ぐらいのもの。まだ兄も姉も戻っては来ていない。心配はしたが、まだ死んだなどとは考えてもみなかったので、父は焼跡から大きそうなカワラを取り出し、「高橋五ノ一、築山、父、母、実、無事」と焼け炭で書いて、目だつように立て掛けた。

 

 まだくすぶる熱い焼跡を棒でほじくり、昨日まで大事にしていた、茶わん、ヤカン、なべなどの見るも無惨な形に、思わずため息がもれてしまった。

 

 私が下げていた雑のうに入っていた米を思い出し、形の変わったなべを拾って、土の中から吹き出している水でやっとご飯を作り、それを食べて空腹を満たした。

 

 父が「高橋国民学校へ行ってみよう。隆(兄)がいるかもしれん」と言うので、3人して重い身体を引きずるように斜め前の学校へと足を運んだ。

 

 門前に3、4人の黒い焼死体がころがっている。この辺にいる人は、顔見知りの人かもしれない、と思うと、気のどくで、気のどくで、頭を深く下げ下げ玄関に入った。入って第一に目に入ったものが、完全なる白骨になっている死体が5体、6体。初めは理科教室から運んで来たものぐらいに思ったほど教材の品そのままの姿。人間が火事ぐらいの火で、普通常識としての大のおとなが白骨になるとは考えられないことである。おそらく隣に風呂屋があったので、山と積まれた薪が、強風のため、この辺に吹き込んだのと、学童用げた箱が燃え上がったのと一緒になって、高熱のため、かくも無残な白骨になったのではないかと私は思った。

 

 校庭へ出て、またまた驚いたことに、まるで魚河岸に並んでいるマグロのように校庭いっぱいの死体。プールから地下室から、窒息死した人を運んで来たのか、人、人、人。このように、行く先々で死体の山を見せられると、兄は、姉は、初めて生か死かと、心配がつのってきた。

 

 学校の一室で近くのお医者さん、茂木先生が目を洗ってくれていたので、その列に続き目を洗ってもらうと、横から、「おじさん」と父を呼ぶ声。見ると、家から3軒目の津島鉄工所の娘さん2人。「お母さんが今死んだの」横になっている人は、津島さんのおばさん。焼けた様子もない。

 

 父はその家のご主人とは飲み友達、毎日のように家へ遊びに来ていた。12月8日開戦の朝も、家へ飛び込んでくるなり、「たいへんだ。アメリカとイギリスと戦争始めたよ」と聞かされ、私も子供心に、それはたいへんなことになったと、横で聞いていて驚いた記憶がある。

 

 そのおじさんも死んだとか、そしてここまで来て、母が息を引き取ったとか、2人してぼろぼろ涙を落として父に話す。父も気のどくがっていたがどうするすべもなく、「力を落とさないでね」と言うしかほかに方法はなかった。母も涙を流して、お互いに力を落とさないでがんばりましょうとしか声を掛けられず、その場に後ろ髪を引かれる思いで別れを告げた。

 

 後の話になるが隣組の組長であった父は、11軒で36名もの人が亡くなったので、1軒1本ずつ卒塔婆(そとば)を、戦後、家の北側の空地に、坊さんに頼み、四年ほど立てて霊を祭った。その娘さんも毎年3月10日にはお参りに来てくれた。

 

火傷で変わり果てた姿

 

家の焼跡で亡くなった身内を火葬する家族(1945年4月、豊島区西巣鴨)

 さて、学校を出て、右が小名木川にかかる大富橋、欄干は金属不足の折りから、供出ではずされ、そのころは鉄砲の弾にでも成ってしまったか。橋を渡ると白河町、この橋の左側植込みの所で、二度と見られない光景にぶつかった。30歳ほどの女の人が、子供を背負い、焼跡から集めた黒い材木で、初めは寒さをしのぐため、ひとりたき火でもしているものと思った。しかし、よく見ると、なんと顔中涙にむせびながら、一つの遺体を火葬にしているではないか。何のために、夫かだれか知らないが、錯乱状態の中にも自然とこのような行動になったのか、骨にして自分の墓地へ納めるつもりなのか。

 

 27回忌にもなった現在でも、その場の光景が第一にありありと脳裏に浮かぶ。

 

 引き返して今度は高橋国民学校の前、墨田工業学校へ行った。兄を捜しつつ、どこかで大火傷でもして、動けずにいるのではないか、などと考え、墨田工業学校へ入って、ああ、世は無情なものと思った。

 

 玄関を入って、左側の焼失を免れて残った部屋に、数人の不安な顔、顔が、落ち着かないそぶりで休んでいる。

 

 私たち親子も、学校内を一巡してから、その部屋で重い身体を数時間休んだろうか。その間にも出入りが忙しく、身内の安否を気づかう人びとが、部屋にいる人の顔をのぞき込んでは出て行く。

 

 また、身も心も疲労しつくし休んでゆく人。昨夜の体験をば語り合う人びと。だれもが、これから先の方針も立たず、ただ悩む心がお互いの会話になる。食糧の配給は、毛布は。電車は、汽車は、どこまで動いているか。今夜の仮寝の宿は。両親が死んだ。弟が死んだ。家族全員無事だったという人は、ほとんどここでも聞かれなかった。またいろいろなデマも一緒に流れ飛んだ。

 

 壁につかまり、やっとの思いで部屋に入ってくる女の人がいた。火傷のため死んだ人も多数見てきたが、現在生きていて、こんなにもひどい大火傷は、また後にも先にも、私は見なかった。顔全体皮がはげて、赤くただれ、脂汗のような水玉におおわれ、黒くよごれ、頭の毛は燃えちぢれて、ふた目と見られない顔、入って来たとき、一瞬ぎくりとして、背筋に冷たいものが走った。

 

 生けるしかばねと言っても過言ではない姿に、気のどくだが思わず顔をそむけてしまった。でもまだ少し目が見えるとみえ、部屋中あちこち眺めていたが、父の顔を見つけると、近づいて話し掛けてきた。

 

 「おじさん、私だれだかわかるかい」父が首を横に振ると「こんなひどい火傷になってしまって、わからないだろうね。私は、お宅の前を入った通りの、一つ目の左角の、牛乳屋のおかみさんだよ。苦しくて、苦しくて、目も良く見えないんだよ」父と力ない声で、ぼそぼそ話し合っていたが、薬もなく、医者もいない焼跡では、ただ死を待つ姿としか私の目には映らなかった。もし鏡があって自分の顔を眺めたら、狂ってしまうのではないか、今考えてみても本当にお気のどくに。

 

 人びとの情報によると、焼け残った毛利国民学校がこのあたりの避難場所とのこと。もう一度家の焼跡を見回ってから、出掛けようと、墨田工業学校を出た。

 

非人道的な遺体の回収

 

 肌をさす北風に、赤くひん曲がったトタン板が吹かれ、バタバタバタバタ、荒涼とした人影もまばらな街の、悲しいメロディとなって、流れてゆく。

 

 家の焼跡へ戻ってみても、やはり兄も、姉も、帰った様子はない。ただ、近所の家の跡に、立て札が増えた。『○○家全員無事』『○○町○○家へ避難』『○○心配して来た。無事なら知らせ』『○○家○○、○○、二人だけ無事』など。

 

 隣の桜岡さんが帰っていた。歩道を掘って造った防空壕に、ふとんなどを入れて、入口に十分土をかぶせて避難したとかで、中の品品は全部焼けずにすんだと、防空壕の入口の土を取りのぞいて、ふたをあけたところだった。熱いうちにあけると、パッと火が付くから、今まであけずにいたと話しながら……。

 

 「私も一人だけになってしまいましたよ」と、涙声で、奥さんと子供が炎に包まれ焼け死んだ昨夜の悲しい物語り。幼いころから聞きなれていた、バッタン、バッタン、印刷屋だった隣の単調なリズムも、きょうからは、二度と聞かれなくなった。

 

 炎が、下町の何もかもを一夜にして大きく、最悪に変容させてしまったのだ。

 

 新小岩に、叔母(母の妹)の家があるので、避難場所としてそこの住所、氏名を書き入れ、焼跡へと父が立てた。

 

 桜岡さんの郷里は北海道なのでさしあたって行く所もなく、4、5日は壕にいるからと言うので、あとを頼み、はや、日も西へ傾きかけた家の跡を去って、毛利国民学校へと足をはこんだ。

 

 猿江橋を渡ると、かどは無残な姿で骨組みだけ残って立っている扇橋警察署。どこへ行っても、真黒焦げの遺体はごろごろしているが、警察署の前にあった防火用水に入っていた母子2人は、上は真黒焦げ、下の水につかっている部分は、衣類までそのままな姿。子供を最後まで火からかばう姿が、私の脳裏から未だに離れない。見ても聞いても、あとからあとから、地獄絵図を地でいく光景は、とうていペンでは書き表すことができない。

 

 悲惨な光景と、そして異臭。

 

 こんな場所へ逃げなくても、いくらも早く逃げれば、安全な所へ逃げられそうなものなのにと、戦災の経験のない方は、きっと考えることだろう。現に、私も、父から何度となく聞かされた関東大震災の話。早く逃げないから焼け死んだのだろうと、子供心に思いながら聞いた記憶がある。

 

川の中に堆積した遺体の回収作業(1945年3月10日、墨田区菊川橋付近)

 そのかどを曲がって、菊川橋の通りへと出た。

 

 墨田工業学校にいた折り、菊川橋は、死体の山で、憲兵が非常線を張って通さないと聞かされてきたが、現実に今、目の前に背丈ほどに積み重なった、真黒な遺体の山また山で橋全体が覆われているのを見たときには、身体中の血の気がすうっと一度に消え、歯が、がたがた上下合わず、小きざみに鳴っていた。

 

 真偽のほどはわからないが、この先の猿江恩賜公園へと避難する人びとを、関東大震災の被服廠跡の二の舞を恐れてか、住吉町交差点あたりでストップさせたので、再び、菊川橋へと引き返し、この見るも無惨な遺体の山となってしまったとか。

 

 橋の上で、川の中で、1000人いや、2000人もの人びとが死んでしまったと、戦後、町のうわさであった。おそらく東京で一番死者の多数出た場所ではないだろうか。

 

 その後、新小岩の叔母の家から、自転車で、兄、姉の遺体を捜しに、毎日のように焼跡へと来たが、ある日、この橋のたもとで、兵隊が数名、トビ口で、川の中の死体を引っ掛けていた。垂直の岸へ、ずるずる上げながら、中には途中でトビ口からはずれ、川の中へ水しぶきも高く落ちる遺体。また2人して引っ掛け、ずるずると引き上げてゆく。やっと岸へ上げると、今度はトラックの上へ2人して遺体をブスブスと引っ掛け合って、一、二、三、四、と弾みをつけほうり上げる。

 

 ぐしゃぐしゃ。その都度、鈍い音がして、軍のトラックの上は、焼死体、水死体でいっぱいになってゆく。

 

 私も、兄は姉はと、父と一緒に捜していた折りなので、2人して、しばらくそのあまりにもむごい非人道的な遺体のあとかたづけに憤りを感ぜずにはいられなかった。

 

 所と場所は変わっても、私の経験した苦しみの末、川の中で、道路で、また橋の上で、何の罪もない老若男女が、日本の“必勝”という目的のために、人間としてぎりぎりの耐乏生活の末、銃後で戦い、大空襲を受け、一夜にして大惨事となって、10万もの人びとが死んだ、その後にこのような遺体の待遇を受けるとは。

 

 人手が少なすぎるからか、遺体の数があまりにも多すぎるからか、でも同じ日本人ではないか。遺体なら遺体らしく、収容する方法は、ほかにいくらでもあるのではないかと、胸を震わせ、握っていた手には、いつしか汗がにじみ出ていた。

 

すべてを失い流転の旅へ

 

焼跡をリヤカーで家財を運ぶ少年たち(1945年4月、東京)

 やっと毛利国民学校へたどり着いた。玄関の所に、どうやら力の限りここまでたどり着いたが、ここでひと安心して、一度に身体中の力が抜け、支えを失ってがっくりきたのか、数人の死体。精根かけてせっかくここまで来て、今呼吸を引き取ったという感じの姿で死んでいた。また虫の息の人もかなりいた。

 

 学校の中は四方から避難して来た人びとでごった返している。火傷で苦しむ声、家族を失った叫び、子供の泣き声。

 

 高橋5丁目は2階の一室と聞かされ、やっとその教室へ入り落ち着いた。町内の人が、50名ほどいた。知った顔もだいぶいて、ここでも恐怖の昨夜の話で持ちきりである。はや薄暗くなってきたが、むろん電気もつかず、ロウソクの明かりで、火傷だらけな、無気味な、黒い顔同士が、家族かたまって寒さに震えながら苦しむ声、子供の泣き声。

 

 夜に入って、やっと乾パンの配給が少々あった。外は石炭の山か、近くに赤い炎が暗い焼跡の中に一つ、きつね火のように無気味に燃え上がっていた。

 

 うめき声、泣き声の中にいつしか夜も深まり、いつか寝込んでしまったか、人びとの声にはっと気付き、目をあけたときはすでに明るくなっていた。昨日から、ろくな食べ物もなく、いつまでここにいてもきりがない。早く新小岩へ行こうと、朝になると父が急に急ぎだした。学校の一夜があまりにも悲惨であり、強烈な情景が見るに忍びなかったからであろうか、教室にいる近所の人びとと別れを告げ、ぐうぐうなる空の胃袋のまま、千葉街道を、子供3人失ったと思い込み、すっかり失望しきった母をかばいながら下って行った。

 

 錦糸町から亀戸へ入る橋の上から眺めると、避難する人びとの行列が、まるで一方通行の黒いアリの行列のようにどこまでも長く続いている。橋をくだると、現在でもあるが、左側へいの高い大きな工場の門の中で握り飯を配っていた。私たち親子も、その列に並び、入れる物もないのでとっさに私のかぶっていた鉄カブトを脱いで、その中へ3人分入れてもらった。たきたてで、白い湯気が立ってはいるものの、焦げ茶色をした玄米、塩味だけのそれは全然味気ないものではあったが、鉄カブトから取り出しては、歩きながら3人して食べた。その味は終生忘れ得ないほどおいしいものであった。

 

 亀戸ガード下にも、このあたりではめずらしく、幾重にも積み重なった、真黒な遺体が左側に見え、避難する人びとの涙をさそっていた。

 

 小松川橋の手前、ここで初めて焼けずに残った家並みを見ることができたのである。

 

 叔母の家に着いて、4月13日までいたが、その夜本郷地区(今の文京区)方面にまたもB29の大空襲があり、長い空襲で、西の空一面赤く染まってしまった。

 

 そのころの新小岩は、まだ駅前通り以外は、田も畠も多く、爆撃の目標になるものは大きな工場ぐらいなもので、本所、深川のような密集地帯ではなかった。そろそろ空襲も終わりに近づいたころ、運悪くも、一機のB29から投下した焼夷弾が直撃となって我が頭上めがけて落ちて来た。あの焼夷弾特有な、シャラ、シャラ、シャラという無気味な音に、隣組に一カ所空地に造った大きな防空壕へと飛び込んだ。この辺は30㌢も掘り下げると、水が出るほど低いので土盛りし隣組で全員入れるのを造ったのだ。数十秒して、それはものすごい爆発音が、思わず手を耳にあてがっていたが、鼓膜の奥まで強烈な響きとなって伝わってきた。

 

 焼夷弾にかような強い爆発力があるとは、また、直撃を受けたとは知らなかった。(初めの空襲のころは、筒から吹き出して燃え上がったらしいが、このころは、B29から投下した一個の焼夷弾が、途中、空中にて、36本かに分かれ〈六角で長さ1㍍ほどの筒〉、地上近くなると、また筒から細かく四散し、四方八方、4、50㌢に一カ所ほどの間隔で、べたり、べたり、油脂焼夷弾が燃えながら付着する)それは小型爆弾のようで、とても焼夷弾とは思えない爆発力である。

 

 防空壕の前にある家のガラス戸が全部、もんどりうって家の中へ吹き飛んでいくのを見たが、直撃を受けたとは、なかなか実感がわかなかった。音がやむと、はや防空壕の上も、道路も、田も、畠も、池の中までもが、油脂焼夷弾が燃え上がっている。

 

 防空壕を出るわずかの時間に、はや、近くの家々から炎が吹き出し始めているという、ものすごい火の回りの早さだ。直撃を受けた場所から道路についた油脂の炎をまたぎ、またぎ、無事脱出するのがやっとで、叔母の家も炎につつまれ、何一つ出すことすらできず、みるまに焼け落ちてしまったのである。

 

 幸い、火は広がらずにすんだが、細かく散った焼夷弾を浴びた家は、焼失してしまった。

 

 それから、小松川の父の親しい人の家で半月ほど、そして、知らぬ土地、群馬県へと……。戦災を受けた人びとがたどったであろう流転の旅が続き、母は終戦も知らず、7月、わずか3月10日から4カ月ほどしかたたず、群馬で死んだ。

 

 戦争は、平和だった私の家庭を、このような境遇に陥れてしまったのだ。

 

(1972年執筆)

 

猿江橋のたもとに建立された八百霊地蔵と墓誌(江東区森下5丁目町民有志建立)

〈追記〉遺族や住民の手で立てた八百霊地蔵(2014年の手記より)

 

 敗戦後、戦災を受けながらも助かった人々は、無論、家もなく、財産もなく、職業も家族も失い、まさに裸一貫、万一金があったとしても日本中に品物がない。東京を焼け出された私たち家族は、群馬県に疎開していたが仮住まい。父はその年(昭和20年)の12月、急に東京へ戻ると切り出した。私はそれは無謀とは思いもしたが、それしか打つ手はなかった。

 

 いまだほとんどの人が住んでいない焼跡、仕事もなく、したがって収入もなく、都電、バスもない生活も不自由とわかりつつも、長年住んでいた元の場所である焼跡へと戻った。

 

 やがて出来上がった家は、焼けトタン張りの掘立小屋、畳はムシロ。

 

 ちょうど1年ぶりの3月9日、出来上がった我が家は、さすがバラック、朝起きると忘れられない、3月というのにふとんの上は雪だらけ。それでも1年ぶりの我が家はやっぱり天国。やがて同じような境遇の人が、ポツリ、ポツリと焼トタンのバラックを建て少しずつ増え始めたころ。

 

 当時の高橋5丁目(昭和45年に森下5丁目に変更)の町会長は島田甚蔵という方で、戦時中は手広く鋳物工場を経営し、町会長になる前に自費で町の音楽隊をつくり、楽器、制服、先生の指導料まで自費でまかなっていた。その少年団が出征兵士を神社まで送り、武運長久を祈りに何度も行った。私も当時団員の一人だった。又、工場敷地内に町会会館までも造った人だから、この町会長なら、空襲が激しくなり、万一のためにと町会の重要な書類を防空壕へ保管していたとしても不思議ではない。空襲後も疎開せず、奥さんを空襲で亡くした後、一人になってからも防空壕に残り、時折相談に来る人の世話をしていた。このころのバラックの住人は空襲で家族を失い、その遺体すら解らず、頑張ると自分に言い聞かせつつも失望のどん底を味わっている人ばかり。

 

 ある日、町会長の掛け声で皆が集まり、高橋5丁目は1軒残らず焼失し、又全滅した家庭も多く、町のほとんどの人が誠に残念ながら亡くなってしまった、それを調べ出し、その霊を供養するのが同じ町に住んで生き残った我々の務めと、話を切り出し、全員賛成の下、いまだバラックが十数軒の時代に三回忌を目標に活動を始めた。

 

 第一に、島田会長が大事に防空壕の中へ保管していた何冊かの書類の中に、戦時中で空襲も激しさを増して来た時代、おそらく各家庭の家族構成を明記した書類もあり、それらを主体として皆で調べていき、亡くなった方々を割り出していったのではないか。とはいっても、町会全体の老人から幼児までを全員探し出すのは至難の業。それを協力し合い、ついに成し遂げた。

 

 そのとき犠牲者が想像をはるかに超え、誰もが驚いたことであろう。父もその折、協力者の一人だったので、私も懐かしく思い出す。

 

 調べ終わると、町会の庶務に頼んで過去帳に記入してもらい、それを表装して第一巻が出来上がった。猿江橋のたもとにお堂を建立し、そこへ納め、犠牲者が800名に近いので、八百霊(やおたま)地蔵尊と命名し、1947(昭和22)年3月10日、いまだ少なかった町内の人々が参加し、坊さんにもお願いして三回忌の法要が営まれた。それ以降、代々の町会長が代表者となって過去帳を預かり、八百霊地蔵尊を守り続けてきた。その間毎年、3月10日には必ず年会供養をし、最近では3月10日の前の日曜日におこなっている。(昭和32年には犠牲者名を記した過去帳第二巻を作成し、犠牲者数を773名と訂正した。)

 

 先の東京大空襲において、10万人という尊い方々が犠牲となられ、そのなかで一つの町会として、いち早く町会に住んでおられ亡くなった御霊を全員探し出し、70年もの長き歳月、変わることなく供養し続け、冥福を祈って守り続けている町会は他にないと思っている。これは町の誇りではないだろうか。

 

 今後とも町会として八百霊地蔵尊を守り続け、戦争のない、明るく平和な国であり続けるよう頑張っていこう。

 

編集部注:森下5丁目町会は戦後70年にあたる2015年3月9日、八百霊地蔵の隣に東京大空襲の町内犠牲者789名の名前を刻んだ墓誌〈碑〉を新たに建立した)

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