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要塞都市下関の痛恨の経験  現代に蘇る重要な教訓

 関門海峡を控え大陸の玄関口だった下関は、日清・日露戦争のときから、「戦略的要衝の地」「西日本における国防の拠点」として位置づけられた全国有数の要塞都市であり、当初は九州の重要な地点も掌握していた。69年前の第2次世界大戦の戦時下、要塞都市での市民生活と凄惨な空襲の体験は、当時を経験した人人のなかに今も鮮明な記憶として残っている。現在、下関で進む人工島を中心にした巨大道路をはじめとする不気味な都市改造は、その痛恨の経験を蘇らせ、「二度と軍事都市にしてはならない」との思いが語られている。
 
 重なる人工島軸の都市改造

 伊崎に住む80代の漁師の男性は、幼少の頃、子どもたち10人ほどで船をこいで、金比羅の下に魚釣りに行った経験を語る。そこには魚があふれるほどおり、みなで釣りを楽しんでいた。しかし、たくさん釣り上げた頃に突然、金比羅の山の上から「こらーっ!」と怒鳴られたという。呼ばれて要塞まで上がっていくと、役人のような人にさんざん説教されたうえに釣った魚を全部持っていかれてしまった。「子どもは知らなかったが、金比羅と老の山は要塞だったので、その下は漁をするのも、ゴカイ(魚のエサ)を浜でとるのも許可証が必要だった。金比羅の西の海岸では演習があり、そのときは一週間くらい漁ができなかった。要塞の近くでの漁は基本的に禁止されていたから、魚がたくさんいたのだ。みんなで“あれは兵隊の晩ご飯になったのだろう”と話した」と語った。
 別の80代の男性は、当時小月基地にいた「月光」という2人乗りの戦闘機をめぐって忘れられない経験があるという。「憲兵隊の下士官から、“B29を撃つには下から撃ちあげて死角を狙うしかない”と聞いたので、理髪店の知人に話した。理髪店の人がそのことをお客のひげを剃りながら話すと、そのお客が憲兵で、“なにをいうか、だれがいったのか”ということになり、私を捕まえることになった。だがちょうど私は徴兵で出征したところだった」。戦争から帰ってきて、理髪店の店主が1カ月間独房に入れられたこと、出てきてから体を痛めており、亡くなったことを聞いたのだという。「自分の話がきっかけでそうなったことを申し訳なく、忘れられない。当時はなにか話すとまわりに聞き耳を立てている者がいて、捕まえていく状況だった」と語った。
 「王江小学校の辺りに住んでいた。学校から海が見えていたが、“海を写してはいけない”“写真をとっている人がいたらすぐに教えなさい”といわれていた」(八〇代婦人)という経験も共通して語られている。
 いったい下関市はどんな町だったのだろうか。
 第2次大戦時、旧下関税務署の場所には下関要塞司令部が置かれ、隣接して下関陸軍病院(旧国立病院の場所)があり、金比羅、一里山、丸尾山、火の山、老の山、数珠山、戦場ヶ原、彦島田の首など、関門海峡や響灘を見下ろせる小高いところには、多数の砲台が設置されていた。なかでも戦場ヶ原砲台の地下室は800人収容できる大規模なもので、飲料水としての深い貯水所も備えていたという。
 満州事変以後には、潜水艦対策として蓋井島や大島、白島、沖の島、角島、六連島などの島々に砲台が新たにつくられた。
 椋野トンネル入口前の社会福祉センターや旧済生会病院、ハローワークの辺りには下関重砲兵連隊が置かれ、一帯は倉庫や火薬庫、医務室、兵舎などの関連施設が密集していた。
 また現在の梅光女学院・短大や下関体育館、陸上競技場、運動公園などのある広大な場所は大畑練兵場として軍が占拠。小月には第12飛行師団司令部を置く防空戦闘機隊、吉見には第七艦隊の主力である下関海軍防備隊が配置されており、西日本最大の要塞地帯だった。
 火の山や金比羅にあった高射砲が、米軍機に向けて撃つものの、まったく当たらなかったことも市民のなかで語り継がれている。

 全国から出征兵士集結 戦地への輸送港 

 下関には全国から出征していく兵士が集結し、市民の家に宿泊して満州や朝鮮、フィリピンやボルネオといった南方の島など戦地へと赴いていった。
 軍需品や食料をはじめとした重要な輸送港で、安岡の野菜もそのほとんどが大陸に送られていたと語られている。
 豊前田町に住む80代の婦人は、下関駅(細江町)で下車した兵隊が、船に乗るために休憩場所として豊前田の稲荷神社をつかっていたことを覚えているという。「いつも稲荷神社に1時間くらい兵隊さんがたむろして、戦地へと出て行っていた」。後でその兵隊たちはボルネオに行ったことがわかったが手紙を送ってくれた兵隊1人だけが生き残って日本に帰ってきたという。
 日和山には暁部隊がおり、一般市民は上がることができなかったが、その将校の奥さんたちを麓に住む人人が自宅に住まわせていたこと、吉見地区でも海軍の軍人たちを5、6人ずつ地域の人たちが住まわせていたことが語られている。名池小学校や下関高女(現・下関南高)、下商などの学校にも軍隊が駐屯した。

 三菱や神鋼は軍事工場 学徒動員で武器製造 

 80代の婦人は小学校を卒業後、阿部高女(早鞆高の前身)に通っていたが、2年目から学徒動員がかかった。神戸製鋼で飛行機の部品をつくっていたが、「軍事工場」といってはいけなかった。入口の兵隊に名前を見せなければ工場内に入れない厳重さ。汽車で学校に通っていた女学生たちはみな鳥居前にあった寮に強制的に入れられた。食事が粗末で、寮生は肺浸潤(結核の初期)になったり、病気があたりまえの状況だった。
 勤務は3交代で、朝六時出勤と、夜は8時出勤で朝の7時に帰るという過酷なもので、「どうしてもやめたい人は日赤の看護婦の試験を受けていた」という。戦争が終わり、8月20日に解散になったが、勉強もしていないうえに就職もなく、着るもの、食べるものもなくみな路頭に迷ったという。
 市内には三菱、神鋼という大きな軍事工場があり、出征した男手のかわりに、こうした学生や市民が動員されて軍事工場を担っていた。
 終戦の前年の昭和19年4月に国鉄幡生工場に入社した男性は、「技能養成所に通ったが、そこでは2時間は手榴弾を投げる練習と竹槍の訓練だった。あとは現場での仕事だが、幡生工場は戦闘機の補助タンクをつくっていた。なぜ補助タンクかというと突撃して死んでいくので片道の燃料だけでよかったからだ。この補助タンクを学徒動員の女学生がやり、部品は幡生工場でつくっていた。国鉄の本来の仕事はやらず、軍需工場そのものだったが、それは秘密でやられていた」と話していた。
 旧制中学の5年生で三菱に学徒動員で行った男性は、「萩の方からも含めて1800人の学徒が生産の主力を担って働いていた。第2工場では上陸用舟艇を12杯つくっていた。駆逐艦も入っていたし、商船に機銃を積む仕事もした。人間魚雷『回天』をクレーンで吊って沈ませているのも見た」と話す。
 すでに資材はなく、航空機の補助タンクはベニヤ板でつくっていたこと、門司の日本銀行にアルミでできた硬貨をとりに行って、溶鉱炉で溶かして飛行機の翼をつくっていたことなど、日本の敗戦を多くの市民が感じていたことが語られている。

 消防も軍事工場最優先 警察の指揮下で 

 下関消防署も昭和18年1月15日に下関警察署の指揮下に入った。当時勤務していた男性は「私は昭和19年から彦島出張所に勤務していたが、軍需工場である三菱重工を重点的に守れということだった。7月2日の空襲のときも三菱を守るために待機していたが、そこには焼夷弾はまったく落ちてこなかった。数十分待機するうち、見ると対岸の豊前田の盛り場辺りから火の手が上がり、大火事になっている。“豊前田の谷を消火してくれ”と連絡が入り、本村から旧橋を渡った」と語っている。
 田中町に住んでいた婦人は、下関空襲の前に田中川沿いの30軒が強制疎開になったさい、「警防団が集められ、夫も若手の一人として参加した。憲兵が“なんでここを疎開するかいうてみい。なにか大事なものがあるじゃろうが”と問いただしたそうだ。老人の一人が“裏町の芸者を守るためですか”と答えて、憲兵から“なにをとぼけたことをいうとるか。大事な通信網があるじゃろう”としぼられたことを聞いている。空襲を受ける前は一般の者にはそれほど身近には感じられなかったということだと思う」と話していた。

 大空襲で民家火の海に 関門海峡は機雷投下 

 こうして終戦間際を迎えた下関の町は、米軍の空襲によって焼き払われた。下関の戦争被害は、「中国地方では広島に次ぐ大きなものであった」(『下関市史』)。それは昭和20年6月と7月の2回の大きな空襲とともに、関門海峡への機雷投下によるものだった。
 米軍は「海上封鎖」と称して全国の湾岸に機雷を投下した。関門地域には3月27日夜B29 99機が来襲。機雷1000個を投下して以後、敗戦前日の8月14日までほぼ連日、昼夜の別なく投下した。全国に投下した機雷は日本全土で1万2000個だが、関門海峡にはその半数の5500個を投下した。
 「近所の人が陸・海軍の運送をしていて、徴用にとられたり、関釜連絡船に乗る人もいたが、魚雷に当たって死んでしまった。戦争末期にはドカーン、ドカーンと音が聞こえた。だれもが“また船がやられた”とわかるが、見に行くことはできない。相当な数がやられた」(90歳男性)。
 海峡には沈んだ船のマストが林立し、「船の墓場」と化した。少年航空兵の無惨な遺体が200体六連島に流れ着き、荼毘に付されたことも伝えられている。
 6月29日にはB29の大編隊が壇ノ浦上空にあらわれ、宮田町、唐戸町、東南部方面に焼夷弾を投下した。7月2日には豊前田から西細江、入江、丸山から東大坪、高尾、観音崎、南部、西ノ端、田中、園田、宮田各町など、彦島・新地をのぞく旧市内中心部が焼き尽くされた。
 米軍が燃えやすくするためにガソリンをまいてから焼夷弾を落としたこと、みるみるうちに火に包まれて、逃げまどったことを体験者は口口に語っている。焼夷弾が屋根を突き抜けて直撃して亡くなった人、岬之町では岩盤の防空壕の上が焼かれて、壕の中で市民が蒸し焼きで殺された。大正通りにある建物に逃げた市民が布団をかぶったまま、集団で死んでいるのも発見された。
 もっとも悲惨だったのは清和園で、空襲を逃れて高台に上った約80人が、折り重なるようにして犠牲になった。3日後に祖父を捜しに行った婦人は、「そこで見た惨状は本当に卒倒しそうだった。祖父はすでに息絶えていて、時計だけが動いていた。私たちがおじいさんと声をかけたとたん、祖父の鼻から血がどっと出た。まだ体から煮え血がたぎる音がしていた」と話した。
 下関空襲では、米軍が要塞司令部や重砲兵連隊、砲台も、三菱や神鋼などの軍需工場もいっさい爆撃せずに残したことが、軍隊が市民を守るのにまったく役に立たなかったこととあわせて語られている。
 関門海峡を控える下関が歴史的に軍事的要衝とされてきたかは、明治維新につながった四国連合艦隊の襲来による下関攘夷戦争、日清、日露戦争で下関がどのように位置づけられたか、また朝鮮戦争で米軍を助ける掃海艇の出撃基地となったことを見てもわかることである。
 ここ数年、「アジア重視戦略」を掲げるアメリカが下関を、有事にはいつでも使える重要港湾に指定。全国最初のテロ訓練がおこなわれたり、米軍艦船や自衛艦が頻繁に寄港したり、オスプレイを飛来させたり、天皇が来てまるで戦時体制かと思われるような警備体制がとられるなど戦時下を思い起こさせるような出来事が続いてきた。
 地元出身の安倍首相が中国や韓国と一触即発の状態を作り出すなかで、市街地を寂れさせる一方で、人工島を中心にした巨大道路建設が着着と進み、第二関門トンネルの建設が浮上している。今度はアメリカのための戦争に日本全土を総動員するうえで、下関の軍事的位置を高めようとするものである。それは、今度は下関をミサイルの火の海に投げ込むことも辞さない危険きわまりないものである。戦争体験者は戦時中の全経験と重ねて「絶対に戦争をくり返してはいけない」と語っている。69年前の痛恨の経験を下関の未来を担う子どもたちや現役世代に語り継ぎ現代に蘇らせることが求められている。

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