出席者
・重力 敬三 被爆者80代 ・佐々木忠孝 被爆者80代
・大下ユキミ 戦争体験者80代 ・田中 武司 被爆者70代
・竹村 信生 被爆者70代 ・高橋 栄子 被爆者70代
・真木 淳治 被爆者70代 ・犬塚 善五 『原爆と峠三吉の詩』原爆展を成功させる広島の会事務局50代
司会 本紙編集部(順不同)
広島では、2001年の旧日銀広島支店での原爆展を契機に、昨年は広島福屋八丁堀本店で広島市民原爆展が成功するなど峠三吉の原爆展運動が広がってきた。そのなかで広島の被爆市民が語りはじめたことは全国的にも大きな激励を与えた。とりわけ日本の自衛隊をイラクへ派兵し武力参戦に踏みこむなかで、広島を原点にして戦後社会を考えなおす動きが広がっている。新年にあたって、この運動にたずさわってきた広島の被爆者など八人に集まってもらい、その思いを語り合ってもらった。
原爆展の発展に確信 広島が動き始める
司会 今日世界と日本がふたたび原水爆戦争の戦場になりかねないなかで、広島のほんとうの声を全国に伝えることがひじょうに期待されている。この1年をふり返ったところからお願いしたい。
犬塚 昨年は、2月、3月にかけて三篠地域で原爆展をやり500人以上が参観し、6月の観音原爆展には地域の学校などをふくめ630人が見に来た。7月、8月には佐伯区民文化センターや廿日市四季ケ丘の公民館で原爆展をやった。また今年は被爆体験を語りつぐ活動も広がり、5月30日に山口県防府市の牟礼小学校6年生が来て9人の被爆者が語り、6月4日には宇部市の神原小学校6年生が来て6人の被爆者が語ってくれた。7月9日には翠町小学校3年生に6人の被爆者が語り、7月23日に府中町の若竹保育園で80人の園児を前に田中武司さんが体験を語った。
8月5日には広島に学ぶ小中高生平和の旅ではじめて語る人もふくめて28人の被爆者が200人近い子どもたちにみずからの体験を語り、これと並行して福屋デパートでの広島市民原爆展には7000人が参観し大盛況となった。その後も、下関市の吉見小学校6年生に6人の被爆者が体験を話し、11月の15、16日に広大医学部の霞祭で原爆展をおこなった。そのなかで多くの被爆者が語りはじめたことは大きな特徴だったと思う。
佐々木 広島でできたのだから呉でもできないかと思い、今年は呉原爆展を計画している。2月18日から2月22日までの5日間、呉駅前のそごう7階で開催の予定です。西保健所や教育委員会からも許可をもらい、市役所の市長にメッセージをもらい、呉の市政だよりに載せてもらおうと思う。
編集部 やはり広島の福屋でやったということと、峠三吉であれだけの市民が賛同したことは、山口県や全国的にもものすごい響きを持っている。報告集がひじょうに評判がよく、アンケートを見て「これが広島のほんとうの思いか」となっている。
大下 わたしの友だちでピカにあった人がいますが、体験を話してほしいといったら、「わたしらおうた者はまだ話できん」「おうた者でないとわからん」と断るんです。「たくさん福屋に来て被爆した人たちが話してくださったんだから……」というと「まだまだ心の整理がつかん」という。まだ近所にもいっぱいひどいけがをした人がいるし、話さないといけないことはあっても戦後の話せない雰囲気のなかで、話す場がなく閉じこもってしまっている。「いいたくない、まだいえない」というのを、自然に話そうとなるようにしなければと思う。
大学病院で原爆展があったときに、小学校のバザーに行って校長先生に原爆展を誘ったら「むずかしい問題ですよね」と積極的じゃなかった。学校の先生たちがもっと素直な気持ちで、広島でこんな残酷なことがあったと子どもたちに話してほしいですよ。
わたしたちも8月の原爆展まで手伝ったことはなかった。峠三吉さんの詩とか絵を見て、広島の人たちが語りつがないといけないと思ったんです。下関の人たちの熱意に感動しました。わたしは郵便局で働いていましたが、わたしらといっしょに働いた人はだれ1人先輩も後輩も生きていません。原爆ドームのところに行くといまでも涙が出ますよ。
子供達に伝えたい 「解放」でなかった原爆投下
司会 戦後ずっと語りにくい雰囲気、語りにくくさせているところから、広島の被爆市民が下から語りはじめたことは、大きな力になってきたと思います。
真木 わたしは昨年8月の福屋での原爆展にはじめて参加して、活動をはじめました。福屋で2回ほど体験を話し、下関の吉見小学校の6年生に話しました。その反響、子どもたちから頂いた感想文を読ませてもらって、わたし自身が「こういう活動をはじめてよかったな」とつくづく思います。下関の平和の旅を計画された先生たちのとりくみはひじょうにすばらしいと思います。広島の学校関係にもお願いして、運動をするべきじゃないかなと思う。そういう機会をもらえるように働きかけていくべきだと思います。
佐々木 わたしも呉の原友会の会員で語り部の実行委員をし、10年間ずっと語り部をしてきた。10年まえにわたしの卒業した小学校で話しをさせてもらったが、子どもは原爆というものをぜんぜん知らないし、親から聞いたこともないんです。しかし涙流しながら聞いてくれ、わたしも涙が出てきた。いまの人はほんとうの痛みがわからない。少しやけどしただけでもうずくが、身体半分を焼かれて苦しくて痛くてのたうち回った。そういうことは話さないとわからないと思う。
大下 8月6日に小泉さんが来られたときに、あの人をひっつかんで、ほんとうの悲惨な原爆体験を話してやればよかったね。あの人は知らんのだから。
真木 イラクの問題でも小泉の息子をイラクに派遣したらどうかと思う。
全員 ほんとうにそうですよ。
佐々木 わたしが考えているのはいまの代議士の息子全部を3カ月くらい訓練してイラクへ行けといいたい。日本がなんのために派遣するのか。アメリカの尻馬に乗って手伝えば石油の利権が回ってくるくらいなものだ。
大下 日本はアメリカのポチだから。
重力 あまり国益をいわないですよね。
田中 ほんとうの痛みがわからないんですね。わたしが経験したように、観光に来られた人が「広島は原爆は落ちた。ひじょうに気の毒だが平和が早く来てよかった」という。「あなたのお子さんが瓦礫に足を挟まれて生きながらにして焼け死んで原爆はよかったと思いますか」というと、後で断りをいいにこられた。それと同じだと思う。2人の日本人が死んで、これが小泉さんの家族であった場合、はたして「テロに屈しない、まだやります」というかどうかです。
原爆体験を語るときは、「なぜ原爆を落としたのだろうか、なぜアメリカが落とす必要があったのか」と話す。原爆は、生まれたばかりの赤ちゃんや病院のベッドに寝ている老人まで民間人を無差別で殺している。若い者は、南京虐殺とか日本も悪いことしたから原爆を落とされたのはしかたないじゃないかという。それは考え違いではないかと思う。アメリカは自分の立場をよくするために「日本が侵略したんだ」といって原爆を正当化している。
イラクの戦争でも「大量破壊兵器を持っているから、阻止するためにやった」という。ところがない。今度は解放したという。そんなばかな話はない。イラクで戦争終結宣言したのは大統領が終結宣言しただけで、ゲリラ戦になっただけだ。そこに行くということは戦地に行くということで、明らかに憲法違反だ。日本は同盟国だからしょうがないという。同盟国なら同盟国らしく自分の意見をハッキリいうべきではないのか。アメリカが戦費がいるからカネを出し、兵隊を出せといわれ出すではどうかと思う。
見せしめにして占領 再び侵略戦争に動員
編集部 国際貢献というときの「国際」というのはアメリカしかいない。これはアジアとかアラブとはケンカして孤立する道でしかない。「原爆を落とされて平和になったからよかったではないか、おまえたちは悪いことしたから落とされたんだぞ、ありがたく思え、原爆を受けた人には気の毒だが、みんなが助かったんだ」という原爆の正当化からはじまっている。
田中 そうなんです。「助けてやったんだぞ」というのが、むこう側の主張だ。
佐々木 わたしは内地勤務で広島の野砲隊にいた。それから召集で3日目に東京の教育隊に送られた。東京はB29が毎日のように50機、80機と来て、焼夷弾を落としていく。夜も完全軍装して寝台のうえに寝転げているだけ、空襲があると下から高射砲を撃つが1つもあたらない。途中でみな破裂するだけだった。ばからしい戦争だった。
東京空襲は、5カ月間爆撃を受けて11万5000人が死んだ。広島はたった1発で22万人くらい死んだ。沖縄でも3カ月間たたかって20万人が死んだ。原爆がいかに残虐無比な殺傷力のある兵器かがわかる。勝てば官軍、負ければ賊軍で、アメリカが戦勝国で日本が「悪い」ばかりいっている。アメリカの方がはるかに悪いことをしている。日本は降伏するのはわかっていて、原爆を落として見せしめにした。
わたしは国鉄博多駅の通信区に電気高等学校を出てから採用された。1、2日働いたら徴用令が出て「呉海軍工廠の電気部通信機工へ出頭せよ」と書いている。県庁で「わたしは行きません」といったら、「おまえは拒否するんか」というから「拒否します」といったら「おまえはこの手紙を受けとったときから海軍の軍属だから軍の軍法会議にかけられて牢屋に入れられる」といわれ、家族や親族が村八分にされるということで、泣く泣く柳行李で行った。全部国の命令でやられてきた。人生をかえさせられ、最後は原爆でカタワになったんです。
大下 なににしても政府のやり方は無責任です。南方の島などで玉砕してドクロなど骨がいまでも散らばっているという。アッツ島やソロモン島など、日本政府はなにもせずに、風化させている。戦死した人の家族はなにも帰ってこない、ただ白木の箱が帰ってきただけだった。南京大虐殺の平蔵孔にも行きましたが、高い20㍍の塀のなかで何百人という中国人が入れられて、日本兵が殺したことを知った。胸が痛かった。これだけの広いところでどれだけの人が殺されたのかなと思いましたよ。
田中 日中戦争は前線兵士が攻撃するとむこうは逃げる、そのあとを守備する兵隊がいて、あとは地元の百姓の格好をした中国人に補給部隊を攻撃され、連絡がとれなくなり、孤立していった。現地では兵隊か百姓かわかりはしないんです。
編集部 いまのイラクも同じでしょう。民衆と兵隊の区別はなく、占領当局に雇っているイラク人もスパイがたくさんいるわけで、とても太刀打ちできない。民衆が全部敵になる。よその国を攻めて分捕ろうということはむりなことだ。
大下 いまのイラクはベトナムのときと似ているみたいですね。
田中 上海などはイギリスとアメリカと日本が統治していた。アメリカの自治区の公園に行くと「中国人と犬はいるべからず」と書いている。中国人が犬と同じだ。そうやっておきながら日本が侵略したという。当時ロシアも太平洋に出て行こうと思えば、日本をとおらないといけなかった。だから日本がほしかった。アメリカも日本がほしかった。日本を飼い犬にしておけばロシアも出てこれないし、太平洋は自分のもの。そういう戦略があるから日本を抑えておきたかった。それを「日本が戦争したんだ」といって自分たちを正当化していまにいたっている。
大下 ソ連が来て、急いで原爆を落としてアメリカ一国が日本を采配しようと思って原爆を早めたといっていた。
今こそ体験の継承を 抑圧してきた親米潮流
編集部 ドイツはアメリカに文句をいい、イラクに軍隊をやらないという。日本はアメリカ単独で占領され、ドイツは何カ国かが占領したが、いまになってものをいうのはドイツだ。ここまできてみんなが「戦後58年たって、アメリカのおかげでひどい世の中になってきた」と語りはじめている。広島のみなさんが語りはじめたのが大きな役割をはたしている。
大下 声を上げられないようにマッカーサーらがやった。学校の先生でも情けないなと思う。
田中 学校の校長先生が危惧(ぐ)していることは原爆展をやることで政治問題が入ってこないかどうか心配している。
佐々木 あるとき、社会党の青年部で語り部をやり、「わたしは原爆でカタワになった」といったら、「佐々木さんちょっと待ってください。カタワといったでしょう。あれは差別語ですよ、今後語り部で使わないでください」と注意された。
大下 わたしも同じような経験がある。縫い物をやるんですが、いつか瞽女(ごぜ)さんで100歳近い人がテレビに出られた。小さいころから盲(めくら)で、5歳のときに瞽女さんの師匠のところに預けられたという。盲なのに糸をとおして着物を縫われると聞いて、わたしは目が見えるのだから瞽女さんに見習って気合いをもらってやったら絹針に糸がとおる。その話をしたら、「あんたメクラいうことをいいなさんな、差別語じゃけん」といわれビックリした。
田中 わたしもあるとき「不良をPTAの球技会に入れてやり、みんなで朗らかにやってひじょうに効果がありました」と話すと、「不良といったら差別語ですよ」といわれた。それを聞いたから「ならあなたどう説明しますか」というと、説明できやしません。善と悪があってはじめて話しがすすむ。「いい子といい子がいっしょにやっていい子になった」では話しにならない。
編集部 言葉の制限だけでも被爆体験が語りにくいですよね。
大下 昔の言葉の方がみんなにスーッと入りやすいじゃないですか。「視覚障害」「聴覚障害」といってもわかりにくいけど、「盲さん」「つんぼの人」といえばわかりやすいじゃないですか。なんで差別用語にしたんですか。
竹村 わたしは旧日銀から2年間お手伝いさせてもらっている。なぜ下関の人が来て広島でやるのだろうかと思っていた。わたしも語り部をしたりして、そこそこに動いていた。それ以来のおつき合いで、そして2年たって10月5日に会則ができたりして、今後広島の会として、いかにして会員をふやすか、身近なところから広げていこうと思う。
最近、被爆当時かよっていた学校の500人以上いる犠牲者の記録を残し、原爆がいかにひどいものであるかを伝えられないかと考え、遺族の所在を突き止めることからはじまり、電話で聞きとり調査をしてきた。「いつ亡くなられたか」「そのときの状況はどうですか」と自分も数少ない生き残りとして、被爆者だということをいって、当時の状況を聞いていく。わたしは少なくとも反発があると思っていた。しかし兄弟の人たちがすぐに答えてくれ、後で連絡してくれる人もいる。みんな気持ちよく話してくれるし、その温かい対応に後押しされているんです。
1つの例として、電話すると兄弟がおられた。山口県の平生町に弟がいるということだった。弟さんは、話を聞いたら「広島のことは忘れた」といい、原爆のことを忘れるために山口県の平生に行って高校の先生をしていたという。わたしが資料を送ったら、「自分の考え方が違っていた。原爆のことから避けていた。教えてもらって改めて広島に行って弟が亡くなったところを歩いて、これからそういうことにたいしてとりくんでいきたい」と手紙がきた。みんなそういうふうな思いがあるのかと思い、そういう人人をどう掘り起こすかだと思った。
最近、学校でも「原爆が落ちても当然だ」というような教育がされていると聞いてびっくりした。先生が平和教育どころではない、原爆が落とされて平和があるんだというような教育をしている。やはり平和運動、原爆の話をして戦争をしてはならないことを伝えないといけない。命のたいせつさ、平和を残していく活動を生き残りとしてやらないといけないとつくづく思う。しかし原爆の問題を政治に使ってほしくない。それで語り部もやめたんです。
編集部 戦後アメリカは何度か原爆を使おうとした。朝鮮戦争でもベトナムでも、キューバ危機でも。しかしアメリカの原爆使用を押しとどめてきた力があったと思う。
竹村 アメリカも恐ろしさを知っているんじゃないですか。しかしエノラゲイ号を展示するスミソニアンでも、原爆の被害を展示することをいっさい拒否している。
戦争をなくすことを目標に
佐々木 原爆もロシアとアメリカだけが持っていたのが、保有国がふえていっている。しかしアメリカもベトナムやイラクに行って原爆を使うと世界から排斥されて孤立することを恐れてきた。いまからの時代は、戦争をしないことを目標にしなければならない。そのために子どもの教育では愛国心を育てることだと思う。わたしらの時代の愛国心は「戦争で天皇陛下のために死ぬることを名誉とする」ことが愛国心だったが、いまからの愛国心は、戦争をしないための行動をする「愛国心」が必要だと思う。日本はとくに近隣の中国や北朝鮮や韓国と仲良くし、敵対行為をしないようにすることだ。
真木 アメリカはブッシュが大統領のときは戦争する傾向に走りがちだから、つぎの大統領選では落ちるんじゃないんですか。ひじょうに過激ですからね。
竹村 アメリカは小型核兵器の開発をはじめたが、まかりまちがえば使うということだ。アメリカは日本を抑えこんで、原爆一号といわれた吉川さんの写真や原爆展にあるようなものはかくしている。敗戦国だから慰霊碑でも学校の校庭の片隅に追いやられていた。それほど進駐軍が幅をきかせていた。
佐々木 広島の原爆運動が低調なのは、被団協が7つも8つもあって勢力争いばかりをやっているからだ。地方で原爆展なんかまったくやらない。費用がないから運動ができないという。
純粋な運動広げる 峠三吉の時期の様に
編集部 50年の峠三吉さんらが最初にやったころは進駐軍に反対すると命令違反で沖縄送りだったという。峠三吉さんの時期は自分たちが占領軍につかまっても、やるという姿勢だった。しかし労働組合など幹部の多くは、運動が起こるとカネか出世のために利用する。福屋原爆展で集まった人人は、純粋にみんなのためにやるというのが合言葉だった。
共産党は戦後アメリカを「解放軍」とみていた。アメリカのおかげで解放してもらったといい、原爆反対ではなかった。峠三吉さんたちが1950年に占領軍とたたかったときは、原爆反対を弾圧する側だった。社会党は占領軍がつくったようなもので、どちらにしても根がアメリカファンだ。峠三吉さんたちはそこが根本的に違っていた。
竹村 平和公園で座りこみをしているが、行く人はいつも決まっているし、「自分たちがやった」というだけの自己満足にしかならない。
佐々木 ああいうことをやるより、東京に行って2、3万人集めてデモ行進したらいい。それが一番効果があるのではないか。
編集部 峠三吉の原爆展を福屋でやって、その内容が広島市民の心に響いた。広島市民のなかで峠三吉の詩があまりに知られていなかった。共産党や社会党がほんとうに熱心だったら50年もやっていれば峠三吉の詩が広がってないとおかしい。
大下 (峠さんが)純粋すぎるからでしょう。
竹村 長周新聞さんが峠三吉をやりはじめて、今年の平和式典で峠さんの詩を読んだのははじめてですよ。峠さんの詩はみんなに訴えるものがある。
大下 あの朗読はよかったですよ。聞いている人はみんな感銘を受けていました。
竹村 最近、ある人から電話があった。結婚するまえに手をやけどしたことを聞かれ、子どものときにやけどしたと話していた。それで何十年もたってから子どもが大学に行くころになって「もういいだろう」と思って少し話したら、「うちに原爆の子どもを産ませた」といって離婚したという。差別的なことは他県の方がひどいみたいですね。
真木 広島でもだいぶんいわれました。結婚するときに原爆を受けたことをいい、心配しましたがさいわいなにもなかった。
佐々木 わたしも子どもが結婚するまでいわなかった。その手はどうしたんかといわれ、やけどしたといってのがれていた。子どもが結婚してはじめて表に出てきた。そうしないと奇形児が生まれるといわれていたから。子どもが生まれるたびに五体満足かどうか、大きくなれば知能程度がどれくらいかということも心配した。
世界平和めざし全国へ発信
司会 広島から全国にむけて平和の力を強めていくための抱負をお願いします。
大下 わたしは被爆者ではないけど老骨にむち打って出て行こうと思います。
高橋 わたしもみなさんのあとについてやってきた。人からは「そんなのやめなさい」といわれますが、自分を励ましながら、これからもできるかぎり手伝いたいと思います。
真木 広島の学校でとりくんでいけるように、原爆展ができるように地区の学校でお願いできればと思います。
竹村 会も発足し今年はこの会を充実させていく年だと思う。原爆展もやり、会も本格的に起動にのせていきたい。
佐々木 子どもに徹底して教育するために原爆展を広い範囲でやってもらいたい。世界が仲良くやってほしい。
犬塚 廿日市と呉の原爆展を成功させ、今後地域でも広げて、県内でも広げていきたい。
田中 なにをどう伝えればわかってもらえるか悩んでいます。これからも悩むと思いますがよろしくお願いします。
司会 どうもありがとうございました。