いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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原爆展キャラバン隊座談会 初めて北海道でも開催

今年2月に行動を開始した原爆展全国キャラバン隊の第1班が6月北海道行動を終えて山口県に帰ってきた。広島、長崎の原爆投下の真実を日本全国へ伝え、日本列島に渦巻く平和擁護の国民世論を喚起して、戦争に立ちむかう力を結集していくことを目的に結成されてから、5カ月間の行動を展開してきた。1班・2班の全行動で「原爆と峠三吉の詩」パネル冊子はあわせて2300冊、原爆詩集は570冊が全国の人人の手に広がった。また、カンパは総額130万円にのぼり、大きな支持と期待が寄せられた。北海道から帰ってきた第1班のメンバー(劇団はぐるま座団員)四人に集まってもらい、活動の概況と教訓を語り合った。(司会・本紙編集局)   

 どこも市民が歓迎 場所提供の協力も
 司会 まず概況からお願いします。
  今回は北海道で9日間やったのち、青森県、新潟県、長野県、山梨県と下っていった。新聞紙面に掲載された原爆展の写真を見てもわかるように、北海道の人人はものすごく表情が真剣だった。裏側まで回ってじっくりとパネルをよく見ていた。札幌では大通り公園でやったが、市の公園管理の職員がやって来て「これはいいことだ。しかし許可をとってほしい」と工面して許可を出してくれ、3日間場所も安定してやることができた。地元ではちょうど“よさこいソーラン”という祭りがあって大騒ぎになっていた。祭りを主催する委員会が公園を会場として借りていたが、組織委員長が「こういう趣旨ならどうぞ使ってください」と快諾してくれて許可がおりた。3日間ということもあって、人が人を呼んで参観者が日増しにふえていった。
 新潟でも公園でやっていたら市の管理人がやってきた。そしてパネルの内容を見て「これは偏ってない」といっていた。選挙の間近で心配もしていたのだろうが、上司に連絡して「これは全然偏ってないですし、営利目的でもないです。やって大丈夫と思います」と報告、協力的に対応してくれた。
 B どこもそうだった。小樽では小樽商店街が全面的に協力してくれた。商店街のどまんなかに置かせてもらった。どこへ行っても市民が歓迎してくれた。旭川でも函館でも「はじめて見る」「はじめて知った」「これほどとは……」という人が圧倒的に多かった。原爆についてはほとんど知られていないから衝撃も大きかったようだ。小樽では戦争体験を聞くと、空が真暗になるくらいグラマンが爆撃に来たとか、青函連絡船が攻撃されて火がついたまま港に入ってきたとか、漁師が艦載機にやられたとか出されていた。室蘭は艦砲射撃をやられていた。しかし本土に比べれば直接にアメリカから爆撃を受けたといったような経験は少なかった。むしろ、樺太からの引揚者が多かったり、聞いた話では兵隊の経験を持っている人はまず満州に送られて、寒いところから40㌔の背嚢(のう)を背負ってその後沖縄に送られたという話もあった。沖縄で切りこみ部隊240人が全滅して4人しか帰ってこなかったといわれた。

 自衛隊家族の思い切実
  いま北海道は自衛隊がイラクに行く出撃基地になっているが、一番多いのは名寄市の部隊からだといわれた。帯広からも行っているし、旭川からも行っている。そしていったん帰ってきているようだ。家族の話では「無事に帰ってきてよかったが、今度多国籍軍で行ったら危ないのではないか……」と話していた。戦争が身近に迫った問題としてあった。イラク戦争に小泉がアメリカ追随でいいなりになって参戦することにたいして思いが語られていたし、第2次大戦と原爆投下を重ねて思いが語られていった。
 D 北海道だから拉致問題なんかが出るかなと思っていた。旭川などは商店街の放送で“北方領土は日本の領土です”という内容が1日中流れているようなところだったが、市民のなかからは意見は出てこなかった。むしろ「アメリカにどこまでついていくのか」という全国共通の問題意識が出されていた。そして「こういう勢力がいたのか」という驚きが出されていた。
  原爆展はかなり大きい衝撃だった。関心が高かったし、原爆といっても見たことがない。北海道は自衛隊の派遣基地ということもあるが、戦前から兵隊の駐屯地で、戦後は極東共産圏からの警備ということで強化されてきた経緯がある。小樽では最近は港が軍港のように好き勝手に使われているといわれた。また、沖縄の米軍部隊が矢臼別に移転する問題が危惧(ぐ)されていた。「これからは北海道が米軍の街にされてしまう」と語られていた。自衛隊がイラク戦争に派遣されていることで一段階画している緊迫感があったし、心配する声は年配者に多かった。「つぎは徴兵制ではないか」というのもかなり出た。時代がここまできて「どうしたらいいのか」「どうして日本はこんなになってしまったのか」という意見が出された。イラクで人質になった人の友人もいた。イラクに派遣された自衛隊員の家族もいた。
 司会 北海道まで行くと、ほんとうに原爆を知らなかったということがわかった。戦後60年にして多くの人が知ったわけだ。
  言葉にならなくて絶句する人、見ながら泣いている人なんかがたくさんいた。なんのために落とされたかということもはじめて明らかにされるわけだ。広島までわざわざ行く機会もないし、ほんとうに歓迎された。また今回の行動では、「広島の元安川で見ました」「井の頭に住んでいる友人からパネル集をもらった」という人がいた。あちこちの原爆展ですでに見た人が出てくるし、偶然にしてもあの広いなかで出会うわけだから、かなり影響も広がっているし、原爆展は日本の政治に影響を与えていると思う。パネル冊子を買い求めた人たちも有効に利用されると思う。
  
 黒山の人見て衝撃 展望を求める人たち
 C 既存の運動勢力がまだ幅を利かせているのかなという印象も受けた。歴史的には北海道は社民系知事が出ていたような地域だが、「戦争反対」とか「平和運動」というものへの不信や反発が結構あった。年寄りは「ついていけない」といっていた。しかし全般としては「日共」修正主義集団や社民勢力の陰は薄かった。既存勢力への反発が大きく本物の世論はその外側に渦巻いている感じだった。だから「どういう団体なのか」とすごく聞かれた。「こんな団体はなかったはずだ」とか「どうして下関なんですか?」という関心は高かった。
 編集局 下関、山口県から広島に乗りこんだとき、まず「何者か?」「禁協なら出ていけ!」といわれ、そこからはじまった。近年とりくんでいくなかで、今年の原爆展や原水禁集会の準備過程ではそのような意見は出てこなくなった。自分たちの原爆展運動として市民のなかでとりくみがすすむようになった。
 B 北海道の日教組大会と遭遇したとき、あちらは右翼に囲まれてワーワーやられていたが、こっちでは黒山の人だかりができていたのが印象的だった。アメリカに謝罪を求めるという内容でみんなが論議しているわけだ。右翼の方は目の前で原爆展をやっていることもあって「広島・長崎を日本人は忘れてはいけない!」みたいなことまでいっていた。文句のつけようがないわけだ。修正主義が「イラク戦争反対」といっている前でも右翼の街宣車が来て、なにをいっているのかわからないくらいケチョンケチョンにやっていた。
 A わたしたちの宿や行動全般を世話してくれたのは古くから日教組で活動してきた退職教師のかたがただった。運動の展望を求めてどうにかならないか模索していた。はじめ「札幌では(街頭原爆展は)できないよ」と苦笑していたが、札幌駅前で追い出されたときにすごく心配して、つぎに大通り公園に移動しようとすると「わたしが行くまで待っていてくれ」といわれた。しかし到着するとすでに黒山の人だかりができていて、衝撃だったようだ。その後札幌から苫小牧の行動まで奥さんといっしょに見に来てくれた。大通り公園でできたということと、人がたくさん見るということ、支持されるということ、大衆のなかに力があるということへの喜びだった。先生とは戦後日本をどう見るかという論議にもなった。
 D 北海道教組の定期大会は右翼が騒いでイジメていたのだが、その先生たちが何人かこちらの街頭原爆展を見に来て驚いていた。「これはぼくたちもやってみようよ」といって、どうやってユニットをつくったらよいのかとか質問された。大衆のなかにこれだけの力があるのにどうして結びつけなかったのかと強力なインパクトを受けたようだった。期待するものがないなかで、明るくたくましく、意気揚揚と希望を持っていける路線だと思う。日教組嫌いという人から日教組で運動してきた人まで、平和を願う人人の力を束ねていけるものだ。遺族の人人などは保守反動だといわれてきたが、そういう人人が広島では本気になって原爆展をやっているし、人人はあたりまえに共感している。

 根本が違う「禁・協」路線
 編集局 教師のなかでも、教組の流れでやってきて展望を求めている人たちが衝撃を受けている中身はなにか、路線としてなにが違うのかをはっきりとさせることが、今後意識的な政治勢力を結集していくことにつながる。黒山の人だかりを導いている路線、立場はなにかということだ。パネルの路線は50年8・6路線であるわけだが、50年8・6斗争から安保斗争以後の流れには真っ2つに違いがある。それは一方では戦後のアメリカ支配をどう見るか、もう一方では大多数の人民大衆の根本的利益をとことん代表するのか、それとも自分の利益、権利第一かというところで、ちょっとした違いというのではなくて、根本が違う。党利党略のインチキ路線と決別したとき、新鮮な平和運動を担う政治勢力結集の展望が広がる。
 広島では現在、市民が自分たちの運動として市民原爆展の成功のために行動している。日銀で開催し、昨年は福屋デパートでもやって、今年はさらに大規模なものとして市民原爆展を準備している。大多数が圧倒的に支持するわけだ。全国に同質の響きが伝わっていっている。この路線はなにか。大衆は「政治色がない」という。しかしもっとも政治的な内容だ。これは絶対に全国に広がる。物陰にかくれているのではなくて社会のどまんなかで堂堂とやる運動だ。
 A キャラバン隊としては7月、8月は広島に入って、市民原爆展のとりくみに参加していきたい。キャラバン隊行動から合流して、全国での反響を広島現地に返していかなければならないし、広島の運動にかかわってみて、その後は被爆地の運動と声を、全国に伝えていく役割がある。秋口は四国地方と、その他まだ足を運んでない県に行きたい。関西、東京などを重点的にやってみてもいい。八月の広島市民原爆展、八・六集会に全国の人人を結集していきたい。

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