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市街地が焼き尽くされた下関空襲から79年 忘れ得ぬ途端の苦しみ 要塞司令部や三菱は無傷 郷土史家・大濱博之氏が講演 

米軍の下関空襲で焼き払われた下関市街。田中町・西之端街を望む。右の大きな建物は電話局(1945年、『写真家 上垣内茂夫―18枚の記録と記憶』より)

 1945年6月29日と7月2日の2度にわたって、米軍が下関中心部の密集地に焼夷弾を投下し、多数の市民を殺傷し焼け野原にした下関空襲から79年を迎えた。この空襲は、すでに制海権、制空権を握っていたアメリカが、下関のなんの罪もない女性、子ども、年寄りを無差別に焼き払う残忍なものであった。それは全国67におよぶ都市への空襲の一環であったが、その被害は、中国地方では原爆が投下された広島に次ぐ大きなものとなった。

 

講演する大濱博之氏(8日、下関市)

 下関市で8日、「記録写真と資料による太平洋戦争の記録 下関空襲の全貌」と題して下関歴史探究倶楽部の大濱博之氏による講演会がおこなわれた。大濱氏は30年以上かけて調査した内容をまとめた『下関空襲の全貌』をもとに語った。大濱氏が収集した米公文書館などに残された機密資料などから、米軍は関門地区を交通の要衝とみなして重視し、緻密な計画のもとに一般市民を狙って空襲を実行したことが浮き彫りになっている。あの空襲から79年が経過し、惨禍を肌身で体験した市民が数少なくなるなかで、講演内容とともに本紙が取材してきた市民の証言などをもとに、下関空襲とは何だったのかをあらためて描いてみた。

 

 1945(昭和20)年6月29日午前1時10分ごろ、B29の大編隊が壇ノ浦上空にあらわれ、阿弥陀寺町から赤間町までのあいだ、宮田、唐戸、貴船、園田、田中、東南部方面に焼夷弾を投下した。空襲警報が解除され、市民が防空壕から出てほっと一息ついていたとき、突如火の玉のような焼夷弾が降り注いできた。

 

 市民は防火訓練通りに、町内の消火班や隣組のバケツリレーで鎮火を試みた。しかし各所に大きな火柱が立ち、みるみるうちに炎に包まれ、手のつけようがなく、家族とも連絡がとれないまま防空壕や高台を逃げまどった。街頭で、あるいは屋根を突き抜けた焼夷弾の直撃を受けて死んだ人も少なくなかった。この空襲で、明け方までに市街地の東部地区は焼け野原となった。

 

 7月2日午前0時10分ごろ、その余煙が去らないなかで、再び焼夷弾による攻撃が襲った。この空襲は規模のうえでも3日前を上回るもので、豊前田から西細江、観音崎の倉庫群と入江、丸山、東大坪、高尾、南部、西之端、田中、園田、宮田各町など、彦島・新地を除く旧市内中心部が焼き尽くされた。こうして市街地108万9000平方㍍が廃虚と化し、ガス・電気・水道・電話・電車の電線などすべてが破壊され、その機能がすべて停止するという壊滅的な打撃を受けた。

 

 22歳のときに園田町で空襲にあった女性は、「空襲警報が鳴り響いて、母と2人で防空壕に逃げた。父は園田町の町内会長で、警防団長でもあったため逃げずに町内の人々を防空壕に逃がしていた。防空壕に避難し息を潜めていると、隣のおじさんが壕のなかに入ってきて、“お宅のお父さんの方に焼夷弾が直撃して亡くなった”と教えてくれた。確かめに行きたくても外は火の海で、とてもじゃないが出ることができなかった。空襲が終わり、防空壕の外に出ると辺りは一面丸焼けで何もなくなっていた」と証言している。

 

 市内でもっとも被害の大きかった地域として、幸町の清和園の惨劇が語り伝えられてきた。炎から逃れようと清和園の高台に逃げた約80人の老若男女が両側から炎に包まれ、高台から下りることもできずにそのまま焼き殺された。1970年代なかば、同地に市立幸町保育園が設立されたとき遺骨が発掘されたのを機に、保育園と地元の有志が相談して、犠牲者の慰霊のための「幸せ地蔵」を建立し、今も花が手向けられている。

 

 清和園に住んでいた祖父を亡くした女性の、次のような証言が残っている。

 

 「清和園の方は空襲から2日ほど経ってもまだ煙が上がっていた。3日後にようやく祖父を捜しに、草履で清和園まで上がったが、まだ地面が熱くてたまらなかった。まだ2、30人の死体が散乱し、その惨状は卒倒しそうなものだった。切腹したのか、腹から腸がはみ出したまま死んでいる憲兵、畑の肥壺の中に足だけを出して逆さまになって死んでいる人、赤ん坊を背負ったまま、子どもをかばって仰向けになって死んでいる母親と、その子どももいた」。

 

 この他、岬之町では、岩盤の防空壕の上が焼かれ、壕内では市民が蒸し焼き状態で殺されたこと、大正通りの建物に逃げた市民が布団をかぶったまま集団死した姿で発見されたことなど、痛ましい犠牲は枚挙にいとまがない。

 

 多くの市民が、B29の編隊が頭上を通過したときザーザーという夕立のような音が聞こえたと証言している。それは家屋を燃えやすくするために撒かれた油であった。米軍はそのうえに、生ゴムに油脂をつけた50㌔焼夷弾を420㌧も投下した。官庁の公式資料では、この二度の空襲で市民324人が死亡、1100人が重軽傷を負うなど、被災者は4万6000人をこえたことや、全焼・半焼などの建物被害は1万戸以上にのぼったことが記録されている。だが被災者は「その程度のものではなかった」と共通して語っている。

 

 バラック小屋から始まる空襲の焼け跡の生活は困難を極め、下関の医療機関の7割が壊滅し従軍医師が帰らないなかで、真夏の暑さが加わり集団赤痢が急激に蔓延していた。下関の戦争前の人口は21万2000人を数えたが、「空襲直後には15万5000人に激減していた」ともいわれている。

 

緻密な米軍の空襲計画 市民は殺傷し尽くす

 

 市民が暮らす市街地が焼き尽くされる一方で、貴船にあった要塞司令部や三菱、神戸製鋼所などは無傷で残った。

 

 大濱氏は「米軍は事前に関門海峡や下関の偵察写真をもとに立体模型を作成するなどし、周到な計画のもとに下関に対する空襲を実施していた」と指摘する。

 

米軍が撮影した関門海峡の偵察写真には爆撃地の指定箇所が示されている。上部の円の中が唐戸地区で焼夷弾攻撃を指示。「1846」三菱、「772」下関駅などは攻撃対象から除外していたことがわかる(大濱氏提供)

 爆撃地の指定箇所を指示した偵察写真には、市の中心部であった唐戸地区に黄色い円が描かれ、この一帯への焼夷弾投下を指示しており、海風の変化があることも赤線で指示している。白枠で囲まれているのは三菱などの工場や下関駅などで、「1846」の三菱、「772」の下関駅(写真にはないが「143」の神戸製鋼)は、爆撃してはならない箇所として指示していた【写真参照】。

 

 こうした資料は、多くの下関空襲経験者が「市街地は一般市民が焼夷弾の絨毯爆撃で多大な犠牲を受け、命だけでなく家財もすべて失ったが、三井、三菱の工場も長府の神戸製鋼所も要塞司令部も下関重砲連隊も、憲兵隊本部(旧市立中央図書館の辺り)も爆撃を受けず無傷で残った」という指摘を裏づけるものだ。 

 

 大濱氏は「唐戸は焼き尽くされたが、英国領事館だけはピンポイントで残していて、いかに爆撃精度が高いかもわかる。三菱造船所や神戸製鋼所を残したのも、下関が大陸に近い重要な軍事的要衝として扱われたからだ。朝鮮戦争などを見据えていた」と指摘した。
 

 戦後、下関に来た進駐軍が駐屯地としたのは、攻撃しなかった神戸製鋼所だった。

 

関門海峡には機雷投下 全国に投下した半数占める

 

 市民が焼夷弾攻撃に虚をつかれた原因のひとつに、この年の3月以来、B29による関門海峡への機雷投下がくり返され、毎日のように空襲警報が発令されていたことがある。毎夜毎夜襲来するのに一向に地上攻撃をしなかったため、市民は緊張しつつも気を緩めていたところに、空襲警報が解除され、焼夷弾攻撃がおこなわれた。

 

 機雷によって日本を海上封鎖するアメリカの作戦は、「スターベーション」(飢餓作戦)と呼ばれた。このなかで、もっとも重視されたのは交通の要衝だった関門海峡で、アメリカは日本全国の港湾に投下した1万発をこえる機雷の半数、約5000発以上を関門海峡に投下した。3月27日夜、B29が99機来襲し、機雷1000個を投下して以後、敗戦前日の8月14日まで、ほぼ連日、昼夜の別なく投下した。このため、この期間だけで、下関での警戒警報発令は102回に及んだ。

 

関門海峡に投下された機雷

 関門海域では、毎日のように機雷に触れて水柱が上がり、艦船が沈没する光景が目撃された。関釜連絡船など大型船から5000㌧以下の船まで、あわせて5000隻以上が触雷して沈没座礁。海峡周辺は船舶のマストが林立する無惨な「船の墓場」と化した。

 

 機雷の爆発音と船の沈没があった後、彦島には数多くの船員や兵隊などの死体が立て続けに流れ着いたことが語り継がれてきた。日明地点で病院船ばいかる丸が機雷に触れて撃沈し、多くの少年航空兵の無惨な200体もの死体が六連島に漂着、荼毘(だび)にふされたことも伝えられている。関門海域には、いまなお2000個の米軍機雷が海底に沈んでいるという現実がある。

 

 この時期、すでに海軍はおもな戦艦を失っており、大半の犠牲は関釜連絡船や戦時輸送を担う商船、貨物船、機帆船、漁船やはしけなど民間船に強いられた。だが、記録に残っているのは350隻ほど(うち5000~1万㌧級の大型船が157隻)で、犠牲者の数や身元、埋葬先など多くは不明のままだ。

 

 この機雷投下について、『下関空襲の全貌』に掲載している1945年3月27日の機雷投下作戦の響灘側の計画書(米国立公文書館)からは、海中のどの位置にどれほどの機雷を投下するかを細かく計画していたことがわかる。

 

 米軍はこのほか、関門トンネルを「日本における最も重要な輸送目標」と位置づけ、綿密な調査をおこなっていた。機雷によって海上輸送が困難になるなか、九州と本州とのあいだの軍隊の移動や物資輸送の手段として関門トンネルの役割がますます重要になっていると分析。偵察写真に写った下関側の出口の位置や施設の配置などから関門トンネルの位置をほぼ正確に推定していた。

 

 1945年4月7日に発せられた「関門トンネルの構造を探索せよ」という命令書は、「トップシークレット」の印鑑が押されている。写真だけではわからないコンクリート部分の厚さなどの情報を捕虜やスパイなどを通じて収集したのだろうと推測している。同年7月31日に関門トンネルを爆撃する計画があったが、実際には投弾せず、関門トンネルも無被害で残った。

 

 下関は九州と本土、大陸を結ぶ交通の要衝であり、日清・日露戦争のときから「国防の拠点」として位置づけられ、西日本における最大の軍事的要塞地帯として築かれていた。貴船町には要塞司令部が置かれ、その周辺には下関重砲連隊、大畑練兵場、倉庫や火薬庫、医務室、兵舎などの関連施設が密集していた。火の山、後田、金比羅、戦場ヶ原、彦島などに砲台を備えた要塞があり、また小月には第一二飛行師団司令部を置く防空戦闘機隊、吉見には第七艦隊の主力の下関海軍防備隊が配置されていた。

 

 当時、日本の支配層が降伏するのは時間の問題だと知っているアメリカは、これら軍事施設や軍需工場は無傷のまま残し一般市民を無差別に殺傷した。これは下関だけでなく、東京空襲で皇居への攻撃を避けたことなど全国に共通しており、アメリカの用意周到な計画によるものだった。

 

 大濱氏は、7月8日に講演会をおこなった理由について、「80年前の7月8日は、小月航空隊所属の一人の若者が、現在の生野小学校あたりで力尽きそうになりながら小学校に落ちてはいけないからと必死で操縦桿に抱きついたまま近くの山に墜落して亡くなった日だ」と語り、戦争で犠牲になった若き兵隊一人一人に家族や恋人の存在があったというエピソードなどにも触れつつ、戦争を二度と起こさないために語り伝えていく重要性を強調した。

 

下関空襲で廃墟と化した下関市の亀山八幡宮周辺(『写真家 上垣内茂夫―18枚の記録と記憶―』より)

《下関市民の体験談から》

 

・空襲のたびに叩き起こされ防空壕に逃げた

            奥田房子(83歳)

 

 下関空襲のとき、私は6歳で新町3丁目に住んでいました。買い物というと赤岸通りでした。家が密集している地域なので空襲になったらすぐに逃げるしかありません。終戦間際になると米軍による空襲警報が頻繁になり、そのたびにたたき起こされて文関小学校の真ん前にある防空壕まで逃げました。

 

 あるときは空襲警報が解除になったので防空壕から出て、「敵機はもう逃げたんだね」といいながら母や近所のおばさんたちと一緒に帰っていたら、飛行機の音が聞こえ、「今頃日本の戦闘機が来た」と安心して話していたら、米軍の機銃掃射で、ピュンピュンピュンと道の真ん中を撃ってきたのです。道に当たった弾がはじいて跳ね返ってきたのでびっくりして、親たちは「敵機よ! 早く溝に入り!」と叫び、私たちを抱えるように狭い溝に入りました。みんな助かりましたが、とても怖かったです。姉はすぐ近くで「操縦士の顔が見えた」といっていました。

 

 私の父は体が弱かったため兵隊の検査で「丙」でした。お兄さんは兵隊に行ったのに、若い者が兵隊に行かないのはどうしてかとたびたびいわれたそうです。

 

 空襲警報は夜寝たと思ったら鳴り、そのたびに防空壕に行かねばならず、家の中は灯火管制で真っ暗にしなければなりません。幼稚園児の私は疲れ果て、「私はもう行かない」といい出し、家を守るために逃げない父と一緒にいるのだといいはると、いつもあまり怒ることのない父から、「死んでしまうぞ。お母さんと一緒に行け!」とすごい剣幕で怒られ、泣きながら行ったことを覚えています。

 

 下関空襲の夜は文関小学校のまわり一面も焼かれました。避難した防空壕の中でみんながもうダメだと泣いていました。やっと家に帰るときに、少し小高い所にある文関小学校の窓を見ると、窓ガラスが真っ赤になっていたのを覚えています。下の方で大規模な焼夷弾爆撃による火災が広がっていて、その火災が反射していたのでした。

 

 とにかくものすごい火災で、今の幸町の高台・清和園にも大勢の人が逃げましたが、下から炎が上がってきて逃げられず蒸し焼き状態になったそうです。あとで聞いたのですが、80人ほどの人が亡くなったそうです。

 

 アメリカは油を撒いて焼夷弾を投下するといわれ、焼夷弾で焼けたら水をかけても消えないそうです。うちの長屋にも二つか三つ焼夷弾が落ちたそうですが、軒に落ちたので、縄でたたいて消したそうです。けれども最後は私の家も焼かれてしまいました。その後、近所のおばさんが大津屋で働いており、働く人が仕事が終わったあとに入る風呂に私や姉を入れてくれました。焼け出されて行き場のない者同士が、ないものを貸りたりしながら肩を寄せ合って生活していました。

 

 終戦後私が小学5年生のとき、父親は病気で3日間患った後、あっという間に亡くなってしまいました。母親は産後から心臓が弱り、きつい仕事ができなくなっていましたが、父が亡くなり自分がやらねばと頑張ってきました。けれどもうじき40歳というとき、私が高校1年生のときに亡くなりました。

 

 両親が亡くなり、世話になっていた本家の叔母が「私がもう少ししっかりせんといけんね」といってくれていたのを覚えています。でも叔母も痩せてきて、胃の手術をして3カ月で亡くなりました。まだ五歳の子どもがいました。叔母の気持ちがわかり出したときで悲しく、結婚していた姉はその子を連れて一時期育てました。

 

 戦争はいろいろな形で家族やそのまわりの人たちを奪いました。今、世界で二つの大きな戦争が続いているのを見ると、子どもの頃の自分の体験と重なってきます。今思えば、アメリカは日本の真珠湾攻撃を理由にしますが、戦時下でいえばたいしたことはなかったのに、いつの間にか参戦になっていました。日本の軍隊は南方戦線では、たたかわずして病気と餓死で死んでいきました。原爆まで落とさなくても日本は負けるとわかっている状態だったのに。広島・長崎への原爆投下は本当に惨いものです。

 

 とにかく、どんないい分があろうとも、戦争はもう絶対にやってはいけない、今の戦争もただちに停戦するべきだと思います。若い人や子どもたちがもう二度と同じ目にあわないように、わずかな記憶でも体験を伝えていければと、最近とくに思います。

 

・二度の大空襲で家は全焼し終戦まで防空壕で生活

              匿名希望(92歳)

 

 私は79年前、下関の大空襲にあいました。青莪小学校6年生のときで、奥小路(現在の幸町)に住んでいました。6月29日の空襲のときは私の家のすぐ裏まで燃えました。2回目の7月2日はもっと大規模で被害も大きかったです。夜中に稲荷山の防空壕に弟と妹を連れて3人で逃げました。

 

 防空壕に入っていたのに、ダーッと機関銃を撃つようなものすごい音が聞こえてきました。「今出たらいけないよ。機銃掃射だから」と大人からいわれました。あの音は忘れられません。あとで知ったのですが、アメリカは油を撒いてから焼夷弾を落としたというので、その音と一緒だったのでしょうか。

 

下関空襲の犠牲者を弔うために建立された「幸せ地蔵」(下関市幸町)

 大きな音のあと、あちこちで火が出て大火災になりました。長い時間がたって火災がおさまってから防空壕から出てみると、何もかも焼けていて、大きな穴があちこちにあいていました。焼夷弾が不発のまま土の中に埋もれ、上だけが見えているものもあり、恐ろしかったです。

 

 防空壕に逃げたのは私と弟と妹の3人だけで、父親は船会社に働きに出ていました。空襲のときでも家を守るということで、だれかが残らないといけないと、2回の空襲とも母が残りました。私が兄弟で一番上だから、下の子の手を引いて山の上に逃げました。結局、この2回の大空襲でうちも全焼しました。

 

 当時小学校では戦争の練習といって女子は長刀(なぎなた)をしていました。棒の方が自分の身長よりも長くて大変でしたが、負けることなど思いもせず、ただもくもくとやりました。そんなものでアメリカをやっつけることはできなかったのだと後で思いました。その小学校も下関空襲で全部焼けてしまいました。学校が焼けてなくなったので生徒はばらばらのままで、戦後も同窓会もなく、ときどき顔を見かける人以外は連絡もつかない人がほとんどです。

 

 大空襲で、幸いにも家族は無事でしたが住むところがなくなり、しばらくは地域の人と一緒に防空壕で生活しました。何もかも焼けてしまった者同士が焼け跡からいろいろな物を探してきて生活を始めました。ろうそくで灯りを作り、鍋などを拾ってきたり、テーブルもないから防火用水の蓋をテーブルがわりにしました。少ないながら配給がありましたが、それでは足りず、どうやって食べ物を集めてきたのかわかりません。母たちがいたから生きてこれたと思っています。

 

 8月15日の終戦を聞いてからこの防空壕から出ました。法福寺の前に赤いレンガの塀が二つあり、私たちはこの一つによその人と一緒に住んでいました。焼け残った板のような物を屋根にしていました。また、お風呂はお寺の真ん中に丸い大きな樽のようなものがあって、それに入りました。どこかから風呂釜を拾ってきたのだと思います。戦後は火を炊いてもよかったから、みんなで順番に入り、すごくうれしかったです。

 

 つらかった思い出は、終戦後、下関に進駐軍が来るといわれ、父の実家が門司にあったので、子どもだけでも疎開しておけということで、子ども3人で行ったときのことです。母親が再婚だったからか事情があったのか、「あんたたちの上がるところはない」といわれて家に上げてもらえませんでした。仕方なく曽根の母の実家まで行き住まわせてもらい、しばらくして下関に帰ることになりました。下関の焼け跡に市がバラックを建てており、物は何もないけれどやっと家族5人が一緒に住むことができました。翌年からは学校に行くことができ、私は日新中学に、弟は養治小学校に行きました。

 

 もう一つ忘れられないのが、母の実家を引き揚げて下関に帰るとき、3人が祖父母から少しずつコメを持たせてもらっていたときのことです。帰る途中で警察に「ヤミ米」といわれてとられたのです。じいちゃんが警察に呼ばれただろうにと、子どもながら申し訳ないと思ったものです。でも、親戚がくれたコメを孫たちが一生懸命持って帰っているだけで、盗んだりして悪いことをしているわけではないのにと腹が立って仕方がありませんでした。

 

 戦争で下関でもこれほどの惨いことがあったことを若い人に知ってもらいたいと願っています。戦争は何の罪もない家族が死んだり、食べる物がなく、家や家財道具も何もかもなくします。あのようなことを絶対に若い人に経験させたくありません。今また世界で大規模な戦争が続いています。テレビで見る度に、戦争をしている国だけでなく、どこの国もなぜ止めないのか、日本政府は何をしているのかと、体験をした私たちの歳の者は誰もが憤っています。

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