いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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被爆79年を迎えて 平和な未来願い次世代に託す 広島・長崎の被爆者が語ってきた体験――原子雲の下から訴える

原爆の子の像(広島市中区、平和公園)

 第二次世界大戦末期の1945年8月6日と9日、人類史上もっとも残虐な兵器である原子爆弾が広島と長崎に投下され、今年で79年を迎える。日本の敗戦が明らかとなるなかで米軍が投下した二発の原子爆弾によって、罪のない老若男女が水を求め苦痛を訴える叫喚のうちに、どこのだれともわからぬまま死んでいった。生き残った人々も原爆症によって命を奪われ、また幾世代にわたる心身の苦しみを背負わされてきた。アメリカは今なお「戦争終結のためにやむを得なかった」と一般市民の大量虐殺を正当化している。だが、被爆市民の生活のすみずみにまでしみこんだ原爆の惨苦のなかからにじみ出る平和への願いは、原爆投下者の欺瞞でかき消すことなどできず、二度と核兵器を使わせない力となって世界を動かすものとなってきた。体験者の多くが鬼籍に入るなかで、再び日本やアジアを戦争の惨禍に巻き込もうとする動きが顕在化しており、被爆市民の凄惨な体験を継承していくことの重要性はいよいよ増している。今号では広島・長崎で語ってきた被爆者の体験を紹介する。なお、広島の3人の被爆体験は、「原爆と峠三吉の詩」原爆展を成功させる広島の会が被爆60年、65年に発行した体験集に収録されている。

 

◇◇  ◇◇  ◇◇

 

爆心地から500㍍の広島電信局で炎の竜巻の中生き残る

 

 広島 高橋匡(当時19歳)       

   被爆地:広島市袋町富国生命ビル  

 

高橋匡氏

 当時私が勤めていた広島電信局は、袋町の電車通りの富国生命ビルの中にあり、地下1階から地上5階までを使って、軍用通信、一般電報などの電気通信の仕事をしていました。

 

 8月5日は、午後9時頃から6日午前3時頃まで空襲警報が発令されていました。解除後、毎日こういう状態だから、明日の朝は少しゆっくりしようということで課長は帰宅され、下宿住まいの私は局の地下にある休憩室で休憩していました。

 

 地下だったことと、仮眠中であったことから閃光は感じませんでした。ズンといった音とも、爆風ともいえる圧迫感とともに周囲の壁土が飛び散りました。瞬間的に直撃弾を受けた、地下がこの様子だから相当大きな爆弾だろうと思い、真っ暗の中を裏階段に上りました。

 

 自分では爆発後すぐだったと思いましたが、靴とか上着とかで手間取ったのでしょう。上った時には、周囲の倒れた木造家屋には火がついておりました。

 

 音は1回だけなのにと不思議な思いでした。が、そんなことよりも、上から降りてくる職員のほとんどが血みどろといった感じでした。最初に会ったのが上野忠夫君だったと思いますが、顔から胸にかけて一面の血でした。これは大変なことになっている。庶務課はどうなったか気になり、上野君には裏口から比治山方面に逃げるよう送り出して、廊下や階段に何人か倒れていましたが、とにもかくにも4階まで駆け上がりました。

 

 局長室も庶務課も入り口の鉄扉が曲がって動かないため、女子休憩室に入ったところ、局長室まで見渡せる状態でした。休憩室には植本テツ子さんが、肌着だけの格好で泣いていました。付近にあったモンペをはかせ裏階段から下へ。

 

 私の大声が聞こえたのか、近くの倒れたモルタル間仕切りの下から助けを呼ぶ女の人の声がし、右手だったと思いますが、わずかにのぞいている手を懸命に動かしていました。厚さ20㌢もあったでしょうか、部屋幅いっぱいの網入りモルタルですから、私一人ではどうすることもできず、「後から来るから頑張っとるように」といって庶務の部屋に行ったのですが、その人の名前を聞いていないのです。なぜだったのか、自分では冷静だったつもりでも、動転していたのでしょう。鉄筋コンクリート建築だから火が入ることはないという安易感があったのも事実ですが、ジリジリと焼かれていったその人のことを考えるとたまらない気持ちです。当時は夢枕にでも出てくれないかと思い続けたものでした。

 

 庶務課にあったもの全体が局長室に爆風で移動しており、課長は逆立ちの形で上半身が落ちた壁、シックイ、書類などに埋もれ、そばに大下さんが右半身同じように埋まって横たわっていました。こめかみに穴があいて血が流れており、布切れで包帯をしたが、意識はありませんでした。課長を掘り出したが即死状態でした。正岡さんは壊れたいすに茫然と座っていて、頭と足にケガをして、歩きにくいようなので箒の柄を杖にして階下に下りてもらいました。

 

 4階には他にも無線通信室と通信課の経理室がありましたが、経理室にはだれもおらず廊下には西本勲さんがうつ伏せに倒れ、背中には無数のガラスの傷があり、痛いから動かないと訴えられたので、そのままにしました。近くの流し場に学徒の新川さんが倒れていましたが、意識はなかったように思います。そうこうしているところへ大谷さんと品川さんが来られ、無線室から書類を出したいという品川さんに協力。無線室の扉をこじあけて持ち出しました。

 

 次いで4階、3階に負傷して取り残されている者で、手助けをすればどうにか動ける人たちを時間はかかったが1階裏口まで移動させることができました。

 

 その頃から建物の周囲は火勢が強くなり避難はできないと思われ、建物にとどまることに決め、けがの少なかった大谷さん、中尾さん、品川さんなどとともに1階裏口付近に負傷者を含め10人余りのものが待避しました。私だけでなく、他の人もこの建物に火が入ることはないと思っていたのでしょう。ある種の落ち着きが出た矢先、近くで何かの炸裂する音と飛行機のような音が聞こえたため、また空襲だと慌てて建物の中に逃げ込んだ人もありました。

 

広島 8月6日午前11時頃の御幸橋西詰(松重美人氏撮影)

 その直後に第1回目の竜巻が襲ってきました。強風とともに煙の濃い火柱でしたが、時間が短かかったため、被害はあまりありませんでした。建物の中ではかえって煙に巻かれる心配があるので裏門の外にある防火用水槽の吸い上げポンプのところまで出ることにしました。

 

 しかし、まもなく黒い大粒の雨がパラパラと降り、油だと誰かが叫んだため、またもみんなに動揺が起こりました。取り静める余裕もなく、2度目の竜巻です。これはまったく火の柱といってもよいもので、ものすごい熱風とともに、木切れ、小石などが飛んできました。

 

 その火柱は2階、3階の窓から室内に。あっという間に3階通信室は火の海となり窓から噴出する炎は真っ赤な生き物のようで、みるみる4階、5階と炎上していきました。その炎の中で大声をあげながら飛んで狂う人がいましたが、見上げる私たちにはどうすることもできず、わずかの間にその人の姿は消えてしまいました。

 

 ポンプのそばでも、すさまじい熱さにわれ先にとポンプの下に頭を突っ込むので、これではみんながやられると、殴ったり、怒鳴ったりしながら輪に座ってもらい、バケツにくんだ水を順番にみんなにかけましたが、だんだんポンプを押す人が中尾さんと私だけと少なくなり、水をかける速度が遅くなり、熱いという悲鳴も出るありさまでした。

 

 灼熱という文字どおりの熱さで、かぶった水が腹の下を流れているのに頭は熱いといった状態でした。悲鳴を上げながらも皆さんは辛抱強く順番を待ってくれました。そうした火の中でも不思議と息はできたようで、皆の元気づけにと大声で歌を歌いながら水をかけたことを覚えています。何の歌だったか忘れましたが、一つだけ逓信講習所の寮歌を覚えています。

 

助かった者も原爆症で

 

 竜巻が終わってみると、白井隆さん、小島信子さん、それに火のつく前まで、「水をくれ」「傷がひどい、水を飲んだら助からん、やらない」「死んでもいいから飲ませてくれ」「いや飲まさん」といいあった若狭義一さんたちの姿がありませんでした。

 

 皆ふ抜けのように座り込んだまま口をきく者もいませんでした。正岡さんが一言「高橋君よかったなあ」といわれたのが強く印象に残っています。

 

 それもつかの間、3回目がやってきました。前ほどの火勢ではありませんでしたが、もうポンプを押してくれる人もなく細々とバケツにくんではかけていましたが、煙が濃く目が開けておられず、鼻と口を濡れ手拭で押さえても、息を吐くことはできるが吸う空気がない。肋骨が音を立てて肺を押しつぶすような強い圧迫感。胸に穴をあけたい。かきむしって捨てたい思いの表現の方法を知りません。動くこともかなわなくなって、バケツも放棄。皆一緒だと寝転んで「苦しい。即死がよかった」と変なことを思ったことを覚えております。

 

 ポツリポツリだった黒い雨が3回目頃からかなり激しく降ったこともあり、火勢が衰えて助かったわけですが、今少し長引いていたら、胸をかきむしりながら終わっていたと思います。

 

 下水桝の中に入っていた白井さん、便所に顔を突っ込んでいた児島さん、若狭さんたちの死、皆同じ思いだったろうと思います。そういう場所はかえっていつまでも煙がこもっていたろうに。一緒にいてくれたら助かったかもという思いで一杯でした。建物の中に残してきた人たちが、下まで降りてくれたら、降ろしてあげていたらという悔いが今も残っています。

 

 最後まで一緒だった人の中に、街で被災し、私たちの所へ逃げ込んでこられた女の子を連れたお母さんが、「助かりました」と礼をいいながら子どもさんの手を引いて出て行かれた姿と重なって余計に強い思いがします。

 

 助かったという喜びを感じたのは翌日になってからでしたが、原子爆弾の恐ろしさを思い知らされたのはそれからでした。被爆3日目から仮事務所をもうけ、職員も少しずつ出勤し始め、電報などの仕事も徐々にではあるが復興してきた8月20日頃から、大きなケガでもなかった人たちが、脱毛、発熱、斑点、出血の症状を起こし、1週間位で次々と死亡していきました。

 

 もっとも激しかったのは8月下旬から9月半ばの間で、ほとんど無傷で勤務していた人たちが同じような症状で死んでいきました。なかでも、私と一緒に水をかぶって火の中を生き残った中尾さんが元気に勤めていたのに、たった4日間の療養で9月7日に亡くなられたことは、ともに生き残ったという喜びを無惨に打ち砕くものでした。こうして9月末日までに40人が死亡していきました。すべて放射線障害でした。

 

 郊外から家族、知人を探しに市内に入った人々にも同じようなことが起こったのもその頃でした。60年をへた現在でもたくさんの人々が放射線障害で苦しんでいるのです。

 

 原子爆弾の恐ろしさ、その残虐性と非人間性を絶対に風化させてはいけない。生かされた者として、より多くの人々に継承されるように努めたい。このことは子々孫々まで継承されなければなりません。

 

 この地球上から永遠に原水爆がなくなるその日まで。

 

広島 8月7日、爆心地から東へ500㍍の本通りから。まだ熱かった(岸田貢宜氏撮影)

生きるために水を飲まず死んでいった母

 

長崎 永田良幸(当時12歳)

被爆地:城山

 

永田良幸氏

 私は12歳(淵国民学校高等科1年生)のとき、原爆で兄弟と両親を含めて6人を亡くした。

 

 なぜアメリカは沖縄や東京にあれほどの爆弾を落としたのか。軍人もいない、飛行機もないところで生きたものがいなくなるほど破壊し尽くしたのか。なぜ広島に原爆を落としたうえに、長崎にも原爆を落としたのか。同じ原爆でも、広島はウラン型、長崎はプルトニウム型だ。種類が違う爆弾を2発も落としたのは人体実験をしたのだと思っている。私はアメリカが憎くてたまらない。

 

 母は44歳の若さで死んだ。当時、私の家は爆心地から500㍍の城山1丁目にあった。出征した兄2人を除き、両親と子ども8人で暮らしていた。1945年8月9日の前夜は空襲警報が鳴っていたため、家族はみんな自宅近くの防空壕で過ごし、翌9日の朝に空襲警報、警戒警報すべて解除になったので家に戻った。8月6日の広島でも空襲警報も警戒警報も解除されていたというが、空襲警報でも出ていれば防空壕に入るから火傷やけがを免れて命を救われた人も多かったはずだ。だが長崎でも原爆投下直前に警報がすべて解除されていた。

 

 前日の晩から狭くて暗い防空壕に押しこめられ、やっと解除になったので、兄や姉たちは勤務先へ出て行った。19歳で三菱兵器に行っていた兄と、松山町の食糧事務所に出勤して行った姉はいまだに行方不明だ。

 

 私は家の2階で、子守を頼まれた親戚の3歳児を背中におぶったまま、学校に行く準備をしていた。母は1階で洗濯をしていて、近くでは5歳の妹が遊んでいた。友だちが「学校に行こう」と呼びに来たので「今は行かれん」と応え、2階から母に向かって「背中の子どもを下ろしてくれないか」と声をかけた。母は「もう2、3枚で終わるから、もう少しの間おんぶしておいて」といった。その矢先だった。上空でものすごい飛行機の爆音がした。なんだろうかと思って2階から窓越しに行こうとしたとたん、凄まじい光と、グァーンという衝撃が走った。

 

 気がつくと崩れた家の下敷きになっていた。「家の脇に大きな爆弾が落ちたな」と思った。家は崩れてほこりだらけで、私は3歳児を背負ったまま足で探ったが、足もともわからない。小さな窓から光が見え、火事場の馬鹿力が出て、私は女の子をおんぶしたまま窓から這い出し、屋根瓦の上を駆け上がって家の裏の土手を登っていった。

 

 防空壕に行くとあたりは死体の山だった。目が飛び出した人、ガラスが刺さった人、火傷で溶けた人など、血だるまだ。私も預かった子どもにも傷はなかったが、母が抱えていた5歳の妹は即死だった。そのとき見た母の姿は忘れられない。私はなぜか涙も出なかった。顔は溶け、目はつぶれ、手はボロみたいに垂れ下がっている。皮膚は10㌢、30㌢、ダラッと下がって乳房もつぶれて赤身が出ている。まるで生きたバーベキューだ。それでも死んだ妹をしっかり抱っこしていた。母は頭にけがを負った弟に乳を飲ませようとしたが、鬼のような形相で誰かもわからない。弟も怖がって泣き出して乳を飲もうとしない。

 

長崎 線路脇で救護を待つ人々(山端庸介氏撮影)

 13日に城山小学校に救護班が来るということで、私が母と弟を連れていかなければならなかった。子どもの私には力がないから、叔父さんと2人で母たちをかごに乗せて城山小学校まで連れて行った。弟の頭はつぶれてブヨブヨでウジがわき、夢にうなされたようなことばかりいうので、私が「うるさい!」とたたいたら痛いと泣いた。それが今でも悔やまれて、原爆の日には「ごめんなさい」と祈っている。

 

 城山小学校の焼けていないところに母と弟を寝かせたが、母は水も飲まないし、食べ物もない。その日に弟の正徳は死んだ。目がつぶれた母が「正徳は大丈夫か?」と虫の息で尋ねるが、私は「向こうで遊んでいる」と嘘をつくのが精一杯だった。「正徳はちゃんと食べているか」と聞く母に、私が「今は欲しくないといいよる」と答えると、母は「もう死んだとやろ…」といっていた。母はわかっていたのだ。

 

 14日、軍人がきて、大村まで汽車が通っているから、浦上駅に行き、そこから汽車で大村の陸軍病院まで行きなさいといわれ、母は浦上駅の線路端まで戸板にのせて連れて行かれた。汽車に乗せて行けといっても、12歳の私には何もできない。それなら軍医がいるからということで、長崎医大付属病院の焼け跡につれて行かれた。

 

 大学病院では、真っ白なチンク油を火傷にベタベタと塗るくらいの治療しかなかった。母はそれをものすごく痛がった。翌日、母が「洗面器を持って来てくれ」という。「なにすっとか?」と聞くと、便がしたいようだった。私は焼け跡を裸足でうろうろしながら焼けた洗面器をひろってきて、動けない母の糞尿の始末をしてあげた。母親が一二歳の男の子に自分の下の始末をさせるというのは本当に苦しかったと思う。それを思うと今でも胸が苦しい。

 

 昼過ぎごろ、母が親戚の人を呼んできてくれというので、しばらくして親戚の人を探して戻ってくると、すでに母は息絶えていた。顔は口から噴いた泡だらけになって、私の声に答えることはなかった。近くの人が「この人、さっきまで何か一生懸命ぶつぶつといっていたよ」といっていた。さぞ苦しかったのだろう。私がまだ子どもだから、母は親戚の人に何か遺言を伝えたかったのかもしれない。でも死んでしまうのなら、どうして私に一言でも何か伝えてくれなかったのか。それが今でも残念でならない。

 

 母は死ぬまで「水がほしい」と一言もいわなかった。火傷をした人間が水を飲めば死んでしまうということを知っていたのだろう。いまだにそれが歯がゆい。母は最後まで子どものために生きようとしたのだ。死にたくて死んだのではない。どうせ死ぬのなら、腹いっぱい水を飲ませてあげたかった。悔やまれる思いはたくさんある。話せば話すほど涙する。

 

焼け跡で母の骨を拾う

 

 その日、母の遺体はその場に置いて帰った。当時、遺体を焼くときは、材木と人間を交互に重ねて油をかけて火をつけていた。翌日、私が大学病院に行くと、燃やすための遺体が50体ほど並べてあった。私は母と最後のお別れをしたい一心で、兄弟でただ一人母に会いに行った。遺体にかけてあるムシロを1枚1枚めくり、髪を引っ張っては遺体の顔を確かめて、やっと母に会うことができた。母は待っていたのだろう。一人で「お母さん、さようなら」といった。

 

 明くる日、たくさんまとめて焼いているので誰の骨かはわからないが、焼け跡の遺骨をひろって帰った。今その場所は長崎大学歯学部になっているが、お地蔵さんの一つも立っていない。大きなクスノキがあるだけだ。だから母はあのクスノキの栄養になったんだと思っていつも拝んでいる。

 

 戦後、復員した23歳の兄、生き残った姉が高校を退学して親がわりで私たちを育ててくれた。

 

 長崎では私も含めて、ひどい目にあったものがずっと黙ってきた。メディアやいろんな政治団体に利用されるのも嫌だった。体験した者は弁が立たない。うまく話すことはできない。でも沈黙を破らないといけない。

 

 原爆の恐ろしさは、終わりがないことだ。放射能は人間や自然をずっと蝕み続ける。それをわかっていてアメリカは二種類の原爆を落として日本を実験台にした。当時の日本には戦う力がないことは百も承知だった。この事実は、どんなきれい事を並べても曲げることのできないことだ。

 

 私は殺された両親や兄弟の仇を討ちたいと思ってきた。殺された家族と同じ数のアメリカ人を殺して自分も死んでやろうと思ったことさえあった。だが私は母が亡くなった年齢以上に生かしてもらった。母ができなかったことをなにかしてあげたい。下関原爆展の方と縁があり、本当のことを伝えた方がいいと思って目覚めた。

 

 平和とは、本当のことを知り、戦争を起こさないために命がけで守らなければ簡単に壊れてしまう。日本がアメリカの一州にされ、戦争で再び私のような子どもが生まれないように皆さんで声を上げてほしい。

 

広島 8月12日、爆心地から250㍍の紙屋町交差点付近。満員電車の乗客のほとんどは黒焦げになった(川原四儀氏撮影)

召集された広島で被爆。二度と戦争許さぬ国づくりを


広島 佐々木忠孝(当時25歳)  

被爆地:旧五師団兵器部    

 

佐々木忠孝氏

 私は大正9年生まれです。

 

 私は若い頃、福岡市の九州電気高校を卒業して、国鉄博多駅の通信区に幹部候補として採用され、1週間出勤しました。そうしたら、国民徴用令が来ました。徴用令がどういうものか知りませんので、すぐ県庁の係官のところに行って話をしたら、「これは昭和13年に国家総動員法が施行され、翌年に国民徴用令が公布された、その国民徴用令によりあなたが呉海軍工廠電気部通信器工場に、指定された日時に出頭しなさいという命令書です」との説明でした。

 

 私は「就職が決まっているので拒否します」といいましたら、「あなたは徴用令書を受けとったと同時に海軍軍属となりますから、拒否すると軍法会議にかけられて軍の刑務所に入れられますよ」といわれて、一瞬頭の中が真っ白くなり、私の人生計画が大きな音とともに崩れました。

 

 呉海軍工廠に出頭したら、全国から若者が徴用工として集められていて、毎日憲兵と守衛に監視されながらの、まるで監獄暮らしのような生活をさせられました。

 

 2年間の徴用期間が終わり、九州へ帰れると喜んでいたら、太平洋戦争が始まりました。初めは勝った勝ったとの知らせでしたが、いつの間にやら戦いは不利になるばかりでした。戦争が過酷になり、軍需工場も忙しくなります。軍艦が破損したら帰ってきて修理する、新しい軍艦をつくらなくてはならない。毎日5時間残業、7時間残業、徹夜残業と、こきつかわれて、食べるものといったら飯にヒジキとイワシの腐ったようなものを弁当にしていました。夏は通信器工場の屋上で、段ボール箱を広げ裸で寝るありさまでした。

 

 このようなとき、昭和19年8月に陸軍より召集令状が来て、広島の野砲隊第6部隊に通信技術兵として入隊せよとの命令がきました。これは私の最後となる死刑宣告状と覚悟しました。入隊後4日目に東京の陸軍教育隊に送られました。教育隊の5カ月間の生活では、私刑=「リンチ」はやり放題。通信技術兵として修理専門技術を学びながら、兵隊ですからいざというときの人殺しの猛訓練も受けました。

 

 東京は11月からB29の空襲が本格化して、夜は下町を狙い、木造住宅街と民間人を焼き殺し、焼き払う作戦が続くようになりました。夜間は日本空軍の抵抗はなく、M69ナパーム焼夷弾をばらまき、東京の夜空は花火大会のようになり、しばらくすると地上から真っ赤な炎が空を焦がす。日本の対空陣地から応戦するが弾はとどかず、B29は無傷でひきあげていく。3回目の夜襲から日本軍は沈黙し、B29のやりたい放題が続きました。私は2月1日に広島に帰りましたが、3月10日の大空襲まで5カ月間、そうした状態が続き、3月10日には10万人以上の人が焼き殺されました。

 

広島の街 一瞬で地獄に

 

 広島に戻ってみると、なにごともなかったようにきれいで、不思議に思いました。

 

 その後私は、西部軍管区兵器部に行くことになりましたが、仕事はなく、一部の兵隊は町工場の応援に出張することになりました。アメリカ軍の本土上陸には戦車を先頭に、海兵隊員が自動小銃と火炎放射器で攻撃してくるのは間違いないのに、上官は、町工場に応援に出ている兵隊には廃品のヤスリをもって帰らせ、別の技術兵には手裏剣を作らせて、アメリカ兵を倒す訓練をさせたり、張りぼての戦車を作り、この戦車に向かって各自爆弾を1個抱き、戦車に飛び込み1人が1台を確実に破壊する玉砕訓練をしていました。

 

 そんな訓練に明け暮れていたなかで、8月6日の朝を迎えました。当時私は他の2人とともに、用事の帰りに空のリヤカーを押して広島城の外堀にさしかかった時でした。堀の石垣の上に茂った森から、やかましいセミの鳴き声にまざって、「B29だ」との人の声がしたと思って、西南方向に身体をひねった瞬間、青い光りを感じて、なにもわからなくなったのです。どれだけたったのか、ぱっと意識が戻り、あたりを見回すと、灰色の土煙の中の景色が、さっき歩いていた光景と変わりようがひどいので、夢の中にいるようでした。

 

 自分の身体を見ると裸同然で、全身焼けただれて、褌姿で腰に銃剣だけつけており、堀の水の中に立っていました。少し気持ちが落ち着いてきたので、もう一度周囲に目をやると、堀の石垣にたれるように茂っていた森が、黒く焼け残った幹が立っているだけ。やかましかったセミも鳴かず、今まで一緒に歩いていた戦友が「やられた、やられた」と叫んでいるのに気がつき、堀から上がり、そばに行ってみると、身体の後ろが全部焼けて骨が見えるような姿で倒れていました。もう1人の初年兵は同じように背中から足まで焼け、リヤカーの取っ手を握ったまま死んでいました。兵器部の建物はすべてが、バラバラに崩れていました。

 

 少し高い所に上がってみると、広島城は石垣だけになっており、南の方を見ると広島湾上の似島が見えるではありませんか。市街は、ところどころにコンクリートの建物が見えるだけで、広島の街が消えていました。すぐ近くの川沿いにある縮景園の樹木はほとんど坊主状態で、一部はまだ燃えくすぶっているようでした。少しでも安心できる所へ逃げるしかないと、2人が助けあいながら逓信病院前に出ると、病院前は焼けた体の人たちで一杯になっており、顔や手や背中がずるむけていたり、顔が焼けて水ぶくれのように腫れているなど、人間の姿ではありませんでした。八丁堀方面からは、焼かれた体をひきずるように、異様な姿をしたお化けの集団が、ぞろりぞろりと数珠つなぎのように牛田町方面に北上し続けていました。

 

 自分たち2人も川に沿って白島九軒町通りを通って太田川の神田橋までたどりつき、神田橋の下に続く砂の上で休もうと降りたら、すでに100人位の人々が丸焦げになってそこに寝ていました。そこも地獄同様のありさまでした。

 

 私はヤケドが乾燥して痛むし、熱で気を失いそうになったので、川につかり疲れたら出て、石垣のかげになって焼けなかった雑草の中に体をかくしていました。それをくり返している時、黒い雨が降り、雑草に黒い斑点ができました。

 

 時間がたって、戦友を探しても見えないので、1人で神田橋を渡って工兵隊の作業場に行くと、ここも負傷者でごった返していました。ここで私も吐き気がして倒れました。そうしたら救援隊の兵隊が来て助けてくれ、兵器部の格納場所があった牛田の山に行くことをすすめられました。しかし、そこにも六十数人の負傷者が横一列に並んで寝ていました。ここを知っている者は兵器部の兵隊しかいないはずと、調べるにも焼かれて人相が変わっているし、裸同様で名札もなく、ゆすり起こして聞こうとしたら冷たくなって死んでいました。山すその小屋でみつけた冬の外とうを体に巻いて壁にすがっていたら、いつのまにか眠っていたようです。

 

2年間入院し3度の手術

 

全身に火傷を負った佐々木忠孝氏(1945年10月、広島赤十字病院)

 「生きている者はおらないか」と叫ぶ声に目覚めて外を見ると、明るくなっていました。すぐに「ここにいるぞ」というと兵隊がトラックで運んでくれ、福屋へ収容されました。そこで、妻がおじさんと一緒に私を探しあててくれました。夕方にはすぐに日赤病院に運ばれましたが、ここも地獄でした。毎日毎日収容しては40人、50人が死んでいくというくり返しでした。後に、重籐副院長に聞くと、5000人が入り死んでいったそうです。日赤には800人が働いていましたが、400人が重軽傷をおい、60人が死亡。残った人で負傷者を治療しました。

 

 治療は赤チンで消毒し、ガーゼを貼るだけでした。私は耳の上から首の方にかけてヤケドがチクチク、ムズムズするからウジをとってくれというが、2日間はウジをとってくれたが、3日目からはとってくれなくなりました。1週間ぐらい過ぎた時、隣におとなしく寝ていた体3分の1ぐらい焼かれていた男性が死亡したので、看護婦が担架に乗せ運び出した後には、ウジがびっしり残って、看護婦さんが掃除をし終わると、待っていたように、すぐかわりの人が収容されました。

 

 妻は、日赤病院に付き添う20日間に毎日死んでいく患者を見て、自分の夫も今日か、明日かと心配しながらの看病からか、腹部に激痛がおこり診断してもらうと心労による胃かいようといわれ、故郷に帰って入院手術することになり、母親と交替しました。私はその後病院生活が2年間続き、3度の手術をして、地獄を生き抜いてきました。

 

 こんな悲惨な原爆を二度と使わせないように、つくらせないように、持たせないように、若い人たちに平和運動をすすめてほしいです。若い人には、戦争が起こるような状態にもっていかないようにしてもらいたい。そうしないと、私のような、化け物のような人間が生き残ってもできあがるということになります。

 

 呉は昔、日本有数の海軍基地で、戦艦大和をはじめ多数の軍艦がおりました。戦後は海上自衛隊の基地となり、ここから湾岸戦争では機雷掃海に出動させられました。カンボジアの選挙監視には陸上自衛隊が派遣され、アフガニスタンの戦争にはアメリカの武器、弾薬、食糧、油類を輸送する任務につきました。また、イラク戦争でも輸送任務をひき受け、陸上自衛隊員を500人駐屯させています。

 

 なんだか、戦前の軍国主義の時代にバックしつつあるような気がします。戦後60年続いた平和な生活に、ひびが入り始めたような感じがしてなりません。国家、国民の平和を乱すのは戦争です。これからの戦争は最後のけじめをつける兵器で原爆が使用されるでしょう。原爆の体験は日本だけにしてもらいたいと思います。

 

 被爆体験国家の国民として、若い人は被爆体験者の話を参考に、核兵器廃絶、世界平和の主張を永久に続け、力をあわせて平和な日本の国づくりに協力してもらいたいと思います。

 

集められた遺体を火葬する(広島、1945年8月10日、宮武甫氏撮影)

原爆で殺された多くの人たちのために


広島 上田満子(当時13歳)

被爆地:上柳町      

 

上田満子氏

 私は昭和7(1932)年の満州事変の翌年に生まれてから、戦争のなかで育ちました。その当時から品物もあまりなく、教科書も服もお姉ちゃんから下へ次々とお古を使っていました。でも、隣り同士で助け合って仲良くし、人の心はものすごく優しかったです。5人姉妹の下に弟ができ、昭和20(1945)年に憧れの女学校に入りましたが、勉強はさせてもらえず、毎日、東練兵場にさつまいもを植える作業に出ていました。毎日1人ずつお休みがあって、8月6日がちょうど私の休みの日でした。

 

 6日の朝は、父親が江波の三菱へ、すぐ上の姉が観音の三菱へ働きに出たあと、私と3歳になる弟と母親の3人が残っていました。

 

 警戒警報が解除されてホッとしていたとき、お米の袋をつくろっていた母親が「今の飛行機の音は日本のじゃない。敵機だ」といったとたんにピカーッとものすごい閃光が走りました。縁側にいた私はそのまま家の中に飛び込みましたが、とたんに真っ暗になって、何がなんだかわかりません。「ああ、これはアメリカに狙われたんだな」と思い、3人で声をそろえて「助けて、助けて」と叫んだけど、誰一人助けに来てはくれませんでした。

 

 親子3人で下敷きになった家の瓦礫の小さな穴から必死になってはい出しました。ペチャンコになった2階建ての家の瓦礫の上に立って見ると、広島中が消えてなくなり、はるか向こうから火の手が上がっていました。かわいかった3歳の弟の顔はサッカーボールのように腫れ上がって火ぶくれがたくさんできていました。母親の顔はお化けのように髪はざんばらになって、顔は右半分赤紫色に腫れ上がっていました。いいようもない悲惨な姿で、この世の地獄だと思いました。

 

 逃げようにも13歳の私には方角がわかりません。そしたらおばちゃんが1人走って向こうに逃げていったので、その人の後について、弟を背負い、母に肩を貸し、がれきの山の中をそろりそろりと歩いて行きました。京橋と栄橋の間の土手筋に家がありましたが、その家には建物疎開で移ってから2週間もたっていませんでした。だから余計に方角もわかりませんでした。1人の男の人が頭から血を流しながら「干潮だから、皆さんで栄橋の下へ逃げましょう」と指示してくださり、それに従って橋の下まで行きました。

 

 これから先どこへどうしたらいいのかわからないし、これ以上橋の下にいれば、満潮になるだろうと思っていたら、土手から「下にいる人は満潮になるから上がってきなさい」といわれました。しかし、上へ上がろうにも、大きな段差の石段です。私は弟を背負って上がれるけれど、母親にはとても無理だと思いました。せっかくここまで逃げてきたのに、今度は水でおぼれ死ぬのかと思ったら、情けなく、悲しくて、本当にアメリカを恨みました。そしたら川一つへだてた所から父の声が「どこにいるか、はっきりとした所をいえ」と聞こえたので、「栄橋の下にいる」といったら、「今すぐ行くから、そこから動かずに待ってろよ」といってくれました。それで父親が土手に連れて行ってくれましたが、土手には兵隊さん、私たちのような女、子どもがたくさんいました。

 

 空き地があったので、そこへ拾ってきた布団を敷いて、3人とも横にしてくれました。回りでは「水、水」という声ばかりでした。

 

 そのうち、東警察署から、元気な者は治療してあげるから出てきなさいといわれ、父が弟を背負い、私はびっこをひいて出て行きました。弟の治療をしてくれましたが、それは油や赤チンを塗るだけでした。弟がすんで、私が「先生、私こんなになっているんですけど」といったら、「ヤケドだ」といわれました。「娘、背中を向けて」といわれたから、背中を向けたら、背中も焼けていました。父親が帰ってきて、もうどこへ逃げるか考えなくてもいいんだと思ったら、気が抜けて、治療を受けながら、ふっと失神してしまいました。気がついてからまた3人で、びっこをひきながら帰りました。そのときにはもう、観音の姉も帰っていました。6日の晩は、土手で一晩過ごしました。

 

目の前で死んだ弟と母

 

長崎 父親に抱えられた幼児(山端庸介氏撮影)

 7日の朝早くに、父が爆心地から離れている母のいとこの所へ浴衣をもらいに行き、担架を借りて帰ってきました。東署から「出てこい」といわれ、担架に大きな布団を乗せて、母と弟を横にして、父が前を抱え、17歳の姉が後ろを抱えて運びました。東署前まで行くのが大変でした。

 

 東署に着くと、1台のトラックが停まっていて、行き先も何も告げずにトラックに乗せて走り始めました。かんかん照りの暑い日で、光を遮る傘一つありません。母と弟と、このトラックの上で本当に死ぬのかと思いました。着いたところが安芸郡府中小学校でした。府中に着いた日は3人ともヤケドの治療をしてもらいましたが、8日の朝は私だけでした。なんであとの2人はしてくれないのかと父がつめよると、「死ぬような病人に塗る薬はない」といわれました。腹を立てた父が兵器敞で婦長をしている母のいとこのところへ朝行って、毒下しをもらってきました。翌日、母親は宇品の船舶練習部から来てくれた看護婦長の治療を受け、ヤケドでぶら下がっている皮をハサミで切ってもらいました。母親がしきりに痛いといっていた右手の皮を切りとり、ウミをとりのぞくと、骨が見えていました。

 

 その後、軍曹が宇品の船舶練習部に連れて行ってくれ、そこで少し治療していただきました。そのとき、軍部のお偉いさんが来て、「これはひどい。この娘は背中もむけている。背中を撮るように。この2人は寝たまま写真を撮るように」といって写真を撮られましたが、それも戦後アメリカに没収されたのか、全然わかりません。

 

 まもなく終戦になって軍も解体され、私たちも居場所がなくなり、袋町の救護所に移りました。袋町の救護所では、島先生がとてもよくしてくれ、「おかあさん頑張りなさいよ。薬が入ったらすぐに手当てしてあげるからね」といっておられました。しかし、8月22日の夕方から、弟の靖男が家族みんなの名前や兵隊さんの名前を呼んで、やかましくて寝られないからといって、遺体安置所へ移されました。

 

 そこへ移されても、まだみんなの名前を呼んでいましたが、23日の朝早く、「きれいなきれいなまんまんさんが見えたから、僕は行くね」と一言残してあの世に行きました。生きながら、遺体安置所に置かれてほんとうにむごいと思いました。まだまだ生きたかっただろうに、たった3年しか生きられませんでした。そしてそのまま、段々重ねにされ、油をかけられて虫けらのように焼かれました。それを見ていた父親はどんな気持ちだったかと思います。

 

 一人息子を失い、母の容体も急に悪化しました。弟が死んでからちょうど1週間目の29日の朝、「桃が食べたい、桃が食べたい」といいながら次第にものをいわなくなり、全身に小豆色の斑点が出て、薬もないままにこの世を去りました。私は殺されたと思っています。

 

 戦後は、父親の故郷に戻りました。田舎では「原爆にあった者の側へ行くとうつる」といったいわれのない差別も受けましたが、それに耐え、相手が誰であっても間違ったことに対しては「それは間違っているのではないですか」とはっきりものをいい、学校もやめて母親代わりになって下の妹2人の面倒をみてきました。大切な母親を失い、貧乏な生活のなかで、死にたいと思ったこともありましたが、弟や母親、戦争で亡くなられた多くの方たちのことを考えると、生かされている命を無駄にしてはいけないと思って生きてきました。

 

 戦時中は、竹槍訓練をさせられ、その前に1発銃を撃たれたらたった一つしかない大事な命を失うじゃないかと思いましたが、そんなことをいえる時代ではありませんでした。憲兵隊に知れたらひっぱられるので、思っていても口に出すことはできませんでした。手足がなくなったら、口でいけ、歯でいけといわれましたが、それこそバカげていると思いました。

 

 敵を迎え撃つ飛行機1機すらなく、市民は食べるものもなく、兵隊さんも食料も武器もない。とっくに負けているのに、大本営発表で「我が方の戦果大なり」といっていました。もっと早く戦争をやめていれば、沖縄戦や広島、長崎の原爆の犠牲もなくてすんだのにと無性に腹が立ちます。

 

 原爆と戦争展のパネルに「貧乏になって戦争になった」と書かれていますが、本当にそのようにして無謀な戦争を始めて320万もの人が亡くなりました。どうしてやめることができなかったのか。東条英機は死刑になったかもしれませんが、国の指導者は、自分たちは安全な場所にいて、私たち国民のことはなんにも考えてくれていなかったと思います。

 

 戦争をして良いことは何もありません。二度と戦争はしてはいけないし、核も使ってはいけません。私たちが味わったようなむごい生き地獄をくり返すことのないように、今の若い人たちが私たちの体験を伝えていってほしいと思います。今の世の中は、大学を卒業しても就職先がみつからない状況で、職もなくホームレスになっている人もたくさんいます。日本は平和、平和といっている間に、とても一言で平和とはいえないような世の中になっています。戦争をせずに、平和な世の中が続くように、次世代に伝えていってほしいと思います。

 

原爆と戦争展会場で体験を語る被爆者たち(2018年8月、広島市)

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