2005年原水爆禁止広島集会(原水爆禁止全国実行委員会)が6日午後1時から、広島市中区大手町の県民文化センター・大ホールでおこなわれた。地元広島の市民をはじめ、60年目の沈黙を破り語りはじめた長崎の被爆者が参加し、北は茨城、南は沖縄まで全国20をこえる都府県、海外からアメリカをふくむ5カ国の700人が参加した。毎年恒例となった峠三吉・市民原爆展と、平和公園内でのパネル展示、さらに原水禁集会のチラシ7万枚、長周新聞の「原爆を許せと説教する平和」の号外3万枚、そして8月に入ってから宣伝カー3台を使った宣伝(集会宣言の内容)が被爆市民の深い共感を呼んだ。こうして、峠三吉の原点に返った運動への広島市民の親しみと、全国から切実な思いを持って広島に来た団体、人人もふくめ150人が飛び入り参加。被爆市民と全国、世界を結び、原水爆使用を押しとどめる斬新な平和勢力を結集する画期的な集会となった。
50年8・6の原点が勝利 平和運動再建の展望
はじめに原爆でなくなった数十万の人人へ黙祷を捧げたあと、同会・平野照美事務局長が「基調報告」をおこなった。平野氏は、「原爆と峠三吉の詩」原爆展が全国キャラバン隊行動によって広がり、衝撃的な反響を呼び起こしてきたこと、今年六月に長崎でも開催され、「長崎の被爆者が戦後60年の沈黙を破ってほとばしるように原爆投下者への怒りを語りはじめ、“祈りの長崎”はまったくの虚構であることが証明された」とのべ、世界で唯一原爆の惨状を知る広島、長崎の被爆市民がほんとうの声を若い世代に全国、世界に伝えることは、原水爆の使用を押しとどめる大きな力になるとのべた。
そして現在、「アメリカが核拡散防止条約再検討会議で“米国の核開発だけを認めよ”と主張し、“核の先制攻撃”を公言し、新型の核開発に着手し、中国や朝鮮を敵視し、実際に原爆を使用する準備を急いでいる」「岩国基地をはじめ、広島湾岸など、アメリカの極東核戦略を支えてきた嘉手納など沖縄米軍基地と連動して、日本全土を核攻撃基地化の最前線基地にされようとしている。日本とアジアを原水爆の火の海に投げこむということは、日本民族にとってはかりしれない屈辱であり、絶対に許すことはできない」とのべた。
さらに平野氏は、「“原爆使用が正しい”などといわせない力をつくった、1950年8・6平和斗争の原点に立ち返ることだ」と指摘、「広島、長崎の新鮮な怒りを共有し、原爆投下が“戦争を終結させるためであった”というアメリカの欺瞞を一掃し、原爆投下の犯罪性をあいまいさなく暴露する」ことを明確にした。
同時に「和解」を叫ぶ「反核平和」の平和運動のインチキを明らかにし、アジアと世界の平和愛好者との国際的な連帯の力でアメリカの原水爆の使用を許さない原水爆禁止の運動を再建することを呼びかけた。
広島や長崎の本音発言 広島・長崎の被爆者
つづいて広島や長崎の体験者の意見発表に移った。はじめに広島の被爆者・松田政榛、佐々木忠孝の両氏が発言した。
松田氏は、被爆者として市内のあちこちで悲惨な光景を目にし、「一人でも助けなければ…」との思いで助けて回ったこと、「兵隊さん助けて」との声で下敷きの女の子を助けて回った経験を語り、「また戦争がはじまる状態になっている。またくり返すようなことにはなってはいけない。みなの幸せのためにがんばって下さい」と訴えた。
呉の被爆者・佐々木忠孝氏は、被爆者として「厚木基地から岩国核基地をつくることは絶対に許せない。口をつぐんでいてはいけない」と話し、かつての戦争で海軍は13万人も死んだこと、「なぜこれだけの人が犠牲にならなければならないか」と痛恨の思いを話し、「瀬戸内海を戦争の真似事をしないように国民の声として反対してほしい」と訴えた。
6月の長崎原爆展のとりくみではじめて体験を話した長崎の被爆者・永田良幸氏は、「原爆は12歳のとき、兄弟両親ふくめて6人を亡くした。なぜアメリカは沖縄、東京をめちゃくちゃ爆弾を落としたのか。憎くてたまらない」とのべ、下関の原爆展との出会いで語るようになったことを話し、44歳で亡くなった母親が原爆でおっぱいも、顔も、手の皮膚も垂れ下がり、鬼のような形相にさせられたこと、「お袋は泡だらけになって死んでいったんです。わたしには水を求めなかった。どうせ死ぬならいっぱいの水を飲ませてやりたかった」と憤り、悔しさを涙ながらに語り、長崎ではいろいろ政治団体があって語るのが嫌だったが、下関原爆展の方と縁があって目覚めたこと、「やはり戦争があって早く死ぬのは女と子どもだ。いまの子どもは幸せに生きてほしい。わたしのように苦労をしないでほしい」と訴えると、会場の参加者から大きな拍手が送られた。
全国的な広がりに確信 下関の被爆者
つづいて下関ではじまった原爆展運動を担ってきた下関原爆被害者の会の石川幸子氏が壇上で発言した。石川氏は、被爆直後の広島で兵隊だった夫を捜している途中に出会った光景にふれ、死にそうな中学生に「“この仇絶対にとってやるから安心して成仏せい”と叫んでいたことが忘れられない」と話した。
さらに被爆者の会が再建され、体験集を出したりしたが、「駅で開催する原爆展を妨害され、いろいろ困ったが、長周新聞さんの協力で原爆展が大成功をおさめたときの感動は、いまでも忘れることはできない」とのべ、長崎の人たちが抑圧を突き破って語りはじめたことを喜び、「わたしたちは時間がありません。命あるかぎり未来ある子どもたちに語りつづけ、核兵器が地球上からなくなるよう話していきたい」と語った。
つづいて「第6回 広島に学ぶ小中高生平和の旅」の小・中・高生、引率教師ら約140人が登壇。はじめに日本で親しまれてきた「もみじ」「みかんの花咲く丘」「荒城の月」の歌を心をこめ合唱したのち、構成詩をおこなった。子どもたちは二日間の旅のなかで、「平和の会の目的」で団結し、17人の被爆者から被爆者の思いに学び平和を担う集団へと成長してきたこと、その感想を小学生から高校生までが発表した。「青い空は」を元気よくうたい、最後に「平和宣言」を読みあげしめくくった。未来を担う子どもたちのいきいきとした成長ぶりに参加者も希望のまなざしで見つめ、大きな拍手に包まれた。
民族の怒りを全世界へ 原爆展キャラバンの報告
全国キャラバン隊の報告を劇団はぐるま座の男性団員がおこなった。男性団員は、今年はじめて長崎で峠三吉の原爆展をおこなったこと、「怒りの広島」にたいして「祈りの長崎」といわれてきた長崎の被爆市民のなかで、ほとばしるように語られたアメリカへの怒りを学び、戦後60年、長崎市民のほんとうの思いは抑えられ、意図的に加工されてきたものだったと報告した。そして「長崎の怒りは、沖縄や東京、大阪、日本全国で虫けらのように親兄弟を殺された民族としての怒りであり、この日本を原水爆戦争の戦場に投げこんではばからぬものへのわたしたち全国民の怒りだ」とのべ、この怒りを全国、世界にとどろかせたいと力強く発言した。
つづいて広島市民原爆展を精力的に担っている広島の会の真木淳治氏は、「“広島、長崎の思いを若い世代、全国、世界に広げよう”とのスローガンそのままの気持ちで原爆展をとりくんでいる」と語り、同じ学校で350人、同級生が55人も亡くなっているとのべ、昨年と違って若い世代の参観が多いこと、「もっともっと多くの人人に伝え、原爆を使わせないために次世代に伝えていく」と発言した。
フィリピンの5月1日運動からメッセージが来ていることが紹介された。
岩国・沖縄からも決意 核攻撃基地化許さぬ
ついで基地の街である岩国の森脇政保氏と沖縄の野原郁美氏が意見発表をおこなった。
森脇氏は、米空母艦載機部隊を厚木基地から移転させる問題で、岩国でも歴史的にうっ積した怒りが噴き出し、市連合自治会が反対決議を上げ署名をはじめ、女性団体連絡協議会でも署名がはじまっていると報告した。そして「この運動は子どもの未来、平和の問題、子どもを生み育てる女性の問題、男性だけに任せていてはいけない」と戦後60年、米軍の餌食になってきた女性たちが力強く立ち上がっているとのべ、「固く団結し原水爆戦争を阻止するためがんばりたい」と語った。
沖縄の野原氏は、米軍キャンプ・ハンセン内「レンジ4」都市型戦斗訓練施設での実弾射撃訓練に抗議するたたかいとかかわり、沖縄で60年たった今日でも許しがたい事件・事故が起こり、かつてなく反発が強まっていること、「このたたかいの原点が沖縄戦の深刻な体験のなかにある」とのべ、「沖縄戦で、米軍がどれほどの兵力で残虐な無差別大量殺りくをおこなったのか、それが最初から沖縄の基地化を狙ったものであり、日本単独占領と中国侵攻するための大殺りくだったという真実に愕(がく)然とした」とのべ、「沖縄戦の体験をこの骨に刻んで生きていきたい」と決意をのべた。
集会は最後に集会宣言が読みあげられ、市民に訴えるデモ行進に移った。デモ行進では、平和の旅の子どもたちが先頭に立ち、峠三吉の詩を群読したり、集会アピールを市民に訴え、シュプレヒコールをし、デモへの参加を呼びかけていった。峠三吉のデモ行進として市民も温かいまなざしで迎え、デモに参加する婦人もいた。市民のなかには手をふる人、「今年もやってきたんですね」と親しみをこめて語る商店主など、市民の思いをあたりまえに訴えその思いを代表してきた運動が被爆市民のなかでも定着してきたことを示すものとなった。
8月6日にむけた取組 広島市民の声を代表
8・6広島集会にむけて、原水爆禁止全国実行委員会は広島市内で連日、精力的な宣伝活動をくりひろげた。集会は、「原爆と峠三吉の詩」広島市民原爆展(メルパルク)や、平和公園「原爆の子の像」前での連続的な原爆展の活況と結びあって、広島市民の親しみをこめた熱い期待と全国世界の人人の共感を集めて開催された。
この間、広島市内では、アメリカが原爆投下を謝罪せず広島湾一帯を核基地化しようとする策動を正面から批判、集会参加を呼びかける大量のチラシとともに、「原爆を許す」「和解」を叫ぶ「反核平和」のインチキを明らかにし、原爆投下者と真向からたたかわずに原水爆を禁止することはできないことを訴える長周新聞号外をふくめて八万枚が配布された。
この訴えは原爆で苦しみながら死んでいった肉親、知人を思い、長年の屈辱に耐えてきた被爆市民の思いと共鳴しあい、市民世論として発展した。
7月22日から連日、原爆展キャラバン隊が平和公園での原爆展を展開。戦後60年を機に、第2次大戦と戦後の歴史の真実を求め、現状打開の意欲を持って全国各地、海外から広島を訪れた人人の深い共感と支持を集めた。
8月1日から開催された広島市民原爆展は、文字どおり広島市民の原爆展として定着し、多くの被爆市民が気迫をこめて真実を語り、市内の若い世代、全国から集まった人人が共銘し、沖縄戦や東京空襲と重ねて、アメリカの原爆投下の目的と犯罪をめぐって論議が発展。1950年8・6平和斗争の原点に立ちもどって、現実にすすむ原水爆戦争の危険を押しとどめることのできる運動路線についての関心が強まった。
8・6集会の5日まえからは、2、3台の宣伝カーが広島市中心部や平和公園内で、広島の被爆市民の心を代表し、「加害責任」論、「許す」「和解」などの欺まんのベールをはぎ、アメリカに謝罪を求め、広島周辺をふたたび原水爆の惨禍におとしこめる屈辱をはねのけようと、街宣活動がはじまった。
この宣伝には、これまでの運動の蓄積のうえに、「峠三吉の時期の原水禁」として信頼を強めてきた市民から、いたるところで共感と期待の声がかけられ、全国から訪れた平和運動の活動家が衝撃的に受けとめ、真剣に聞き入る光景がくり広げられた。こうしたなかで、「集会にはぜひ参加したい」との声が数多く寄せられていた。
8月5、6日には小中高生平和の旅がとりくまれ、平和公園で被爆者の話を聞き、注目を浴びた。
これらの全活動は、8月6日にむけて、大多数の広島市民のほんとうの声を代表し、全国、全世界から広島を訪れた人人に大きな存在感を示し、ひじょうに強い印象を残した。
<集会宣言>
60年まえのあの日、突如として原爆が投下され、広島と長崎が焼きつくされ、罪のない女、子ども、老人、学生、勤め人など無辜(こ)の非戦斗員数十万人が無惨に殺された。人間のしわざとはいえぬ原爆を投げつけたアメリカは、今なお謝罪をしないばかりか、逆に「正義のためであった」と開き直ったまま、またも原爆の先制使用を叫んでいる。しかも敵は中国、朝鮮だといって、日本を核攻撃基地として再編し、アジアと日本を原水爆戦争の火の海に投げこむというのだ。とくに広島に隣接する米軍岩国基地に厚木基地を移転し、広島湾を核攻撃基地として増強するというのは、被爆地にたいするこの上ない冒とくであり、日本人全体への屈辱以外のなにものでもない。
戦後60年間、原水爆は使用されなかった。それは広島を起点に全世界的に結集した原水爆禁止の力によるものである。朝鮮戦争がはじまった1950年、占領軍の戒厳令のような弾圧下の広島で、原爆に反対するたたかいが切り開かれ、たたかいはたちまちにして全国に広がり、五年後には世界大会が開かれ、朝鮮戦争でも、ベトナム戦争でも原爆を使用させず、「原爆が正しい」などとはいわせない力をつくった。ところがそれ以後、原水禁運動は党利党略や売名や出世の道具のようになって、原爆投下者とはたたかわず、広島市民からは「年に一度のお祭り騒ぎ」といみ嫌われ、すっかり形骸化している。
広島、長崎への原爆投下は戦争を終結させるためにはまったく必要のないものであったことは、アメリカ政府の高官も認めてきたものである。日本の降伏は早くから既定事実となっているなかで、ソ連を脅し、日本を単独で占領する目的のために、眉根一つ動かさずあのような残虐な行為をやってのけたというのが歴史の真実である。この犯罪者の性根は変わっておらず、ますます横暴をきわめている。
近年では、広島の子どもたちが「じいちゃんや、ばあちゃんたちが悪いことをしたから原爆が落とされた」と教えられ、被爆市民は腹を立ててきた。進歩派と自称する人人やマスコミや行政は、「被害の文句ばかりいってはならず、侵略の加害責任を反省せよ」と、大合唱してきた。日本の朝鮮、中国、アジアへの反省をいうならば、戦争に引き出された者ではなく、戦争指導者に求めなければ意味はない。さらに現在アメリカがやろうとしている朝鮮、中国、アジアへの核戦争による侵略をやめさせるというのでなければウソである。なによりも自分たちの国である日本へのアメリカの侵略と、それに飼い犬のようになって下請戦争までひき受けている小泉政府の態度を容認するのでは話にならない。これではアジアの人人からの信頼と友好団結などありえないのは当然である。
近年ではまた、「反核平和」といいながら、原爆を受けた側に「真珠湾攻撃を謝罪せよ」とか「報復の連鎖を絶って、原爆を許せ」とか、「和解せよ」などと叫ばれている。被爆していない者が勝手に「許す」とか「和解する」というバカげたことがあるだろうか。しかも、原爆を投げつけた側が謝罪しているのならともかく、また原爆を使おうとしているのに「許す」というのは屈服であり、実際には原水爆の使用を応援するインチキだといわざるをえない。
原水爆戦争を押しとどめる力を結集するには、広島と長崎の原爆投下への新鮮な怒りを全世界に知らせることが第一に重要なことである。そして、実際に原爆を投下し、現在も使おうとする、人類への犯罪者・アメリカにたいして、その手足を縛る力を結集する以外にない。そのためには広島と長崎の被爆市民が声を強めること、その怒りを共有して若い世代が全国的に平和のために行動すること、そして全世界とりわけ中国・アジアの平和愛好者との友好連帯を強めなければならない。
わたしたちは、政党政派や思想信条をこえて、被爆市民をはじめ、原水爆の禁止を願う全国の人人と手をたずさえて、この運動を全国、世界に広げていくことを決意するものである。
スローガン
★広島、長崎の新鮮な怒りを全国、世界に伝えよう!
★アメリカは原爆投下の謝罪をせよ!
★あらゆる原水爆の製造・貯蔵・使用の禁止!
★日本の核基地を持ち去れ、広島湾を核基地にするな!
★中国、朝鮮、アジア近隣諸国と敵対でなく友好を!★峠三吉の時期の原点にかえり、力ある平和運動を再建しよう!
集会発言
被爆し救援作業に街中断末魔の呻き 広島・被爆者 松田政榛
わたしは原爆をこの地で受けた。投下されたときは、広島城の東側にいた。当時、わたしたちの部隊は100㍍道路を造るように命令を受けていた。東京で10万人死に、広島でそういうことがあってはいけないから、家を壊して道路を広く造るというものだ。原爆が落ちる3日まえに作業が終わって、つぎの作業に移るべく戸坂のほうに行こうと兵舎の門を出て、歩いていた途中に空襲警報が鳴った。しかしそれはすぐに解除になった。すると、また飛行機が上空に飛んできた。グルーっと飛んでいたのが、ハッチが開いて白いものを落としてきた。それが原子爆弾だった。
ドーンと弾けて、わたしは吹き飛んで何かに叩きつけられた。家の陰になっていたから火傷はなかった。どのくらいたっただろうか、しばらく気を失っていた。やっと気が付いて立ち上がったら、「兵隊さん助けて」と声が聞こえた。周囲のみんな家の下敷きになったりしていた。家はすべて倒れていた。川まで行ったら女の人がいて、気を失っていた。それを引き揚げて人工呼吸したが、もどらなかった。立ち上がって見ると、また「兵隊さん助けて」と声がした。崩れた鉄道の寮のなかに何十人と下敷きになっていた。あれはもう、断末魔のうめきだった。一生懸命それを引っ張りだしていたが、材木が引っかかってなかなか出すことができなかった。瓦をのけ、材木をのけ、2人、3人目を出したときには、いっぱいいた人間が一言もものをいわなくなった。
「これはいけんわい。どんな爆弾を落としたんじゃろうか」と思って裏山に登ってみた。市内中心部は火がついてなかった。ドンとやられて潰れているばっかりだ。火は、周囲から回っていった。川船に乗って相生橋まで行くと、家の下敷きになっていた人人がはい出してきて、立ち上がったと思ったらバタンと倒れていく。顔もかばわずに正面からバタンと倒れるから、「こりゃどうしたんじゃろうか」と思った。すぐに船にもどって、こいで工兵隊のところへ行ったら、将校が地べたをはい回っていた。足が立たないのだ。
中隊を飛び出していたので帰らなければと思い、白島のところまで来たら、ここも家がみな倒れていて、それに火がついていた。中隊もみんな全滅だった。城もなかった。B29を撃ち落として捉えた捕虜をうちの部隊は3人預かっていたが、それも地べたをはっていた。兵隊6人、将校3人も立ち上がることができず、はい回っていた。「どうしてこんなになるんじゃろうか」と不思議でならなかった。
師団司令部に行って兵隊を集めてもらおうと思って向かった。すると、朝出勤してきた人だろう、看護婦さんが身体が半分土に埋まって足を逆さまに出して死んでいた。ひどいことだと思った。手がつけられなかった。
指示を仰ごうと思って行った司令部も何もなかった。みんな吹き飛んでしまって、生きたものすらいなかった。一人でも人間を助けないといけないと思った。紙屋町から電車通りに出ていくと、防空壕のなかにいた女の人が「助けてください」という。メガネをかけた看護婦さんだった。メガネには玉が入ってなかった。引っ張り上げて「あんたこのままおったらダメになるよ。生きた人間といっしょになって励ましあっておりなさい」と声をかけた。
紙屋町に停まっていた電車には、つり革につかまったまま死んでいる人が4人、座ったまま5人死んでいた。どうすることもできんが、生きた人間をとにかく助けるので必死だった。みんな苦しんでいるんだから。
川に行ってみると、いっぱい人が入っていた。少し流れがくると、みんな流されてしまう。わたしは硫黄島へ行くときに、潜水艦に撃沈させられて、太平洋のなかを3日間流されたことがあった。水の中にいたらダメになることを知っていたから、「みんな上がれ」といって上がれる人間を上げた。
わたしも軍隊に八年いた。硫黄島では2万4000人がみんな戦死した。アメリカは2万6000人の戦死者と負傷者が出た。それだけの激戦地だった。わたしは手が上がらないから帰らされて、その直後に玉砕してしまった。その後わたし自身は原爆にあい、こうして今日みなさんのまえで話をさせてもらっているしだいだ。
いままた戦争がはじまるような状態になっているけれど、みなさん考えてみてください。このままいったのでは、戦争をまたやるようなことになってしまう。それではいけないから、どうか気をつけて、みなさんの幸せのためにがんばってください。よろしくお願いします。
岩国への核配備は許さない 呉市・被爆者 佐々木忠孝
いま横須賀海軍基地の北の方にある厚木飛行場が、岩国に移転をしてきて核基地として中国大陸、北朝鮮をにらんで、万全の態勢をつくろうという話がある。岩国に核基地をつくることは絶対に許すことはできない。かならず声を出して、反対をする腹づもりで生活してほしい。
わたしのいる呉には、かつて呉鎮守府という海軍基地があって、戦艦大和をはじめ巡洋艦、航空母艦、潜水艦など、戦争のための軍艦がたくさんいた。戦争が負けばかりがつづくようになり、艦船80隻余りが沈められ、水兵や将校13万人が死んだ。その合同慰霊祭が毎年あり、招待されて参加しているが、ほんとうに情けないことに、なぜこれだけの犠牲者を出して、戦争をしなければならなかったのかということが、悔やまれてならない。
昭和18年6月8日には、岩国沖の柱島で軍艦陸奥が不明の爆発を起こした。1500人ばかりの乗務員が死んだ。軍艦が進水すると、たいてい柱島近海へ試運転で遊泳する。わたしも大和に2回乗船した。柱島の近くで、43インチの主砲をいっせいに射撃するなどしていた。
大和は戦果を上げないまま沖縄戦に投げこまれて、徳山沖を出港して南九州の枕崎から200㌔の海上で、アメリカの空軍に見つけられて撃沈された。2800人乗っていた兵隊がほとんど戦死して、250~260人が生きただけだった。それもつぎの戦線に回されて、結局はほとんどの人が死んでしまった。
いまは呉には海上自衛隊呉地方総監部ができているが、もともとは潜水艦基地として発足した。いまはどうなっているかというと、8000㌧級の護衛艦といえない大きな軍艦がたくさん建造されて、呉基地に配置されている。潜水艦も常時10隻はいるだろう。呉から湾岸戦争をはじめアメリカに協力して、あちこちへ出港している。いまではイラクに500人ほど行っているが、輸送は呉から護衛艦が連れていった。
大黒神島を2000㍍の滑走路にして、岩国基地の飛行機の発着訓練をさせるという話が持ち上がった。このときは呉から柱島まで総反対してとん挫しているが、これが芽を吹き出すかもしれない。岩国基地を中心に瀬戸内海が、危機にひんしてくると思う。
呉には戦後、進駐軍が入ってきてすぐ広弾薬庫をつくり、江田島には秋月弾薬庫をつくった。いつこれが爆発するかと、わたしは住んでいても冷や冷やする。爆発すると呉の市内のガラスなど、吹き飛んでしまうだろう。
なぜ厚木基地を岩国に移転させなければならないのか。アメリカ軍はなにを目標に軍備拡張しているかというと中国だ。中国は世界第2位の産業国になり、軍備にも金を使っており、航空母艦までつくっている。このへんが心配になってきたので、みなさんこれからも世界情勢、政治情勢、日本政府の動き方などを十分監視して、中国にたいする岩国基地を核兵器の基地としないように、みなさんの監視強化をしてもらいたい。そういう気概で生活してもらいたい。
語れなかった長崎原爆展で目覚めた 長崎・被爆者 永田良幸
12歳のとき、原爆で兄弟と両親ふくめて6人を亡くした。なぜアメリカは沖縄、東京に爆弾を落としたのか。軍人もいない飛行機もないところに、生きたものもいないくらい、めちゃくちゃにしたのか。なぜ広島に原爆を落としたのか、つぎに長崎に原爆を落としたのか。
よくわたしは考えてみた。広島はウラン型、長崎はプルトニウム型を落としているが、同じ型を落としたのなら、戦争を早く止めようと思ってやったのかもしれない。だけど種類が違う爆弾をなぜ落としたのだろうか。わたしは人体実験をしたのだと思う。憎くてたまらない。
わたしは60年間、長崎で原爆の話はしていない。たまたま今年の6月に、「原爆と峠三吉」という下関原爆展を、長崎のアーケード街で展示していた。そこにおられたスタッフの方と話をしたら、宗教も関係ない派閥もない、自民党でもない社会党でもなかった。ほんとうにいままで語ることのできなかった人の声を、みなさんに知ってもらいたいので、ぜひ協力してくれませんかということだった。
当時、母は44歳で死んだ。わたしが12歳のときに、被爆地から500㍍のところで被爆した。空襲警報、警戒警報すべて解除になっていた。まえの晩から全部、防空壕に押しこめられていて、やっと解除になっていた。空襲警報、警戒警報をなぜ解いたのか、その責任は軍にあるのではないか、国にあるのではないかと、仲間たちに随分いったことがある。
ちょうど昼だったので、わたしは2階にいて3歳児をおんぶしていたが、いよいよ学校に行こうと思って行く準備をしていた。おふくろは下で洗濯をしていたが、同級生も呼びにくるし、行きたいからおんぶしている子どもを下ろしてくれないかという会話を、おふくろとしていた。おふくろから「もう二~三枚で終わるから、おんぶしておいて」といわれ、「うん」といっているときに、ものすごい飛行機の爆音がした。なんだろうかと思って、二階から窓越しに行こうかと思っていたときに、グァーンときた。バーンではなくて、グァーンだ。
「あー、家のわきに大きな爆弾が落ちたな」と思った。気がついたら家は崩れてほこりだらけで、おんぶした赤ちゃんを背負ったまま、足さぐりをするが足もとがわからない。なんとかつぶれた家のすき間からはい出して、家のうえのかわらによじ登った。家の裏が土手だったので、たたきつけられたが飛ばされなかったのだ。だからわたしも火傷をしなかったのだ。
防空壕まで逃げておぶっていた子どもを下ろしたが、おふくろがだっこしていた妹は死に絶えていた。そのとき母の姿を見たときは、ほんとうになんでか涙も出なかった。おっぱいはとけている、顔はとけている。手はボロみたいに垂れ下がっている。それでも、妹をだっこしていたのだ。3歳児を防空壕に下ろしていたが、その子どもにおふくろはおっぱいを飲ませようとするが、飲まない。顔でもなんでもとけてしまって、鬼みたいな顔をしている。おふくろもあきらめて、死んだ子どもをだっこしていた。
9日から13日まで死体の山だった。防空壕に行くと目が飛び出した人、ガラスが刺さった人、火傷でとけた人など、血だるまだ。13日に、弟とおふくろを、城山小学校の焼けていないところに、親せきの人とかついで寝かせていた。それまで水も飲まない、食べ物もない。避難しているところに軍人がきて、大村まで汽車が通っているから、浦上駅まで行くという。汽車が通っているから、それを使って大村まで行きなさいという。戸板にのせられて寝かせていたのだが、わたしは不安でたまらない。
また軍人がきて今度は長崎大学の焼け跡に、おふくろを戸板にのせて連れていった。14日の昼ごろにおふくろが、「洗面器をひらって来てくれ」という。「なにすっとか?」というと、「ちょっと便をしたい」という。わたしは、焼け跡をはだしでうろうろしながら、焼けた洗面器をひろってきた。12歳でおふくろのおしりの始末をしたのだが、おふくろは苦しかったと思う。12歳の男の子におしりを見せて、始末までさせて…。親せきの人を呼んできてくれというので、わたしが「なにをすると?」というと、いいたいことがあるという。
親せきの人と15歳の姉を呼んできて、おふくろの顔を見たら顔が泡だらけだった。もう死んでいるのだ。近所にいた人が、「おかあさん、なにか一生懸命でいっていたよ」といっていた。苦しかったんでしょうね。おふくろが、なんで一滴も水がほしいといわなかったのか、いまだにそれが歯がゆい。どうせ死ぬならば、水をたくさん飲ませてあげたかった。大やけどをしたら、水を飲ませるなといわれていた。おふくろはそれを知っていた。一滴も水をほしがらなかった。だからおしっこもしない、大便もしなかった。
仕方ないから死体を置いて帰った。その当時、焼くときはどうしたかというと、大きな病院とか団体では、一晩ぐらい死体をならべていた。それから材木、人間、材木とかさねて火をつけていた。15日の日におふくろにお別れをしに行った。おふくろにお別れをしたのは、兄弟でわたしだけだった。一体一体の死体を、顔を見ながら、おふくろじゃないか、おふくろじゃないかとやっていてやっと会えた。おかあさんは待っていたんだろう。1人で「おかあさん、さようなら」といった。
明くる日は、いっぱいまとめて焼いているので、だれの骨かはわからないが、そこら辺で焼かれたということで遺骨をひろった。いまたくさんの人を焼いたあとは、長崎大学歯学部になっているが、お地蔵さんの一つも立っていない。大きなクスノキがあるだけ。だからあの大きなクスノキの栄養になったんだなと思っている。戦争があって早く死ぬのは女と子どもだ。だから戦争とか核とかは、いま使ったらほんとうになくなるし、いまの子どもは幸せに生きてほしい。わたしのような苦労をしないでほしい。
おふくろは44歳で死んだが、もうわたしもそれ以上生かしてもらっている。おふくろができなかったことをなにかしてあげたいなと思っていた。下関原爆展の方と縁があったので、みなさんにほんとうのことを教えていった方がいいと思って目覚めた。まだ長崎ではしゃべっていない。いろいろ政治団体があって、地元では嫌なのだ。広島ではほんとうのことをしゃべりたかった。書いてはいないが、頭のなかにあるから、同じことは何回でもしゃべられる。昨日のことのように思っている。二度と戦争が起こらないように、若い人たちが原水爆禁止のためにがんばってほしい。
命のかぎり平和のために 下関原爆被害者の会 石川幸子
わたしは広島で被爆した。主人が浜田の部隊に7月20日に入隊した。当時主人は徴兵検査で乙種、丙種だった人の教育をしていたため、召集がかからないといっていたが、召集がきて「あーこれで日本も戦争が終わりだな」と出ていった。案の定、兵隊の着る下着も軍服も軍靴もなかったので、広島の被服廠に集積に行き7日に鹿児島の鹿屋に行くから面会に来るようにとのことで、広島に6日にむかった。いい天気だな、空襲もなくよかったなと行ったが、岩国の駅で全員おろされた。なんでも広島に大きな爆弾が落ちて、ここから先は汽車が行かないといわれた。夕方まで待っていたら廿日市まで汽車が行くというので、己斐に住む娘さんと汽車の中で知りあいになりその人の家まで歩いた。
広島の方は火の海だった。みんなどんどん逃げてきてそれにさからって己斐の方に歩いた。娘さんの家は大きな家だったが屋根瓦も吹き飛んでガラスもメチャメチャに割れていた。娘さんのお母さんが玄関で待っておられて「もう一度絶対に空襲にくるという話だから防空壕に行こう」といわれていっしょに防空壕に行った。夜中の2時ごろまで防空壕にいたが出て、家のガラスの破片などをかたづけて1晩泊めていただいた。
朝早くおいとまして主人を捜しに出かけたが途中、一番最初に目についたのが顔の皮膚のたれさがったおじさんだった。小さい5、6歳ぐらいの子どもの足も手も紫色にはれ上がった死体。河原を見れば死傷者がごろごろしている。電車はマッチ箱をつぶしたようにへしゃげて窓から手や足がぶらさがっている。電車のホームで中学生らしい少年が横たわっていて、数人の大人の人たちがいた。その少年の耳に口をあてて、「この仇絶対にとってやるから安心して成仏せえよ」と大きな声で叫んでいた光景を見て、わたしは涙が出た。どうしようもなかった。
そこから橋を渡って観音町にむかったが橋もみんな焦げている。街は燃えている。消防団の人に「いま観音町は中心だから入られません」といわれた。あれだけの惨状を見たら主人がとうてい生きていると思わなかった。残って捜すだけ捜したいと思ったが、勤めで休暇をもらって来ていたのでしかたがないので引き返した。
己斐駅で負傷者がはるかむこうまで並んでいる。駅員さんに「元気な人は廿日市まで歩いてください」といわれ、鉄道づたいに歩いていった。歩きはじめたとき、四年生ぐらいの子どもが「お姉ちゃん、どこに行くの」といってあとをついてきて、「学校から帰ったらお父さんもお母さんもいないので、宮島に親せきがあるからたずねていく」というのでトマトを2人で食べながら歩いた。わたしはその子のことがずっと気にかかっている。
わたしは長周新聞の人と知りあいになり、ぜひ高校生に体験を聞かせてほしいということで、それが長周新聞に掲載され被爆者の会に出会った。平成6年に下関原爆被害者の会を再建して以来、体験集を出版したり学校に出かけて被爆体験を話したり原爆展を開催したり、平和教室の子どもさんたちを家に呼んでお話をしたり一丸となってとりくんできた。原爆展をするのも下関駅のふれあいコーナーを貸さないと妨害されたり、いろいろ困ったこともあったが、長周新聞さんの協力も受けて原爆展が大成功したときの感動は、いまでも忘れることはできない。
そして下関からの呼びかけで広島の方たちとの交流をいく度か重ね広島市民原爆展を開催される運びとなった。下関被害者の会としてこれ以上の喜びはない。また今年は長崎の人たちも長いあいだの抑圧から立ち上がり、原爆展を開催して大成功をおさめた。いままで宗教問題等で「祈りの長崎」といわれていた人たちのほんとうの心を知った。展覧会場でも堰(せき)を切ったように被爆体験を話された。
わたしたちは6月25、26日と会長さんをはじめ18名で長崎原爆展に行った。会場に着いたらすぐ小学校の先生が1年生から3年生までの生徒さんを20名くらい連れてこられていて、下関被爆者の会の長崎出身の方が生徒さんたちに話され、熱心に聞かれいろいろ質問もされて喜んで帰られた。またわたしたちのテーブルでは、大学を卒業して職についたけれど、なにかほかにもっとできることはないかと31歳で医大生だという、若い方に話をした。戦争中のこと、戦後のことを詳しく聞かれて、また友だちを連れて見にきますといって帰られ、若い人がこんなに熱心になられわたしたちはたいへんうれしく思った。
わたしたちも命あるかぎり未来ある子どもたちに語りつづけることが義務だと思う。二度と戦争が起こらないように地球上から核兵器が1日も早くなくなるように、わたしたちにはもう時間がない。日本の未来はどうなるのでしょう。若い人たちに託すしかない。目標を決めて一生懸命がんばってほしいと思う。
原爆展全国キャラバン隊の報告 怒りに満ちた長崎 劇団はぐるま座団員
わたしたち「原爆と峠三吉の詩」原爆展全国キャラバン隊は、6月25日から9日間、長崎西洋館でおこなわれた「長崎原爆展」にむけた宣伝のため、5月末から、1カ月間長崎市内の商店街、公民館、市場、駅前などの場所で約20回の原爆展をおこなった。
いままで長崎は、同じ被爆地の広島が「怒りの広島」と呼ばれるのとは対比的に、「祈りの長崎」と呼ばれ、圧倒的多数の長崎市民の痛苦にみちたなまなましい体験や思いは長く表面にはあらわれてこなかった。「祈りの長崎」といって素直にうなずく市民はいないが、だれもが原爆の体験とほんとうの思いを公然とは語れない圧迫を肌身に感じており、それは実際に原爆展をおこなったわたしたちにも、苦しいほど伝わってくるものだった。
戦後、アメリカは、原爆投下にたいするいっさいの言動を強圧的に禁止する一方で、「戦争を終結させた原爆投下に感謝し、日本人は反省せよ」という宣伝をカトリック信者の永井隆などを長崎の代表のように祭り上げてさんざんにやってきた。それは、バチカンのローマ法王に二度も表敬訪問した本島市長など、行政の側からも、「被爆体験を平和教育の原点にしない」と定めたり、被爆遺跡の処分などあからさまな被爆体験の抹殺をすすめる一方で、「憎しみや怒りを持ってはいけない。自分の罪を反省し、許しあうことこそ平和だ」と、平和をとなえながら被爆市民を罪人とみなす方向へ傾斜し、被爆体験とその怒りを語ることがあたかも悪いことで、それを許す方が徳のある人であるかのような風潮がつくられてきた。
しかしこのような屁理屈がどのように巧妙に、また強圧的に仕組まれたとしても、原爆で無惨に親兄弟を殺され、その後につづく苦しみを血を吐く思いで耐えてきた被爆市民に通用するはずもなく、「祈りの長崎」は、外側でつくられた虚構にすぎなかった。
長崎市内では、下関原爆展事務局によって峠三吉の詩「すべての声は訴える」を掲載した長周新聞号外4万枚が配布され、キャラバン隊も5回、6回と展示を重ねていくなかで、長崎の人たちは「祈り」どころか原爆投下者への激しい怒りをともなって、胸にとざしてきた思いをほとばしるように語った。とくに、原爆は戦争終結にはまったく必要がなく、アメリカの日本単独占領と戦後も戦争をつづける計画のもとに落とされたことを明確に示した峠三吉の詩との出会いは長崎の人人にとって衝撃的な反響を呼び、被爆者たちの声はいちだんと激しくなっていった。
商店主の協力のもとでおこなった新大工町の天満市場での展示では、パネルを広げるなり食いつくように買い物に来ていた年配者たちがパネルに集まり、ガラスの刺さった腕をまくって見せる人、帰らなかった肉親を思いながら被爆写真を手でなでていく人、合掌して一枚一枚拝みながら参観する人、また、あの日から帰らない親兄弟がどこかに写っていないか目を凝らして捜す人など、わたしたちの目の前でくり広げられる厳粛な光景に長崎の人人の60年かかえてきた心身の傷の深さ、重さを思わずにはおれなかった。
ある老婦人は、「わたしは原爆病で手術をした」といって震える手で服をめくり、脇から腰にかけて残る切り傷を見せ、「この傷はいまでも痛むんですよ。六カ月入院して助かったけど、主人に早く死なれて四六歳から後家になり、この傷をかかえて働いてきた。わたしはこの傷をみんなに見せてやりたい。アメリカに行ってこの傷を見せて文句をいいたい。アメリカをやっつけてやりたかよ!」と迫るような目つきで訴え、その後も去りがたい様子で参観者をつかまえては傷を見せて訴えていた。いつも顔をあわすお客さんから聞くはじめての話に、お店の店主たちも目を丸くして身を乗り出すようにして聞き、おたがいの体験をとめどもなく語りあった。
19歳で被爆した婦人は、ふとんをかかえて大村の病院まで弟をひきとりにいってもすでに亡くなっていたこと、2番目の弟は自宅で蒸し焼きのまま転がり、母も祖母も、そして生後間もない弟も家とともに焼け尽きて膝の関節しか焼け残っていなかったことを話し、「はがゆくて、はがゆくて……なんでこんな目にあわなければいけなかったんですか。この年になると兄弟が1人もいないのが一番身にこたえる」と悔しさに唇を震わせて語った。
涙で目を真赤にはらして「わたしはアメリカを信じていません」と語り出した婦人は、三菱兵器で働いていた仲のよかった友人が倒れてきたクレーンに腕をはさまれて逃げるに逃げられなくなり、腕時計をはずして「これを形見として母に渡してほしい」と同僚に託したことを思い起こし、「八月になるといつも胸が苦しくなる。アメリカはベトナム戦争でも枯れ葉剤を使って子どもたちが被害を受けた。肉親が肉親を焼かなければいけなかった苦しみがアメリカにはわかっていない。日本の若者にはこの歴史をちゃんと教えなければいけません」と強い憤りを語った。
わたしたちの知らないところで峠三吉の号外や原爆展の反響が広がり、被爆の怒りを大きな声で語れる雰囲気が全市をつつんでいっていることを実感する毎日だった。開幕した長崎原爆展は3100人が参観する大盛況となった。
いままで、原爆を避けてきたが、家に入っていたチラシを見たときからこの原爆展にはかならず行こうと、友だちを誘って勇気をもって会場に来たという婦人は、母と兄弟四人を原爆で亡くしていた。妹を出産したばかりの母親は崩れた自宅の下敷きになって首に15針もの傷を負い、5歳の弟は梁(はり)の下敷きになってせんべいのようにつぶれ、姉は畑仕事中にまともに光を浴びて顔もわからないほどに焼けこげていたそうだ。
「母親が亡くなったあとは、棺桶もないので寝ていたふとんにくるんで山の上のイモ釜で焼きました。母代わりになって看病した妹がひもじさに泣きやまないときは、そのイモ釜に抱えていっていっしょに泣きました。その妹も死んでしまい、それからは学校にも行かずにほかの兄弟を育てましたが、原爆は学問のある人しか語れないと思い、ずっと語らなかった。原爆を語ればいじめられたり、怒られることもあった。でも、原爆ではだれもが泣く思いをしてきたし、“戦争が終わったのは原爆のおかげ”というのは違います。アメリカはいまだに戦争をしているじゃないですか。生き残った自分たちが動いて伝えないと亡くなった人たちは眠れません。生きているうちになにかやらなければ」と語りつぐ決意を語っていた。
ある70代の男性は、家から持ってきた家系図を広げて見せてくれたが、そうでない人を捜すのに苦労するほど原爆死という赤い文字が並んでいた。11人いた家族は自分と兄の2人だけが生き残り、親せき者をふくめれば30人があの日の閃光で即死、またはその後の原爆症で亡くなっていた。つぎつぎとへっていく家族の死をまえにして涙の一滴も出なかったが、戦後の孤児としての生活は頼れる家族はいないつらさに何度耐えてきたかしれないといわれた。
「原爆で殺したものがいばって殺されたものは惨めな生活を送ってきたんだ。最近は加害者ばかりが守られているが、被害者はほんとうに惨めだった。長崎には“妻は召されて天国へ”という歌もあるが、そんなきれいなものじゃない。原爆では虫けらのように殺されたんだ。原爆を真先に捨てるべきなのはアメリカじゃないか。原爆さえ落とされなければ兄弟たちはいまも元気で生きているはずだったんだ」と怒りをこめて語った。
わたしたちに話を聞かせてくれた被爆者は、キャラバン行動もふくめると500人にのぼるが、だれもがはじめて語られる方であり、それだけに思いは切実で激しいものだった。そのような被爆者を中心に400人をこえる市民の賛同者を得られたことは、今後、長崎、広島でほんとうの思いを語りついでいく運動を広げるうえで、大きな足跡を残すものとなった。
長崎の怒りは、沖縄や東京、大阪、日本全国で虫けらのように親兄弟を殺された民族としての怒りであり、踏みにじられた正義への怒りであり、また、この日本を原水爆戦争の戦場に投げこんではばからぬものへのわたしたち全国民の怒りだ。日本全国そして全世界にこの広島、長崎の怒りを轟(とどろ)かせることをみなさんと誓いあい、報告とする。
ほんとうの声を伝えたい 広島・被爆者 真木淳治
わたしはこの度の原爆展にさいして、スローガンとなっている広島、長崎のほんとうの声を、若い世代へ全国、全世界へ伝えようと、この気持ちそのままにとりくむことにした。期間は七日間で今年は短縮されているが、中身のいいものにしたいと申し上げた。
わたしたちも六月の終わりに長崎におうかがいして、長崎の方と交流をはかりお話を聞くことができた。広島も長崎も、思いは同じということを深く感じることができた。原爆展にさいして、広島の会のみなさんも、下関の方方の力強いご協力をいただき、女性の方で山本さんは五日市小学校、藤の木小学校といろいろ努力され、石津さんは井口台小学校で何回も原爆の話をすすめてこられた。
このように会員の方それぞれが努力された。それから原爆展では昨年と違って、たくさんの人が出向き、全国からおいでになったみなさん方に、手分けをしてもっと多くの方に話をしていこうというとりくみをした。今年は体験を語るコーナーを広げていただき、実を結んだと思う。
内容は昨年と少し違ったように思われる。それは若い世代がなにかの会合で集まられ、見に来て話を聞く。広島に旅行して話を聞いて下さるなど、単独の方もふえた。今年が被爆60年ということが、ある程度関係あると思う。
わたし自身は、同じ中学の人が335人亡くなっている。同級生が55人も亡くなっている。去年と違って今年は、そうした方たちのことを考えた自分の気持ち、被爆者のこころをお聞きいただく形で話をさせていただいた。たくさん聞いていただいた人たちのなかには、涙を出しながら聞いて下さった人もいた。
例を出すと山梨から来られた高校生が、途中で何度も涙をふきながら、一生懸命話を聞いてくれた。そして話が終わるときに、「わたしに子どもができて中学生になったら、広島に連れてきて勉強させたいと思います」といわれた。仲間の人が感想を聞くと、「3人の友だちで遊びにきたが、いままで戦争とか原爆とかを軽く考えていたが、きょうこうしてお話を聞いて、わたしの人生観が変わったような気がした」、こうおっしゃっていたそうだ。
また北海道からおいでになった中学校の先生は、いままで両親から原爆の話を聞いたことはないという。教科書でもちょっと読むくらいで、ほとんど原爆の話をすることはなかったという。「いままで3度も広島にきたが、きょうこうして被爆体験を聞かしてもらって、ほんとうに感動した、北海道に帰ったらかならず生徒たちに話してやりたいと思う」、このように話してくださった。
昨日の交流会で、長崎からおいでになった方が、長崎の旅行者の方が8月6日、広島でなにがあったか知らなかったということを披露されたが、たいへんにびっくりした。50代の方でそういう方がいらっしゃるということは、ほんとうに驚きで残念だ。広島近辺では平和学習を受け原爆の話をよく聞いているが、よその方ではあまりそういう勉強はしていないようだ。わたしは思うが、もっともっとわれわれが数多くの方たちに、この原爆の悲惨さを訴え、おろかな戦争を起こしてはならない、みんなで原爆に反対するという気持ちを、強く持っていただくようにしたい。できるだけ若い人に話を聞いていただき、つぎの世代に語りついでいくように、お願いしてこれからも活動をつづけていきたい。
被爆者の平均年齢は73歳をこえたそうだ。わたしも74歳で、いつまでも元気で語れるとは思わないが、1人でも多くの若い人に話をさせていただき、次代に語りついでいただくことを強く願って、話とかえさせていただきたい。
厚木移転を許さない 岩国地区実行委 森脇政保
被爆60周年、戦後60周年を迎えた今日、人人のあいだでは、「このままでは日本は滅びる」と、度はずれた荒廃した社会のもとで、新たな戦争を目の前にして、怒りが噴き出している。愛する郷土と祖国日本の将来を思い、子や孫たちの未来のためにはたさなくてはならない強い思いに立った行動がはじまっている。
岩国の60代の婦人は「いまの政治、社会は憤慨にたえない。このままいったら日本はとりかえしのつかないことになる。いても立ってもいられない。基地の是認など許せない。1人でも2人でも職業や地位にこだわらず肉声を上げ、立ち上がらなければならない」といって、みずからが自己にむち打って行動に立ち上がっている。
数年まえまでは、基地がないことにこしたことはないとしながらも、「国がやることでしかたがない」といった空気が重く岩国を覆っているかのようであったが、それがいま大きく崩れ、60年におよぶ米軍支配にたいする積年の怒りと結びついて日本の将来を思う真の愛国者の運動として発展していると思う。
いま岩国では、米海軍厚木基地機能を岩国に移して、岩国基地を大増強させる計画が、アメリカとそれに従属する日本政府によって画策されている。いまこの問題をめぐって、ふたたび広島、長崎の悲劇をくり返してはならないという強い世論と結びついて、移転を絶対許さない行動が広くまき起こっている。
すでに広島湾岸に接する山口、広島両県の岩国、広島市をふくむ6市5町の自治体と議会で反対決議意見書が採択され、広島県で「反対期成同盟」が山口県では「基地問題連絡会議」として、連携して運動をすすめることが確認されている。また米軍の低空飛行訓練の被害を受けている広島県北一帯の市町村でも反対世論が広がり、三次市と島根県邑南町でも反対決議等がおこなわれている。
岩国では市の連合自治会が満場一致で反対決議をおこない、昨日の8月5日から市内448自治会でいっせいに署名が開始された。また市内のおもだった婦人団体で構成する女性団体連絡協議会でも、全会一致で反対決議をするとともに、自治会と団結して署名活動にとりくむとともに独自に街頭と、岩国をつつむ玖珂郡一帯の婦人と連携して活動をはじめている。女団連に参加されている年配の婦人は、「この運動は、子どもの未来のためであり、平和のためであり、男性に任せておけばよいというものではなく、子どもを生み育てる女性が前面に出てやるときだ」と語っている。こうした状況は岩国市の歴史上これまでなかったことである。ある中年の男性は、「これまで基地反対やデモは、岩国外の人の運動だったが、ようやく岩国自身の運動になった」と顔をほころばせて発言している。
岩国市民は、敗戦のまぎわの昭和20年の春から夏にかけて、9度にわたって米軍機の空襲を受け、千数百人の尊い命が奪われた。岩国は広島に近く被爆した市民や家族も多い。また被爆直後、救援活動や身内の者を捜しに広島市内に入り、生き地獄を見てきた人も多い。ほとんどの年配者は、原爆の閃光、炸裂音、きのこ雲を見てきたし、トラックや舟で運ばれる変わりはてた被爆者の姿をいまも忘れてはいない。
戦後は、その米軍と米軍基地による苦難と屈辱を強いられてきた。鴨とまちがえたといって農作業中の農夫を銃撃したり、体の不自由な老人を橋の上からつぎつぎと川に投げこんだり、無数の婦女子が米兵の餌食にされてきた。こうした市民の体験は、日本の真の独立と平和、ふたたび原爆や戦争を許さない強い思いを秘めて今日を生きぬいている。これは岩国も広島湾一帯の住民も共通したものとして生きつづけている。
アメリカは広島、長崎の原爆投下にたいして、いまもって謝罪しないばかりか、アメリカに反抗する国には「核の先制使用」も辞さないといって、新型の核開発にも着手し、中国や朝鮮などを標的に原爆の使用を準備している。
今回の岩国基地の増強は、かつて朝鮮戦争の出撃基地であり、中国、朝鮮に近い岩国を核の先制使用の出撃基地として強化するものである。これは川上、秋月、広弾薬庫をかかえ、呉軍港とNLP基地化を狙う江田島市の大黒神島、そして核攻撃の対象に中電の計画する上関原発がある。こうしてアメリカは広島湾一帯を原水爆戦争の一大戦場にしようとしている。これはふたたび日本とアジアを廃虚にするものである。
ある中年の労働者は、「今度の基地の増強はこれまでと違う。これを許せば広島湾一帯が沖縄のようになる」といっている。いま岩国基地では、原水爆戦争の戦場になることを想定して、厳戒態勢のもと、米兵の家族の国外脱出訓練や、防毒マスクを着用して生物・化学兵器攻撃の演習がくり返しおこなわれている。
被爆地広島と広島湾一帯の住民は団結して、原水爆戦争の基地化と原水爆戦争に反対する大きな運動を起こしていきましょう。
沖縄戦を骨に刻み 沖縄 野原郁美
先月の19日、米軍キャンプ・ハンセン内「レンジ4」都市型戦斗訓練施設での実弾射撃訓練に抗議する県民集会が、金武町で開かれた。「再び戦場にするな!」という金武町伊芸区民の1年余にわたる粘り強いたたかいが、多くの県民の心に響き、緊急集会にもかかわらず予想をこえた1万人が結集し、集会終盤になっても、仕事帰りに集会にかけつけようとした人人の車が渋滞するという熱気あふれる状況だった。
戦後60年たった今日でも、米軍の占領意識はなに一つかわらず、1年まえに起きた沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落事故や、米兵による婦女暴行、幼い女の子にまで強制わいせつ行為におよぶなど、許しがたい事件・事故がひん発しており、県民の怒りはかつてなく高まり、その矛先は日米政府にむけられている。
わたしは金武町の集会に参加して、また集会場で開かれた「沖縄戦の真実」と「原爆と峠三吉の詩」パネル展示場で食い入るように見入る人人との対話から、このたたかいの原点が沖縄戦の深刻な体験のなかにあることをあらためて思った。
金武町の伊芸区のたたかいの中心にドッシリと腰を据えていたのは、戦争体験者のおばあさんたちだ。「二度と戦はならん」「子や孫のためにはこの命はおしくない」という不退転の決意が人人を動かし、基地容認の勢力までをも動かしたのだ。
もう一つは、面積の60%を基地にとられ、米軍の危険な演習と隣りあわせの生活を強いられてきた人人の「いつまでがまんをしろというのか。沖縄をばかにしているのか! 軍用地料などいらん、基地は出ていけ」という積年の民族的怒りが堰をきったように語られたことだ。
「沖縄戦の真実」パネル前で「コザ暴動」の写真を指して「これはおれらがやった」と語る60前後の男性がいた。「あれはアメリカの横暴があまりにもひどかったからだ。ウチナーンチュとしては当然だ」と話し、かつて自分の娘が米兵にレイプされたことにふれ、「新聞に載っているのは氷山の一角だよ」と激しく語るそのまなざしは怒りに満ちていた。
人人が胸の底に秘めていたものを、いっきにさらけ出してきたのは、いったいなんなのだろうか。
3カ月にもわたる激しい地上戦で住民の4人に1人が殺された沖縄戦は、なんのための戦争であったのか、人人の体験の中から検証してきた。それには「原爆と峠三吉の詩」のパネルの持つ力が沖縄戦体験者の琴線にふれ、これまで語れなかった真実があふれるように語られてきたように思う。写真の被爆者をさすりながら「沖縄戦も同じだったさぁ」と語りだし、現在もかつてもかわらぬアメリカの戦争犯罪をあばき出すのだ。
それは長く「沖縄戦の定説」としてまかりとおっていた日本軍は悪玉でアメリカ軍は「解放軍」であり、民主主義をもたらしたというまやかしを根底から覆すものであり、わたしにとっても強い衝撃だった。
わたしは父や母の戦争体験を聞きながら育った世代だ。反戦平和の運動のなかで多くの沖縄戦体験者から戦争体験に学ぶこともやってきたが、沖縄戦の教訓とは「軍隊は住民を守らない」ということだと思っていた。米軍がどれほどの兵力で残虐な無差別大量殺りくをおこなったのか、それが最初から沖縄の基地化を狙ったものであり、日本単独占領と中国侵攻するための大殺りくだったという真実に愕然とした。沖縄戦を知っているつもりが、自分自身のファインダーを曇らせていた。戦争のあれこれはいうが、アメリカの犯した犯罪だけには口をとざし、反戦平和のスローガンはかかげても反米ではないと、わざわざお断りのただし書きがついている運動などが県内を支配していた。
こんな小さな島に米軍は55万人の兵力と、1500隻の艦船を投入し、日夜、住民の頭上にどれだけの爆弾を投げつけたのか。55万人を想像することは容易ではない。
わたしは原爆展キャラバン隊に参加してはじめて、沖縄の人人の思いにふれたような気がした。沖縄戦の真実が鮮明になってから、アメリカの原爆投下の目的や、東京空襲をはじめ、日本全土を焼き尽くされた空襲爆撃の真実が、すっと理解することができた。
わたしの母親は沖縄戦のときは一六歳だった。那覇市の小禄という激戦地で、年長の母は親せきの幼子らの面倒を見ながら戦火のなかを生き残ったが、最愛の両親と弟妹を失い、絶望の淵から戦後出発。家族で一番の稼ぎ頭であった母は、畑仕事と軍作業のなかで働きづめ、父と結婚したあとも米兵家族のメイドをやってわたしたちを育ててきた。
父親は、名護市の三中の学生だった。昭和19年鉄血勤皇隊に志願し、多くの友人を失っている。慰霊の日が近くなると、まるできのうのように戦争のことが思い出されて、夢に出てくるそうだ。この2人に生を受けてきたわたしは、沖縄戦の体験をこの骨に刻んで生きていきたいと思う。
わたしたちのこの運動をほんとうにアメリカの原水爆戦争を起こさせないための力のある、国民的な運動に発展させていこう。そして未来の子どもたちに主権を持ったなにものにも侵略させないこの国を手渡していきたいと思う。