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平和のため命ある限り語り継ぐ 下関原爆被害者の会が総会 困難乗りこえ体験語り継いだ30年 全国に広がった原爆展運動

下関原爆被害者の会総会(5月25日、下関市)

 下関市を中心に子どもたちに被爆体験を語る活動や原爆展をおこなっている下関原爆被害者の会が5月25日、下関市生涯学習プラザで2024年度総会を開催した。同会は「平和な未来のため子どもたちに被爆体験を語り継ぐ」という方針のもと、長年活動をおこなってきた。総会には被爆者や被爆二世などが参加し、戦後79年が経って被爆者・戦争体験者が少なくなるなかで証言映像なども取り入れながら、二度と戦争をくり返させないために次世代へ被爆体験を伝えていく決意を新たにする場となった。

 

被爆体験を収録したDVDも完成

 

 最初に挨拶に立った大松妙子会長は「被爆者が高齢化して他の地域では被爆者の会が解散しているところもあるなか、下関原爆被害者の会は長周新聞社や学校の先生たちをはじめとして多くの人々に支えられて現在まで活動を続けてきた。被爆者が少なくなるなかで、これからは二世など若い人たちに頑張ってもらいたい。これからも平和のためにみんなで頑張っていこう」と呼びかけた。

 

 来賓として参加した山口県原爆被害者団体協議会の林三代子会長は「今年もみなさんとお会いできて嬉しく思う。下関の被爆者の会のパワーは素晴らしい。山口のヒロシマデーは今年で50回という節目の年になる。みなさんと協力して今後も活動をおこなっていきたい。今日みなさんの話を聞くことで私も一歩前進して頑張っていきたい」とのべた。

 

 下関市の前田晋太郎市長からは、被爆者の会がこれまで子どもたちや若い世代に被爆体験を語り継ぐ活動を長く続けてきたことに敬意を表するとともに「貴会の発展と会員の皆様のご健勝を祈念する」とのメッセージが寄せられた。

 

 また原爆展などをともにとりくんでいる原爆展を成功させる広島の会と沖縄原爆展を成功させる会からもメッセージが届けられた。

 

 広島の会の末政サダ子会長は「今の日本は昔のようにまた戦争に向かっているように思います。戦争の旗を振る人たちは、政治家そして日本の経済を動かす大きな商社、軍事企業のトップです。そして犠牲になるのは私たちのような一般の庶民です」とのべ、兄2人を戦争にとられて失い、自身も被爆した経験から「若い人たちが二度と同じ体験をしないように、できる限り長生きして、被爆と戦争の体験を若い世代に伝える使命を果たさなければならないと思っています。平和が一番です」と連帯のメッセージを寄せた。

 

 沖縄の平良研一代表は、台湾有事など戦争情勢が進行するなかで沖縄県内でも若い人や子どもたちの問題意識が高まっているとのべ、「広島・長崎の経験や被爆者の方たちの証言、声が大事な役割を果たすものだ」と、ともに平和のために頑張っていくことを誓った。

 

 下関原爆被害者の会は昨年度、小学校5校で被爆体験を語る活動をとりくんできた。また被爆者の高齢化が進むなかで後世に被爆体験を伝えていくため、被爆者が子どもたちに体験を語る様子を収めたDVDの作成にも力を入れてきたことが報告された。そして長年会長を務めてきた大松妙子氏が退任し、今年度からは近藤捷治氏が会長代行として就任することが採択された。近藤氏は「被爆者の会のこれまでの情熱を引き継いで、今後会がますます発展するように努力していきたい」と決意をのべた。

 

 最後に読み上げられた総会宣言は、政党政派や思想信条をこえて「子どもや孫たちに二度と戦争も原爆も体験させてはならない」の一点で会員が結束し、30年にわたって体験を語り続けてきたことや、下関から始まった原爆展運動が広島、長崎、全国へと広がっていることを明らかにした。

 

 そして「世界ではウクライナ戦争やガザでの戦争が始まり、日本でも“台湾有事”が叫ばれて、沖縄や南西諸島で準備が進められ、戦争が過去のものではなくなりつつあります。あの戦争を体験した私たち世代がいなくなったとき、再び日本が戦争へと向かうのではないかという危機感を拭うことができません」「一方で、被爆体験を学ぶ子どもたちや若い世代は、今の戦争と重ねて真剣に耳を傾け“平和な日本を守っていく”と決意を語ってくれています。体験を語ることのできる被爆者は少なくなってきましたが、私たちの思いを次世代がしっかりと引き継いでくれていると確信するものです」とこれまでの活動を振り返るとともに「広島・長崎の惨状と、戦後、焦土のなかから立ち上がってきた体験を命ある限り語り継ぎ、平和を願う全国・世界の人々とともに平和を覆す者とたたかうことを誓います」と宣言した。

 

総会後の懇親会 あふれる思い語り合う

 

 総会後におこなわれた懇親会では、濱口恵美子氏が子どもたちに体験を語る様子を記録した完成したばかりのDVDの鑑賞をおこなった。濱口氏は小学校4年生のときに広島の横川駅近くの自宅で被爆した。貯金局で働いていた父親を「いってらっしゃい」と玄関で見送ったのが最期の別れとなった。母親や妹と一緒に太田川沿いに避難し、その日は竹藪で一晩をすごした。竹藪のなかは怪我をした人たちが、水を求めたり家族の名前を呼んだり一晩中騒々しかったが、翌朝起きてみるとみんな死んでしまっていたという。

 

 鑑賞後、濱口氏は「忘れたと思っていても思い出すと涙が出る。8月6日に父親とは“行ってらっしゃい”“行ってきます”と手を振って別れ、それっきりだった。父が亡くなってからは母が苦労して私たちを育ててくれた。原爆が落ちた後の生活というのは本当に惨めで、食べていくのが精一杯の乞食同然の生活だった。これまで生きてこられたのは父が見守ってくれたのではないかと思っている」と涙を堪えて語った。

 

 被爆二世の男性は「DVDを見て、小学生という子どものときに親と別れるのは本当に辛かっただろうと思った。今も世界で戦争が起きているが、一人ぼっちになる子を作らない世の中になってほしい」とのべた。

 

 その後、被爆者や二世が自身の体験や思い、現在まで続く放射能の影響を思い思いに語った。

 

 5月21日に下関市内の小学校で語り部活動をおこなった男性は、「長いこと語り部をしてきたが、小学校6年生から“原爆を受けてからどうやって生きてきたのか”という質問をされて感銘を受けた。私は7歳で被爆し、下関に来て見合い結婚をしたのだが、妻の親が私が原爆を受けているから断ってきた。当時私と同じ年代の人は、結婚ができなくなるため、女性はとくに被爆したことを隠していた。そういう時代だった。自分自身の人生を振り返って語るという、語り部の良さを思い出す出来事だった」と感動を語った。

 

 3歳のときに広島で被爆した女性は、叔母が助けられたものの火がついており「後は自分で逃げてください」といわれてそのまま亡くなったこと、戦後祖母がその叔母の骨をずっと手放さずに祭壇に持っていたことを思い出しながら語った。「私自身は被爆の記憶がない。父も母も当時のことを話すことはほとんどなかった。原爆が投下されたとき、私は配給の大豆をこっそり食べ井戸水を飲んで疫痢になっており、“もう死んでも仕方がない”とタンスの側に寝かされていた。原爆が落ちて鏡台が割れたが、私の寝ているタンスの裏に全部突き刺さって助かったという話を聞かされた。小学校1年生で黒い雨に当たった姉は、長い間癌を患っていたが去年甲状腺癌で亡くなった。もっといろいろ聞いていれば私も語り部ができたのにと思う」とのべた。

 

 4歳のときに父親を捜しに行き入市被爆をした女性は、「被爆の影響で細胞が死んでしまっていることが多い。最近も目の手術をしたのだが、細胞が少なくて術後に上手くくっつかず二度手術をした。日常生活は送れるようになったが、今でも一つの物を見続けるとふらふらしてしまう。仕事をしているときも何カ月か経つと貧血を起こす、注射や治療をして一時は元気になっているが、また貧血を起こすというくり返しだった」と現在まで続く放射能の影響を語った。

 

被爆二世も多く発言 活動受け継ぐ決意込め

 

 被爆二世の女性は、母親が昔下関原爆被害者の会で語り部をしており、体験集を作る手伝いを頼まれたとき初めて体験を聞いたと話した。「母は広島で看護師をしていて、病院に患者さんが次々に来ても医療の道具などなにもないため、みんなそのまま亡くなられたこと、その死体を小学校で焼いたこと、その煙と臭いが鼻について忘れられないという話を聞いた。母も被爆したことを父にはいったらしいが、父は自分の両親にはいわなかったそうだ。被爆したというのは、私も中学か高校のときに母から聞いた。それまで一度も聞いたことがなかった」と語った。

 

 そして「私は原爆とは関係ないと思っているが」と前置きしながら、生まれつき歯が20本はえるところが18本しかないことや、頭の中の血管が首に落ちており目眩がするアーノルド・キアリ奇形という病気を患っていることを明かした。「母は私のそういった病気が見つかるたびに自分が被爆したからだと泣いて詫びていた。出産をしたときにもすごく出血して血が止まらず、そのときに初めて凝固因子の量が少なかったことを知った。また被爆のアンケートなどで“喘息はないか”と書かれているものがあるが、私も喘息で何度も入院をした。見た目はすごく元気そうなのに病気がちなんだねといわれるが、実際にそういうのも二世は影響があるのかなと思っている」と二世の実情をのべた。

 

 二世の男性も「うちは兄弟2人だが両方とも関節が弱い。姉は人工関節を入れており、私は腰と膝を手術している。去年は心臓も手術をした。このように大変な思いをしている二世がたくさんいるのではないか。二世の実情などもアンケートをとって欲しい。私も元気な限りは会に参加していきたい」とのべた。

 

 98歳の男性被爆者は兵舎の下敷きになりながらも隙間をぬって外へ這い出し、挟まれている戦友たちを助けたと話した。戦後復員命令が出て、3日間をかけて豊北町の実家に帰ったものの被爆の影響で3年間は療養生活を送ったとのべた。

 

 4歳のときに広島で入市被爆をした女性は、「18歳まで広島で育ったが、毎年毎年友だちが白血病や癌など病気で亡くなっていった」と戦後も続く被爆の影響を語った。「小学校のときに私の隣に座っていた色の白い綺麗な友だちが、授業中に急に鼻から赤黒い鼻血を出した。すぐに先生やみんなで止めたのだが、身体検査のときには特別な検査だったようで、長いこと時間をかけて検査をされていた。この友だちはそれから半年くらいで亡くなった。その友だちのことを今でも忘れない。原爆で川に浮いていたたくさんの死体や歩くところがないくらいに転がっている死体のなかを歩いていたのだが、あのときは何も感じなかった。一人の友だちが亡くなったときに声を出して泣いたことを思うと、みんな気が狂っていたのだろう。夢や希望を持って生きていた何十万の人たちや、幸せな家庭が一気に踏みつぶされたのが原爆だった」と振り返った。

 

 両親や弟を早くに亡くし、自身も30万人に1人という難病に罹りながらも助かったことから「私がこの年まで生かされているのには意味があると思うようになった。私も被爆体験については話すつもりがなかったが、いつの間にか話すようになった。子どもたちは一生懸命聞いてくれる。微力だが、平和のために私になにができるのか、少しでもみなさんの役に立つことをしていきたい」と思いを語った。

 

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●下関原爆被害者の会 再建30年のあゆみ

 

下関市内の小学校で被爆体験を語る下関原爆被害者の会の被爆者(2019年)

 下関原爆被害者の会は1994(平成6)年、下関在住の被爆者たちの手によって再建され、およそ30年にわたって被爆体験を語る活動を続けてきた。原子雲の下の惨状と被爆者の思いを伝える「原爆と峠三吉の詩」原爆展パネルの作成とそれを使った原爆展運動は、下関を起点に広島、長崎、全国へと広がり、「原爆投下は戦争終結のために仕方がなかった」という論調を覆しながら、核兵器を二度と使わせない力をつくることに貢献してきた。同会の歩みは、心ない中傷や攻撃を乗りこえつつ、広島・長崎、沖縄の被爆者と交流を深めながら大きな役割を果たしてきた30年であった。

 

語らせぬ圧力をはねのけて

 

 会の再建に向けて準備が始まった1993(平成5)年当時、戦後長いあいだ、被爆者に対する偏見やさまざまな圧力があるなかで、家族にも被爆体験を語ることなく生きてきた被爆者が圧倒的だった。会再建に尽力し、2001~2004年まで会長を務めた故・吉本幸子氏(被爆当時29歳)は、毎年8月が近づくにつれ、被爆当時のことが鮮明に思い起こされ、胸が締め付けられる思いで短歌にその心境を託して詠んでいたと語っている。

 

 そうした思いを抱えて生きてきた被爆者を結集し、「核兵器も戦争もない平和な未来のために若い世代に広島・長崎の体験と被爆者の思いを語り継ぐことが生き残った被爆者の使命」として会再建の準備は進められた。しかし「広島は軍都だったから原爆を落とされたのだ」「日本は加害者だった」という論調が、被爆者に体験を語らせない圧力として存在し、また自身が被爆者であることを明かすことは下関に住む子どもや孫たちが二世、三世であることを明かすことでもあったため、長年の沈黙を破ることは大きな勇気が必要なことだった。吉本氏はこの過程でおこなわれた被爆体験者をかこむ懇談会で初めて、匿名にて被爆当時の生々しい体験を語り、そのとき熱心に聞いてくれた子どもたちが思いを受け止め「ありがとうございました」と声をかけてくれたことが、平和のために被爆の体験を語り継ぐ使命を痛感するきっかけになったと語っている。

 

 会の再建をへて、小中高校、大学に赴いて体験を語り継ぐ活動や、子どもたち向けの下関の被爆者の被爆体験集『平和な未来のために少年少女に語り継ぐ』の発行と全小学校に寄贈する活動などを皮切りに、本格的な活動がスタートした。

 

第1回下関  原爆展で体験をかたる吉本幸子氏(1999年6月22日)

 1999年、念願だった第1回下関原爆展は、当初会場を貸していたJR西日本が、突然会場の貸し出しを拒否するという事態に直面した。これを受けて市内の大学学長ら文化・教育関係者を呼びかけ人とする「原爆展を成功させる会」が結成され、全市的な支援のもとに大きな成功をおさめた。その翌年、下関の被爆者の活動を基礎に、被爆者の本当の思いを峠三吉の詩とともに描きあげた「原爆と峠三吉の詩」パネルによる原爆展へと発展。このパネルの市内小中学校への寄贈運動が、多くの市民の拠金によってとりくまれ、下関の被爆者の活動は全市にその存在が注目されるようになっていった。

 

市内の全小中学校に原爆展パネルを寄贈する活動の賛同者会議(2001年2月、下関市)

 下関原爆被害者の会のこうした活動の発展に対しては、「被爆体験など語らなくてもよい。手当をもらって楽しくやっていればよい」といった意見や、被爆体験を語ることが偏った主義主張を押し付けるものであるかのように描き出すなど、陰に陽に中傷や攻撃があり、会の結束が危機にさらされた時期もあった。しかし、女性たちを中心に「被爆者の使命を放棄してはいけない」「被爆者の運動に右とか左とかはない」と、会の活動に党利党略を持ち込むこととたたかい、政党政派・思想信条をこえて被爆体験を語り継ぐ方向を鮮明にしてきたことで、より多くの被爆者や市民の支持を得て広がってきた。

 

 2000年に開始した「原爆と峠三吉の詩」原爆展運動は、翌2001年に広島市の旧日本銀行広島支店での原爆展で被爆市民の圧倒的な共感を集め、これを契機に結成された「原爆展を成功させる広島の会」は、被爆地・広島市民を代表する運動として存在感を示している。

 

 また、2004~06年には全国キャラバン隊が結成されて全国の駅前や商店街など人々の集まる場所で街頭原爆展を展開。多くの地で黒山の人だかりとなり、広島・長崎の真実を伝えると同時に、沖縄戦をはじめ各地の空襲体験や戦地での体験を呼び起こしていった。そうしたなかから「沖縄戦の真実」「第二次大戦の真実」「全国空襲の記録」などのパネルが作成され、現在は広島平和公園での街頭展示を通じて、全世界の人々から深い共感を集めるところとなっている。下関の被爆者は、広島・長崎や沖縄の被爆者や、戦地体験者と思いを共有しながら、また子どもたちや若い世代の真剣な眼差しに確信を深めながら、平和を願う思いを全国・世界に向けて発信する役割を果たしてきた。

 

原爆展全国キャラバン隊によって全国各地で実施された街頭「原爆と戦争展」は各地で大きな注目と反響を集めた(2004年、横浜駅前)

 原爆投下から今年で79年を迎える。10代、20代で体験した被爆者の多くが鬼籍に入り、小学校1年生で被爆した被爆者も85歳となるなかで、当時の体験を語ることのできる被爆者は年々減少している。下関原爆被害者の会では「命ある限り体験を語り続ける」を合言葉に活動を続けると同時に、被爆体験の語りを映像として後世に残す活動に力を入れており、劇団はぐるま座の協力を得て『平和なる未来願いて』計4作品が完成している。

 

 また、同会とともに原爆展運動をおこなってきた下関原爆展事務局では現在、原爆展パネルを収録した冊子「原爆と大戦の真実」のリニューアルも進めている。下関原爆被害者の会をはじめ広島・長崎の被爆者、全国の戦争体験者たちが残したものを継承し、より多くの人に届けていく予定だ。

 

吉本幸子元会長の短歌より

 

 下関原爆被害者の会の活動を牽引してきた吉本幸子元会長は、次のような短歌を残している。

 

 

広島よ驕るなかれの論説をいかに解くべき被爆者われら

 

自らを原爆被害者と顔さらし八月六日の惨禍を語る

 

送られて涙ぬぐひぬ此の子らに勇気もらひし我が道程(のり)に

 

真摯なる黒き瞳にむかふとき明るい未来を諾ふわれは

 

下関原爆被害者会の紡ぎ来し画布をいろどる広島長崎

 

只ただに平和願いて若きらとともに歩まむ余録の歳を

 

(5月29日付)

 

参考:「原爆と大戦の真実」パネル冊子 同英訳版

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