いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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本紙記者座談会 61年目の敗戦記念日を迎えて 

 61年目の敗戦記念日を迎える。第2次世界大戦では320万人の国民が殺され、日本の国土は焦土と化した。人人は廃虚のなかから立ち上がり、平和で美しい日本をめざして奮斗してきた。だが今日、日本社会は政治、経済、文化全般にわたって荒廃し、アメリカの植民地的様相を露呈、再び戦争に乗り出す態勢が築かれるところまできている。戦後日本社会の起点となった先の戦争、さらにアメリカの占領はなんだったのか。本紙記者座談会で語りあった。

 第2次大戦とは何だったか
 司会 多くの人人のなかで、第2次大戦とその後の占領がどうだったのかという問題意識は鋭いものになっている。そのあたりから論議を進めたい。
 A 広島での被爆者交流会のなかで、「被爆者は悲惨な思いをしているが、悲惨さを伝えるだけでなく、負けることが分かっていて、広島の一般の人が生活している町のまんなかに落としたアメリカの犯罪性と、戦争を引き延ばした日本政府の責任をはっきりと伝えていかないといけない」という発言があった。これは代表的な意見だ。
  平和になったと思っていたら、また戦争をやる国になっている。天皇が平和主義者だというキャンペーンがやられはじめた。「そんなはずはない」「ならばどうして」という問題意識がぐっと強まってきたのではないか。原爆、空襲、沖縄戦、また戦地での体験をつなげてみて、あの最後の1年間で、あれほどのことをやらせた。その日本の支配階級の側の意図、それからアメリカ側の目的、これはいったいなんだったのか、はっきり究明したいというものだ。そこには、戦前、戦後を通じてだまされてきたという実感がある。
 C 戦地でも無惨なことになったし、国内でも100万人の非戦斗員が殺された。それも敗戦までの半年の間だ。これが皆の怒りとしてある。どうしてそうなったのかということだ。また、戦後、なぜこれほどまでにアメリカに抑えつけられて、従属させられ、60年たってなおかつ独立できないのか。そのうえ、アメリカのために戦争をやるという。それはなぜかいう問題意識が強まっている。
 D 今の対米従属の社会の現状が、第2次大戦とその後の占領下の「戦後改革」と称するものから引き続いている。それが単独講和と「安保」で法制化されて今日まできている。それは、小泉が出てきてからというものではない。
  「アメリカは核を持って帰れ」というスローガンは圧倒的に支持された。8・6集会でも、「個別のいろいろな問題も、その根源のところを考えないと解決ができない。アメリカは核を持って帰れというところに根本があるというのがわかった」という発言があった。戦後社会の基本構造の根本的な変革でないと解決しない。多くの人が、経済も政治・軍事もすべての問題が、その支配の枠組みのなかでの手直しではどうにもならないと実感している。原水禁・原水協がまったく無力になり、「日共」も社民党もなんの力もないところから、親米路線の破たんだと感じている。
  北朝鮮のミサイル問題に対する対応ではっきり分かれた。戦後、アメリカの占領を歓迎した潮流が、いまアメリカについてなにもいわないのだ。「日共」修正主義集団を筆頭に既存の平和勢力の多くがだめになったのは、8・15評価に根源がある。

 中国戦線で大敗北 既に日本支配層は危機・余力失う日本軍
 司会 8・15敗戦というとき、日本帝国主義の敗北の必然性が1つの問題だ。その流れを追ってみたい。
  明治維新以後の日本資本主義の特質がある。明治維新で、日本は封建制から資本主義の道に入った。欧米に比べて資本主義発展の基礎がひ弱なもとで、天皇を権力の頂点に祭り上げた絶対主義的な権力をもって上からの資本主義化を進めた。このもとで、農民はプロレタリア化し、ブルジョアジーとプロレタリアートの矛盾が新たに起きる。同時に地主階級と農民の矛盾がある。こうして、生産力は急速に発展するが、市場はひじょうに狭隘だ。したがって日清、日露をはじめ侵略につぐ侵略をやり、ひじょうに好戦的な性質をもった。
 これが1929(昭和4)年の大恐慌後に、満州事変から日中全面戦争に突き進んだ。この侵略戦争が中国人民の抗日戦争で、打ち負かされる。このなかで、太平洋戦争に進んでいった。
  中国戦線に送られた日本軍の総兵力は、当時の全兵力の、7割をこえる120万人。八路軍、新四軍は日本軍の後方で遊撃戦を展開、非占領地内に解放区を広げた。侵略1年後38年秋には、日本軍は主要都市とそれを結ぶ鉄道、つまり点と線を保持しているだけで、侵攻作戦をつづける余力はなくしていた。「3カ月で片づける」といっていた日本支配層にとって、中国人民あげての抗戦は想定外だった。
  日米開戦年当時、中国戦線での戦死者はすでに18万5000人を数え、勝利の見込みは完全に断ち切られていた。戦争の長期化は1938年の世界恐慌による打撃も加わって政治、経済、軍事の全面で、日本支配層はのっぴきならない危機に追い込まれた。

 米国は帝国主義国占領企む
  中国やアジアでの日本帝国主義と被抑圧民族の侵略、反侵略をめぐる戦争は、米英仏蘭との帝国主義間の戦争とは性質が違う。しかも日本とアメリカとの戦争は古いパターンの市場争奪ではなかった。アメリカは日本という帝国主義国を侵略・占領する計画を持っていた。
  日本侵攻作戦計画「オレンジプラン」だ。早くも1911年段階には、「米国は独力で日本を満州から撤退させるべく、大陸への介入ではなく海上の作戦によって、戦うことになるだろう。それによって、制海権を握り、失地を回復し、日本の通商路を抑え息の根をとめることになるだろう」「日本の極限的な通商上の孤立が、日本を最終的な窮乏と疲弊に追い込む」と書いている。中国の権益を奪うために日本を占領し、基地にするという構想だ。1923年には、「日本を取り囲む全海域を制圧し、封鎖作戦に相当するものを実施し、日本領の遠隔の島島を残らず攻略・占領することによって日本を孤立させ、その領土に空襲をかけて圧力を加える」ことが追加された。
  第1次大戦と第2次大戦の違い、時代の違いを見ておく必要がある。20世紀に入って、帝国主義による世界市場の分割が終了してロシア革命が勝利するなかで、社会主義を中心にして世界のプロレタリアートが被抑圧民族を予備軍として帝国主義列強と対決する。こういう時代に入った。それまで、植民地は帝国主義の後方地としての位置にあった。それがロシア革命以後、被抑圧民族の民族解放運動がプロレタリア革命の予備軍になった。それを中国革命が実証した。
 D 当時、社会主義ソ連の権威はすごかった。ロシア革命以後、日本を含めて世界の人民の運動は革命的に高揚した。そういう大きな時代背景、労働者階級と人民、被抑圧民族が押しているという状況があって、帝国主義間争奪がやられている。だから引き金になったのは1929年の大恐慌だが、それがあれだけの大戦に突っ込んでいった背景には、各国の帝国主義支配階級が各国の革命をひじょうに恐れたことがある。帝国主義列強の共通の目的はまずソ連をつぶすこと、社会主義をつぶし、民族解放斗争をぶっつぶすというのが基本だった。帝国主義と社会主義、それに中国を代表とする民族解放斗争との大激突が基本的な原動力だ。

 米国との戦争選択 日本支配層・北進ではなく南進
 司会 そうしたなかで、日本の支配層の対米戦争の選択があった。その経緯はどうか。
  1940(昭和15)年、近衛内閣が日独伊3国同盟を結び、ソ連と戦争するのではなく、北部仏印(ベトナム)に侵攻、アメリカの、蒋介石への戦略物資の支援ルートを断つ方向へと進んだ。これで、アメリカとの戦争は、避けられないものとなった。「北進か南進か」の論争があったが、結局のところ南進にいった。中国であれだけやられた。ソ連と戦争をしてもまったく見込みがないというのは39年のノモンハン事件で痛い目にあったことで実証されている。中国に負けたままでは、天皇の権威は崩壊だ。ソ連に負けることは直接革命につながる。天皇の側はヒットラーほどイデオロギーに忠実ではない。実利とわが身の安泰を選んだ。
  これに対して、アメリカは日本が到底受け入れられない「支那派遣軍総引き揚げ」を要求する。アメリカは中国での市場権益を最大狙っていた。日本を撤退させて蒋介石を通じてそれを握るというものだ。日本政府がそれを拒否したことから、アメリカは41年8月、日米通商航海条約を破棄し、在米資産凍結、航空用ガソリン、くず鉄の対日輸出禁止などの経済制裁を加え、日本からの一撃を待って開戦する準備をととのえた。アメリカの経済制裁はその当時から戦争の常とう手段だ。
 同時に、アメリカの防衛水域に入ってくる枢軸国の艦船には攻撃してもよいという大統領の許可を出す。もう戦争ははじまっているのだ。他方では対ソ経済援助をはじめる。満州事変のころのリットン調査団は、まだ日本に好意的な報告書を出していた。対ソ攻撃に日本を使おうという腹があった。アメリカとしては日本が中国への全面侵略を開始した時点で、日本を滅ぼして占領するしかないと判断していたと思う。オレンジプランは動き出していた。
 E そして、真珠湾奇襲を待ってましたとばかりに、戦争に国力を総動員していく。
 B アメリカと日本の経済力はダントツの差があった。国民総生産で見ても日本はアメリカの16分の1だ。当時の日本の最大の貿易相手国はアメリカだ。石油、鉄、工作機械は80~90%依存している状態。三菱総帥の岩崎小弥太は敗戦を見越して、アメリカといっしょにやらねばだめだといっている。
 A 天皇をはじめ、日本の戦争指導者にはアメリカとの戦争で、勝算の見込みはなかった。山本五十六は1年しか持たないと見ていたし、永野修身海軍大将は「日本海海戦の如き大勝は勿論、勝ちうるや否もおぼつかなし」と天皇に告げていた。それでも、アメリカとの戦争に突っ込んだのはなぜかということだ。

 「国体護持」が狙い 敗戦必至の段階で日米開戦・国民を大殺戮
 司会 日米開戦以後の経緯は惨憺たるものだった。敗戦までの1年間の戦死者が第2次世界大戦での死者の半分以上を占めている。そこにはどんな問題があったのだろう。
 D 日米開戦の半年後の42年6月のミッドウェー海戦で敗北して以後、戦局は悪化の一途をたどる。ガダルカナル奪還作戦は失敗し43年2月に撤退を開始する。これで日本の敗北は決定的になった。海軍がいったとおりになるわけだ。42年末のニューギニアから玉砕が続く。この時期から南方の兵隊が取り残されて放ったらかしになって餓死・病死していく。
  南東太平洋での戦斗は44年3月には事実上終結していた。一連の戦役で日本軍30万のうち戦死者だけでも13万人にのぼる。この地域に投入した艦船、航空機は全滅した。44年1月に強行されたインパール作戦は7月には中止。全軍3個師団11万人が飢えとマラリアで白骨の山を築く逃避行となった。
 B そのあとがこの戦争の不可解さが歴然としてくる。44年6月が難攻不落といわれたサイパンが陥落。日本の制空権、制海権は完全にアメリカに握られ、本土空襲が可能となった。だれが見てもまったく見込みがないという判断がつくところにきた。だから7月には東条内閣が倒れるし、降伏論も表面化してくる。しかし、天皇は「もう1戦、勝ち戦をしてから」と、まだ突っ込ませる。その年末までにフィリピンのレイテ沖海戦までいって、日本海軍は壊滅してほとんどなくなってしまう。44年は断末魔の状況だった。
  一方で天皇は43年の9月段階で、駐ソ大使を使って、「重要人物を派遣したい」と和平の打診をさせている。しかし一蹴される。
  ヨーロッパでは44年にどんどん解放が進行している。43年7月にイタリアのムッソリーニが倒れる。国王勢力を中心にしたアメリカとつながった勢力がクーデターでひっくり返すわけだ。そのあと、ドイツがハンガリーやルーマニアに進駐するが、44年の5月になるとクリミア半島からもルーマニアからも撤退。そして8月にワルシャワで反独武装蜂起が起きる。パリでも武装蜂起が起きる。連合軍がパリに入場する。ブルガリアもドイツに撤退を要求して中立宣言する。同じ8月にはソ連軍がルーマニアを解放する。
  そのなかで、6月の米英仏のノルマンディー上陸作戦になるわけだ。ソ連がドイツとのたたかいに苦戦しているときは、ソ連の第2戦線の開設の要求を拒絶していたが、このまま放っておいたら全部ソ連にとられるという危機感からだ。
  近衛文麿の天皇への上奏文(1945年2月)は、「英米の世論は今日までのところ、国体の変更とまでは進み居らず、したがって、敗戦だけならば、国体上はさまで憂うる要なしと存じ候。国体護持の立場より最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起こることあるべき共産革命に候」というものだ。そこではソ連による東欧解放の実情をくわしく展開している。

 戦地でも国内でも白骨の山
  43~44年段階まできて、どこから見ても敗北ははっきりしていた。そこから「国体護持」になるような敗戦にしなければならなかったわけだ。それが、その後の無益な戦争が続いた要因だ。米軍の本土空襲が本格的に始まるのが45年3月だ。ヤルタ会談が2月だから、終戦処理の戦略下での空襲開始だった。ヤルタ会談から半年の間に沖縄戦、空襲、原爆と日本の国民は不必要な攻撃のために大量に殺された。
 44~45年にかけて、宇品の体験でみても、武器も食糧もなしにどんどん輸送船に兵隊を乗せて沈没させていく。わざとでも殺すという感じだ。護衛艦もなく、武器を持っていたのは50%に満たなかったという。食い物もなしに「行け!」とやるわけだから、殺すために送り出したというほかない。
  フィリピンへの増援というのが口実だったが、みんな、「魔のバシー海峡」でやられていった。フィリピンの戦死者は50万人と、とりわけ多い。すでに戦後処理のプランが動き出しているなかで、なぜこのように殺されなければならなかったのか。
  はっきりしていることは、アメリカの側からすればこの段階で、日本を単独占領するにはまだ不十分で、やめることはできないということがあった。天皇の側からみれば、それではアメリカに救ってもらえる保障はない。 
  アメリカはすでに、真珠湾攻撃の直後から日本の軍部に戦争責任をかぶせ「天皇を平和の象徴とする間接支配」を基調にした占領政策を策定、その方向で日本の支配層に働きかけを強めていった。
 ライシャワーもこの時期、「短波の聴取が許される500人のリーダーに正確かつ知的な情報をねばり強く伝達する」ことを提言。短波放送による日本の支配階級中枢への宣伝を重視していたが、英米派の吉田茂らはこれを傍受していた。吉田は、そのうえで、近衛に天皇への上奏を促し、自分も起草している。近衛の上奏文のあとの天皇の下問に対して、近衛はグルー元駐日大使の皇室への親愛ぶりをとくとくと説いている。

 革命恐れる中枢 米へ降伏で原爆歓迎
  一方で、国内の革命への危機感は強いものがあった。41年に尾崎・ゾルゲ事件、43年9月には、満鉄調査部事件、44年には横浜事件がでっち上げられる。これらに共通しているのは、「国体の転覆」を狙っているというのと、コミンテルンなどと連携して「共産主義の革命」をやろうとしているというのが弾圧の目的だった。
  44年に入ると日本国民の戦意にどんどん陰りが出てきて、流言飛語が飛び回るようになる。そしてそこに本土空襲がはじまって、決定的にもうダメだという状況がつくられる。特高を通じて、戦意の低下や国家秩序からの離脱という状況が摘発されるようになる。生活は窮乏化するし、闇取引は増加する。徹底的に生活が破壊されているわけだ。社会的不平等にたいする自覚が、国民のなかで広がっていく。
  近衛上奏文では、「国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件、日々具備せられ行く」といい、具体的な兆候として「生活の窮乏、労働者発言権の増大、英米に対する敵愾心昂揚の反面たる親ソ気分」などをあげていた。天皇を中心にした宮中グループの危機感は相当なものだった。危機感のなかでの綱渡りだったといえる。アメリカに取り入って、軍部に責任を押しつけて天皇を延命させる動きが宮中グループにある。一方で、それに裏切りを感じて、抵抗する力が軍部を中心に動いていた。
 近衛は上奏文で、とくに軍の動きをすごく気にしていた。「軍部内一味の革新運動」に警戒し、軍部は共産主義者に握られているとまでいっている。特高なんかも、軍のなかの将校連中などをすごくマークしていた。ソ連と組んで鉄砲をむける可能性だってあったわけだ。「鬼畜米英」「本土決戦」といって国民を殺しながら、天皇らは米英に救いを求めていたわけだから、国民や兵隊を怖がるのは当然だろう。
 日本人民の離反も相当のものだし、軍のなかにも反乱要素が相当強かったということではないか。吉田茂も近衛上奏のあと、憲兵隊に捕まっている。軍からすれば、米英と取引していることが頭に来るわけだ。
  それで国民には、「鬼畜米英」「1億玉砕」を叫んで、本土決戦に駆り立てていく。アメリカがその頭上に空襲をやりまくる。原爆は天皇にとってまさに「天佑」だったわけだ。米内光政が原爆投下を歓迎し、「日本の国内事情での終戦ではなくて、外からの外圧による終戦の方がいい」とはっきりいっていたが、近衛も空襲は終戦にあたっては都合がいいといっていた。
 B 天皇は玉音放送の詔書でも、「敵は新たに残虐なる爆弾を使用」して「無辜を殺傷し惨害の及ぶ所真に測るべからず」といって、これ以上交戦すれば「民族の滅亡」「人類の文明をも破壊」するから、国民を守るためにポツダム宣言に応じるというふうに、降伏の理由にあげた。

 天皇の命令で全軍武装解除
  だから、あれだけ鬼畜米英でやっていながら、その後の占領は、今から見てもスムーズすぎる。アメリカは日本を侵略・占領するための戦争をやっていたのだ。日本の全土を焼き払って攻撃して、民間非戦斗員をぶち殺している。一般国民は自然の感情として、国を守らなければと思う。特攻兵士の心情などが端的だ。アメリカや天皇は、それが次にはアメリカの占領とそれに従っていく自分らに反対して向かっていくのが怖いわけだ。「本土決戦」を叫んでいるが、真実がばれたらその矛先が自分に向く関係だ。
 D だから、国民には竹槍を与えるが、鉄砲で武装させるということはなかった。「鬼畜米英」のインチキはそのへんにある。精神主義とかいっているが、その気じゃないのだ。マッカーサーが日本に上陸するのが8月15日から2週間後の30日だ。司令官がすぐ乗り込めるのだ。
  当時、国内外に陸軍547万人、海軍242万人、あわせて800万人近い軍隊がいた。日本政府はポツダム宣言受諾にさいして、武装解除は「天皇の命令で帝国軍みずからが実施する」といっている。天皇の存在が必要なことを連合国に印象づけるためにも、天皇の命令で整然と戦斗停止と武装解除をこれだけすみやかにできることをアメリカに示す必要もあった。
 17日には「降伏せよ」という勅語を発し、22日には3人の皇族を関東軍、朝鮮軍、中国軍、南方総軍に派遣している。本土では23日から219万人の武装解除・復員が開始され、武器や弾薬は自発的に廃棄され、あるいは占領軍の監視のもとで処理させた。10月の半ばまでにはほぼ完了している。こうして、占領軍には1発も銃弾は飛ばなかった。
  あれほどスムーズにやれたのは、天皇がやったことと、そのために本土空襲や飢餓作戦で地獄の状況を作り、国民をへとへとに疲れさせたことによる。それをアメリカが計画的に作り出したし、日本の支配階級も望んだ。国内は戦意喪失で、軍隊は独断で解散していく。集団でも離隊していく。占領軍への抵抗なども起こりようがない。かなりの男は外地に行ってしまっていない。武装解除をさせて、しかも権力の空白ができないように、そこは米軍が来て占領する。そのうえマッカーサーは民間の銃剣をすべてとりあげる徹底した「刀狩り」までやった。
  マッカーサーが無条件降伏から二週間後に上陸できたのは、安心しきっていたのだ。ずっと以前から日本の対応がわかっていて、武装解除の進行具合を把握していた。占領された敗戦国でこれほど組織的な抵抗がなかったところは世界的にもまれだ。

 丸ごと米単独占領 支配階級・日本を米国に売る
 司会 アメリカの日本の占領政策とその後の日本社会の対米従属ぶりは、ドイツと比べてもひどいものがある。
  ドイツとの比較では、ここまで来ていえることは、ドイツの方が独立性を持っていたということだ。日本は丸ごとアメリカに単独占領された。単独占領と連合占領の違いは大きかったということだ。アメリカだけで日本を倒したわけではないのに、インチキでかすめ取った。
  ドイツの場合は米英仏ソの4カ国の共同管理で、半分はソ連が管理した。ドイツでは各占領地区は、それぞれの占領国の思惑に従って統治され、アメリカ1の思い通りにはできなかった。初期の占領政策は、非ナチ化、非軍事化という点で進められ、ソ連の占領地区では農地改革など社会主義的な改革が進められた。ドイツは当時欧州1の工業国で、日本のようにアメリカに都合のいいような制度改革ができなかった。結果的にソ連のかかわりがあったことが、ドイツの独立性確保につながったといえるのではないか。
 ドイツでは、独ソ戦で軍隊は325万人殺されているが、民間人は日本と比べて少なかった。日本はソ連に占領されなくてよかったという宣伝がやられたが、アメリカと戦争した方が、国民はよっぽどたくさん殺されたのだ。41年からイギリス軍が空爆するが、よく引き合いに出されるドレスデン空襲でも死者は3万人前後といわれる。
 A ドイツの場合は行政機構は壊滅しており、官僚機構も軍隊も解体したが、日本は軍隊は解散させるが、官僚機構はすべてそのまま残した。日本は空襲でも官庁がやられていない。国会議事堂はそのままきれいに残った。大蔵省や日銀も戦前からの建物がそのままだ。
 C ドイツは戦争に協力したマスメディアなどはすべて廃刊になった。日本は違った。悪かったのは軍部だけで、天皇はじめ、官僚機構がそうだし、独占企業、マスコミ、全部が元元平和主義者のような顔をして生き残った。それが単独占領を保障したわけだ。みなアメリカに協力して民族的な利益を売り飛ばしていった。ここは鮮明にしなければならない。
  日本の官僚機構はドイツよりも優れていた。それが占領軍のもとに収まっていった。そして「民主化」といって、単独占領して憲法から財閥解体から、農地改革をはじめ社会制度まで変えていった。財閥解体は同族的要素を排除して、近代化し、アメリカ資本が自由に入ってこられるようにしただけだ。農地改革ではあとの資本主義的な収奪をしやすくした。すべてアメリカの都合のよいように変えていった。いまの小泉の構造改革よりまだ徹底してやっていった。

 支配体制、米の配下 少数ですんだ占領軍
  アメリカは日本占領に50万人の兵力を用意していた。しかし20万人でよいといって削った経緯がある。戦前の体制がそっくりアメリカの配下になったからできたことだ。いかに日本の支配階級が売国的かがわかる。
  単独占領でアメリカの好き勝手になったわけだ。極東委員会や対日理事会なども設置されるが、形だけで、マッカーサーが天皇の地位にとってかわった。自衛隊の前身、警察予備隊も朝鮮戦争がはじまった50年10月、マッカーサーの指令でできた。自衛隊をいまになって統合するといっても、はじめから米軍の指揮のもとで動いている。
  「戦後の方が食糧がなかった」というのが実態だが、占領軍が食糧を持ち去ってないような状況にして、「食糧援助」と称して恩義を売る。飢餓作戦をやっていた。
  占領期の検閲問題なども暴露されていない。きれいにマインドコントロールされるようになっている。マッカーサーは45(昭和20)年9月15日、「プレスコード」(新聞紙法)を発したが、アメリカ占領軍の「検閲」の名による言論統制を四五年秋から非公然に開始した。検閲要員は1万人近くいた。その対象は、新聞・雑誌、放送・演劇脚本・映画、紙芝居・幻灯などのすべてにわたり、国民の手紙や葉書などの郵便物、電話の盗聴までやっていた。
  そういうことについても、一切知らせてはならないと、徹底した検閲をやった。日本のメディアは、自分らで自主検閲するようにするし、朝日新聞なんかは自主検閲要領というのをプレスコードの線に沿ってつくっていた。それはいまでも続いているしもっとひどくなっている。一方で、GHQは新聞やラジオなどを直接にも利用して、宣伝していった。第2次大戦についてのアメリカ軍を美化する心理作戦でも、商業新聞に直接GHQが原稿を書いていたり、NHKの「真相はこうだ」という特集などもそうだ。
 A 米軍について悪くいうことを徹底して封じた。だから原爆の実態や空襲実態についても徹底し隠した。沖縄戦なども典型的で、日本軍がみんな殺したようなイメージをつくり出す。マニラとか長沙などへのアメリカ軍の爆撃もみんな隠蔽していた。安岡の戦争体験者が長沙へのアメリカの空襲を近年朝日新聞に投稿したら、ボツにされたといっていた。

 米軍を「解放軍」と 修正主義路線の出発
 司会 アメリカの占領を歓迎したのは、天皇や支配階級だけではなく、「共産党」をはじめ、人民運動の勢力にまで及んだことが、今日まで尾を引く重要な問題だ。
  もう1つ占領をスムーズにした要因として、修正主義の問題がある。共産党指導部が「解放軍」と見て歓迎し、アメリカを批判する勢力がいない。占領歓迎派がいわゆる平和主義者になっている。アメリカ平和主義が天皇平和主義にまでなって、この流れが現在のていたらくにつながる出発点だ。
  徳田球一なんかは10月10日に釈放されると、真っ先にGHQ本部に行って「マッカーサー元帥万歳!」と叫んだ。志賀義雄はGHQに入り浸っていたといわれている。この非転向組は占領軍歓迎なわけだ。
 野坂参三が延安を出てからモスクワに行き、モスクワから日本に帰ってきた。中国は当時アメリカにたいして警戒感も持っていた。ところがモスクワの影響で、「占領下の平和革命」になる。
  その後の単独講和がやはり大きな問題だった。「安保条約」とセットで未来永劫、日本を占領するというのを法制化したわけだ。権力は米軍がしっかり握り、独占や官僚機構は支配下に置きつつ、独立した見せかけをした。それがここまできてバレてきている。
 人民の運動としては、そういう日本社会の性質を明確にして、そこの基本的矛盾を解決しなければどうにもならないのだというところまできた。アメリカの支配を認めたうえでの改良などすべて崩壊するし、力がない。主要な矛盾の解決に向かわないといけないということが浮き彫りになってきたわけだ。「アメリカは核を持って帰れ! とやったときにみんな元気になるし、日本人民の戦斗性が発揚されるということだ。

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