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下関原爆被害者の会が総会 私心なく平和の為に語り継ぐ

下関原爆被害者の会の総会(28日、下関市勤労福祉会館)

 下関原爆被害者の会は28日に下関市勤労福祉会館で平成29年度総会を開催した。

 72年前の広島・長崎の焼け野原のなかから立ち上がり、生き残った被爆者の使命として「二度と原爆や戦争をくり返させないために被爆体験を若い世代に語り継ぐ」ことを目的として、平成6年に下関原爆被害者の会を再建し、一貫して私利私欲なく平和のために語り継いできたことが、確実に平和への力となっていることを確信する総会となった。
 
 戦争繰り返させぬ使命で団結

 はじめにすべての原爆死没者に黙祷を捧げ、会長である大松妙子氏が挨拶した。大松氏は「72年の平和を覆す今の国政に怒りの思いでいっぱいだ。“お国のため”との言葉を信じ、幾十万の尊い命を失った若者たち。それを顧みることなく、今の国政はアメリカの支配のもと、沖縄も、現在は岩国基地も日増しに拡張し、戦争の危機を迎えている。戦争・原爆を経験した者として、許すことはできない」と憤りを語った。そして「戦争を知らない今の閣僚たち、未来を担う若者、子どもたちに、幾十万の犠牲のもとで今の平和があることを忘れてはならないと伝えなければいけない。先生方のご尽力で学校に出向いているが、子どもたちの真剣な顔色と、平和を託すことができることを嬉しく思い、元気をもらっている。真実を話すことができるのは数人しかいない」として、平和を担う子どもたちのために体験を語ることを呼びかけた。


 そして来賓として下関市代理で成人保健課長の重谷哲也氏、山口県被爆者団体協議会会長の森田雅史氏、原水爆禁止下関地区実行委員会の平賀彰信氏が挨拶した。


 重谷氏は小・中学校をはじめ各地で被爆体験を語り継ぐ活動や市役所ロビーでの「原爆と戦争展」開催に敬意をあらわすとともに「世界に争いのない真の恒久平和が訪れることを願う」とのべた。被団協の森田氏は現在進んでいる改憲や共謀罪、原発再稼働、そして「世界で唯一の被爆国でありながら、国連の核兵器禁止条約に不参加を表明するなど日本政府の考えはわからない」と被爆者として国に対する怒りをのべた。そして「原爆と同じような原発はゼロにすべきだ。私たちは一日でも長生きをして被爆の実相を語り、世界に訴えていかなければならない」と語った。


 続いて下関原爆被害者の会とともに「原爆と戦争展」をとりくんでいる広島の会、長崎の会、沖縄原爆展を成功させる会からのメッセージが読み上げられた。


 原爆展を成功させる広島の会会長の高橋匡氏は、平和と核廃絶を願って会を立ち上げ、現在の原爆展運動の先頭を歩いてきた下関原爆被害者の会への感謝と尊敬の思いをのべた。そして広島の会が廿日市市で開催した「原爆と戦争展」で、多くの市民が戦争に突き進もうとする現在の政治に怒りを抱いていること、「被爆と敗戦から72年を経て、誰もがきな臭い戦争の足音を感じているなかで、『原爆と戦争展』を通じて第二次世界大戦の真実を次世代に語り継ぐことの大切さを痛感したところです。それが、体験者である私たちの第一の努めだと再確認いたしました」「あの日の出来事を忘れた時 再びあの日がやって来る!」とメッセージを寄せた。


 原爆展を成功させる長崎の会の会長代行である河邊聖子氏は「核廃絶といいながら、政治はおかしな方へ向かっています。偉い人たちは戦争も原爆も知らない人ばかりなのに、聞く耳を持っていません」「原爆のことを伝える運動は、皆さんの心一つです。みんなが手を組んで、できる限りのことをやらなければいけないと思います。私たちも頑張ります。これからもどうぞよろしくお願い致します」と、連帯のメッセージを送った。


 沖縄原爆展を成功させる会代表の比嘉幸子氏は、4月に八重山で開催した3回目の「原爆と戦争展」で、13歳の女子がアンケートに「歴史の勉強を頑張りたい。そして自分の娘、息子に話ができるようにするため勉強を頑張る。パパ、戦争に行かないでお願い!」と記していたことを紹介し、「危機を煽って住民の頭越しに自衛隊配備が強行される事態や米軍の横暴な訓練、事件事故の頻発など一触即発の空気を子どもたちは敏感に感じており、“なぜ戦争は起きるのか”の答えを求めています。今こそ被爆体験、戦争体験から歴史を学ばなければと強く思います」と、ともに戦争、被爆体験を語り継いでいく決意を表明した。


 平成28年度の活動報告では、市内の6校の小学校と平和の会の子どもたちにのべ27人の被爆者が体験を語ったことや、子どもたちの祖父母世代も戦争を知らないなかで、教師や父母が子ども以上に真剣に被爆体験を学んでいることが報告された。そして29年度の活動方針として年年被爆者が少なくなるなかで被爆体験をビデオなどで残していくことや各団体とともに原爆展運動をますます発展させること、子どもたちに体験を語り継いでいくことを確認した。


 その後、「上関原子力発電所建設計画の白紙撤回並びにすべての原発廃止を求める決議」と「総会宣言」を採決した。総会宣言では被爆者の益本昭子氏が、会の再建以来「平和な未来のために」結束して被爆経験を語ることで着実に平和の力を育んでいることの確信と喜びを語り戦後70年を経てアメリカの核の傘の下で再び日本が戦争への道を走ろうとするなかで「“お国のために”と騙されて尊い命を失った若者たちの死を無駄にすることはできない」「下関をはじめ山口県、全国の平和と独立を求め、原水爆に反対する人々としっかり手を携え、命ある限り被爆体験を語り継ぎ、平和を覆す者とたたかうことを、原爆と戦争で亡くなった幾百万の魂に誓う」と力強く宣言した。

 忘れ得ぬ友、肉親の最期 次世代に託す思い

 総会後には、それぞれの被爆体験を語りあいながら歌や詩吟を披露するなど和やかな懇親会をもった。


 男性被爆者の1人は2歳のときに爆心地から1・6㌔の広島市昭和町で被爆したことを語った。出勤する父親を見送るために母親に抱かれて玄関先に出ていたときに原爆が投下された。男性自身も背中に穴があき、三菱造船所に学徒動員で行っていた兄は偶然じゃんけんで負けて工場内にいたときに原爆が投下され、外の様子がおかしいと確認に行くと外にいた友人はみんな死んでいたという。


 「兄は私が40歳くらいまで一度も体験を話したことがなかった。一番つらい思いをしたのは姉で、朝礼で校庭に並んでいるときに原爆が投下され、手の指は曲がり腕にケロイドを負った。戦後は“被爆者は嫁にもらうな”といわれるなかで、母親の実家がある防府で働いているとき、被爆者であることもすべて受け入れて結婚しようといってくれる義兄と出会った。ようやく幸せになれると思ったが義兄の家族に猛反対され、自殺しようと三田尻の海岸まで向かったが義兄に説得されて結婚することができた。今は孫も生まれているが、当時こんな思いをしたのは姉だけではない」と思いを語った。


 8歳のときに広島で被爆した女性は「原爆が投下されるまでは本当に家族で平和に暮らしていた。それが原爆にあってバラバラになった」と憤りを語った。学校に向かっているときに空襲警報が鳴り、家に戻って庭の軒先で弟と遊んでいるときに原爆が投下された。「私はそこまでしか記憶にない。気づいたときには防空壕の中にいて、外に出ると弟は頭から血を流して意識が朦朧となっていた。防空壕の中と外で生死が分かれた。弟は8月11日に死んだ。私もガリガリに痩せ髪も抜け落ちたが、祖母が毎日ドクダミを煎じて飲ませてくれて助かった」と体験を語った。


 長年下関市内の子どもたちに被爆体験を語ってきた女性被爆者は「最初はどきどきしながら話をしていたが、最近は子どもたちがひっついて話を聞いてくれる。孫みたいで本当に嬉しくなる。子どもたちが一生懸命話を聞いてくれるから私は長生きができる」と喜びを語った。


 先日、小学校六年生の孫が広島に修学旅行に行ったという男性被爆者は「修学旅行に行く前も私に被爆体験を聞いてきた。広島でも被爆者の人から話を聞いたようで“おじいちゃんはなぜ助かったのか”と聞いてくるようになった。ニュースなどでミサイル発射の映像などが流れるが“戦争は怖い”といって布団に潜っている。今のような情勢のなかで小学校6年生でも戦争の二文字が頭にある。だから絶対に戦争はいけないということを何度も孫にいいきかせている」と話した。


 9歳のときに長崎で被爆した女性は「被爆したのは爆心地から4㌔の地点だったが、すぐに爆心地近くに入ってそこで生活をしたため、内部被爆をした。火傷をした人たちがみんな防火用水に頭を突っ込んで死んでいた。生きている人も、水筒を持っている姉に“水を下さい”と頼み込む。それがとても怖かった」と話した。そして「水も野菜も放射能を浴びてそれを食べるからみんな次から次に死んでいく。それでも当時は原因が分からなかった。姉は癌で亡くなった。私も40歳のころに肝臓が悪くなって死にかけたり、その後も癌が見つかったがなんとか生きてきた」と放射能の恐ろしさを語った。


 長周新聞社の竹下一氏は「下関原爆被害者の会と長周新聞は再建以来の付き合いになる。被爆者が下関の子どもたちや若い世代に体験を語ることが、子どもたちの成長にどれほど意義があるのかは語るまでもない。戦争の危機を感じるなかで、この活動を続けていくことがますます求められている。長周新聞も誠心誠意活動を支え、次世代に体験を受け継ぎ発展させていくことに貢献したい」とのべた。


 長崎で中学生のときに被爆した男性は、戦後、中国や朝鮮からの引揚者に対して国が何も援助しない状況を見て「何とかしなければならない」と学生同盟を結成し、日赤の看護士とともに援護に当たった経験を語った。そして「原爆、戦争は二度とあってはならない。二度と原爆が使われないようにするのが私の願いで、平和のために活動しているこの会に参加することが私の一番の楽しみだ。平和が一番大切だ。安倍政府を見ていると怒りが湧く」と語った。


 これからまた1年間、平和を守るために精一杯被爆体験を語り継いでいくことを誓い合って散会した。

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