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広島「原爆と戦争展」が開幕  平和の力世界に発信

 広島市中区袋町のまちづくり市民交流プラザで2日、広島「原爆と戦争展」が開幕した。主催するのは、原爆展を成功させる広島の会、下関原爆被害者の会、原爆展を成功させる長崎の会の3者。これまで01年の旧日本銀行広島支店での「原爆と峠三吉の詩」広島原爆展を皮切りに、毎年広島市民原爆展を開催し、被爆市民の本当の思いを伝える原爆展として全市的に定着し、3年前からはじまった長崎でも圧倒的な共感を呼び、全国キャラバン隊によって沖縄から北海道まで全国数1000カ所で展示されるなかでほとばしるように語られた沖縄戦、全国空襲、戦地の体験などを加えて、今年の「原爆と戦争展」に結実した。

 世代超えて高い意気込み 開幕式
 展示会場には、「第2次大戦の真実」「全国空襲の記録」「下関空襲の記録」「沖縄戦の真実」「原爆と峠三吉の詩」「敗戦―やっと戦争が終わった」「世界の平和運動の中心となった日本」の7つのテーマで編列された152枚におよぶパネルを中心に、市民から提供された膨大な被爆・戦争体験記、戦前戦後の広島の写真、被爆資料、そして出征兵士に送られた日の丸の寄せ書きや千人針などが並び、戦後60年たっても消えることのない凄惨な戦争の記憶を呼び起こさせている。
 初日の午前10時からは、市民をはじめ約30人が集って開幕式が開かれた。
 はじめにあいさつに立った重力敬三・原爆展を成功させる広島の会会長は、「原爆投下から62年目を迎える。一瞬にして何10万人もの人人の命を奪った原爆の惨禍は忘れようにも忘れることができない。しかも、核廃絶を訴えてきた伊藤長崎市長が選挙期間中に銃殺されるという許し難い事件は被爆市民の平和への願いを踏みにじるものであり、再び核を使用しようとする勢力を利するもの以外のなにものでもない。多くの人人が戦争の危機と社会の荒廃に心を痛めて平和で豊かな日本を望んでいるなかで、体験にもとづいて原爆と戦争
の真実を明らかにし、広島の本当の声を若い世代へ伝え、全国、世界に広げて国民的な規模で平和の力を束ねることが切実に求められている」とのべ、「全世界に広島の声がアピールできるよう共にがんばりましょう」と力強く呼びかけた。
 つづいて、伊東秀夫・下関原爆被害者の会会長のメッセージが代読された。伊東氏は、広島の会の市民と密着したねばり強い活動への敬意と共に、今回の原爆と戦争展が「もう一段高い飛躍を勝ち取る新たな出発点」であること、下関からはじまった「原爆と戦争展」が「多くの人人の今までの歴史認識を変え、原爆投下に対する新たな怒りを呼び起こしており」、その怒りは参議院選挙でアメリカの戦争に加担する安倍政府に鉄槌を加えたことを強調。広範な広島市民と全国、世界の人人と結びついて「平和を実現する力ある平和運動の発信」と、5日に会場でおこなわれる全国被爆者交流会に期待を寄せた。
 秋葉忠利・広島市長のメッセージとともに、広島での交流を期待する原爆展を成功させる長崎の会・永田良幸会長からのメッセージも紹介された。とりくみを担ってきた被爆者や学生も発言し、世代を超えて意気込みを共有した。

 「今の政治と同じ」責任とらぬ戦争放火者・参観者が口口に
 初日は被爆者、戦争体験者をはじめ、親子連れや他県からの訪問者など約200人が参観。第2次大戦パネルを熱心に見ていくのが特徴で、体験者の底深い思いとともに、若い世代からははじめて知った事実への衝撃とアメリカの原爆投下の目的、そしてこれからの日本の平和と独立の課題についての意見が相次いで語られた。
 パネルの前に座り込んで熱心に見ていた袋町在住の76歳の婦人は、「今まで毎年原爆展がやられていたが、思い出したくなかったので足を背けてきた。でも今年はなんとしても亡くなった父母の供養がしたいし、死ぬまで無視し続けることはできないと思った」と胸の内をのべ、建物疎開に出ていた母と軍需工場にいた父を原爆で奪われたことを語った。
 「私は女学校2年の14歳で魚雷工場に出て、部品をノギスで計って削ったりしていたがたくさんの同級生が原爆で殺された。パネルにあるように、昭和18年ごろには日本が負けるのはわかっていた。それなのになぜ召集をやめなかったのか。女子を駆り出すようでは戦争に勝てるわけがないが、そんな女や子どもが標的にされたんです」と涙を拭いながら訴え、「天皇ものうのうと生き延びているが、自決でもして責任をとるのがあたりまえ。上の者だけがいいことをする今の政治と同じですよ」と怒りをぶつけるように語り、賛同協力者となった。
 夫婦で訪れた82歳の男性は、大学生だった時に豊川海軍工廠に動員され、何度も空襲を受けて多くの動員学徒が殺された体験を語った。また、広島市立中学2年生だった弟は小網町に建物疎開に出されたまま原爆で行方不明になり、毎日のように父親と市内を捜し回ったことを切切と語った。「私たちも下痢や発熱がはじまり弟の死に場所さえわからずじまいで終わった。天満町にある市立中学の原爆慰霊碑は、“原爆”に触れただけで公職に就けないという時代に父親が碑文を揮毫(ごう)したものだ。その後、父宛にくる手紙はGHQによってすべて開封され検閲されていた。今は平和、平和という言葉ばかりが飛び交うが、あの様に身内を無惨に殺されたものにとってはやられっぱなしでは済まされる話ではない。原爆を正当化し、いまだに戦争をくり返すアメリカには必ず仇を討たなければいけないというのが私たちの思いだ。久間やアメリカの原爆の“戦争終結論”は、殺人犯の言い訳にすぎない。自分の利益のために人が生活している頭上に核兵器を落とすような犯罪には必ず鉄槌が下る」と唇をかみしめながら話した。
 テレビ局に勤める50代の男性は、「スミソニアン博物館に8回ほど取材に行ったが、“原爆は日本の侵略に対する報復であり、戦争終結のために役だった”というのは米国政府が国民向けに流すプロパガンダだ。だが、歴史学者のなかでは“戦争終結には必要なかった”というのは常識。核保有国が全世界に広がりコントロール不能になっているのはアメリカの核独占願望がガンになっているのははっきりしているのに、久間や安倍などはそのいいなりだ。歴史認識も政治信条もない政治家が、アメリカの要求を鵜呑みにして憲法改正までいっていることは戦後政治の末期だと思う」と語り、「目先のことばかり見ていたら絶望的になるが、こういう運動があることははじめて知った」と衝撃を口にした。
 「はじめて知ることが多く原爆に対する見方が変わった」という広島出身の20代の会社員は、「これまで平和教育を受けても昔のこととして見ていた原爆がこれほどの悲惨だったとは知らなかった。広島の人間として絶対に許してはいけないと思う。これだけの目にあって、戦後60年たってもアメリカの子分に成り下がっていること自体がおかしい。生まれてこのかた、アメリカにノーを突きつける総理大臣を見たことがなく、みんなアジア蔑視でアメリカ崇拝だ。戦争を見れば、アジアとの連携が1番大切だと思う」と語り、同僚を連れて再び訪れることを約束した。

 開幕告げる宣伝カーも反響 握手求める市民も 
 この日は、「原爆と戦争展」の開幕を告げる宣伝カーが市内に繰り出し、平和公園、元安橋、原爆ドーム前、広島駅前、八丁堀、本通り商店街などで同展のチラシと本紙号外「日本を米国本土防衛の核戦争の盾にさせるな」を配布。宣伝カーの呼びかけに聞き入ったり、号外を見て握手を求めてくる20代の青年たちや、「今年も見に行くよ!」といいながらチラシを受け取りにくる市民が各所で見られるなど強い関心を集めた。
 本通り商店街で声をかけてきた建設業者の男性は、両親を原爆で亡くし姉に育てられた経験を語り、「参議院選挙での自民党の大敗がうれしくてしょうがない。これまでは会社を挙げて自民党の選挙をやって来たが、今回は絶対に敗北させてやるつもりだった。こういう催しは今1番大切なこと。若い者にも参加させよう」と親しみ深く語り、チラシを持ち帰った。

 広島「原爆と戦争展」アンケートより
 ▼昭和20年8月12日、広島市に帰郷。毎日弟(市立中学校2年生)の遺体を探し歩いたが不明。自分の体験の画3枚を広島市に提出した。この様な事態はいつの日か報復されると信ずる。(中区八丁堀、80代、男性)
 ▼昭和20年8月6日、私は国民学校5年生、縁故疎開で今の大竹市玖波町(叔母の家)へ2年生の弟とお世話になっておりました。当朝、そこの義姉(女子校2~3年)がちょうど、呉市広町から僅かばかりの食料をもってきてくれていた。母と2人と午前6時頃、見送った。
 義姉は2日後、船で叔母と無言の帰国。母は横川駅で下車した義姉を見送り、呉線矢野駅でピカドンを体験したが無事に広町へ帰れた。しかし無事とわかったのは、何日ものちのことだった。米軍が非戦斗員を大量虐殺しておいて、「戦争を早く終わらせるため」と原爆投下を正当化していることは絶対に許せない。(佐伯区、70代、男性)
 ▼被爆当時のことを思い起こし、苦しいことのみ多かったことを想いおこしました。先般、某閣僚が「(原爆投下は)しようがなかった」と言ったテレビを見たとき、激しい怒りをもった。社会的批判を受けて辞職書を書いて提出し、総理が受理したとのニュースを聞いて「不届ききわまること」だと思った。辞任ではなく、解任すべきだと総理の人格を疑った。(東区牛田、70代、男性)
 ▼昭和18年頃にはすでに負け戦だと人人はいっていたのに、虫けらのごとく戦場へ送った人たちにますます腹立たしく思い展示をみて回った。両親、兄弟、親戚の人人を戦争に巻き込んだことは許せないと思った。この忌まわしい戦争体験は、現在なにも知らない若い人たちに必ず語り継ぐべきです。命を大切に!(西区草津南、70代、女性)
 ▼私自身被爆者で永いこと黙っていた。なにも言えなかったが、あの地獄絵図で自分が死んでしまって今日に至っている。息をしているだけで、遠の昔にわたしは死んでいるような者。米国の指導者が1度慰霊碑を参拝するまで息を切らさないよう眺めていたい。地上で2度とこのような戦争がないよう願う。(南区宇品、70代、女性)
 ▼これだけの資料を集め、整理・展示してこられたエネルギーに心より敬意を表します。いっそうのご発展を祈念いたします。いま日本人は、朝鮮民主主義人民共和国の核武装に狼狽し「けしからん」と口をそろえているのですが、「北」の指導者が国民の1部を餓死させてもなお、歯を食いしばってでも核を持とう、という心境に追い込まれたのはアメリカの核脅迫政策と、基地提供をはじめとするあらゆる便宜供与をしてきた日本の核迎合政策です。日本の大マスコミが目を背けているこの事実を、貴展が鋭く暴露しておられる点にも敬意を表します。(70代、被爆者・年金生活者)
 ▼小中学校の平和学習、又は歴史で戦争について勉強しました。しかし、それはほんの1部だったのだと知りました。たしかに、あまりにも悲惨過ぎて、教科書に載せられないのかも知れませんが、だからこそ、現実にあったこの写真を将来を背負う若い人たちに見せ、戦争はいかにおろかなことかを教えるべきだと思います。年月がたつにつれ、戦争の重みが薄れていっています。それは日本の将来を危うくしていることと同じです。戦争をすることによって、得られることは無いと思います。外国に馬鹿にされようが平和が1番だと心から思います。(南区仁保、10代、女子高校生)
 ▼祖母が被爆者で、祖母の通っていた学校の名前が出ていて涙が出そうになった。祖母の左半身の火傷を思い出した。痛痛しかった傷口を思い出すだけで心が締め付けられる思いだった。このように生生しい展示はなかなかない。またたくさんの「声」がつまっていると感じた。祖母の「戦争はいけん」という言葉が頭に浮かんだ。もし、原爆がなかったら祖母は皮膚ガンにはならなかった。死ななかった。祖母を奪った戦争と原爆を一生恨みます。半世紀以上残った心と体の傷を忘れません。(安芸区中野、20代、女性、学生)

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