人類史上初の原子爆弾がアメリカによって広島・長崎の市民の頭上に投下され、今年で78年目を迎えた。20代、30代で原爆を体験し、惨状を克明に記憶した世代の被爆者の多くが鬼籍に入り、小学校1年生で体験した人も80歳をこえるなか、被爆体験の継承は次世代に託された課題となっている。下関原爆被害者の会は、被爆から50年を前にした1994年、政党政派や思想信条をこえて被爆体験を語り継ぐ使命を掲げて再建され、故・吉本幸子会長のもとに体験を継承する活動にとりくんできた。市内在住の被爆者の体験を子どもたちに向けてまとめた冊子「広島・長崎被爆体験集」の発行や、「原爆と峠三吉の詩」原爆展パネルを作成して学校への寄贈運動をおこない、今も市内外の小学校で6年生の子どもたちに被爆体験を語る活動を続けている。「子や孫たちが二度と同じ目にあうことのないように」という強い願いをもって会再建に尽力した被爆者が当時語った体験と思いを今改めて紹介したい。
地獄にもない残酷さ
被爆地・広島 吉本幸子(当時29歳)
原爆が投下される前の広島は、なぜか空襲が一つもなく、呉では激しく空襲がやられていました。そのころは軍都広島というと、軍隊でも重要な役割を担っていたし、広島にはなにもないことを不気味に感じている矢先に落とされたんです。
そのときは弁当をつくっていて、空襲警報が鳴ったから防空頭巾やらを着て防空壕に飛び込みました。その後警報が解除になり、家の中で廊下を歩いていたときにバリン! という音で耳と目を手で覆って伏せていました。頭の中がパニックで真っ白になり家の外に出てみると、ビルや家が密集して見えなかった山が、ビルや家が全部倒れてしまって、鮮明に目の前に見えたんです。
その後もあちこちから火の手が上がり出してその消火活動をしたり、隣組の人の火を止めたりしました。私の家が一軒だけ残ったということもあり、助けを求めて来る人が多かったです。その姿は女の人は髪がバサバサになり、腕の皮がベロンと垂れ下がって幽霊のようになって歩いてきたり、爆風と熱線によって服が破れて全身が裸になった女性などが家に向かって歩いてきたんです。
そういう人たちの世話をして、そのときは薬とかがないから、食糧としてとっていた食用油を塗るくらいしかできませんでした。それが化膿したりすると膿が出て、ウジがいっぱいついたりして、十数人の人たちを世話してそこで死んでいった人を学校の校庭に穴を掘って焼き、そのにおいのなかで生活をしていました。
ひどいやけどやけがをしている人たちが逃げてくるのを見て、涙も出なかったし、その世話をするのに、自分のことや身内のことを考える余裕もありませんでした。普通の人間の神経では考えられない状態だったと思います。
私の妹は女学生でしたが、どうなったかもわかりませんでした。あるとき、生き残った女学生が集められたときに、妹の友人が「女学校の一階の音楽室でその下敷きになり、腰が挟まれていくら引っ張っても出られなかった」ことや、そのうちに火が回ってきて、「“一緒にいたら死ぬから、先に行ってくれ”と妹がいうから逃げた。それで私が生きられた」と語ったことを聞きました。友だちが生きられたことと、妹が生きたまま焼け死んでいく姿が浮かんできて、なんともいえない気持ちだったのです。
もう一つは、従兄弟の男の子が「お国のため」といって少年航空隊に応募して、特攻隊としてどこかに突っ込んで行きました。特攻隊として出発する前に、私たちの家の上をグルグルと飛行機で3回くらい回って、私たちが手を振ると、翼を横に振って飛んで行き、その後はどこに行ったかもわかりません。今の自分の孫たちのことを考えると、贅沢をして自分のしたいようにしているし、そのことと19歳の従兄弟が「お国のため」といいましたが、「なんのための戦争なのか」と今の孫たちとダブらせて考えるとすごく切なくなるんです。
また、原爆が投下されて直後に家の外に出たときに、小学生くらいの2人の兄弟がいて、そのうちの弟の方が家の下敷きになっていて、お兄ちゃんがそれを助けていました。「助けて」といわれましたが、歩いてくる人はみんなよろよろと逃げているし、自分もその光景を見てもどうすることもできませんでした。その後はどうなったかはわかりません。でも火が回ってきたことを考えると、なにか自分が罪を犯したように思うんです。
そのことが妹が同じように死んでいったことと、逃げられない弟を目の前にして助けるお兄ちゃんの気持ちを考えると、こんな残酷なことはないです。生きたまま焼け死んでいく姿というのは地獄でも考えられません。こんな筆舌に尽くしがたい状態で、あのような地獄は二度とくり返したくありません。
8月15日の敗戦で、家の明かりがつけられて、生きているんだなと思いました。戦争が終わって広島を出て、田舎の大島郡で生活を始めましたが、私も放射能を吸っているし、その影響で、一カ月くらいして下痢をしたり、食べても出したりして、骨皮になって、「もう私も子どもを置いて死ぬんだな」と苦しんだこともありました。
「お国のため」と一致協力していましたが、「広島の人と握手したらうつる」とかいわれたり、ある人は私が広島にいたことを知らないで、「自分の子どもが広島の人と結婚するというけど、広島の人はどうかね」などといわれて、絶対に子や孫のために黙っておこうと考えました。自分が犠牲者なのになぜ? と思います。
今は二度とあのような残酷なことをくり返してはいけません。私のような思いをした人がいっぱいいるんだから頑張らないといけないと考えています。戦争で従兄弟や妹、小学生の兄弟が若くして死んでいったことを考え、アメリカが同じ残酷なことをやろうとしていることを考えると、今の孫たち、若い人たちに伝えていかないといけないと思うんです。
うつろな目をした子どもの群れ
被爆地・広島 佐野喜久江 (当時26歳)
家には3歳の長男と、生まれて53日しかたっておらず、まだ首の座らない次男と私がいました。5歳の長女は、「空襲があったときに子ども3人を連れて逃げるのは大変だろう」ということで2日前に主人の母が西地方町(現在の土橋町)の家に連れて帰っていました。
私が次男にお乳を飲ませているときでした。なにか「ゴー」という音がすると、中心地の方からマッチ箱を倒すように「バサッ」と家が倒れ、みんなが家の下敷きになったんです。私も無我夢中で這い出し、次男を抱いて外に出ました。町は焼け野原になって、家からも火が出ていました。次男は下敷きになったときに、おでこに大きな穴があき、血が流れており、泣く子を抱いて山の方に避難していきました。そこでは、畑に壊れた家の畳を集めて10人近くで生活をしていました。
姑さんの家は爆心地に近く、その家にいた5歳の長女は、「遊びに行ってくる」と出て原爆を投げつけられました。姑さんは原爆で家の下敷きになり、無我夢中で川の方に逃げて、2日間くらいして、私たちの避難しているところに来ました。それと同じくらいに私の父も来ました。
あとから来た主人が、まだ生まれて半年くらいの赤ちゃんを連れてきました。子どもは体をふくと傷一つなく、お母さんが子どもをかばって死んだのだろうと思います。それから3日間は、2人の子どもに同じようにお乳を飲ませ、おしっこをさせました。3日後に、その赤ちゃんの親戚の人が訪ねてこられ、そのときは安心しました。今でもその子のことが思い出され、今では54歳くらいで、どうしているかなと思います。
数日して父が「知り合いのお寺に行こう」ということをいったので、大八車を持ってきて、疲れた姑さんを乗せていきました。橋が壊れているから大回りして歩きました。そのときに見た光景は、川のなかには死体がぎっしりとつまり、兵隊さんが4、5人で死体を運んで、死体を山積みにしてガソリンをかけて焼いていました。みんなが真っ黒焦げで、すごいものでした。そのときは死体を見ても気持ち悪くもなかったし、普通の人間の感情ではありませんでした。その死体の焼く煙のなかを歩いて行きました。
福山に行こうと、広島駅で列車を待っていても、「空襲警報」といって休む暇もありませんでした。駅に着いた電車は満員電車で「すみません」と人を踏みつけて窓から入るような状態でした。福山について、私が「叔母さん」と呼ばないとわからなかったくらい、私の顔は真っ黒で、みすぼらしい格好をしていました。
そのときには父は頭がおかしくなり、食事も食べられず、口の中は歯茎から血がにじみ出て、歯はセルロイドのようにパリパリになり、血の塊のようなものを出して19日に亡くなりました。主人の母も髪がバッサリ抜け、医者に診てもらったら、「このあいだから、広島から帰ってきた人が死んでいく」といわれ、原因不明で次の日の20日に亡くなりました。
このあと、広島の五日市の妹のところに世話になりました。妹のつくるおにぎりを持って、次男を連れて長女を探しに行きました。新聞を毎日見ながら、学校などで収容されている子どもたちのなかにいるのではないかと思って探していきました。
お寺や学校の体育館に収容されたところを回りました。そこの子どもたちは、這うような幼い子どもから収容されていましたが、だれもがはしゃぎもしなければ、泣きもしません。親と別れ、なにが起きたのかとうつろな目をした子どもたちを見て、なんともいえない気持ちに涙が止まりませんでした。今でもその子どもたちの顔が忘れられず、思い出してしまいます。
長女は見つかりませんでした。川をたよりに、娘が行ったと思われる友だちの家を探して、子どもが2人しかいませんが、小さい子どものお骨が3体あって、「たぶんここで亡くなったのだろう」との話を聞き、骨を拾って墓に入れました。五日市に住んでいた弟も、自転車で出ていったまま帰りませんでした。妹にあまり世話になってもいけないと思い、下関の新地町の主人の叔父のところに行くことにしました。
下関に帰ってきて叔父にお世話になり、主人は心臓が悪いのできつい仕事ができないから、帳簿をつける仕事をしていました。その後、海苔工場を綾羅木につくりましたが、昭和40(1965)年に疲れが出て亡くなりました。
長男が高校生のときに、足から膿が出たり、ガラスの破片が出てきました。3歳のときに被爆で家の下敷きになったときのものだと思います。妹も原爆当時、軍事関係に勤めていて被爆し、ガンで入院していましたが、平成6(1994)年に亡くなりました。戦後に生まれた三男もパーマ屋をやっていましたが、平成5(1993)年にガンで亡くなりました。娘も、原因不明の病気で呼吸困難に陥ったりして死にかけました。私も昭和33(1958)年ごろが一番体調が悪く、このまま死ぬのではないかというときもありました。
小学生や若い人を見ると、弟や長女のことが思い出されてしまいます。もう若い人が死んでいくのは嫌だし、二度とやらせたくありません。あんな冷酷なのは嫌です。新聞に載っている原爆の写真を見るたびにアメリカが憎くなります。
生き地獄のなかを主人を探して
被爆地・広島 石川幸子(当時22歳)
私は当時、豊浦郡の豊北町に住んでいました。主人は、土井ヶ浜の山口県神玉健民修練所で兵隊さんを教練する教官でした。そこなら召集がかからないということでしたが、昭和20(1945)年の7月に召集令状が来ました。そのころはもう40代の人たちまで召集されていました。主人は7月20日に島根県の浜田の部隊に入隊しました。
戦争も末期で、兵隊さんたちの着る軍服や下着、軍靴などが不足していました。主人は広島の被服廠に集積に行くことになりました。
部隊は鹿児島の鹿屋に移動していたので、主人は広島で集積した荷物を持って部隊の後を追って貨車で鹿児島に行くはずでした。「8月6日に集積が終わるから、7日に面会に来るように」と主人から通知がありました。
私は6日に豊北町を出て汽車に乗りました。ところが岩国でみんな汽車をおろされ、広島に特殊爆弾が落ちてここから先は行かれないということでした。どうしようかと思っていたところ、広島の己斐に実家があるという娘さんとたまたま一緒になりました。動員で働いている小倉から休暇で帰る途中とのことでした。「己斐の家は大丈夫と思いますから、私の家まで一緒に行きましょう」といってくださいました。
夕方、廿日市までの汽車がありました。ところが廿日市の駅で降りてみると、もう広島の方は火の海で、たくさんの負傷者が次々に広島の方から逃げて来ていました。私たちが反対に広島の方に行くものですから、兵隊さんに、けがをしているのじゃないですか、どこどこの小学校に救護班がいますから寄ってください、と呼び止められたりしました。
娘さんの家に着くと、お母さんが1人で待っておられました。大きな家でしたが、瓦は飛んでしまって、窓ガラスはみんな割れていました。もう一度空襲があるというので、夜中の2時過ぎまで防空壕を出たり入ったりしていました。3時ごろ家に帰ってガラスの破片を片付けてから、そこに一晩寝かせていただきました。
7日の朝から主人を探しに広島に入りましたが、もうそれこそ目を開けて見られない状況です。顔の皮膚が焼けただれてたれ下がった人がいたり、河原を見れば小さい子どもたちがゴロゴロ死んで、体がパンパンに膨れ上がっているのです。
電車の停留所で、中学生ぐらいの男の子がもう虫の息でした。その耳元で、「このかたきはきっととってやるから安心して死んでいけ」といっている人がいました。さながら生き地獄でした。
主人が観音町を訪ねて来いということでしたから、なんとかして探そうとしました。川にかかった橋げたはみんな焦げていました。それをつたって観音町に入りましたが、「どこでしょうか」と聞くと、「とてもじゃないが行けませんよ」といわれました。
火はどんどん燃えているし、熱くて歩けません。せっかく来たので探し回りましたが、もう探しようがないのです。死体はゴロゴロしていますし、後ろ髪を引かれる思いでしたが、「ああ、もうどうしようもない。主人も死んだんだな。しかたがない」とあきらめて引き返すよりしようがありませんでした。
たくさんの死体を見ながら己斐の方に帰りました。電車は真四角につぶしたようにぺしゃんこで、窓から手や足を出してみんな死んでいるのです。私も気が立っていたからでしょう、よくそんななかを歩いたものだと思います。
己斐の駅まで行くと負傷者がずらーっと並んでいました。元気な人は廿日市まで歩いてくださいとのことなので、私は歩くことにしました。そうしたら、小学四年生ぐらいの男の子が「お姉ちゃん、お姉ちゃん」とついて来ます。「どうしたの」と聞くと、「学校から帰ったらお母さんもお父さんもみんなおらん。どこに行ったかわからん」というのです。「あんたどうするんかね」と聞くと、「宮島に親戚があるからそこに行く」というので、「それじゃ廿日市まで歩くから一緒に行こうね」と、私が持っていたトマトなどをその子とわけて食べながら、線路づたいに歩きました。その子のことがずっと後々まで気にかかっていましたが、当時の状況ではどうすることもできませんでした。元気で生きていてほしいと思います。
廿日市の駅ではずっと待ってやっと切符を手に入れ、豊北町のわが家に帰り着いたのは夜中の2時でした。
広島が焼け野原になったことは伝わっていましたから、私が無事に帰ったときにはみんなが喜んでくれました。主人のことは死んだと思っていました。
でも主人は生きていました。品物を集積するには地元の地理を知っている者がいいからと、広島出身の兵隊さんを5人ほど連れて行ったそうです。広島では大きな家に泊めてもらい、ちょうど朝食を終えて休憩をしているときに原爆が落とされました。主人は家の中にいたので、額と右手にガラスの破片が刺さっただけで命拾いしました。
広島出身の兵隊さんは、家族のことが気にかかるので探しに行きました。ある兵隊さんは、奥さんの顔が焼けただれていたため自分の妻だとわからず、着ていた浴衣の焼け残った柄に見覚えがあったので妻だとわかって助け出したそうです。
主人は兵隊さんたちを連れて荷物を鹿児島に持って行かなくてはならないのですが、兵隊さんたちは自分の家が焼け家族が死んだり傷ついたりしているので、鹿児島には行かないといったそうです。でも軍隊の命令だからどうしても行かなくてはなりませんでした。
主人が元気との知らせにほっとしました。鹿児島に向かう途中、8月15日の朝に幡生の駅に着くから来いというので、駅に行きました。15日だから終戦の日です。幡生の駅で待っているあいだに天皇陛下のお話を聞いて、兵隊さんたちは戦争が終わったなら鹿児島に行く必要はますますなくなったといい出しました。しかし、解散命令が出ないかぎり、行かなければなりませんでした。鹿児島の鹿屋に着いたときには、「お前たちはみんな広島で戦死したことになっている」といわれたそうです。残務処理をすませて主人が家に帰ってきたのは10月でした。
主人は原爆で額と右手にガラスの破片が入り、半年ぐらい右手で字が書けませんでした。年に1回は高熱が出るなど原爆の後遺症とたたかいながら、68歳で肝臓ガンで亡くなりました。
たった1発の原子爆弾で何十万という人間を焼き殺し、傷つけ、家を焼き、街を焦土にする非人間性はけっして許されません。広島、長崎の苦しみを二度と世界のだれにも味わわせたくない、体験させたくないと思います。みなさんも核兵器がなくなるよう一緒に頑張ってください。
救護所になった小学校
被爆地・長崎 田中哲子(当時17歳)
そのころ私は17歳で、長崎市の伊良林国民学校(小学校)に勤めていました。爆心地から山をへだてて3・3㌔のところです。夏休み中でしたが、校庭にたこつぼを掘るようにいわれていました。防空壕には25~30人は入れましたが、もしそこに爆弾が落ちてしまえば全員が死ぬので、1人しか入れないたこつぼにそれぞれ避難するためでした。
8月9日は、8時30分に電車に乗って学校へ行きました。校庭にはさつまいもやかぼちゃの畑がありました。その当時は食べるものがなく、空き地があれば耕してはいろいろ植えていました。その畑の横で、同僚の先生と2人でたこつぼを掘り始めました。
ひざ下まで掘ったとき、突然、するどい光がしたので、びっくりして掘ったばかりのたこつぼにとっさに伏せました。ゴォーッという音と同時に、背中の上を熱風が通って行きました。しばらくしてシーンとなったので見上げると、ピンクの綿菓子のような、ふわふわしたものが飛んで来たので、「危ない!」といってまた伏せました。空を覆っていた「ピンクの綿菓子」はやがてなくなり、もとの空になっていました。
私は布製の袋を肌身離さず、いつも肩からさげていました。そのなかには貯金通帳や健康保険証なども入れ、どこで空襲にあっても持ちこたえられるようにしていました。その袋を医務室に置いていたことを思い出してとりに行くと、医務室は足の踏み場もない状況で、見つけることができませんでした。校舎のガラス窓も入り口の大きな戸も吹き飛ばされていました。
学校は緊急時の救護所になっていましたが、どこもガラスの破片だらけです。4人の先生で急いで片付けを始めました。そうしているうちに、原爆でけがをした人たちが山を越えて次々にやって来ました。私はその人たちの名前や住所を書きとめる受付をしました。
県庁の方から火が出て燃えているといわれ、私の家のある万才町の方はどうだろうと不安になり中庭に下りて行きました。そのとき、真っ黒になった母親が、やはり真っ黒になった赤ん坊を背負って一生懸命上がってきました。その人は放心したような状態でした。私の家族もこんな状態になっているのではないかととても心配になり、急いで自宅に帰ってみることにしました。
原爆が落とされた直後ではなく、後になって県庁のあたりから火の手が上がったようで、結局、翌日まで燃え続け、市役所の手前の通りまですべて焼けてしまいました。ほとんどの人たちは自分のことが精一杯で逃げていました。残った数人が燃え始めた県庁にバケツリレーで水をかけたものの、どうすることもできなかったそうです。
自宅のあるあたりからもくもくと煙が上がっているのを見て、「ああ、私の家も焼けてしまったのだろう」と思い、またとぼとぼと学校まで帰りました。学校にいることを家族は知っているはずなのに連絡はありませんでした。
学校はなんともいえないにおいがしていました。講堂の中は被爆者でびっしりでした。やけどやガラスでけがをした人たちが横になっていました。薬はなく、少しあった赤チンと脱脂綿はすぐになくなってしまいました。元気づけることしかできませんでした。膿が出てくさいにおいがしていました。生きていた人の傷口にもウジが湧いていました。ウジをとるのが初めは怖かったのですが、やっているうちに気が強くなりました。水を飲みたがる人を水飲み場まで連れて行きました。
その晩は、ひとりぼっちで、真っ暗な教室の中で一夜を過ごしました。さびしくて怖くてたまりませんでした。翌日、被爆者の様子は一変していました。ある40代ぐらいの男性は、受付をしたときには普通の顔だったのが、一晩のうちにはれ上がって全然別の人のようで、親戚の人が訪ねてきてもわからないような顔になっていました。東海村の臨界事故での篠原さんの顔を見て、まったく同じだなと思いました。
亡くなった人と生きている人を一緒のところに置いておくわけにはいかないので、亡くなった人を男の人たちが運動場で焼きました。戦争はむごいものです。戦後、学校の校庭をきれいにするために掘り返したとき、人骨が出てきたそうです。
会うまでは家族がけがをしていないか心配でたまりませんでした。家族が避難している場所がわかり、無事再会できたときには涙が出ました。
原爆によって長崎では7万人が亡くなりました。家を焼かれ、着る物も食べる物もなく、それは大変でした。兄が戦地から帰ったのですが、父は戦争に負けたこと、原爆で家もなにもかも失ったことにショックを受け、2年ばかり呆然としていました。しかしいつまでもそうしてはおれず、またもとのように働き出しました。あの当時の人たちはみな、原爆の苦しみを乗り越えて今日まで来たのです。
10月ごろ、学校を再開しようとの話になり、準備を始めました。しかし、生徒たちは疎開したり避難したりしてばらばらになって、なかなか連絡が取れませんでした。
被爆してから体調がおかしくなりました。6月から夏にかけて体がだるくなりました。病院に行って測ってもらうと血圧が下がっていました。それまではすぐ治っていた下駄の鼻緒ずれが、1カ月たっても治りませんでした。白血球が少なくなっていました。今でも夏には食欲がなくなり、だるくなります。
被爆者のなかには、原爆症が出て、髪の毛が抜けたり、入院する人も多く、不安のなかで生活してきました。被爆者といわれるのが嫌でした。結婚をするのも恐ろしかったです。20年たってから父親のすすめで原爆手帳の申請を出しました。
最近見かける若い人たちは日本人としての誇りがなくなっているように感じます。戦争でアメリカに負けてから、日本で昔から伝わる伝統や良い習慣があるのに、アメリカが先進的とまねてきましたが、自分の好き勝手にする子やしゃんとしない子が多くなりました。自分の感情で、なにもしていない人を平気で傷つけたり、殺す事件も起こっています。とても恐ろしいことです。
私は、被爆のことを思い出したくもありませんでしたが、二度と戦争や原爆をくり返してはならない、子どもたちに語り継いで行かなければならない、との思いから体験を語り始めました。今でも話をするときにはとても緊張しますが、まだまだ頑張らなくてはと思っています。