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広島「原爆と戦争展」が開幕 全国から意欲的な参観

 広島市中区の広島まちづくり市民交流プラザで7月31日、第9回広島「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる広島の会、下関原爆被害者の会、原爆展を成功させる長崎の会)がはじまった。市民的な恒例行事となっている同展は、被爆市民と戦争体験者の思いを一つに結び、それを若い世代、全国、世界に発信する場として全市的な支持のもとにとりくまれてきた。65年目の原爆記念日をめがけて市内、県内、全国から集まってくる人人に被爆市民の心を伝え、戦後社会の現状をもたらした第二次大戦と原爆投下の真実と新たな戦争阻止にむけて交流を深める8日間が幕を開けた。
 会場には「平和と独立のために原爆と戦争の真実を語り継ごう」「日本を原水爆戦争の盾にするな! アメリカは核と基地を持って帰れ!」「被爆市民、戦争体験者の心を若い世代に伝えよう」「原水爆の製造・貯蔵・使用の禁止!」のスローガンが四方に大きく貼り出され、第二次大戦勃発から原爆投下、終戦と戦後社会に至るまでを描いた約170枚のパネルが一堂に展示されている。また、戦時中の生活用具や戦記、空襲・被爆資料をはじめ、市民提供資料として写真、地図、体験記、馬の供出に使われた国債なども加わり、戦争と被爆の実態をより実感的に伝える充実した内容となっている。
 午前10時からの開幕式では、はじめに主催者を代表して原爆展を成功させる広島の会の重力敬三会長があいさつ。「市民一人一人のご協力によって被爆六五年の原爆と戦争展が開幕することができた。昨年よりも一歩進んだ原爆と戦争展になることを期待している。あのときの火の海になった広島の惨状は、100年経っても私たちの脳裏から消えることはない。私も今年で90歳になるが、平和が実現するまで命ある限り平和運動を続けたい」とのべ、成功に向けて協力を呼びかけた。
 会員を代表して真木淳治、石津ユキエ、学生スタッフを代表して細井紗弥佳、横町愛の四氏が抱負をのべた。
 真木氏は、今年の廿日市、北広島、広島大学、修道大学などでの地域原爆展、市内外の10校に及ぶ小中学校での証言活動、修学旅行などの上半期の活動を振り返り、「その活動の総仕上げのつもりで8日間を力を合わせてがんばりたい」と力強くのべた。
 また、「参議院選挙をへて政治は混乱の度を増し、非核三原則の見直し、武器輸出三原則の公然たる見直しが打ち出されている。また、広島では元航空幕僚長の“広島の平和を疑う”と題する講演もやられる。ともに広島の心を踏みにじる許し難いものだ」と憤りをのべ、「全国から来る人人に被爆者の心をしっかり伝えていきたい」と決意をのべた。
 石津氏は、原爆と戦争展10年の記録を描いた劇団はぐるま座の『峠三吉・原爆展物語』公演が広島市、廿日市市などで成功し、8月4日に広島再演がおこなわれることにふれ、「この劇はわれわれ八年の足跡を広く知らしめてくれている。一方では、平和式典にアメリカの大使が初参加する。広島は、全国、世界から注目されている。広島の心、原爆の惨状を次世代を担う人人の心の中に訴え、伝えて行かなくてはならない使命がある」と抱負をのべた。
 大学生の細井氏は、スタッフとして原爆展運動に関わるなかで、「戦争についてだけでなく、自分の生き方も含めて初めて知ること、考えることが多くあった。来場される人たちにも同じような体験をしてほしい。ここで受ける衝撃がなにかをはじめるきっかけになる。そのための力になりたい」と意気ごみを語った。
 会場には、広島市内をはじめ東京、神奈川、大阪、愛媛、岡山、福岡、大分など全国から、年配者をはじめ親子連れや全国から来た若い世代が続続と入場。被爆者たちが精力的に体験を語り伝え、学生もともに受付として来場者を迎えた。

 再び核戦争を許さぬ行動へ 熱気帯びる交流 

 現役世代、母親、学生たちが日本が再び戦争への道を歩んでいることへの危惧(ぐ)や、子どもの教育問題とも関わって「被爆者の話を聞きたい」と申し出たり、行動を求めて協力者になるなど強い関心を示している。
 愛媛県からきた20代の男性公務員は、「愛知県出身だが、原爆や戦争については教科書以外でふれることがない。だが、広島に来れば直に学んで一人一人が考えることができる特別な場所だ。自治体労組でも平和の灯リレーや反核集会などをやっているが、政党の自己アピールのようなもので、だれも効果があると思っていないから惰性でしかない。だが、ここには市民と血の通った運動が堂堂とされている」と衝撃を語った。
 また、「自治体現場でもアメリカをまねた民営化ばやりで、不採算部門は切り捨ての対象になっている。とくに国から地方まで農水部門の切り捨てはすさまじい。宮崎の口蹄疫が拡大してもまともな体制がとれなかったが、あれも政治の在り方と関わっている。このままで日本はどうなるのかと思う。自分たちも住民と血の通った運動をやりたい」と語り、賛同者になった。
 呉市から小五の子どもを連れてきた母親は、「最近は核武装論なども公然といわれるようになってきたが、小さいときから戦争や原爆について身近に捉えてほしいと思って子どもをつれてきた。呉でも空襲の記録は表沙汰にされることがなく、隠されてきたものが多い」と切迫した思いを語った。また、「最近は戦前に回帰しているという声をよく聞くようになった。不況が長引くなかでも軍需産業だけが需要を伸ばすことが肯定的にいわれている。政治家に任せていたら日本はどんどんおかしくなる。一人一人が戦争について正面から向き合わないといけない」と語り、被爆者の話に親子で耳を傾けた。
 滋賀県からきた設計技師の男性(20代)は、「世界情勢をみていると自分もなにか行動したいと思って広島に来た。政治家や専門家の発言だけ聞いていると納得できないし、知識がなくても知ることからはじめようと思った」と語り、「アメリカのやっていることは当時からなにも変わっていない。駐日大使がくるというが、謝罪をするつもりもないし、核廃絶といいながら戦争をやめようともしないことを問題にするべきだ」と問題意識をのべた。
 また、「半導体製造機器をつくっているが、国内需要はなく、すべて中国など海外市場への輸出だ。しかも大手の下請けなので、親会社の採算次第ではいつ切られるかわからない。従業員はみんな薄氷の上を歩いているような状態だ。派遣制度をはじめたおかげで熟練工員も技術の伝承ができないし、新人を一生懸命教育しても半年たったらやめていくことの繰り返し。儲け中心というが無駄な労力ばかり使って、結果として技術の低下につながっている。目先のことだけではなく、労働者みんなが力を合わせていくために自分もなにかやりたい」と語って協力者になり、八月六日に向けてスタッフとして参加することを決めた。
 市内在住の男性会社員(40代)は、「戦争に近づけば人間が牛馬以下の道具として使われていたことがよくわかった。まさに日本は今が過渡期だと思う。ずっとアメリカが先進国だと教えられてきたが、常に戦争をしているし、虐殺は常にアメリカが関わっている。いま朝鮮半島をめぐって再びなにかが起これば戦争になりかねない。それは核戦争になるし、日本は確実に巻き込まれる。表向き平和な時代だからこそ戦争が起こればひとたまりもない」と渦巻く胸の内をのべた。「日本の景気もアメリカが握っている間は持ち直すとは思えない。日米同盟そのものを見直さなければ、戦争計画に日本は確実に組み込まれていると思う。平和ボケしていたらいけない」と衝撃をこめて語り、パネル冊子を買い求めた。

 基地撤去や教育問題も重ね 親子連れも目立つ 

 福山在住で小学生の子どもを連れた母親は、「最近は、教育がなくなっていると感じている。最近の学校ではこのような展示の内容はまったく教えられない」と語り、「日本の天皇とか財閥は何を考えていたのか。武器もなく食料もなく、輸送船に乗せて殺していった。結局は、アメリカに占領してもらうために、日本人をわざと殺したということではないか。そして米軍は今も基地を日本中に置いて占領している。戦後六五年たって基地は日本にはもういらないし、出ていってもらわないといけない」と話した。
 廿日市在住の男性公務員は、「アメリカの日本占領計画(オレンジプラン)や、フィリピン、中国でも無差別爆撃をやっていた事実を知って衝撃を受けた。マスコミのマインドコントロールのなかで真実を知らされていない。フィリピンにいったとき、日本ではフィリピンは民度の低い貧困の国と捉えられがちだが、欧米諸国の植民地化への抵抗戦争の歴史を伝える資料館があり、その不屈の歴史を知って驚いた。日本の侵略も事実だが、その何十倍という年月を欧米諸国が侵略している。それに抵抗して戦っていることを日本では伝えられない。日本はアメリカに対して一言もいえないのは独立国とはいえない」と話した。
 「中国新聞にアメリカに原爆投下を謝罪せよという内容で寄稿したら全面削除された。広島で当然のことがマスコミでは当然ではないことがよくわかった。こうやって国民の声が体よくごまかされていることもわかった。広島にルース大使の訪問を手放しで喜んでいる人はない。アメリカは自分の核兵器をなくしてから、他国に“核廃絶”をいうべきだ」と語気を強めた。
 2日間でおよそ350人が来場し、43人が新たに原爆展運動の賛同者として協力を申し出ている。
 同展は、7日まで開催され、5日には被爆者との交流会がおこなわれる。

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